第35話

「ふざんけんなよテメェ……!」

「ふざけてるのは先生の方でしょう。当たったらどうするんですか」

 軽口を叩きながら、後ろ手で本棚からハードカバーの単行本を抜き取る。

「うらあああああ!!」

 読書家として許されざる行いだが、命には代えられない。

 不細工な咆哮を上げながら突撃する吾亦紅の顔に本を投げつける。平時なら簡単に避けられただろうが、今は視界がままならない。綺麗な縦回転で鼻頭に直撃し、吾亦紅の足が止まる。

 正面には立たない。大きく弧を描くように回り込み、手近な椅子を持ち上げて横薙ぎにする。頑丈な四つ足が吾亦紅の後頭部と背骨を打ち据えた。確かな手ごたえと共に、両腕にじんと痺れが走る。

 威力は充分。しかし、振り回すには重すぎる。早々に手放し、次の得物を探しに後退する。

 花瓶を見つけるが、血の出やすい割れ物は視覚が活きてこそ効果を発揮する。分散しやすい痛みより、衝撃力を重視したい。

 迷っているうちに吾亦紅が距離を詰めてきた。目が暗闇に慣れ始めてきているのかもしれない。朧げではあるが、僕の位置を把握している足取りだ。

 立ち回りを変える必要がある。テレフォンパンチを屈んで避けて、本棚の下段から図鑑を掴む。

 立ち上がりざま、下顎に向かって背表紙を振り上げる。がちんと歯がぶつかる硬い音がして、吾亦紅の頭がのけ反った。がら空きの鳩尾に前足底から蹴り込む。

 重い。飛ばすつもりで体重を乗せたが、吾亦紅は蹈鞴を踏んで留まった。

 やはり、打撃では勝てない。かといって、柔術を仕掛けられるほども技術はない。仮に極められたとしても、力で簡単に振り解かれてしまう。

 次の一手を悠長に考えていたら間合いを見誤った。

 脇腹を狙って飛んでくる吾亦紅の拳は想定より足先一つ分近い。咄嗟に脇を締めて肘で受ける。

「あ」

 甘かった。防げはしたが衝撃は殺せず、壁際の本棚まで吹き飛ぶ。体側が派手に衝突し、頭上からばらばらと文庫本が落ちてくる。

 肩が痛い。頭が痛い。だが、痛みに呻いている暇はない。

 本の雨に隠れて、直突きが迫っている。腕力にかまけたぶん回しではなく、顔面を打ち抜くコンパクトな一撃。

 寸前で避け、横っ飛びで壁際から逃れる。直後に吾亦紅の膝が僕のいた所に突き刺さり、本棚はみしりと悲鳴を上げた。

「まいったな」

 もう少し戦えるものと思っていたが、持ち堪えられそうにない。

 焦りで徐々に冷えてきた僕と違い、吾亦紅の怒りは温度を上げている。壁や柱もお構いなしに殴りつけるので手はぱんぱんに腫れ上がっているが、それでも勢いは衰えない。血や痛みで止まることはないだろう。

 目を狙うべきか。いや、現実的でない。体格差が大きすぎる。間合いを詰めることすら命懸けなのに、急所を狙うなんて芸当が僕にできるはずがない。怒りと興奮で誤魔化されていた脳が絶望的な戦況を認識し、忘れていた恐怖が膝に表れる。

 今なら烏羽さんが眠れなくなった理由が分かる。一方的な力を持つ存在がすぐ隣を歩く事実は、一度気づいてしまうとたまらなく恐ろしい。社会に生きる人間とはいえ、ひと皮を剥けばただの動物だ。どれだけ気丈に振舞おうと、自分より強い力に抱く本能的な恐怖を捨て去ることはできない。

 赤錆さんも、怖かっただろうな。

「……はは」

 そうだ。怖い。当たり前だ。

 それでも僕は、立ち向かうと決めたんじゃないか。

 ちっぽけな勇気と共に足を踏んじ張り、べた足で広く構える。

 左拳は前に、右拳は顎の横に。基本に倣った、打ち合うための構え。

 逃げ回るのはもうやめだ。腹を括ろう。

 根を張るように腰を落とした僕の威気を感じたのか、吾亦紅はぶるりと体を震わせる。陳腐な脅し文句はなく、純粋な殺意だけを滾らせ球形になるほど拳を固く握り込む。

 来る。

 だん、と床が砕けそうな踏み込みと共に、吾亦紅が右ストレートを放った。

 速度はあるが、狙いは分かりやすい。腰を入れて捌く。だが、吾亦紅の姿勢は崩れない。すぐさま左のストレートが飛んでくる。半歩下がって点をずらし、捌き切る。

 尚も吾亦紅の攻勢は続くが、連打は息が続かない。右、左、右と繰り返すうちに吾亦紅の顎が浮いた。左の直突きを叩き落とすのと同時に前に重心を乗せ、カウンター気味に掌底を入れる。

 綺麗に入ったが、この程度では意識は断てない。当然のように打ち下ろされる吾亦紅の右拳を上体の傾きを使って避け、口元目掛けて左肘を交差させる。

「ブギッ」

 前歯を砕いた。揺らいだ隙を狙って肩から体当たりをかます。吾亦紅はすぐさま押し返そうと踏ん張るが、力比べに付き合うつもりはない。

 左足を軸に回転して後ろを取る。勢い余ってつんのめる吾亦紅の背中を蹴り押すと、顔面から本棚に突っ込んだ。

 追撃の手を休めるな。

 無防備な後頭部に肘を落とす。危険な一撃に吾亦紅の体は沈むが、膝立ちの姿勢で耐えた。無我夢中で振り回された裏拳を後ろに飛び退いて避ける。

 間合いを空けて視界が開けた瞬間、窓の外に赤い光がちらつくのが見えた。

 助かった。待ち望んだ光に数瞬意識を奪われる。

 その隙を狙われた。吾亦紅が反転し、猛然と掴みかかってくる。気の抜けた足はすぐには動かない。胸倉を絞られ、そのまま床に叩きつけられる。

「あぎっ」

 側頭部を打ち付けた。目の奥で光が飛ぶ。辛うじて吾亦紅の手首を握るが、何の抵抗にもならない。無理矢理引き起こされて壁に押し付けられる。

「ブハァ、ようやく捕まえたぞクソガキがぁ」

 吾亦紅の両手が首を握る。痛みと苦しさで泣きそうだが意識はある。頸動脈でなく、気道を潰されているのだろう。烏羽さんの教えでは後者の方が猶予はあるらしいが、命の危機に変わりはない。耳の奥で血流の音が響く。

「けぇ」

 体重をかけられ、死にかけの野鳥みたいな嗚咽が漏れる。意識を失うより先に頸椎をへし折られそうだ。

 まあ、それも仕方がない。元々勝ち目はなかった。

 生き物は大きくて重い方が強い。自然界において当たり前の摂理は、いかに技術を磨いたところで簡単に越えられるものではない。こつこつ攻撃を積み重ねたとしても、体格差にかまけたぶちかまし一発で形勢は逆転する。

 右目にしてもそうだ。瞳孔が開き切っている分、光を多く取り込めるが、人間を超えている訳ではない。急な暗がりにもすぐに順応できるのは利点だが、鮮明に見ることはできず、時間が経つにつれ焦点の調節機能の弱さが露呈する。

 僕の体は悲しくなるほど闘いに向いていない。

 それでも、吾亦紅の罪を暴くにはこれしか思いつかなかった。赤錆さんを守るには、やりたくもない芝居をうち、負けの見えた闘争に身を投じなければならなかった。

 教師が生徒に暴力を振るったという事実を作るために。

 子供の証言なんてのは所詮、大人の一言には敵わない。どれだけ必死に訴えようと証拠がなければ誰も動けない。

 しかし、誰の目にも明らかで、無視できない証拠があれば。

 一度白日の元に引き摺り出せば、力の弱さは優位に働く。教師が欲望に任せて生徒を害し、暴力まで振るったとなれば世間は決して許さない。吾亦紅の企みはすべて暴かれ、厳罰が下される。

 僕が犠牲になるだけで赤錆さんの日常は守られる。

「がっ……き」

 首に突き刺さる親指が仙骨を押し上げる。頭蓋に響く血の音が段々と遠くなり、痛みが麻痺して薄れてくる。意識は白い靄がかかったようで、考える余裕がなくなってきた。

 いよいよすべてを手放そうと思った瞬間、視界の端でが動くのを捉えた。

「やめろぉっ!!」

 赤錆さんは逃げていなかった。

 足は震え、ぼろぼろと涙を流しながら、それでも強く吾亦紅を睨みつけ、スマートフォンを突きつけている。

「ぜんぶ、ぜんぶ録音した! おまえはもう終わりだ!」

 ならば、ばれないように隠し持たなければ意味がない。そんなことは彼女も分かっているだろう。

 情けない。結局、助けられてしまった。

「てぇいぃ。やっぱり先生を待っててくれたんだなぁ」

 吾亦紅が粘ついた笑みを浮かべて赤錆さんに振り向く。首の締めが僅かに緩んだ隙を狙い素早く手首を極めるが、極めきれない。片手でぞんざいに投げられ、背中が円卓の縁に衝動する。

 声が出ない。体が動かない。吾亦紅が暴力と性欲で昂った瞳をぎらつかせ、赤錆さんへ一歩踏み出すのが見える。

 だが、焦りはない。

 彼女のスマートフォンが放つ光。それが、最後の道標になった。

「動くなゴラアッ!!」

 窓が粉砕しそうな勢いで開かれ、同時に強烈な怒声が響き渡る。次いで現れたのは、二メートル近い巨躯。嘘みたいにマッチョな体。季節外れの黒いコートをたなびかせ、軽やかに窓枠を乗り越える。

 正義の味方、烏羽からすば慶次けいじがやってきた。




「なんだテメ──」

 吾亦紅が言い切るより早く慶次さんは動いた。

 闘牛の如き勢いで横腹にぶち当たる。吾亦紅の体格は子供には脅威だが、身長は平均的で体重のほとんどは贅肉によるものだ。慶次さんの鋼の如き筋肉を前になす術もなく、一方的に組み伏せられる。

「応援!!」

「は、はいっ」

 慶次さんが一足遅れてやってきた巡査二人に檄を飛ばす。一人が肩に装着した無線機で応援を要請し、もう一人が吾亦紅の手足を上から押さえつけて完全に床に固定する。

「ぐおぁぁ!!」

「動くなクソが!! おい! ワッパかけろワッパ!」

「はい!」

 すごい。映画みたいだ。

 目前で繰り広げられる大捕物にただ圧倒される。魅入っているうちに続々と応援の警察官が到着し、夜の闇は一転、パトランプと投光器の光で昼より明るく照らされた。吾亦紅を抑える警察官の数も三人、四人と増えていき、どうやっても逃げ出せないほどに雁字搦めになっていく。

「暴れんなこの野郎!」

 それでも吾亦紅は抵抗をやめない。殺到する警察官に隠れて姿は見えないが、くぐもった呻き声だけは聞こえてくる。

「あ、やべ」

 だが、警察官の一人が短く声を上げたのを最後に、吾亦紅の呻きは途絶えた。

 誤って、大事な何かが潰されてしまったのかもしれない。しばらくして救急車が到着すると、彼は数人の警察官と共にどこかへ搬送されていった。

 いろいろあったが、とにかく終わった。

 警察が介入するだけでこうも簡単に決着がついてしまうと、僕の苦戦は何だったのかと嘆きたくもなるが、何はともあれ事態は収拾したのだ。

 ひと通りの現場説明を終えたらしい慶次さんが僕に向き直り、ずんずんと大股で近づいてくる。心なしか吾亦紅に体当たりした時より顔が怖い。

「何考えてんだオマエは!!」

 気のせいじゃなかった。

 虎の咆哮のような叱責を浴びせられ、髪から産毛に至るまでが逆立つ。びきびきに血管が浮き出た怒り顔はぶち切れた烏羽さんと瓜二つだ。

 けれど、仕方がない。慶次さんの怒りは尤もだ。夜中に突然、娘の同級生から呼び出された挙句、面倒ごとに巻き込まれたのだから怒鳴り声の一つも上げたくなる。

 そもそも、ここまで大事になったのは僕の雑な計画が原因だ。

 赤錆さんを見つけた時に思い描いた予定では、慶次さんを経由してお巡りさんを呼んでもらい、一旦は図書室に避難、先に赤錆さんを逃して、お巡りさんが到着した後は一緒に全裸の吾亦紅を見つけ現行犯逮捕してもらい、ゆっくり余罪を洗い出してもらうつもりだった。

 誰も体を張る必要はなかった。なのに、僕が戸締りの確認を疎かにしたばかりに、何人もの警察官が出張る羽目になってしまった。

 すぐに謝りたい。しかし、喉が潰れて声が出ない。か細く息を吐くのが精一杯の僕に焦れた慶次さんが更に詰め寄ってくる。

 叩かれる。吾亦紅よりも大きく、角ばった手のひらに思わず目を瞑るが、恐れた痛みはやってこない。代わりに、頭が柔らかな温みに包まれる。

「やめてください。大切な人なんです」

 赤錆さんだった。僕の頭を庇うように、ぎゅっと抱きしめてくれている。

「あたしの、大切な人なんです」

 表情は見えない。ただ、頬に落ちてくる大粒の雫が切実さを伝えてくる。

 少女が必死に訴えかける様を見て、流石の慶次さんもたじろいだ。深く溜め息が吐くと、ごつい手のひらで優しく撫でられる。

「もうこんな危ないことはしないでくれ。君にもしものことがあったら、薫子になんて言えばいいんだよ」

 ごめんなさい。

 声が出ないので、赤錆さんの胸から顔を離して目だけで謝る。気持ちは伝えられたようで、慶次さんの口元がふっと和らいだ。

「二人とも、よく頑張ったな。すぐに家に帰すから、もうちょっとだけ我慢してくれ」

 そう言って、慶次さんは踵を返し警察官達に合流する。逆光に目を眩ませながら、それでも頼れる背中に見惚れていると、再び赤錆さんに抱き締められた。抱き返して気の利いた言葉のひとつでもかけられれば格好がつくのだろうが、生憎体は動きそうにない。

 痛みもそうだが、眠気の方が酷かった。普段ならとっくに寝ている時間だ。安心して最初に思い出すのがそれとは、僕の体は大概、能天気にできているらしい。

「包介?」

 すぐ耳元にあるはずの赤錆さんの声がやけに遠く聞こえる。彼女の体温は朝方の布団のように心地良い。ああ、これはもう寝てしまうな、とぼんやり思う。

「包介!? しっかりして!」

 がくがく揺さぶられるが脳にはちっとも響かない。むしろ揺籠のように感じてしまい、更に眠気が加速する。

「誰か! 誰か──」

 赤錆さんの悲痛な声を子守唄に、僕はゆっくり目蓋を下ろした。

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