第33話

「今日からここがパパ達の家だぞう」

 一年近くの時間をかけてようやく完成した我が家の前で、パパが誇らしげに言う。

「もう転校しなくていいんだ。今までごめんな」

「別に。気楽で良かったから」

 どうせ別れると思えば、人間関係に気を遣わなくて済む。パパとママは転園と転校続きで友達の少ないあたしを心配していたみたいだけど、慣れてしまえばどうってことない。

 むしろ、これからが大変だ。今後、出会う人達とは長い付き合いになる。六ヶ月、早い時は三ヶ月で土地を離れていたあたしにとって、同じ土地に一年以上住み続けるというのは想像のつかない領域だ。

 付き合う人はよく考えないと。

 子供の社会は小さく単純だけど、閉鎖的で加減がない。些細な失言も対処を間違えれば地獄の底まであっという間に落ちていく。

 幸い、あたしは見た目がいい。くだらない恋愛のいざこざに巻き込まれる危険はあるが、スタートは保証されている。

 きっと大丈夫。

「はじめまして、赤錆あかさびていです。これからよろしくお願いします」

 多少の不安と緊張を覚えて臨んだ自己紹介は筒がなく終わった。小学二年の六月という中途半端な時期の転入だったけど、周りの反応は暖かい。先生の感じも悪くないし、校舎も綺麗だ。治安の方も、弁護士のパパが色々聞き回って決めた場所だから、他所と比べればずっと安全なはず。

 当たりだ。一度、酷いところを経験したから環境には過敏になっていたが、ここは今まで過ごしたどの町よりも居心地がいい。

 とはいえ、油断はできない。まだあたしが転入して少ししか経っていないのに、ガキくさいちょっかいで気を引こうとするバカが現れ始めた。

 見るからにモテなそうなヤツなら無視を決め込めば済む話だけど、人気のある男子まで関わってきたら厄介なことになる。やれ色目を使っただの、私の方が先に好きだっただの、醜い嫉妬を向けられては堪ったものではない。

 風除けが必要だ。小学生というのは勝手な生き物で、異性同士で話しているところを見れば好き合っていると勘違いする。だから、誰も狙っていないようなヤツを選んで適当に親しくしておけば、周りは勝手に安心してくだらない恋愛戦争に巻き込まれる危険はぐっと低くなる。

 でも、誰でもいいわけじゃない。程度の低いヤツと絡めばすぐにマウントを取られるし、なにより、あたし自身のストレスになる。

 顔が良くて、女子からそれなりに評価されてるけど、特別仲の良い友達はいなくて、競争率が低い男子。普通、そんな都合のいいヤツなんていないけど、驚くことにこの学校には一人だけ、あたしのお眼鏡に叶う男子がいた。

「ねえ。あのすみっこで本読んでる男子ってだれ?」

「あれ? 黒橡くろつるばみ包介ほうすけくんだよ」

「くろつるばみ? 呼びづらい苗字ね」

 変な苗字のそいつは見た目も相当浮いていた。

 ドラマに出てくるインテリみたいな七三分けで、たかだか公立の学校に襟に糊がついたシャツとサスペンダー付きのスラックスを履いてきている。椅子に腰掛ける姿勢は背中が真っ直ぐに伸びていて、何が楽しいのか休み時間になるとすぐに図書室に向かい延々と本を読んでいた。

 場違いなヤツ。けど、何故か虐められている様子はない。敬遠はされても無視はされず、会話の中で笑顔も見せる。

「あの人ってなんで虐められてないの?」

「あー……」

 率直な疑問。手近なクラスメイトに質問してみると、彼女は答え辛そうに顔を歪めた。

 暗黙のルールなのだろうか。まあ、転入生のあたしには関係ない。惚けたフリでしつこく問いただすと、いよいよ観念したその子はあたしの手を引き、人通りの少ないトイレの前まで連れていった。

「あのね、最初はいじわるする男子もいたの」

 話によれば、小学一年生の夏頃、黒橡とやらへの嫌がらせが始まったらしい。

 大人みたいな話し方で距離を作り、せっかく遊びに誘っても長ったらしい社交辞令を述べて断るばかり。キミたちとは違うんです、とでも言いたげな態度を生意気と受け取った数人の男子達が、教科書や筆箱を隠したのだそうだ。

「でも、なんにも言わなかったの。ずっーとにこにこしてるだけ。授業が始まっても机になんも出さなかったから、先生も気づいたみたい」

 結果、くだらない企みを実行した男子達はしこたま怒られた。曲がった性根を正すのは早い方がいい。担任の行動は間違っていないと思う。

 しかし、怒られた側は面白くない。主犯格の男子はその日のうちに黒橡に詰め寄ったが、それでものらりくらりと躱されることに激昂して、思い切り突き飛ばした。

 そして、黒橡は教室後ろの棚の角に頭を打ちつけ、額を割った。

 派手な流血。小学一年生にはあまりにショッキングな光景。教室中に悲鳴が響き、気絶する子もいたそうだ。

 それでも、黒橡はまるで動じなかった。腰を抜かした加害者の男子にいつも通りの歩調で歩み寄り、血塗れの手を差し出した。

 大丈夫ですか。

 黒橡はにこにこ笑いながら、そう言ったらしい。

 騒ぎを聞きつけた担任が駆けつけ事態は収まったものの、黒橡の異常性を目の当たりにしたクラスメイト達は、以降、極力関わらないように過ごしているとのことだった。

「なるほどね」

 これは使える。

 翌日の休み時間、あたしは図書室に向かう黒橡を廊下で待ち伏せ、曲がり角でわざとぶつかってみた。

 黒橡は声も出さずに尻餅をつく。あの血塗れの現場を連想してか周りの生徒たちに緊張が走るが、ちょっと転んだくらいで血なんて出ない。過ぎたことにいつまでも怯えるのは、根性なしのやることだ。

「ごめん。大丈夫?」

 そう言って、あたしを見上げる黒橡に手を差し出す。しかし、ヤツは呆けた面のままで中々取ろうとしない。仕方なくあたしから掴んで引き起こす。

「同じクラスの黒橡くんだよね。あたし、この間転校してきた赤錆丁。まだ話したことなかったよね」

 怖がらせないように笑顔で話しかけてやる。きょとんとした顔で見返す黒橡だったが、あたしの名前を聞くと急に電池が入ったみたいに他所行きの愛想笑いを作った。

黒橡くろつるばみ包介ほうすけです。よろしくお願いします」

 目の奥が笑ってない。でも、値踏みする嫌な感じもしない。ただそうすべきだからそうしたと言いたげな所作は、機械と話しているような気味の悪さがあった。




 初対面で感じた不気味さは、しばらく一緒に過ごすうちに薄れていった。

 どうも包介の行動には、一定の基準があるらしい。

 話しかけられたら愛想笑い。授業の合間は自習をして、昼休みには読書。給食は三口ずつ食べてローテーション。遊びの誘いに関しては、家の用事を理由に断る。転んだ子には手を差し伸べて、先生の頼み事は内容を問わず引き受ける。

 事象に対して決められた行動。ロボットみたいな奴だ。

 でも、世の中すべての出来事に、こういう時はこうします、なんてマニュアルを作れる訳がない。全部がプログラムされているように振る舞ってはいるが、予想外の出来事には素の部分が垣間見える。

「おはようっ」

 油断している包介のお尻を挨拶と一緒にもぎゅっと掴む。

 挨拶には挨拶を。そう決めているはずが、急なセクハラに動揺して表情が固まる。

「……おはようございます」

 なんとか声を絞り出せたみたいだけど、お尻を撫でる手は好き放題にさせたまま。

 包介には払い除けるという選択肢が存在しない。だから、ただ困った顔でチラチラあたしを窺うことしかできない。

「なに?」

 ちょっと強めに圧をかけてやると、ビビってすぐに目を逸らす。普段のロボットぶりからは考えられない人間らしい反応に、心が満足感で満たされる。

 最近のあたしの趣味は包介を困らせることだ。

 気味の悪い作り笑いが情けなく歪む瞬間は計画が上手く嵌まる気持ちよさがあり、事象と行動の紐付けを探るのもパズルを解くみたいで楽しい。お尻や胸の触り心地に気付いてからは暇を見つける度に弄っている。

 変わり映えしない日常の中にある、ちょっとえっちな退屈しのぎ。

 でも、包介の人間味が露見することで、別の悩みが生まれてしまった。

「あー! 丁ちゃん、また包介くん触ってるー」

「いいなー。あたしも触りたい」

 包介が女子に人気になってしまった。

 もともと外見は良い。小さい体は小動物のような愛らしさがある。機械的な立ち振る舞いで壁を作ってはいるが、そういうキャラクターだと理解してしまえば恐れる必要はない。日常的に撫でて揉み、愉悦に浸るあたしを羨む誰かが出てくるのは予想しておくべきだった。

「あー……こいつ、女の子慣れしてないからさ。また今度ね」

「えー、丁ちゃんばっかりずるい」

「ごめんね。ほら、包介もなんか言いなよ」

 話を振られても、包介は何も言わない。あたしと女子達の顔を交互に見て、オロオロするしかできない。

 てきとうに流せばいいのに。こういう時ばかりは融通の効かなさにイラついてしまう。

 クラスメイトの女子達は暫くごねたが、結局は諦めて自席に戻っていった。不満たらたらな背中を見送り、しゅんとする包介の脇腹を突く。

 対策を考えねば。

 このまま包介の人気が高まると、嫉妬であたしが排斥されかねない。それに、男子側の問題もある。今はまだ表面化していないが、女子に囲まれるようになった包介への僻みがちらほらと湧いている。包介が再び虐められるのは、あたしの本意じゃない。

 あたしの立場と包介の立場。両方のバランスをとらないと。

 そんなことを考えていたが良い案は思い浮かばず、季節は次々と移り変わっていく。

 イベントが目白押しの冬を迎えた。しかし、気合いを入れてクリスマス会に誘っても断られ、初詣は連絡もつかない。だというのに、着々と女子の好感度を稼いでいた包介はバレンタインデーにチョコを貰っていやがった。

 むかつく。あたしと包介の関係はまるで進んでいないのに。

 ストレスが積もる日々にいよいよ限界が来たあたしは、三月初旬、女子に囲まれる包介の腕を引いて無理やり外に連れ出した。

「すみません。今日は用事が──」

「うるさい!」

 口では断れても、力に抵抗できないことは知ってる。包介が転びそうになるのも構わず引っ張って、目的地の公園に着いたところで腕を解放する。

 学校が終わってすぐに出てきたから、辺りには誰もいない。強めに脅しても見咎められることはないだろう。未だに状況を理解せず、不安そうにあたしの顔色を窺う包介の胸倉を掴む。

「あんた、どういうつもり?」

「ごめんなさい」

 怒らせたら謝る。理由が分からなくてもとりあえず頭を下げる。

 あらかじめ決められた反応だ。見せかけの誠実さに腹が立つ。胸倉ごと顎を押し上げて、忙しなく揺れる瞳を真っ直ぐに睨む。

「なに他の女子と仲良くしてんの?」

「ごめんなさい」

 会話が成り立たない。そのくせ目だけは今にも泣きそうなくらい潤み、助けてくださいと訴えてくる。

 むかつく。だったらやり方を変えてやる。

「謝るつもりがあるなら、今からあたしの家に来い」

 クラスの女子とそれなりに上手くやっているようだが、放課後に遊ぶところは見てない。用事があるの一辺倒で頑なに断り続けている。

 だからこそ、家に呼び出すことに価値がある。クラスメイトの家なんて、包介にはまるで未知の世界だろう。知らない場所に放り出された飼いうさぎみたいにプルプル震えている体を思う存分堪能してやる。

 それに、包介は年長者に逆らわない。特に大人の指示には二つ返事で従う。パパとママをうまく抱き込めば、包介を意のままに操れる。いつでもあたしの言うことを聞かせられるようになれば、くだらない人間関係で悩むこともない。

「すみません。今日は用事がありますので……」

「はいはい。用事なんてないことくらい分かってるから。早く行くよ」

 お決まりの定型分。しかし、表情がいつもと違う。嘘くさい愛想笑いじゃなく、八の字眉毛の困り顔で戸惑っている。

「はー……わかった。それじゃ、用事が何なのか言えたら納得してあげる」

 どうせ言えないだろうけど。

 気掛かりをそのままにしておくのも気持ち悪い。無駄と分かったうえでの質問だったけど、包介は待っていましたとばかりに表情を明るくする。

「すみません。これから図書館で友人と待ち合わせていまして、時間が取れないです。ごめんなさい」

「……は?」

 友人?

 誰それ。聞いたことない。

「そんな奴知らない」

「ごめんなさい」

「謝る前にそいつが誰なのか教えろ!」

「……ごめんなさい」

 放課後に遊ぶ相手がいたっていうのか? 恩人のあたしを差し置いて?

 むかつく。ずっと、あたしが面倒を見てやってたのに。気味が悪いと陰口を叩かれたところに手を差し伸べたのはあたしだ。会話もまともにできないあんたを支えていたのはあたしだ。前みたいに虐められずに済んでいるのは全部あたしのおかげだ。

 なのに、なんで。

 なんでおまえは、あたしを一番にしないんだ。

「ふざけんな!!」

 むかついて、苛ついて、燃え上がる衝動のまま、包介の胸を強く押した。軽いあいつは簡単に吹き飛んで、道路まで後退する。

 直後、大きな影が視界を埋めた。バン、って金属が凹む音がして、包介の姿が一瞬で消える。

 見つけたのは数メートル先の方。ドクドクと流れ広がる赤色の真ん中で横向きに倒れている。

 包介は車に撥ねられた。

 あたしが、突き飛ばした。




 昔の夢を見た。あたしがまだ小学生の頃の夢。

 炎に炙られる勢いで跳ね起きる。全身は汗でずぶ濡れで寝巻きが肌に張り付いて重い。意識はハッキリしているのに四肢は熱く痺れていて、思うように動かせない。

「お゛え゛」

 吐きそう。

 空っぽの胃が何かを吐き出そうと収縮し、酸っぱい空気が迫り上がる。寸でのところで呑み込むも気持ち悪さは治らず、寒気で体がブルリと震える。

 今は何時だ。

 汗を拭う余裕もなく、ベッド脇の時計に首だけ向ける。

 十時ちょうど。約束の時間には間に合いそうだ。

「……ハ」

 そんな都合のいいことを考えている自分が情けなくて、覇気のない嗤い声が漏れる。

 資料室で濃墨に秘密を暴かれたあたしは、謝罪も弁明もせずに逃げ出した。脇目も振らず家まで走り抜けて、すぐに自室に閉じこもった。

 何一つ筋を通していない。そのくせして、その場凌ぎで持ち掛けた夜の学校探索の約束が守られると期待している。もう一度話しかけてくれるかさえ怪しいのに。

「準備、しないと」

 現実から目を逸らしているだけだ。だけど、そうでもしないと気を保てない。物音を立てないよう、そっとベッドから降りてクローゼットに向かう。

 なに着よう。

 ずらりと並ぶ服の前で立ち止まり、結局、去年に包介と一緒に買いに行ったオーバーサイズのTシャツと丈の短いカーゴパンツを手に取る。うねった髪を整える暇はないので、キャップを被って誤魔化そう。脱ぎ散らかした汗まみれの寝巻きは、明日洗濯カゴに紛れ込ませることにした。

「……いこ」

 金曜日の夜、パパとママは二人でお酒を飲むことにしている。この時間には寝ているので、明かりをつけたり大きな音を出さない限りは玄関から出られるだろう。散策用の懐中電灯を後ろポケットに突っ込んで、そうっと部屋の扉を開ける。

 暗い廊下。壁伝いにゆっくり歩き階段を一段ずつ慎重に降りれば、すぐに玄関に到着した。パパとママが気づいた気配はない。最近、ようやく馴染んできたスニーカーを履いてから家の鍵を取り、一度深呼吸する。

 玄関扉を開けばどう頑張っても音が出る。パパとママにばれたら、あたしの夜間外出は絶望的だ。それどころか、門限も今以上に厳しく設定される。

 まあ、どうでもいいか。

 包介がいないなら、門限を破る必要はどこにもない。自暴自棄になりながら扉を押して、開いた隙間に体を滑り込ませる。

 ガチャン。

 一度出てしまえば、もう引き返せない。後ろ手で扉を閉めて鍵をかけ、あたしは歩道に飛び出した。

 月明かりが眩しい。街灯に劣らない光が無人の往来を照らす。

 そういえば、深夜に出掛けるのは初めてだ。栗川の家に泊まった時なんかは二人で夜更かししたものだけど、流石に外には出なかった。

 夜。大人の時間。

 でも、感動を覚えたりはしない。所詮は日々過ごす時間の延長線に過ぎず、深夜に出歩いたからといって大人と認められるわけではない。

 包介に嘘を吐き、目を背け続けてきたあたしの弱さが許されるわけではない。

「……馬鹿みたい」

 熱くなる眦を袖で拭い、ぼやけた視界で歩き出す。暗がりの道は慣れた通学路とはいえ不気味に思えるが、見ようとしなければどうということはない。黙々と足を進めるうちに、いつの間にか校門の前に着いていた。

 時間は十時四十五分。集合時間にはまだ遠く、包介の姿はない。

 いや。

 いくら待ったって来るはずがない。勝手に期待して、勝手に裏切られただけ。当たり前の事実があるだけだ。

「……帰ろ」

 温い夜風に曝されて、ようやく自分を客観視できた。正気に戻った頭は都合のいい希望を捨て、底のない絶望を描き出す。

 月曜からどうしよう。どんな顔して包介に会えばいい。あたしと話をしてくれるだろうか。正面から拒絶されたら、きっとあたしは──

 そんなことを考えながら、来た道に向き直った直後。

「おい。こんな時間になにしてる」

 突然声を掛けられた。全身に緊張が走り、反射的な速度で振り返る。

「丁か?」

 視線の先には、薄汚いシャツと裾の解れたジャージを身に纏う、脂ぎった顔の吾亦紅が立っていた。




「いやあ、オレも昔は仲間と忍び込んだりしたなあ」

 気持ち悪い。口を開くな。

 喧しい声で聞いてもいない昔話を始めた吾亦紅にてきとうな相槌をうちながら、早く消えろと心のうちで悪態を吐く。

 校門の前で見つかったとき、すぐに立ち去るべきだった。

 突然の会敵に固まったあたしを見て何を思ったのか、吾亦紅は長ったらしい無駄口を叩いたかと思えば、勝手に理解者のように振る舞い、夜の校舎探索に付き合うと言い出した。

 包介のいない散策に意味はないし、太った中年と並んで歩く趣味もない。あしらって帰ろうとしたのだが、思いの外強く背中を押され、断るタイミングが掴めないまま最低な状況に陥ってしまった。

「……はぁ」

 なんにも上手くいかない。

 隠すつもりのない大きな溜め息を吐くと、耳ざとい吾亦紅は前のめりになってあたしと視線を合わせにくる。

「おっ、どうした溜め息なんて。先生、相談にのるぞ」

「……別に何でもないです」

 うざったい。お前に話すことなんてひとつもない。

 近づいてくる吾亦紅から距離をとりながら、早足で歩を進める。この無駄な時間を一秒でも早く終えるには、とっとと目的の体育館に入り、満足したフリでやり過ごした方が早い。

 頻りに話しかけてくる吾亦紅にてきとうな相槌を返しながら角を曲がると、ようやく入り口が見えた。吾亦紅が鍵を開け、重そうに引き戸を開け放つ。

「ウ」

 閉じ込められていた淀んだ空気が押し寄せてきた。冷えた湿気がうなじを沿って流れ、ぬるい寒気に体が震える。

 明かりのない体育館。普段は手狭に感じる空間も、暗闇の中にあると底知れない不気味さを覚える。物がない分、人気の無さがより強く感じられて、踏み入るのを躊躇ってしまう。だけど吾亦紅は臆するあたしにまるで気づかず、得意げに鼻を膨らませて気色の悪いニヤケ面で臭い息を吐いていた。

「ここで俺が、女バスを優勝に導いたんだ」

 そんな訳あるか。

 無名の女バスが結果を残せたのは、あのクソアマ、梔子螺未亜の力だ。こいつはいつも後方で練習風景をニヤニヤ眺めているいるだけで、たまにアドバイスしたかと思えばてんで的外れだと栗川が嘆いていた。部費の使い道を明かさないらしく、横領の疑いも持たれているらしい。多方面から蔑まれているマジもののクズ教師だ。

「準備室に用事があるんだろ? 早く入ろう」

 吾亦紅が弾んだ声で急かしてくる。背中を触られそうになって咄嗟に避けるが、前に逃げたせいで体育館の閾を跨いでしまう。

 ぐわんと体が重くなったような感覚。ハッと顔を上げると、濃密な暗闇が広がっている。

 人が立ち入っていい領域じゃない。

 物音がしたわけでも、幽霊が横切ったわけでもない。それでも、視界を潰されるという根源的な恐怖に本能が訴えかけてくる。

「もう大丈夫です。付き合ってもらってありがとうござ──」

 これ以上は無理だ。角の立たないタイミングを図る余裕はない。ここに居続けたら気がおかしくなる。

 今すぐにでも立ち去ろうと踵を返した瞬間、

「丁」

 鼻先に生温かい肉がぶつかり、次いで、饐えた臭いが鼻腔に入り込む。

 臭い。汚い。

 全身に怖気が走り反射的に飛び退こうとするが、阻まれる。背中に腕を回されている。汗に濡れた穢らわしい贅肉の壁が再び迫り、横面がぴちゃりと押しつけられる。

 吾亦紅に抱き締められている。

「ヒッ」

 思い切り腕を突っ張る。でも、手のひらは吾亦紅の肉に埋まるだけでびくともしない。

「捕まえた」

 尚更に密着してくる。旋毛の辺りに生臭い息を吐きかけられ、背中に回った腕がずりずりと下がる。太くて短い指がナメクジみたいに体を伝い、指先があたしの尾てい骨に触れる。

「オレ、ずっと丁のこと見てたんだ」

 こわい。

 こわい。こわい。こわい。こわい。こわい。こわい。こわい。こわい。こわい。こわい。こわい。こわい。こわい。こわい。こわい。こわい。こわい。こわい。こわい。

 剥き出しの性欲。逃げ場はない。あたしはこのまま犯される。

 恐怖で埋め尽くされた頭に、いつかの烏羽の言葉が浮かんだ。

 男は怖い。けど、弱点はある。どこにも逃げられなくて、でも、相手が一人で、そいつ一人どうにかできれば確実に逃げられるってときは、

 殺す気で潰せ。

「ガアァァァ!!」

 体育館を震わす化け物の慟哭。頭上から直に浴びせられて耳の奥がじんじん痛むけど、吾亦紅の拘束が解けた。突き放した反動で腕からすり抜け、出口に向かって一直線に走る。

 必死で玄関に辿り着き、体当たりするみたいな勢いで引き戸に手を掛ける。

「なんッ……でっ!」

 でも、扉は開かない。体重を乗せて引っ張ってもガタつくだけだ。

 鍵? でも、錠前がどこにあるかなんて気にしたことがない。手探りで見つけようにも、手元も見えないこの暗さじゃ、

「どこだぁっ!!」

 男の太い怒鳴り声。背中を刺されたみたいな感覚がして、考える間もなく足が動く。

 どこに逃げればいい。わかんない。走り過ぎる際に触った扉は、全部鍵がかかってる。建て付けが悪いだけなのかもしれないけど、そんなの知らない。確かめる時間も、余裕もない。

 こわい。苦しい。息ができない。でも、止まったら犯される。あんな醜い化け物に、あたしの初めてが奪われる。

 こわい。足が縺れて転びそうになる。ぎりぎりで踏み止まるけど、太ももに力が入らない。脹脛が痛い。耳鳴りがする。心臓が動き過ぎて吐きそうになる。

 まともに見えない視界の中で微かに発光しているようなピンク色が映る。救いを求めて顔を上げると、女子トイレの扉があった。

 鍵はついてない。無我夢中で扉を押し開けて、一番奥の個室に飛び込む。

 叩けば外れそうな頼りない戸に、安っぽいバーのロック錠。どこにも逃げ道はなくて、簡単に思いつく隠れ場所。

 ここじゃ駄目だ。すぐに移動しないと。

 なのに、足が動かない。便座の上から動けない。抱え込んだ膝の震えが止まらない。

「やだ……」

 触れられるのがこわい。追われるのがこわい。傷つけられるのがこわい。穢されるのがこわい。知られるのがこわい。拒絶されるのがこわい。

 包介に会えなくなるのがこわい。

「やだよぉ、ほうすけぇ」

 嗚咽混じりの声が漏れる。ボロボロと涙が溢れる。自分の無力に押し潰されそうになる。

 自業自得。包介に一生消えない傷を負わせて、なのに、見ないフリをし続けていた罰。自分の罪が、ようやく裁かれる番になっただけ。

 それでも、こわい。こわくてたまらない。

 膝の間に頭を埋める。真っ黒に塗り潰された視界は変わらないが、前を見ていたくない。このまま消えてしまえればどんなに楽だろう。吾亦紅に穢されるくらいなら、いっそ舌を噛み切ってしまえば──

 コンコン。

「ヒッ」

 扉をノックされた。咄嗟に口を抑えるが、もう遅い。息を呑む音を聞かれた。扉の向こうの気配は完全に足を止めている。

 心臓がうるさい。首が痺れる。目頭が熱い。震えを必死に抑えるが、尻が微かに上下する。

 コンコン。

 もう一度扉を叩かれる。今度は声を漏らさなかったが、ドアの向こうの気配はあたしの存在を確信している。カチャカチャと鍵を弄る音がして、

 カチリ。

 鍵が開いた。蝶番が悲鳴を上げて、軽い扉が開かれる。

「遅れてごめん」

 あたしの大好きな声。

 扉の先には、包介がいつもの下手な愛想笑いを浮かべて立っていた。

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