第34話

 光に嫌われている。

 それだけ聞けば思春期にありがちな自意識だと思われるかもしれないが、僕の場合は身体的な事情がある。

 瞳孔の開ききった右目。焦点が合わないばかりか、雨空の日光でさえ煩わしく感じる瞳。闇に好かれているわけではないが、真昼の往来を歩くよりは夜道の方が目が馴染む。

 とはいえ、夜の校舎となれば話は別だ。どこまでも暗闇が続く廊下には飲み込まれるような底知れなさを覚える。見慣れたはずの教室はことごとく姿を変え、所々で灯る非常案内板のぼやけた明かりは却って異質さを増長させている。

 事実、窓枠に足をかけた時点で半泣きになっていたし、ここに来るまでにちょっとだけ漏らした。度胸試しに忍び込む輩もいるらしいが僕には到底理解できない。

「遅れてごめん」

 濃密な紺色が広がるトイレの個室に足を踏み入れながら、心からそう思う。小窓から差し込む月光に晒された赤錆さんの顔は涙と鼻水で大変なことになっていたが、それを揶揄する気持ちは微塵も湧いてこない。

「えっ、あ、なっ、なんで」

「ん?」

「な、なんでっ、包介が、ここに」

「なんでって、赤錆さんが呼んだんだろ」

 軽い口調で答えると、赤錆さんは力が抜けたのか便座からずり落ちそうになった。正面から抱き留めると首にべちゃっとした水っぽい感触が広がる。

「ごっ、ごめっ、ごめん」

「いいよ」

 腕の中にすっぽり収まる彼女の体は、少し見ない間に随分薄くなってしまった気がした。夏の夜だというのに肌は冷え切り、奥歯はかちかちと震えている。

 赤錆さんがこれほどまでに追い詰められ、怯えている原因。

 たしかに夜の校舎は恐ろしいが、それほどの恐怖を覚えるならそもそも単身で入り込めたりしない。オカルトを空想と割り切れる彼女の震えが止まらないのは、別の要因があると考えるべきだろう。

 赤錆さんの小さな体を抱きしめながら、これまでの道程を思い返す。

「……吾亦紅われもこう

 あいつか。

 廊下を彷徨く懐中電灯の光。見つかると面倒だと咄嗟に身を屈め持ち主を見定めた時、歯を剥き出しにして徘徊する彼の顔があった。そして何より、下着を身につけていなかった。いくら人気がないとはいえ、一物を振り回しながら職場を闊歩するのは常軌を逸している。

 吾亦紅なら、だろう。

 まあいい。非難も軽蔑も後回しだ。今はこの場を離れることが先決である。

 周到にも、道中、通り過ぎた教室には全て鍵がかけられていた。逃げ場は自ずと限られ、吾亦紅が鍵のかからないトイレに辿り着くのも時間の問題だ。

「早いところ家に帰ろう。歩ける?」

 体を離して、赤錆さんの手を取る。しかし、彼女は素早く僕の手を振り解き、胸の前に抱え込んでしまった。

「ごめん。嫌だったかな」

「ち、違う。……さ、さっき、逃げるときに、吾亦紅のキンタマ、握ったから」

「うげっ、ばっちいね」

 嫌われたわけではないと安心して、思わず率直な感想を述べてしまった。赤錆さんはひどく傷ついた顔になって、右手に強く爪を立てる。

 汚いのは吾亦紅先生の局部で、赤錆さんは綺麗なままだ。訂正するのは簡単だが、気持ちは言葉でなく行動で示すべきだろう。アルコールティッシュを持っていてよかった。

「じっとして」

 逃げようとする赤錆さんの手をとる。彼女はびくりと大袈裟に反応したが関係ない。

 控えめな抵抗は無視して、人指し指を付け根から爪の間まで丹念に拭う。次に中指、薬指と順々に五指を磨き上げ、手のひらの皺の溝も余すことなくなぞり上げる。

「よし。綺麗になった」

 きめ細やかな肌は暗がりの中でも光を放ちそうなほどに美しい。遠慮なく指同士を絡めてぎゅっと握る。今度は振り払われることはなく、赤錆さんも握り返してくれた。

「とりあえず図書室に行こう。僕、そこから入ったんだ」

 彼女は音を立てて鼻水を啜り、小さく頷く。空いた左手で震える背中を支えながら慎重に便座から下ろす。膝は震えているが、ゆっくり歩く分には支障ないだろう。

 摺り足で出入り口に近づき、そっと耳を立てる。

 足音はしない。扉と床の隙間から明かりが漏れるということもない。

「行こう」

 扉を背中で押し開き、素早く廊下に出る。

 重ねた手から赤錆さんの恐れが伝わる。明かりと呼べるのは点在する非常灯くらいのもので、彼女にとっては真っ暗闇に近い。動きづらくとも、落ち着くまでは手を引いて先導すべきだ。

 腰を低くしたまま壁伝いに歩き出す。つるりとした壁面は慣れ親しんだ触り心地であり、ここが僕のよく知る校舎であることを確かにする。僅かにではあるが恐怖が薄らぎ、引けた腰にも力が入る。

「あ」

 中庭を挟んだ向かいの廊下に白い光がちらついた。繋いだ赤錆さんの右手がびくりと強張って、じっとりした汗が滲み出る。

「静かに」

 まだ距離はある。光はうろうろと向きを変え、僕達に気がついた様子はない。音を立てなければ離れることは容易だ。

 息を殺して、光の行く末をじっと見つめる。

「~~~ッ!!」

 何事かを叫んだ後、光は直進し壁に阻まれ見えなくなった。

 下半身を丸出しにしている時点で分かりきっていたことだが、吾亦紅先生は異常なまでに昂っている。あの様子では、トイレという隠れ場に辿り着くことすら当分先になりそうだ。

 赤錆さんの手を軽く引いて合図する。しかし、彼女は動かない。

「赤錆さん?」

 赤錆さんは蹲っていた。石のように丸まり、酷く怯えている。勝ち気で横暴で、けれど、面倒見が良く優しい彼女の様子は見る影もない。

 吾亦紅あいつさせたのだ。

 こめかみが疼く。毛細血管が切れたのか熱と痒みがじわりと広がり、薄い目蓋が呼応してひりひりと痙攣を始める。

「ほ、ほうすけ? だいじょうぶ?」

「……ああ、ごめん。なんでもないよ」

 駄目だ。落ち着け。自分の感情を優先するな。今は赤錆さんの安全が先だろう。迎えに来たはずが不安にさせてしまうなんて本末転倒だ。

 僕の顔色を窺う赤錆さんに愛想笑いを返す。暗闇で分からないだろうけれど、それ以外の方法が思いつかない。深い呼吸で酸素を取り入れ、煮える脳を丁寧に冷ます。

 吾亦紅は逆方向に消えた。進むなら今が好機だ。

 赤錆さんがついて来れる範囲の早足で、図書室まで一直線に向かう。奥まで闇が続く廊下は距離を長大に感じさせるが、所詮は学校の廊下である。

 程なくして図書室の戸が現れ、僕達は速度を殺さず滑り込むように入室した。

 この図書室の本棚は壁沿いに配置されている。円卓は複数置かれているがいずれも脚は低く、大人が隠れるのは難しい。念のため視界を巡らすが人影はなかった。

 一先ずは安全か。

 束の間の安心感と一緒に、ずっと握っていた赤錆さんの手を離す。

「や、やだっ」

 間髪入れず、赤錆さんがしがみついてきた。二度と離せまいとぎゅっと指を絡め取られ、腕ごと抱きしめられる。こんな状況でなければ、気持ちの悪いにやけ面を晒していたことだろう。

 気を抜いてはいけない。僕にはまだ、やることがある。

 赤錆さんの胸からゆっくり腕を抜き取り、血の気のない彼女の手を両の手のひらで包む。

「いいかい。ここからは一人で逃げるんだ」

「な、なんでっ。やだよ、ひとりにしないで」

「大丈夫。あいつは全部の教室の鍵をかけて君を学校に閉じ込めたつもりでいるから、外までは追って来ない。今のうちにご両親に連絡して、コンビニかどこか人のいるところまで迎えに来てもらうんだ」

 学校の敷地を隔てる塀はすぐそこだ。素早く動けば吾亦紅にも見つからない。夜道を安全とは言い切れないが、このまま校内に留まるよりはましだ。

「やだ、やだよっ、いっしょににげよう?」

「駄目だ。あいつをこのままにはしておけない。あいつがしたことを証明しなきゃ、君はずっと怯えて暮らすことになる。そんなのは耐えられない」

「いい! いいの! ほうすけがいてくれたら、あたしは」

「僕が許せないんだ。わがままでごめん」

 それでも彼女は納得しない。せっかく納めた涙を再び浮かべて、僕の手を強く握り返す。

「だって、あたし、まだ言わなきゃいけないことがある、たくさんあるの。このままお別れなんていやだよ」

 大袈裟だ、と受け流すことはできなかった。

 多分、見透かされているのだろう。吾亦紅の罪を証明するには、どうしても危険を冒さなければならない。すぐに会えると嘘を吐いてでも赤錆さんを逃がすべきだったが、悔やんでももう遅い。彼女の濡れた瞳に見つめられると、喉がつっかえて言葉が出なくなる。

 仕方ない。一緒に彼の到着を待つしかないか。

 そんな甘えた考えが過った瞬間、右目の奥がちらついた。反射的に入り口を振り返り、全身が一気に冷える。

 扉が閉まりきっていない。僅かに開いた隙間から懐中電灯の光が漏れている。ほんの些細な違和感、しかし、暗闇の中では致命的な異変。忙しなく揺れていた光がぴたりと止まる。

 気付かれた。

「行け!」

 赤錆さんの背中を押す。無事に脱出できたかを見届ける余裕はない。薄く息を吐き切って、受付カウンターに凭れかかる。

「てぇぇいぃぃぃ……!」

 低音の呻き声。引き戸が外れそうな勢いで開き、仁王立ちの吾亦紅が現れる。

 でかい。身長こそ平均的な成人男性と同じくらいだが、至る所に無駄な肉が載り横幅が大きい。中学生男子の平均を下回る貧弱な体では、腕の一振りで簡単に弾き飛ばされるだろう。

 勝ち目はない。それでも僕は、真正面から吾亦紅と対峙した。




「あ? おまえ、こんな時間になにしてんだ」

 ぎりぎり間に合ったようだ。赤錆さんの脱出に気づいた様子はない。夏らしい装いの吾亦紅は、懐中電灯を片手に間抜け面で突っ立っている。

 とはいえ、下着の一つも身に付けないのは羽目を外し過ぎだ。赤錆さんが怯えるのも頷ける。たるんだ腹の中年男性が股間のブツを振り回しながら襲ってきたら、誰だって動揺する。

「吾亦紅先生こそどうしたんですか、その格好。聖職者として不適切でしょう」

 教師を聖職とは思わないが敢えて口にしてみる。欲を制御する理性はないのに侮辱には敏感らしく、吾亦紅は分かりやすく頬を引き攣らせた。

「……うちの生徒か?」

「あれ。一応、体育でお世話になっているんですけれど。覚えていないですか?」

 覚えていられても嬉しくはないが。

 わざとらしい抑揚で煽ってやると、額の皺が深くなる。三回りも下の餓鬼の挑発を真に受けたようだ。ぎりぎりと歯軋りする様はちんけなプライドをありありと体現している。

「おれは見回りで忙しいんだ。早く出て行け」

「はは。その格好で言い訳するには無理があるでしょう」

 二度目の指摘を受けて吾亦紅はようやく股間を隠した。といっても、前屈みになって腹肉の陰に潜めただけだ。小振りなウィンナーのようなそれは、背筋を伸ばせばまたすぐに顔を見せるだろう。

「社会人には色々あんだよ。教師みたいにストレスの溜まる職業だと特にな。おまえも夜中に出歩いているのがバレたら困るだろ? 今日のところはお互い黙ってようぜ」

 何を言っているんだ。

 一瞬思考が止まるが、頭の中でゆっくり噛み砕いてようやく理解する。

 どうやらこいつは、自分が赤錆さんを襲ったことについて、僕が気付いていないと思っているらしい。

 教え子への性的暴行と、無人の校舎での猥褻物陳列。この場をやり過ごせれば罪は後者だけで済む。一先ず邪魔者を排除して、それから再び赤錆さんを襲う魂胆なのだろう。

「ふっ」

 お目出度い奴だ。思わず失笑が漏れてしまう。耳聡く聞きつけた吾亦紅は目付きを鋭くするが、格好が間抜けすぎてまるで怖くない。

「おまえナメてんだろ」

「それはまあ。馬鹿にしない方が難しいといいますか。趣味趣向は人それぞれですから理解を示すべきなんでしょうが、実際目にすると……ふふっ、笑っちゃいますよね」

 吾亦紅の手のうちにある懐中電灯がみしりと軋んだ。

 煽り過ぎたか。しかし、時間稼ぎはまだ足らない。余裕ぶった手つきで指を組む。

「まあ、どうでもいい世間話はこのくらいにして。実は僕、先生にお聞きしたいことがあるんですよ」

「くっちゃべってねえでとっとと行けよッ!!」

「十年前に自殺した女子バスケットボール部の幽霊についてなんですが」

「……あ?」

 吾亦紅の動きが固まった。

 苦し紛れに持ち出しただけの推論だが、意外にも核心をついているのかもしれない。吹っ掛けてみる価値はある。放課後のうちに集めた情報を脳内で再構築しながら話を引き延ばす。

「最近、生徒の間で噂になってるんですよ。深夜零時、体育館の用具室に自殺した女子バスケットボール部員の幽霊が出る、って。それで、僕のところにも調査の依頼が入ったんですよね。ほら、僕ってオカルト倶楽部に所属してるじゃないですか。あ、先生が知ってるはずないですよね。えー、オカルト倶楽部っていうのは──」

「おちょくってんのか?」

「せっかちだなあ。分かりました。ちゃんと話しますよ」

 わざとらしい咳払い。それから勿体ぶって息を吐き、ナルシズムに満ちた流し目で吾亦紅を見据える。

「まず、僕が今この場にいるのは、女子バスケットボール部員から調査の依頼が入ったからです。最近、彼女達の練習に身が入っていないことは、顧問の先生ならお気付きですよね?」

 僕がこの場にいるのは赤錆さんに呼ばれたからだし、バスケットボール部の近況も濃墨先輩から又聞きしただけだ。話すこと全部がはったりだが、今は時間を稼げればそれでいい。

 先の勢いはどこへやら、むっつりと黙り込む吾亦紅に向かって言葉を投げ続ける。

「ただ、どうにも納得できない点がありまして。怪談が流行るには条件があります。実際に幽霊を見たとか、過去に結び付けられそうな事件が起きていたとか、創作するにしてもリアリティが必要なんです。けれど、この放課後の幽霊には、そういう要素が一切なかった」

「何が言いてえんだ」

「流行るにはつまらないんですよ」

 体育館の用具室に幽霊が出る。この程度の内容で、娯楽に溢れた現代の若者の心を掴めるはずがない。

「話がつまらない。信じられる事実もない。それでも流行したというのなら、誰が話したか、が重要になります。冗談を言わない人が話せば、それだけで信憑性が増しますから。ああ勿論、僕みたいなのは論外ですよ。本当に幽霊を見たとしても、誰も聞く耳を持ってくれないでしょう」

「よく分かってんじゃねえか。おまえみたいな生意気なガキ、誰も信用しねえよ」

 隙を見せればすぐに食いついてくる。時間を使わせたことは喜ぶべきだが、勝ち誇った口調が癪に障る。自分の格好を考えて発言して欲しいものだ。

「さて、話を戻しましょうか。僕が調査に乗り出したきっかけはオカルト倶楽部に依頼があったからです。依頼主は女子バスケットボール部の部員。強豪校が練習に支障をきたすくらいですから、余程影響力のある人が噂の発端になったのでしょう。では、影響力のある人とは誰か。最初に思いつくのは部長ですね。エースの梔子さんも当てはまるでしょうか。ただ、直接お伺いしてみたのですが、お二人共心当たりはなく、むしろ困っていると話していました」

 部長に聞き取りしたのは濃墨先輩で、梔子先輩はそもそも噂自体を知らなかった。女子バスケットボール部内で流行していることさえ怪しいが、今は突き詰めるときではない。

「それでは一体、誰がこんなつまらない怪談を流行らせようとしたのか。皆目見当もつきませんでしたが、吾亦紅先生の格好を見てすぐに分かりました」

 丁寧に遠回りをしたが結論は決まりきっている。安っぽい探偵役のように呆れを込めた溜め息を吐き、伏せた目をゆっくりと上げる。

「吾亦紅先生。貴方が生徒を誘き寄せるため、意図的に怪談を広めたんです」

 吾亦紅は何も言わない。ただ、憎悪に満ちた視線で僕を睨めつけるだけだ。

 まあどちらでも構わない。合っていようが間違っていようが僕のやることに変わりはない。

「正確には女子生徒を、でしょうか。女子バスケットボール部内でも関心の度合いに差があるようでしたから、もしかしたら特定の生徒を標的にしていたのかもしれません。まあ、結果的には別の女の子が被害に遭う羽目になりましたが」

 吾亦紅は依然、沈黙を貫いている。この時に限っては噛みついてくれた方が都合は良かったのだが、仕方ない。いい加減、否定しようのない証拠を突き付けてるとしよう。

「赤錆さんならいませんよ」

「……あ?」

 吾亦紅の顔が面白いくらい歪む。やはりこの男は、赤錆さんを襲った事実を隠し通せると考えていたようだ。吾亦紅は頭を掻きむしり、聞く者の神経を逆撫でする長くて鬱陶しい息を吐く。

「あー……見られてたのかよ、めんどくせえ。無駄な時間使わされたじゃねえか」

「認めるということでよろしいですか?」

「ああ、うんうん。おまえの言うとおり。俺がやった。可愛い教え子をレイプしようと思ってな」

 吾亦紅は開き直った表情で呆気からんと言い放った。余裕を見せて優位に立ちたいのだろうが、語尾は微かに震えている。焦りと苛立ちを隠そうと強がっているだけだ。

「マジでめんどくせえな。あともう少しだったのによお。知ってるか? 今週のどっかで、三年のグループが肝試しに来る予定だったんだ。しかも、丁まで来てくれるっていうんだから最高に興奮したぜ。なのに、てめえみたいなクソガキに邪魔されるなんて。マジでツイてないよなぁ」

 杜撰な計画。性欲に塗れた動機。自分本位な自己弁護。聞いているだけで耳が腐る。

 吾亦紅はにちゃにちゃと糸を引く口で自分を語り、ぎらついた目で僕を見下ろす。

「で? これからどうなるか、分かってんだろ?」

「どうなるんでしょう」

 馬鹿の解決手段は暴力しかない。それでも敢えて惚けてみると、吾亦紅は仰々しい仕草で指の骨を鳴らした。威嚇のつもりだろうが、音はあまり響いていない。

「ガキの言うことなんざ誰も聞いちゃくれねぇよ。あとは、俺の気が済むまでおまえの顔面をぶん殴って、二度と外に出られない体にすりゃあ何も問題はないって訳だ」

 やりたくないが、やるしかない。ポケットから携帯電話を取り出して片手で画面を開いて見せる。

「今までの話はすべて録音させて頂きました。もう終わ」

 言い切る前に払い飛ばされる。軽い音を立てて落ちた携帯電話を、吾亦紅は見せつけるように踏み潰す。

 ああ、やっぱり。母さんには何て説明しよう。

「で? 次はどうすんだ? あ?」

 ぐっと顔を寄せてきた。汚らしい無精髭の生え際まではっきりと見えて胃の中が気持ち悪くなる。不潔さを嫌って仰け反る僕の表情を怯えと勘違いしたのか、吾亦紅は強く鼻息を噴き出した。鼻の穴の手入れは当然しておらず、伸びた剛毛で埋まっている。

 くそ。いけないと分かっているのに、頭の中で低俗な罵倒がぐるぐると回る。

 不潔な奴は嫌いだ。反省しない奴は嫌いだ。自制できない奴は嫌いだ。

 お前は赤錆さんを泣かせた。なのに何故、笑っていられるんだ。

 苛つく。こめかみの疼きに耐えられず、右の小指が痙攣を始める。顎の上がった得意げな面が心底不快だ。喉仏を思い切り突いてやりたい。

 いや、駄目だ。まだ粘らないと。もう少し。もう少しだけ。

 表情筋に鞭を入れ、わざとらしい笑い顔を作り直す。下目蓋のひくつきは治まらないが仕方ない。

 目的を忘れるな。感情を優先するな。赤錆さんの日常を守りたいんだろ。

 ひたすら自分に言い聞かせ、瀬戸際で踏みとどまる。首に力が入りすぎたせいか、視野が狭まり吾亦紅の顔がぼやけてきた。朧気な感覚に身を任せるには危険極まりない状況だが、醜悪な顔面が曖昧になった分、ほんの少しだけ理性を取り戻す。

 だからだろうか。怒りのあまり疎かにしていた嗅覚が、吾亦紅の吐く濁った息に反応した。

「くせえんだよクソジジイ」

 もう限界だった。

 言い切るのと同時に懐中電灯を握った手首を拳鎚で叩く。そのまま手を滑らせて懐中電灯の出っ張りに指を掛け、捻りながら腰を回す。

 灯りを奪った。けれど僕には不要なものだ。順手に持ち替え、吾亦紅の口を目掛けて懐中電灯を突き出す。

 プラスチックの砕ける音。歯を折れたかは見えないが、出血はしただろう。

 吾亦紅の拳が飛来する。直線ではなく、横面を狙った大振り。風切り音を伴うそれは恐ろしいまでの殺意が込められているが、小さな体には都合がいい。

 上体を下げて前に出る。それだけの動作で剛腕は派手に空振った。勢いに引っ張られて流れる体の脇を潜り、背後に回る。贅肉で膨れ上がった背中。張り出した腹とは不釣り合いの細い足では、日々の生活もままならないことだろう。伸びきった膝裏に足刀を蹴り下ろす。

 がつん。

 少し押してやるだけで、吾亦紅はあっさりと膝をついた。骨と床が衝突する。蹴り足に体重を乗せれば膝の皿まで砕けていたかもしれないが、引き際を見誤れば僕の足が挟まれる。

 無理な追い打ちはかけない。打ち合う必要もない。慎重に、確実に。少しずつ壊してしまえば、それでいい。

 一歩、後ろに下がる。直後に吾亦紅の裏拳が鼻先を掠めた。想定よりもリーチが長い。やはり間合いを掴むのは苦手だ。二、三と足を走らせて距離をとる。

 そこでようやく息を吐けた。脳内麻薬の代償が全身にのしかかってくる。それは目の前の中年も同じらしく、やかましい鼻息を立てながらも動こうとしない。

 それとも、自身の置かれた状況に気がついたのだろうか。

 剥き出しの下半身。椅子と机が散在する障害物だらけの空間。

 そして、黒一色に塗り潰された視界。

 夜の学校は、とにかく光源が少ない。ただ歩くだけでも神経を擦り減らす。まして、先ほどまで懐中電灯に頼り切りだったのだ。眩い光に慣れた目は闇を一層深く感じさせる。

 僕は違う。

 額に浮いた汗でうねる前髪を後ろに撫で付け、熱気で蒸れた右目を晒す。

 光に嫌われた役立たず。

 けれどこいつ《右目》は、暗闇だけは見通せる。

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