第32話 根拠のない自信

 最後の授業、その終わりを告げる鐘が鳴り響いた。


 この音を聞く度に──思い出してしまう。あの日、あの時、あの瞬間──鳴子を撃ち殺してしまった事を。躊躇いなく引き金を引く事が出来たのは、きっと彼女の為、これはそういうものなんだと、自分に幾度も言い聞かせて来た。


「っしゃー、この後どこいく?」

「はいはーい、カラオケ行きたいでーす!」

「またかよ……一昨日行ったばかりじゃねえか」

「じゃあ、アタシはボウリングに一票!」

「え?」

「? なに?」

「いや……珍しいなと思って」

「ほんとだよー、最近鳴子用事あるっつってたじゃんか」

「は? 用事? いやいやそんなもんないし。めちゃ暇だし」

「んー、まあ、そういうなら」

「ボウリングかー、ウチ金あんまないよ?」

「お前は飯に金遣い過ぎなんだよ、少しはダイエットしろ」


 視線を向けぬようにしているが、そんな楽しげな会議がどうにも耳に入って来てしまう。振り払うように、逃げるように──俺は今日もまた、以前と変わらず、一人で教室を抜け出した。


 これで良いんだと言い聞かせて、


 気付いたら走り出してて、


 視界が滲んで来て、


 あの日々が──妄想だとも思えてしまう。


 鳴子はただ記憶を失っただけだ。本当に好きなら、声を掛ければ良い。お友達からよろしくお願いしますと、一言告げるだけで良い。しかしそれは出来ない、彼女の代わりに、俺はクラヤミの世界に足を踏み入れてしまった──武器を、持ってしまったんだ。彼女を巻き込むわけにはいかない。俺は、一人でいい。


 そんなものは言い訳だ、口実だ。本心を語るなら俺は──怖いのだろう。


 拒絶されることが。受け入れてもらえないことが。それに俺の好きだった女の子は、もういない。俺が好きだった女の子は、教室でショットガンをぶっ放してしまう──そんな彼女だったのだから。


 俺だけが、違う世界に取り残されてしまった。


 彼女の孤独の正体は、これだったのだと、失って、取り残されて初めて体験出来た。俺は彼女について殆ど全てを知っていた。だが、今なら──陽衣鳴子の全てが分かる。


 青春の香りから逃避して、辿り着いた出口。


 アスファルトを駆け出して、口を開く校門が見えて来た。早く逃げ出したくて、景色を変えたくて、意識を変えたくて。そこは俺にとってのゴールテープのようにも見えた。視線を向けているのはその先だった。ぼやける視界の中では周囲の音も不明瞭で、どこか揺らいでいた。


 だから、すぐ側にいる彼女にも気が付かない。


「待って!!」


 姫沼まくりに気が付かなかった。


 聞き覚えのある声で振り返り、ようやく俺は彼女を認識した。


「やっと止まった。もう……何度も呼んだのに」

「ごめん」


 放課後に切り替わった瞬間、教室を出たはずだ。その俺に追い付いているということは、彼女もまたそうして来たのだろう。それは間違いなく──こうして出会う為に。


「ね、久しぶりに一緒に帰ろうよ」

「……生徒会は良いのか?」

「サボって来ちゃった、てへぺろ」


 自分の頭を軽く小突いて、言葉通りに舌をぺろっと出している。


「そんなキャラだったか」

「ギザカワユス、でしょ?」

「古い」


 彼女が隣に並ぶとお互いに何か言う事もなく、自然と歩調が合って、校門へと向かった。


 いつも見慣れた通学路だったが、どうにも様子が違って見える。横切る車の一台一台が、景観の為に植えられた木々が、横断歩道が、信号機が何故だか違って見えていた。思い一つで、意識一つでこんなにも世界は様変わりしてしまうものかと、そんなセンチメンタルを感じてしまうほどに。


 まくりは『久しぶり』だと言ったが、実際彼女と下校するのは本当に久しぶりだった。1年生の頃こそ毎日のように一緒に帰っていた。しかし2年生になって、彼女が生徒会長を担い、徐々にその距離は離れていったと思う。


「良かった、って言っていいのかな」


 引っ掛かった赤信号の待ち時間、彼女は唐突に口を開く。


「ああ……多分」

「でも、だったらどうして、そんなに辛そうなの?」

「……まくりには分からないよ」

「諦めたような、そんな顔してるの?」

「姉さんみたいな事を言わんでくれ」

「私は、トシくんの気持ちが分かるよ」


 そう、彼女は俺の事なら全部知ってるらしい。それこそ姉さんみたいに。


 だからこそ、それは言って欲しく無かった。今だけは。


「お前に……分かるわけねえだろ」


 これは俺だけのものだ。俺だけの孤独だ。俺だけの世界だ。


「たかが幼馴染みってだけで、何でも知ってる風な口を聞くなよ」


 言ってしまった。心配してくれている彼女に、痛みを分かち合おうとしてくれている彼女に、孤独を癒そうとしてくれている彼女に、口走ってしまった。そんな事思ってないのに。苛立って、こんなものただの八つ当たりだ。


 そんな時ふと、パシンッ、と鋭い痛みが頬に刺さる。


「……え」


 信号は青に変わり、車道が動き始める中で、俺は呆然としていた。俺は今、何をされたんだと。それこそ撃ち殺されたみたいに、自分の身に何が起こったのかを懸命に探っていたのだ。しかしそれはすぐに理解出来た。


 あんなに酷い言葉を向けられた彼女が、涙を流す事なく──ただ明確に苛立って、怒りの感情に任せて、顔を歪ませて、腕を振るっていたんだ。


「言ったじゃない。似たような経験があるって。だから分かるって、そう言ってるんだよこの分からず屋」


 矛を収めて、彼女は笑った。


「何でも知ってるような顔をしてるのはどっち? トシくんは何も分かってないよ。そうやって塞ぎ込んで沈んでれば、確かに楽かもしれないけどさ。でもそれはただ逃げてるだけ。目を逸らしてるだけ」

「でも……だったら俺は、どうすりゃいいんだよ……」

「それは自分で考えて」


 点滅する信号機、彼女はスタスタと一人で渡り歩いて行ってしまう。慌てて追い掛けて、どうにかこうにか寸前で追い付いて、ただまだ全然動揺しているけども。


「私がどうして怒ったのか分かる?」

「……ごめん」


 そりゃ分かるさ。だってそれは当然の事だったから。


「情けない顔を見たくないからだよ。特に──好きな人のそんな顔はさ」

「……はい?」


 え、俺今告白されたか? まくりに? 


「あー、ごめん。言い過ぎたよ。正確には好き──だった人ね」


 どうやら違ったらしい。告白されたかと思ったら、知らないうちにフラれていたみたいな、そんな感じだ。まさか彼女がそういう目で俺を見ていて、いつの間にかそういう目で見ていなかったとは。色んな意味で結構ショッキング。


「えー」

「……何その反応。もしかして──嫌なの?」


 さっきの苛立ちとは比べものにならない。色で例えるなら赤ではなく、真っ青で冷たい、底冷えするような怒りを感じる。特に突き刺す視線が怖い、それだけで充分人を撃ち殺せるくらいには。


「とても嬉しかったです」

「それはそれで、ちょっと気に食わない、かな」

「俺にどうしろって言うんだよ」

「もっとこう、慌てふためいて『ええ!! まさかそんな俺を!? いつから!? てか急過ぎだろ!?』みたいな反応を期待してたんだけど……」

「内心はそんな感じの反応だった」

「ならばよし」


 そうして彼女は再び歩き出す。顔を背けて踵を変えて、勝手に一人で歩き出して行った。


 それは何故だかとても懐かしい光景のように、思えて、少しだけ足を止めてしまう。


 くるりと振り返ったまくりの表情は、しかし見た事ない程に綺麗な笑顔だった。姉さんを悪魔と例える──というか悪魔そのものだとしたら、彼女は天使に等しい、後光すらチラ見している気がする。


「確かに現実は辛くて苦しいよ。起こったことは覆せないし、時が経てば全部忘れちゃう。それこそ楽しかったことさえ、傷口と何ら変わりなく記憶は薄れていって、無くなっちゃう。それこそ現実の素晴らしい部分であり、残酷な部分でもある。貴方の頑張りだって、もしかしたら何の意味もないことだったのかもしれないし、何かを変えたのかもしれないけど、誰にも認めてもらえないかもしれない」


 彼女が何を言わんとしているのか、それははっきりと理解出来なかった。


「でも、それでもさ……ちょっとは期待しても良いと思うよ」

「……期待……大事なのはそれを信じる心、みたいな感じか?」

「……トシくん、随分恥ずかしい事を言うね」

「えー」

「まあでもそんなところかな。現実は時に人を殺すけど、もしかしたらそうはならないかもしれない。どうしようも無いように見えても──もしかしたらって、誰にでもその権利はある筈」


 散々非日常の中で現実を突き付けられて、打ちのめされた今。そんな事を俺に信じろっていうのか。


 夢とか希望とか──恋とか愛とか。


「だからもう少しだけ、頑張ってみない? それでもし期待して傷ついても、絶望するのは最後の最後でも──そんなに遅くないんじゃないかな」


 高校2年生の俺にはまだ、彼女の話は少し難しい。


 しかし、一つ理解出来たことがある。


「……ありがとな」


 そう、俺にはまだ出来ることがある。考えられることがある。考えるべきことがある。何を塞ぎ込んでいたんだ、絶望して孤独に身を置いて、楽になるのはまだ全然早いじゃないか。


 少なくとも──今じゃない。


「フフッ……どういたしまして」

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