第40話

 山の緑が延々と流れていく。

 天候に恵まれたため風もなく、青空に浮かぶ巨大な入道雲も固まったままだ。動くものと言えば反対車線を走る車くらいで、ただ通り過ぎていくだけのそれに目新しさはない。

 久しぶりの遠出に最初は心を躍らせたが、家を出てから一時間半、単調な風景ばかりが続くようになると、流石に退屈してくる。

 窓の外を眺めながら大きな欠伸を吐くと、軽自動車を運転している母さんが申し訳なさそうに口を開いた。


「ごめんね、ほう君。せっかくの夏休みに、こんな田舎に行くことになっちゃって」


 椋実先輩にビンタされた後、マネージャーになる話は結局、有耶無耶になった。

 平穏を得た僕等オカルト倶楽部は早速、夏の合宿の予定を詰めようと集まったのだが、間の悪いことに急な用事が入ってしまった。

 母さんの父親の訃報が届いたのだ。

 日頃から親族とは縁を切ったと話す母さんだが、肉親の死となると無視するわけにはいかない。

 葬儀への参列は頑として断ったものの、母親からの度重なる連絡に辟易し、とうとう実家に戻ることを決断したのだった。


「戻ること自体は全然大丈夫だけど……本当にいいの? 僕も連れてきて」


 母さんは実家を嫌っていたし、絶対に僕を近づけたくないとも言っていた。事情は知らないが、敢えて僕を連れていく理由は分からない。

 純粋な疑問を問い掛けると、母さんはコーヒー豆を噛んだような物凄く渋い顔になった。


「ママだって嫌よ。でも、しょうがないの。お願いだから分かってね」

「まあ、母さんがそう言うなら何でもいいけど」

「ほう君いい子! 着いたらいっぱい抱っこしてあげるね」

「そういうのはいいや」

「なんでよ!」


 再び窓の外に目をやると、丁度、木と土肌ばかりの山々を抜けた。

 緑一色だった景色に夏の陽射しと開けた世界が飛び込んでくる。


「海だ」


 眼下には海と隣接する小さな町が広がっている。

 山間の平地に民家が並ぶ様子は素朴なミニチュア模型のようだ。細波は陽光を反射してきらきらと輝き、港にはフェリーも停泊している。

 あんな田舎、と蔑むほどの哀愁は感じられない。


「……はあ。最悪」


 けれど母さんは、ちらと外に目をやると重い溜め息を吐いて頬杖をついた。

 億劫そうに左のウィンカーを上げて、勾配のきつい坂道を降る。

 母さんの母親。

 僕にとって祖母にあたるその人は、溜め息が出るほど面倒な人なのだろうか。

 初めて出会う母さん以外の親族に緊張と不安を抱きながら、両脇が草木で溢れる下り坂の先をじっと見つめていた。




 ◇◆◇




「やっと着いた」


 母さんが車を停めて、気怠げに首を回す。


「ほんとにここ? 間違ってない?」

「そうだよ。やっぱり嫌になった?」

「いや、そうじゃないけど……」


 想像していたよりもずっと大きい。

 ちょっとした体育館くらいはありそうな敷地を二メートルほどの木板の塀がぐるりと囲い、開け放たれた頑丈そうな門扉の奥では古風な御屋敷が構えている。地方の大地主の家といった様相だ。


「無駄に大きいだけだよ。呼んでくるからちょっと待ってて」


 母さんはハザードランプを点け、車から降りる。

 門扉に対してやけに小さいインターホンを押すと、しばらくして奥の邸宅から一人の女性が小走りでやってきた。


「ひ、久しぶりね」


 彼女が母さんの母親。

 母さんの年齢を考えると少なくとも五十代ではあるはずだが、四十代前半くらいに見える。ひどく疲れた顔をしていることを除けば、母さんによく似た綺麗な女性だ。


「そ、それで、この子は? 貴女の子なの?」


 母さんは僕の存在すら伝えていなかったらしい。

 不審とも思える不安げな目つきで母さんと僕を交互に見やる。

 注目されて何もしないのも気まずいので、とりあえず会釈をする。


「こ、こんにちは。千影ちかげの母の銀煤竹ぎんすすたけさやです」


 彩さんが一歩、前に出る。


「寄るな!」

 瞬間、母さんが激しい剣幕で割って入り、大音量の罵声を浴びせた。

 空気が震える迫力に、彩さんは首を竦めて引き下がる。


「……車で来た。早く車庫あけろ」

「え、ええ。今開けてくるから。ちょっと待ってて」


 ぱたぱたと車庫に向かって走る背中を眺めていると、母さんが手を握ってきた。

 少し力が強い。

 大声で誤魔化してはいるが、僕以上に緊張している。

 彩さんが車庫に繋がる門を開けたのを確認すると、母さんは無言で運転席に座った。

 車庫まではごく近い距離だが、母さんは僕に助手席に乗るよう手招きする。ほんの僅かな時間でも僕と彩さんを二人にしたくないようだ。


「あいつに気を許さないで」


 母さんはバックミラー越しに目を合わせ、淡々と告げる。

 母さんと実家の間にある軋轢の理由は結局教えてもらえなかったが、緊迫した関係を目の当たりにすると尚のこと聞き辛い。

 母さんが後ろ向きで駐車すると、ずっとタイミングを窺っていた彩さんが好機と言わんばかりに運転席に駆け寄ってきた。


「お、お腹空いた? お昼用意してあるから一緒に食べましょう」

「お前の作ったものなんて食べるわけないだろ」


 母さんは頑なだ。

 事情を知らない僕が口出しすべきではないが、項垂れる彩さんを見ていると段々可哀想になってきた。


「暑いからさ。取り敢えずは入れてもらって、それから考えよう。ね?」


 とはいえ、彩さんを直接手助けするわけにもいかない。

 悩んだ末に中途半端な助け舟を出すと、母さんは流し目で僕を一瞥し、渋々車を降りた。

 無言で邸宅に向かう背中を追う。

 後ろから彩さんが慌ててついてくるが、母さんは振り返りもせず、ぶっきらぼうに玄関扉を開けずかずかと上がり込んだ。


「わ」


 入って早々、玄関の広さに目を奪われた。

 寝転べそうなほど広々とした土間。

 上がり框には謎の巨木が鎮座し、申し訳程度に添えられた花瓶も見たことのない大きさだ。

 視線を上げれば読めない書体で書かれた掛け軸が額縁に収められ、高価そうであることだけがひしひしと伝わってくる。


「ふふふ。お父さん、玄関にはお金かけてたの」


 呆気に取られていると、彩さんがそっと耳打ちしてきた。

 お金持ちは玄関に力を入れるというのは本当のことらしい。


「胸糞悪い成金趣味は相変わらずね。いくら外面を整えても腐った根性が透けて見えてんだよ」


 ずっと下手に振る舞っていた彩さんだが、亡くした夫への侮辱は我慢ならなかったのだろう。母さんが不愉快そうに吐き捨てると、目尻がきつく吊り上がる。

 剣呑な空気。しかし、母さんはむしろ待ち望んでいたように歯を剥いた。


「なんだよ。飯炊き女の分際でえらく生意気な目だな。言いたいことでもあるのか?」

「あなたはお父さんのこと、なにも知らないじゃない」

「よく知ってるよ。あのクズがどういう人間か、誰よりもね。当ててやろうか、葬儀には誰も来なかっただろ」

「来たわよ。お香典だってたくさんいただいたわ」

「馬鹿だな。私が言ったのは、本気で線香をあげに来た奴のことさ。人数だけなら集まるに決まってるだろ」

「違う。皆さんは、本当にお父さんを惜しんで──」

「傲慢な成金が死んで、残ったのは世間知らずで奴隷のババアだ。両手いっぱいに金を抱えた馬鹿を見逃す手はないよな。香典なんて金ヅルの見物料みたいなもんさ。集まった中に土地と株の話をしなかった奴はいるか? いないだろ。あんたらの命に金以外の価値はない」


 彩さんは押し黙る。母さんは勝ち誇るように鼻を鳴らした。


「……いつまで続けるのよ」


 踵を返そうとした母さんを、彩さんが掠れた声で引き留める。

 母さんが大義そうに視線をやると、彩さんははっきりと怒りの表情を浮かべた。


「お父さんは亡くなったの! もう終わったことでしょう!」


 悲鳴のような、障子が震えるほどの怒鳴り声。

 それを正面から浴びせられてなお、母さんの顔色はひとつも変わらない。

 刻み足で彩さんに詰め寄り、胸倉を捻りあげる。


「父親に強姦される娘を、見て見ぬふりして逃げた母親が、許されるわけないだろ?」


 底冷えする響きで、確かに母さんはそう囁いた。




 ◆◇◆




 母さんは過去、父親に襲われた。

 血の繋がった実の父親に。

 許されない行為だ。

 大人吾亦紅子供赤錆さんを襲う現場を目にしたから分かる。あれほど醜く吐き気のする行いを、僕は他に知らない。

 しかし彩さんは強権に振る舞う夫を恐れ、見て見ぬふりをした。

 そうして母さんは実家を飛び出し、自力で生活しているうちに結婚、僕が生まれたらしい。

 母さんがそんなに辛い過去を抱えていたなんて、考えもしなかった。与えられる愛情を当たり前に思っていた。

 重い。子供の僕が受け止めるには、あまりにも。


「嫌なこと聞かせちゃってごめん。でもね、まだこの人と話さなきゃいけないことがあるの。それで、本当にごめんなんだけど、ちょっと外してくれないかな。多分、一時間もすれば終わるから」


 そう母さんに告げられたときも、従うことしかできなかった。

 言われるまま外に出た僕は、玄関先の軒下で途方に暮れていた。


「……どうすればいいんだろう」


 こんな日に限って陽射しは強い。

 高く昇った太陽から鋭い光が降り注ぎ、長い前髪がちりちりと熱を持つ。この場に居続けていては、そのうち火が着きそうだ。

 とりあえず、どこか日陰に入って頭を整理しよう。

 喫茶店、コンビニでもいい。歩いていればそのうち見つかる。

 そういう甘い腹づもりで散策を始めたものの、すぐに後悔する羽目になった。

 この町には家以外何もない。

 年季を感じさせる一軒家ばかりが並び、お店らしい建物は見当たらなかった。


「あっつい……」


 首に流れる汗にハンカチをあてるが、拭いきれない。汗を吸い取りすぎたハンカチは濡れタオルと化した。

 木陰でも何でも早いところ暑さから逃れる場所を見つけないと、熱中症で倒れてしまう。

 壁伝いにふらふらと歩く僕の横を、小学校低学年くらいの子供らが走り抜ける。田舎といえど夏休みの時期は一緒だろうし、不思議なことではない。

 けれど子供らにとって、僕は物珍しい存在のようだ。

 通り過ぎたかと思えば少し離れた場所で立ち止まり、じっとこちらを見つめてくる。もしかしたら、この辺りの子供達は顔見知りばかりなのかもしれない。

 異邦人には居心地の悪い場所だ。

 お店に入っても同じような視線に晒されるだろうし、目的地を人気の無い場所に変える。

 そうして、町の中心地から道をずらした矢先のことだった。

 階段。

 山の斜面に沿って、石造りの階段が伸びている。

 傾斜が急で先は見えず、立て看板もない。

 生い茂る木々によって光は遮られ、一帯はトンネルの中のような薄暗さに覆われている。

 ただでさえ人通りが少ないのに、この道を使う人は誰もいないらしい。

 振り返っても人影はなく、野鳥と虫の鳴き声が響くだけである。

 正直、怖い。

 田舎の伝奇特有の不気味さがある。少し前の僕なら、直感に従いこの場を離れていたことだろう。

 しかし、今の僕はオカルト倶楽部の一員である。

 活動らしい活動は一切していないが、それでも正式な部員なのだ。いつまでも及び腰では、濃墨先輩に面目が立たない。

 ひとつ息を整え、もう一度階段を見上げる。


「……よし」


 ちっぽけな勇気を振り絞り、一段目に足をかける。

 思ったよりも踏み面が狭く、泥や枯葉で汚れて目視もしづらい。

 斜面に並行になるくらい前屈みになりながら、一段ずつ慎重に登る。

 一段、また一段。

 登るたびに森が深く、影が濃くなっていく。

 しかし、熱気が薄れることはなく、むしろ、まとわりつく湿気のせいで先までよりも汗をかく。欠けた目蓋に沿って右目に流れ込むので沁みるし痛い。脱水症状で気絶する可能性もいよいよ現実的になってきた。

 引き返そうす選択肢が頭を過ったその時、ようやく階段の終わりが見えてきた。

 重い足に鞭を入れ、一段飛ばしで駆け上る。


「ついた」


 登り切った。

 しかし、清々しい達成感とは裏腹に、眼前に広がる光景は何とも寂しいものだった。

 塗装の剥げた木製の鳥居と老朽化の激しい社。緒と鈴はなく、賽銭箱の蓋は外されている。

 当然、手入れもされておらず、石畳の道にも緑が侵食していた。

 周囲の木々の背丈はそれほど高くなく、青空が綺麗に見えるのだけが唯一の救いだろうか。


「はあ」


 何を期待していたんだ、僕は。

 使われていない階段の先には、放棄された建物があるだけ。

 よく考えなくても分かることだった。

 秘密の力が眠っているなどという都合の良い話はない。


「……はあ」

 

 また、あの階段を降りるのか。

 勝手に登ったのだから文句を言う権利はないが、それでも気は重い。

 すぐに降り始めるには体力が厳しいので、一旦座って休もうと、社の裏手に回り腰を掛けられる場所を探す。

「なんだこれ」

 縁側に何か置いてある。

 鉛筆、だろうか。

 よく削られたそれらは偶然か、図形を成すようにして置かれている。

 漢数字の八が二つとマイナス記号に見えるが、意図は分からない。

 端の一本を摘み上げてみる。

 持ち手の部分の色が変わるほど使い込まれてはいるものの、材質はしっかりしている。ここに持ち込まれたのはつい最近のようだ。

 しかし、こんなところに人が来るだろうか。

 損耗の具合からして、関係者が修理のためにやってきたという線は薄い。

 地元の子供等が秘密基地として使っている、なんて可愛らしい想像もできるが、行き来するには道が険しい。

 それじゃあ、一体誰が。

 ざわり、と周囲の音が遠ざかる感覚がした。

 あれほどうるさかった生き物達の鳴き声が、膜を一枚隔てたみたいにくぐもって聞こえる。

 何か、大きな気配。

 階段の方から強い視線を感じる。野生動物ではない。こちらに近づいてくる。

 ひたひたと、足音を殺して。

 気配は徐々に近づいてくる。向こうも警戒しているのか、足取りは慎重だ。

 ゆっくり、ゆっくりと。

 三歩離れた距離で気配が立ち止まった。

 同時に振り向き、鉛筆を構える。


「……ほっけ君?」


 どうして彼女がここに。

 振り向いた先には、トートバッグを肩にかけた梔子くちなし螺実亜らみあ先輩が、ぽかんと口を開けて立っていた。

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