第41話
「どうして梔子先輩が」
「ほっけ君こそ、なんでこんなとこに……てかやだ! 今すっぴんなんですけど! あんま見ないで!」
慌てた様子につられて、急いで顔を伏せる。
言われてみれば、学校で見る姿より多少さっぱりして見える。
けれど、ぱっと見で同一人物と分かったのだ。恥ずかしがるほどのことではないと思うが、正直に伝えるのも化粧の労力を否定するみたいで気が引ける。
「……もう見てもいいよ」
難解な問いに思考を巡らせているうち、梔子先輩からお声がかかった。
恐る恐る顔を上げる。
先輩はスポーツキャップを目深に被り、つんと唇を尖らせていた。
タンクトップと短パンの涼やかな格好も相成って夏らしい装いだ。
「会うって分かってたら、もっとちゃんとした恰好したのに」
「いえいえ。凄く可愛いですよ。夏って感じがして素敵です」
濃墨先輩とデートした経験を活かし、服装を褒めてみる。
しかし、効果は芳しくない。梔子先輩は詐欺師を見る目で僕を覗き込む。
「誰にでも言ってるでしょ」
「そ、そんなわけないじゃないですか」
「……ふーん。まあ、そういうことにしておいてあげる。それより、虫集まってるよ。虫除けしてないの?」
「はい。その場の勢いで登ったので」
「なにそれ。スプレー吹いたげるからこっちおいで」
梔子先輩はビニール袋をごそごそ漁ると、強力、と銘打たれた虫除けスプレーを取り出し、立ち竦む僕に向かって遠慮なしに噴射した。
商品名に偽りはないようで、体中からたちまちハッカの匂いが立ち昇る。
「くっさ」
ひどい。
スプレーを分けて貰った手前、文句を言うわけにもいかないので先輩から距離を空けて座る。
気を遣って離れたのだけれど、先輩は鼻を摘みながらも僕のすぐ隣に腰掛けた。
「それでー? なんでこんな田舎にいるわけ?」
「母方の実家がこっちなんです。僕も昨日初めて知ったんですけど」
「そうなんだ。ウチと一緒だね」
「先輩もご両親のご実家がこちらに?」
「うん。お父さんの。去年は部活を言い訳にできたんだけど、今年はちょっとね」
僕のせいで中体連を辞退する羽目になったからだ。
部活動のみならず、私生活にまで影響を与えてしまうとは。
「……すみませんでした」
「あー、違うの。大会とは別の理由だから」
ならば、どういう事情なのだろうか。
僕の顔には分かりやすい疑問符が浮かんでいたらしく、梔子先輩は言い辛そうにしながらも答えてくれた。
「おばあちゃんの体調があんま良くなくてさ。様子見を兼ねて、戻ってきた感じ」
「それじゃあ、ここにいるよりご実家に居た方がいいんじゃないですか?」
「うーん……」
暫しの黙考の末、梔子先輩が顔を寄せてくる。
「誰にも言わない?」
真剣な顔で耳打ちされる。
こくこく頷くと、先輩は深く息をしてぎゅっと僕に向き直る。
「あたしのお父さん、漫画家なんだ。それも、ちょっとえっちなやつ」
「へえ。凄いですね」
創作者へ至る門は狭い。
家族を養えるまでに成功するのは、並大抵の努力ではなかっただろう。素直に尊敬する。
だが、僕の反応は予想より淡白だったようで、梔子先輩は漫画みたいに大袈裟に肩を落とした。
「なんかこう、驚くとかないの? 金髪ギャルの父親がさ、真面目な顔で女の子のおっぱいとかパンツ描いてんだよ。普通ひくって」
「犯罪で生計立てている、とかならひきますけど。でも、先輩のお父さんは真剣に作品を生み出して、それを喜ぶ人達がいるんですね? それがどんな内容だとしても、格好良いと思います」
自分にしかできないものがあるというのは素晴らしいことだ。思春期の時分では打ち明けにくいかもしれないが、卑下する必要は全くない。
「……みんながほっけ君みたいならよかったんだけどね」
「では、お祖母さんは違ったと?」
「うん。他人様に顔向けできないーって。それで、お父さんとはずっと仲悪かったんだけど、おじいちゃんは一昨年に亡くなって、他に家族もいないからさ、仕方なく戻ってきたら喧嘩ばっかり。気まずいなんてもんじゃないから、こんな廃れた神社まで逃げてきたってわけ」
「なるほど。同じ絵描きの梔子先輩としては、居た堪れないものがありますね」
びしり、と梔子先輩が固まる。
錆びたネジを無理やり回すようなぎこちなさで、首をこちらに向ける。
「な、んで」
「この鉛筆、梔子先輩のですよね。それに、クロッキーブックって言うんですか? バッグからはみ出てますし。もしかしたらと思って」
梔子先輩はあからさまに動揺し始めた。
瞳はきょろきょろと忙しなく泳ぎ回り、暑さ由来ではない汗がどろどろと流れている。普段の飄々とした様子は欠片も残っていない。
ちょっと可哀想になるくらいの焦り具合である。
気づかない振りをするのが優しさだろう。
「興味あるなあ、梔子先輩の絵。内緒にするんで、ちょっとだけ見せてくださいよ」
でも、引かない。
気遣いよりも好奇心が勝った。
それに、つい先日オカルト倶楽部がこてんぱんにやられた恨みは忘れていない。少しばかり自分本位になったってばちは当たらないはずだ。
じっと梔子先輩を見つめ続ける。
先輩は顔を真っ赤にして小さく唸っていたが、遂には観念して、おずおずとクロッキーブックを差し出してきた。
「……笑わないでよ」
「笑いませんよ」
笑うなんてとんでもない。梔子先輩の絵は美術部顔負けの上手さだった。
建物、森、小鳥に昆虫。
この地で見たものだろう。たかだか一時間しか滞在していない僕でも情景を思い起こせるほどに細かく模写している。
絵の具で淡い色を着けたら、土産屋のポストカード売り場に並んでいてもおかしくない出来映えだ。
「すっごく上手です。部活も大変でしょうに」
「……もともとバスケ部は絵の練習になると思って入部したんだ。運動すると、体の作りとか筋肉の繋がりを直感で理解しやすいから。でも、試合に勝つのも楽しくなってきて。それで結局、どっちつかずのままここまで来ちゃった」
全国大会まで出場したのだから、両立していると胸を張って言うべきだ。
文化系と体育会系、相反する二つの分野で結果を出せるのは、並の努力ではない。
「あっ」
そんな調子でページを捲っていたら、風景画から人物画の練習に変わった。
片目を髪で隠した学ランの男が描かれている。
それだけなら、何かのキャラクターと流すこともできただろう。
しかし、表情練習の一枚に見過ごせないものが紛れていた。
重たい前髪をかき上げる仕草。
隠れていた右目の周りにグロテスクな傷がある。
「これは僕ですか?」
尋ねると、梔子先輩は微かに顎を引いた。俯き気味で表情は読めないが、頬は赤く染まっている。
なるほど。他人から見れば、僕はこんな風に映っているのか。
結構かっこいいぞ。
烏羽さんとの稽古を見られていたのか、中段に構えた僕が描かれているが、かなり様になっている。膝に手をついている構図も強敵に苦戦しているみたいで熱い。
普段の僕の情けなさを知る人達は絶対に認めてくれないだろうけれど、紙面で様々なポーズをとる僕は少年漫画の主人公みたいだった。
「勝手に描かれて、いやじゃない?」
「え? どうしてですか?」
「どうしてって、普通いやでしょ。大して知らない先輩に付き纏われて、隠し撮りみたいに顔描かれてたんだよ。もっと怒ったり、気持ち悪がったりするのが普通だよ」
「うーん。たしかに」
自分の知らないところで勝手に自画像を描かれていたら、普通はもっと嫌がるものなのだろうか。
桑染さんのストーキングの件もそうだが、僕は好意があれば大抵のことは受け入れてしまう節がある。
自分としては気にならないのだけれど、母さんや周りの人を心配させてしまうし、多少は警戒した方がいいのかもしれない。
そんな風に考え込んでいるうちに、梔子先輩の表情は暗く沈んでいた。てきとうな相槌をそのままの意味で受け取ってしまったみたいだ。
落ち込ませるのは本意ではないので、慌てて繋ぎの話題を探す。
「ところで、先輩はどうして僕を描いたんですか?」
「……ごめんね。勝手に描いてキモかったよね。ホントにごめん」
「いや、遠回しに責めている訳じゃないです。単純に気になっただけで。かっこいい人は沢山いるのに、どうして僕みたいなちんちくりんを選んだのかな、と」
僕の周りだけでも、被写体に相応しい人は沢山いる。
男前でスタイルもいい醤君。男子に拘らないなら、濃墨先輩に烏羽さん、赤錆さんとよりどりみどりだ。あえて僕を選ぶ理由はない。
梔子先輩は口を噤み、目を合わせないまま人差し指を突き出した。
爪が短く切り揃えられ、ペンだこが薄く膨れたそれは、前髪に隠れた僕の右目を指している。
「ああ。なるほど」
彼等彼女等にはなくて、僕にだけあるもの。
右目の傷だ。
普通に考えれば、醜いだけで人様に見せられるものではない。
しかし、希少な被写体と捉えることもできる。絵描きという人種からすれば、興味をそそられる題材なのかもしれない。
それを踏まえると、これまでの先輩の行動にも合点がいく。
執拗に僕に触れてきたのは、実際に傷の凹凸を指で感じてより鮮明に描き出すためだろう。
「……ごめんなさい」
もう何度目にもなる謝罪を口にして、梔子先輩は更に体を縮こませる。
少し前の僕なら、傷跡のせいでまた他人を嫌な気持ちにさせてしまったとか、玩具のように扱われたことに不快感を露わにしていたかもしれない。
だが、青褐先生や赤錆さんとの一件を経て、冷静に受け止める余裕が生まれた。一声かけてもらいたかった気持ちはあるが、怒るほどのことでは決してない。
「まだ僕を描きたい気持ちはありますか?」
先輩は恐々と僕の表情を伺うと、控えめに頷く。
「特別ですよ?」
冗談めかして重い前髪を上げる。
太陽が右目を灼いて、視界が光に塗り潰される。日光から逃げようにも右の目蓋は欠けているので、無事な左の瞬きで誤魔化すしかない。
白と深い黒緑色の点滅に手で影を作ったり、日陰の濃いところに移動したりして抗ううちに、段々と視力が戻ってくる。
左目を限界まで細めて周囲を伺う。
「わ」
すぐ目の前に梔子先輩の顔があった。
毛細血管が見えるくらいに目をかっぴらいて、僕の傷跡を凝視している。
互いの鼻息がかかる距離。
しかし、先輩は一切動揺する素振りを見せず、じっと僕の顔を観察しては、クロッキーブックにがりがり描きつけるのを凄まじい速さで繰り返している。
オカルト倶楽部と女子バスケ部の交流試合で見た時よりも鬼気迫る、それでいて楽しげな顔つき。
普段は飄々と振る舞う梔子先輩の本当の心がようやく見えた気がして、僕は一心不乱に描き続ける右手の行き着く先をじっと見守っていた。
◇◆◇
十五分ほど経っただろうか。
ひと段落ついたようで、梔子先輩は鉛筆を置き満足気に息を吐いた。
クロッキーブックには精巧な僕の似顔絵が描かれている。
他の絵と比べて若干線が粗く、筆圧が強いのはそれだけ熱中していたということだろう。
出来上がった絵をまじまじと鑑賞していると、梔子先輩が正気に戻った。
キャップを深く被り直し、もじもじと毛先を弄り始める。
「僕の傷跡ってこんな感じなんですね」
「……自分のことでしょ?」
「ちゃんと見る機会はそんなにないので」
我ながら醜い傷跡だと思う。
長い時間鏡を見ていると気分が悪くなるし、顔を洗う時に指の腹に伝わる歪な感触は落ち着かない。
だから、芸術という形で誰かの役に立てるとは思いもしなかった。
「こんな汚いものでも役に立ててよかったです」
「汚くなんかない」
素直な感想を口にしてみると、強い語気で否定された。
梔子先輩も存外な勢いだったらしく、目を丸くして口元を抑えている。
「……怒らないで聞いて欲しいんだけど」
そう前置きしてから、先輩は思考をなぞるような速さで言葉を続ける。
「あたしは、傷跡ってかっこいいと思う」
「醜いの間違いではなく?」
「うん。……ほっけ君の不幸が嬉しいとか、そういうんじゃないよ。はっきり事情は知らないけど、君が傷のせいでたくさん苦労してきたことは分かってるつもり」
「それじゃあ、可哀想だとか、憐れむのが普通なんじゃないですか?」
「普通はね。でも、ほっけ君は違う。君はずっと堂々としてる。傷があることに負い目は感じても、根本は絶対揺らがない。辛い現実を受け入れたうえで、正しくあろうと努力してる。そこがすごく素敵で、かっこいいなって思う。ほら、漫画でもいるじゃん。死闘の末に片腕を失くして、でも、技術と経験を駆使して戦い続けるキャラ。ああいうのって憧れない?」
「……そんな大層な人間じゃないですよ」
先輩が言うほど、僕は強くない。この傷にしても、偶然が重なってようやく受け入れられるようになっただけだ。
赤錆さんの口から真実を聞けていなかったら納得できないまま燻っていただろうし、無関係な人達にまで当たっていたかもしれない。
事実すべてを受け止める度量は、僕にはない。
現に、母さんの過去から逃げ出した。
掛ける言葉を見つけられず、悩んで先延ばしにしているうちに、こんなところまで来てしまった。
「漫画みたいに上手くいけばよかったんですけどね」
自らの情けなさを鼻で笑う。
そんな落ち込んだ気持ちが梔子先輩にまで感染してしまったみたいで、先輩も目を伏せ、雑草だらけの地面をぼうっと眺める。
夏の真昼とは思えない重い空気が漂う。
虫達の鳴き声が一際大きくなって聞こえ、陽の光と庇の影の境目がやけにはっきり感じられる。
このままではいけない。暗い気分の二人が揃えばどこまでも落ち込んでいくだけだ。
何か明るい話題を見つけないと。
「そういえば先輩はいつ頃この町に来たんですか?」
「三日前。ほっけ君達と試合した次の週くらいかな」
「それなら、他に遊べる場所とか知らないですか? 暇潰しの道具を持ってこなかったから、戻ってもやることがないんです」
今日にでも帰りそうな雰囲気ではあったが、どのくらい滞在するかは聞かされていないし、知っておくに越したことはない。
「色々歩き回ったけど、なーんにもないよ。余所者だからって変な目で見られるし。目立たないで遊べる場所なんて──あっ」
先輩ははっと顔を上げて僕に向き直る。その表情はどうしてか、少し強張って見える。
「ちょっと離れたところにもう一つ神社があるんだけど、そこでお祭りやるって幟が上がってた」
「おまつり」
見たことはあるが、行ったことはない。
打ち上げ花火の華やかな光や、行き交う人々の楽しげな声に興味を惹かれないわけでもないが、お金の無駄だと赤錆さんに言い含められ、彼女の家の庭で手持ち花火をするのが恒例となっていた。
しかし、どうだろう。
折角遠方まで出向いたのだ、新しい経験のひとつくらいは作ってみてもいいのではないか。財布の中はそれなりに潤っているし、何も出来ずに引き返すということもないはずだ。
「……一緒に行ってみる?」
「ぜひお願いします」
握手に応える。
先輩の手は夏の日向よりも熱く、それに気がついた彼女は照れくさそうにはにかんだ。
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