第36話
吾亦紅先生は勾留された。
警察の前で児童に暴力を振るったのだから当たり前だ。また、後で聞いた話だが、吾亦紅先生を取り押さえた際に警察官が誤って彼の睾丸を潰してしまい、牢屋ではなく警察病院に搬送されたらしい。状態はかなり悪く、回復は見込めないとのことだ。
同じ男として同情できなくもないが、漢の風上にも置けない真似をしたのだから自業自得だろう。
そういう訳で吾亦紅先生は現在入院中で、動けるようになればすぐに裁判にかけられる。慶次さんの見立てでは実刑は確実だそうだ。出所したとしても、赤錆さんのお父さんは法律の専門家である。軽はずみに手を出せる相手ではないし、赤錆さんの安全は確保されたと思っていいだろう。
ということで事態は一件落着、雨降って地固まる、みんな幸せ明日からまた頑張ろう、となれば良かったのだが、僕はなぜか入院していた。
体のどこにも異常はない。強いて挙げるなら、腫れぼったい左頬と青痣のできた前腕、首に薄っすらと残る手形ぐらいか。
けれど、ただ眠たくて寝落ちただけの僕は、周りから見ると重篤な状態に見えてしまったらしい。その日のうちに病院に担ぎ込まれ、CTスキャンやらレントゲンやら、様々な検査を施されたようだ。
費用はどのくらいかかるのだろうか。慶次さんは吾亦紅先生が全額負担することになるだろうから気にしなくていいと言っていたが、彼が義務を果たすとは思えない。なにせ、中学生を襲うことに喜びを見出す異常者なのだ。常識を守るだけの道徳が備わっているか、非常に怪しい。
そうすると、お金の出所は当然我が家からとなる。医療費で路頭に迷うことは流石にないが、それでも予定外の出費に変わりはない。
「はあ」
声を伴う溜め息が腹の底から吐き出される。なんとなしに見やった窓の外は青々とした空が広がっていて、鬱屈した僕の心を浮き彫りにする。
学校では五時間目が始まる頃だろうか。この時間帯は給食後の満腹感も作用して、いつもは抗い難い眠気に襲われているのだが、今は目が冴えて仕方がない。
病院食を食べたばかりで腹は膨れているのに。もしかしたら、脳を覚醒させる怪しい成分が含まれていたのでは、などと突拍子のない空想を浮かべてみたが、現実味のなさが馬鹿らしくなり思索は一分も経たず打ち切られた。
暇だ。
一人の時間の尊さを嘯いているくせに、いざ直面すると途端に有り難みを感じなくなる。無意味に両足を突っ張ってみたり、眼球をぐるぐる回してみても持て余した時間は一向に減らず、遂には真顔で前を向くしかなくなった。
「暇してるね」
横面に掛けられた声に音もなく驚く。首を痛めそうな速さで振り向くと、榛摺さんがしてやったりという表情で立っていた。彼女の手にはコンビニの、恐らくは下の売店のビニール袋が提げられている。
「差入れ。一緒に食べよう」
榛摺さんはチョコレート菓子の封を開けると、一つ摘んで僕の口に押し込んだ。分かりやすい甘味に、病院食に慣らされた舌が喜びの声を上げる。
「病院って暇だよね。あ、でも、今日には退院できるんだっけ。メアリが言ってた」
「はい。夕方には退院できるみたいです。……ええっと、桑染さんは来てないんですか?」
「おっ、なんだいキミは。お姉さんだけじゃ不満だっていうのかい」
「違いますよ。桑染さんが迎えに来てくれる予定なので」
退院にかかる諸々の手続きは、病院に来られない母さんに代わって桑染さんがやってくれることになっている。直接連絡できれば楽なのだが、あいにく僕の携帯電話は吾亦紅先生に破壊された。いつもは震える電話を鬱陶しく感じていたが、こんな時ばかりはもどかしく感じてしまう。
「仕事、忙しいみたいだよ。でも、夕方までには絶対間に合わせるってすごい顔でパソコン睨んでた」
やはり、迷惑をかけている。
僕が傷一つなく吾亦紅先生を制圧できたら、こんなことにはなっていなかった。そもそも、赤錆さんの悩みにもっと早く気づけていたら、彼女を危険に晒すこともなかった。自分の至らなさが恨めしい。
たらればの後悔に耽っていると、突然フラッシュが焚かれる。いつの間にか、榛摺さんがこちらにスマートフォンのカメラを向けていた。
「メアリに送ってあげよう」
「ええっ、恥ずかしいからやめてくださいよ」
「もう返信きた。すぐに慰めてあげるからね、だって」
榛摺さんのスマートフォンには、興奮したうさぎのスタンプと一緒にビックリマークだらけのメッセージが届いていた。無駄に急かしてしまったみたいで非常に心苦しい。
ますます俯く僕の鼻先を、榛摺さんが指先で擽る。
「そんな申し訳なさそうな顔しない。みんな好きでやってるんだから。お見舞いきてくれてありがとう、って素直に喜べばいいの」
「……はい」
「それで、なにがあったの? ワタシもメアリも、よく知らないんだけど」
「ええっと、そうですね。どこまで話していいものか」
慶次さんからは一応、事件が落ち着くまでは他言しないよう言い含められている。僕が痛い目をみただけなら脚色を加えて笑い話にもできるが、赤錆さんのことを考えると軽はずみに扱うわけにもいかない。
「ね。ちょっとでいいから教えてよ」
言葉に迷う僕を見て、榛摺さんも大方の事情に察しはついているだろう。それでも引き下がるつもりはないようで、ベッドに腰掛けぐいぐい間合いを詰めてくる。
「ほら。チョコあげるから」
「いやあ、あはは。ちょっと難しいかなあ、なんて」
「いいから。お食べ」
「むぐ」
「話してくれるまで詰め込むからね」
質問は拷問に変わっていた。
最初は優しかったはずの目元は、嗜虐的な愉悦に歪んでいる。次の一粒は僕が噛み砕くのを待ってから押し込まれるので喉を詰まらせる心配はないが、口の中に広がる甘ったるさが苦痛に感じてきた。観念して打ち明けようにも、喋ろうとする度にぽろぽろとビスケットの欠片が落ちてしまう。
「うお゛っほん」
されるがままになっていると、入口側から男性の咳払いが聞こえた。口元を隠して慌てて振り返る。
「やあ、包介くん。……お邪魔だったかな」
大人の男女と子供の影。
出入口には赤錆さんのご両親である
「じゃあワタシはこれで。またね、包介クン」
赤錆さん一家を見るや否や、榛摺さんは早々に立ち去ってしまった。彼女の社交性を以てしても当事者たちが立ち合う場は居辛かったのだろう。むしろ、その素早い判断力こそが高いコミュニケーション能力に結びついているのかもしれない。
英さんは退室する榛摺さんを見送り、気まずそうに頬を掻く。しかし、隣の椎さんは対照的に、興奮した様子で赤錆さんに話しかけていた。
「あらー! 包介くんってあんな綺麗な女の子とも知り合いなのね。丁も知ってる人?」
「……榛摺さん。包介と同じマンションに住んでる大学生」
「まあまあ! 最近の子は進んでるのね」
マイペースに見えるが、多分違う。椎さんは矢継ぎ早に話し続けながらも横目で僕の様子を伺っている。何とかして空気を和ませようとしてくれているみたいだ。
「すまなかったっ!!」
折角の心遣いに便乗しようと重い腰を上げかけたところで、英さんに頭を下げられた。深い謝罪を示す直角のお辞儀である。
当惑していると、椎さんがすっと目を細めて英さんの脇腹を突く。
「ちょっとパパ。丁から話させるって決めてたじゃない」
「いや、でもさ、やっぱりこういうのは、親もけじめをとらないと」
「ああもう。ごめんね包介くん。私達、下で時間潰してくるから、しばらく丁とお話ししててくれる?」
「あっ、はい」
「いや、ママ。まだちゃんと謝れてない──」
「いいから行く」
椎さんは言い足りなそうな英さんの背中を押して、強引に出て行った。
ぽつねんと立ち竦む赤錆さんを一人残して。彼女は病室に入ってから微動だにせず、じっと床を見つめ続けている。
「椅子あるよ」
来客用の丸椅子を引っ張って座るよう勧める。
赤錆さんは視線をそのままに小さく頷くと慎重な足取りで近寄り、浅く腰を掛けた。
「怪我しなかった?」
「あたしは、大丈夫。でも、包介は」
「僕も平気だよ。烏羽さんの前蹴りの方が痛いかな」
「……ちゃんと、謝らないと」
「うん、心配かけちゃったからね。慶次さんにもあらためてお礼言いたいし、今度一緒にお邪魔しようか」
「ちがうっ」
目が合う。けれどそれは一瞬で、彼女はすぐに俯いてしまった。スカートの折り目を固く握り、ぎゅっと身を縮こませる。
「それもあるけど、でも、他にも謝らないといけないこと、あって」
「僕の右目の話?」
「……うん」
しばしの沈黙のあと、赤錆さんは短く息を吸い、ゆっくりと顔を上げた。焦茶色の瞳は涙が滲み頼りなく揺れ動いているが、口元は悲痛なほどの決意を湛えている。
「濃墨が言ってたのは、ほんと。あたしが、包介を突き飛ばした」
そうか。と、軽く受け止められたら格好がついただろう。
けれど、簡単に済ますには多くの人を巻き込んでしまったし、理由を聞かずにいられるほど僕は大人じゃない。
「僕が怒らせちゃったのかな」
「違う。ぜんぶ、あたしがわがままなせい。包介が周りと仲良くなってくのが許せなくて、それで」
独占欲。赤錆さんのそれは人より少し強いのかもしれない。
だが、非難するつもりはない。僕も赤錆さんが知らない男の人と楽しげに話していたら、きっともやもやする。特別な関係でなくとも、気になる異性を独り占めしたいという欲求は否定できない。
そんな風に思っていたら、金糸の髪を靡かせる少し内気な彼女の姿が頭を過ぎった。以前から考えていたことが口を衝いて出る。
「もしかして、図書館に行くとか言ってなかった?」
「……うん。友達と、約束があるんだって」
事故に遭った日と大学の合格発表の時期が近いから予感はあった。が、実際にそうと分かると、尚更やるせない気持ちになる。
僕は桑染さんとの約束の日、車に撥ねられた。
間の悪いことだ。たった一日遅れるだけで、桑染さんが傷つくことはなかったのに。
「……包介?」
眉間に皺が寄っていたのだろう、赤錆さんは恐々と僕の顔色を伺う。
不運を嘆くのは今ではない。愛想笑いで続きを促す。
「……包介が倒れて、血もいっぱい出てて。それで、怖くなって逃げた。それからずっと、死んじゃってたらどうしようって、ずっとずっと怖くて。でも、誰にも言えなくて」
「うん」
「次の日、先生に聞いたの。何にも知らないふりして、包介くん、なんで休んでるんですかって。そしたら、車に撥ねられて入院してるけど、しばらくしたらまた一緒に遊べるよって言ってくれて。だから、包介が学校に来たら、ちゃんと謝ろう、って決めた。だけど」
スカートを握る力が強くなり、手の甲に細い骨が浮き上がる。赤錆さんの体が固く、小さくなっていく。
「包介、あたしのこと、覚えてなかったの。あたしだけじゃなくて、学校の人ぜんぶ」
「覚えていない? どういうこと?」
「あたしも、わかんないよ。でも、退院した包介は、はじめましてって挨拶したの。最初は、いじわるされてるんだと思った。でも、いつまで経ってもそんな調子で、性格も、あたしの知ってる包介とは全然違ってて」
幼少期の記憶だ。昨日の昼食も覚えていないのだから、忘れること自体は不思議ではない。記憶喪失などというのは、物忘れを大袈裟に表現しただけと、そう思っていた。
だが、桑染さんに赤錆さんと立て続けに指摘された以上、真剣に考えなければならないのだろう。思い出せないことに違和感さえ覚えないとしても。
いずれにせよ、この場で究明できることではない。目元を揉みほぐしてから、赤錆さんに向き直る。
「あたし、思っちゃったの。嫌われなくて済む、また一緒にいられるって。だから、だからあたしは」
訥々とした彼女の語りは恥いるように尻すぼみになっていき、ついには消えた。病室に静寂が響き、赤錆さんの鼻を鳴らす音だけが小さく木霊する。
「手、出して」
思いの外、冷たい声が出た。赤錆さんは唇をきつく結び、そろそろと右手を差し出す。
「ひ」
僕が長ったらしい前髪を掻き上げると、彼女は静かに息を呑んだ。
昼下がりの強い日差しが視界を白く塗り潰す。激しい明滅に眩暈がしそうだが、気合いで目蓋を開き続ける。
「触って」
言って、変態みたいな台詞だなと後悔するが、取り繕うつもりはない。状況が飲み込めず戸惑う赤錆さんの手首を掴んで、僕の右目の近くまで誘導する。
赤錆さんの手のひらが恐々と傷跡に触れ、頬の形に沿ってぴたりと貼り付く。皮膚が薄い分、彼女が近い。湯たんぽみたいな体温が瞬く間に広がって、眼球が温もりに包まれる。
「右目、ちゃんとついてるだろ」
熱が伝わる。涙も出る。光に多少過敏だが、見えなくなったわけじゃない。
「傷が残ったのは、残念だと思う。でも、
結果論だとは思う。偶然上手くいっただけで、暗闇を歩くのも、吾亦紅との対決も、得られた利益は僅かなものだ。日々の不便とは釣り合わない。
それでもあの時、あの場所で、これ《右目》に意味は与えられた。
「僕の右目は、君のためにあったんだね」
その一言をきっかけに、彼女の瞳から玉の涙が溢れた。ぼろぼろと止め処なく零れ落ち、シーツに大きな染みを作る。
「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。あたし、あたし──」
「いいんだ」
赤錆さんの顔がくしゃくしゃに歪む。何もかもを曝け出す子供らしい泣き顔だ。
「もういいんだ」
それでも僕は、誠実な雫に濡れるその表情を綺麗だと思った。
「ふわあ」
赤錆さんの涙が乾いた頃、不意に大きな欠伸がやってきた。たっぷり一秒をかけて吸い込んで、体全体で吐き出す。
「眠いの?」
「うん。さっきまでは目も冴えてたんだけど。気が抜けちゃったみたい」
つい先ほどまで、眠れず暇を持て余していたというのに。
目元を強く擦って眠気を追い払おうとするが、少し間が空けばまた目蓋が下がってくる。
「寝ても大丈夫だよ」
「え? でも、せっかく来てくれたのに」
「ううん。いいの」
赤錆さんが柔らかく微笑む。本当ならセロテープを使ってでも目を開いていなければならないところだが、ぼやぼやした頭に抗う術はなく、あっさりと誘惑に負けてしまった。
「じゃあ、ちょっとだけ」
ベッドに仰向けになり目蓋を閉じる。それだけで堰き止められていた眠気が一気に押し寄せ、思考がとっぷりとぬるま湯に浸かる。
「おやすみ」
赤錆さんにさわさわと顔をなぞられるが、まったく気にならない。むしろ、すべすべの指の腹が心地良く、より深い睡眠へと導いていく。額、眉、頬と指の軌跡を追ううちに意識が曖昧になり、唇に辿り着いたところで深い穴に落ちて──
「うわあああ!!」
「まあー!!」
突然の叫び声で覚醒する。
咄嗟に入口側を振り返ると、英さんが青い顔で固まっていた。椎さんはというと、両手を頬にあて、くねくねと体を揺すっている。
いったいなにが起こったんだ。
時計を見やると、目を瞑ってから十分後を指している。完全に寝落ちていたらしい。
しかし、高々十分程度の時間で、大人が絶叫するほどのことが起きるとは思えない。
目を瞬かせながら上体を起こそうとしたところで、腰のあたりの重さに気がつく。
「あ……」
赤錆さんが跨っていた。
見下ろす視線と見上げる視線が絡み合うと、彼女は恥ずかしそうに顔を背ける。光の加減か、桃色の唇がてらてらと輝いている。
「いいよいいよ! ママそういうの好きよ!」
赤錆さんがいそいそと僕から降りると、すぐさま椎さんが駆け寄って彼女を抱きすくめた。
ぐわんぐわんと揺さぶられ、脳震盪が起きるのではないかと心配になるくらい頭が上下しているが、赤錆さんは僕から視線を外さない。真っ赤な顔でじいっと見つめてくる。
僕の口に何かついているのか。指先で唇をなぞると、妙に生っぽくてぬめぬめする。涎を垂らしてしまったかもしれない。
「こっ、この前まで小学生だったのに! パパは許しませんよ!」
「いいじゃない。包介くんなら安心でしょ?」
「だから駄目なんだ! そこら辺のヤツなら突っぱねられるのに、包介くんなら認めるしかなくなるだろ!」
英さんが悲痛な叫び声を上げる。きつく睨みつけてきたかと思えばすぐに眉毛は八の字に歪み、終いには瞳を潤ませる。もともと賑やかな人だけれど、今日は起伏が激しすぎて面白さより恐さが勝る。
「あの、ごめんなさい」
とりあえず謝るのは悪い癖だ。空っぽの謝罪は英さんの感情を逆撫でするだけだった。一周回って表情を失った英さんは据わった目で僕を凝視すると、上体を全く動かさずにつかつかと歩み寄り、すぐ鼻先まで顔を近づけてくる。
「娘を守ると誓えるか」
深刻な口調に反射で頷きそうになるが、冷静に考え直す。
僕に赤錆さんを守れるか。正直、約束はできない。現に、今回の一件も慶次さんがいなければどうにもならなかった。赤錆さんが僕を置いて逃げていたら、首を掴まれた時点で死んでいただろう。守ります、などというのは強い人だけに許される宣言で、病床で寝転ぶ男が口にできる言葉ではない。
だが、はっきりしたことはある。
「守れるかは約束できません。でも、彼女のためなら戦えます」
勝ち目がなくとも、立ち向かうことだけはできる。
求める答えではないだろうが今の僕の精一杯を答えると、英さんの瞳に光が灯った。両手で強く手を握られる。
「娘を頼む」
「ちょっとパパ! 勝手なこと言わないで!」
感慨深げに頷く英さんに赤錆さんが噛み付いた。椎さんを振り解き、英さんと僕との間に無理矢理割り込む。
「ええ? だって丁は、包介君のことが」
「自分で言うから黙ってて!」
困惑する英さんを鼻息荒く押し除けて、赤錆さんは僕に向き直る。口は真一文字に引き絞られているが、蒸気した頬は触れたら火傷しそうなほど赤々と染まり、目元は切なげに蕩けている。
初めて見る表情だ。事情は分からないままだが、雰囲気に呑まれて姿勢が正される。
一体、何を告げられるのだろう。
先ほどまでの騒々しさから一転、病室らしい静寂が室内を包む。こちこちと秒針が時を刻み、唾を飲み込む音がやけに大きく聞こえる。
「言わないの?」
沈黙を破ったのは椎さんだった。
見透かすような、それでいて子が親を見守る優しさに溢れた笑みを浮かべている。赤錆さんはしばらく黙秘を続けたが、集まる視線に観念して固い口を開く。
「……早い者勝ちみたいなのはイヤ。選んでくれるまで待つ、って決めたの」
意味はよく分からないが、とにかく、先延ばしにはなったみたいだ。張り詰めていた糸が緩み、肩の力がだらりと抜ける。
「寝ている隙にしたくせに、かっこいいこと言っちゃって」
椎さんが腰に手を当て、赤錆さんを覗き込む。親子でよく似た意地悪な顔だ。
「あっ、あれは仕方ないの! 我慢できなかったんだもん!」
「まあ、いやらしい」
「そうだそうだ。パパはそんな風に育てた覚えないぞ」
「パパうるさい!」
「うるさいとはなんだ。パパに優しくできない女の子はモテないぞう。なあ、包介君」
「え? ええっと、まあ、冷たいよりは優しい方が良いとは思います」
「包介も答えなくていいの!」
「えー? これから長い付き合いになるんだから、ママも包介くんの好み、知りたいなあ」
「もう! 二人とも出てって!」
「二人きりで何するつもりだ?」
「まあ、いやらしい」
「わ゛あああ!!」
赤錆さんが絶叫し、二人がけらけらと笑う。
騒がしくも微笑ましい家族喧嘩は看護師さんが鬼の形相で飛び込んでくるまで続き、僕の口に張り付くぬめぬめの正体は聞けずに終わった。
赤錆さん一家を見送り、もうすぐ午後五時を迎えようというところで、どたどたと重く忙しない足音が聞こえてきた。間を置かず、病室の入り口の角から綺麗な金色の髪がひょっこりと顔を出す。
「お、おまたせっ」
桑染さんだ。今日はいつもの可愛らしい服ではなく、グレーの地味なパーカー姿である。身嗜みを整える時間も惜しんで駆けつけてくれたのかもしれない。
「ごめんなさい。お忙しいときにこんなこと頼んでしまって」
「ぜ、ぜんぜん大丈夫。でも、久しぶりに走ったら、すごい汗かいちゃった」
桑染さんはふうふうと息をしながら額に流れる汗を拭う。代謝がいいのだろう、汗が目立ちやすい服装もあって、彼女は全身びしょ濡れになっていた。
「廊下は走らない!」
「ひいっ」
赤錆さん一家の騒動から、僕の関係者は病院に警戒されているらしい。桑染さんに追いついた年配の看護師さんが彼女の真後ろで怒鳴る。
「ひいい」
大きな体を縮こませ、かさかさと僕に這い寄る桑染さんを見てやり過ぎたと感じたのか、看護師さんは疲れた息を吐くと目元の険を和らげた。
「もう玄関、閉まっちゃうから。早く出ちゃいなさい」
「はい。お世話になりました」
「お大事にね。若いからって無理しちゃダメよ」
荷物を肩に掛けて立ち上がり、吃る桑染さんの袖を引く。ここまで走ってきてもらったのだから小休憩を設けるべきだが、病室では彼女も落ち着けないだろう。
薄暗い廊下に出て、早足でエレベーターに向かう。面会の時間は終わり、利用者はほとんどいない。ボタンを押すとすぐに到着した。
「正面から出られるんでしたっけ」
乗り込みながら尋ねると、桑染さんはこくりと頷く。
エレベーターは人との距離が近くて苦手だが、今はそれほど不快ではない。病院のが大きめに作られているのもそうだが、僕自身が桑染さんに慣れたというのが大きい。彼女は僕の真横にぴったりと張り付いているが、以前のような緊張を覚えることはなかった。
程なくしてエレベーターは一階に着き、ステンレスの扉が開かれる。
「帰りは地下鉄でよかったですか?」
「うん。……わたしが運転できたらよかったんだけど。ごめんね」
「いえいえ。街中に住んでたら、あんまり使う機会ないですよね」
二人並んで外に出て、正面の出入口まで直進する。桑染さんの歩幅は僕よりずっと広いが、ちょこちょこ歩きで合わせてくれている。その姿が妙にいじらしく、思わず微笑みが溢れてしまう。
「な、なに? わたし、なにか変だった?」
「なんでもないです」
「絶対なんかある!」
「いやあ、桑染さんは昔からそんな感じだったのかなあと思いまして」
「あー! 馬鹿にした!」
「馬鹿にはしてないですよ。可愛いなと思っただけで」
「ん゛っ゛」
太く喉を鳴らして押し黙る桑染さんを無視して正面玄関の自動ドアをくぐる。外の空気が気持ちいい。病院の中が澱んでいるとまでは言わないが、薬品の臭いが漂っているせいか、どうにも息が詰まってしまう。
「暗くなる前に帰りましょうか」
空はまだ明るいが、昼よりも雲の流れが早い。最寄りの地下鉄の駅は歩いて五分ほどの距離にあるが、もたついていると雨に降られそうだ。
「包介くんはずるい。すっごくずるくなった」
寄り道せずに歩き続け、横断歩道の信号に捕まったところで桑染さんがぽつりと呟いた。
上手い下手は別として、都合の悪いことは誤魔化す性格だ。昔と比べて狡くなったつもりはない。だが、桑染さんからは見え方が違うのかもしれない。
車に撥ねられる前の僕を知る彼女には。
「そういえば、五年前の約束についてなんですけど」
「思い出したの!?」
桑染さんはぱっと表情を明るくする。
残念ながらそうではない。首を振って否定すると彼女はあからさまに落胆する。
「でも、守れなかった理由は分かりました。約束の当日、僕は車に撥ねられたみたいです」
信号が青に切り替わる。気まずい空気を振り払うように気持ち早めの足取りで横断歩道を渡り切る。そこから数歩進んだ先で、桑染さんに袖を摘まれた。
「……麗美から聞いた。顔に大きい傷が残ったって」
長い前髪が陰になり表情は読めない。儚げな響きは、薄く赤みがかった空に溶けて無くなる。
「傷はもういいんです。それよりも大事なことがあって」
肺が一杯になるまで息を吸い、音を立てて吐き出す。足を止めて桑染さんに振り返る。
「僕は、事故に遭う以前の記憶を失くしたのかもしれません」
馬鹿馬鹿しい話だと、あらためて思う。
自覚があるわけでも医師に認められたわけでもない、周りの意見だけが頼りの雑な推論だ。本当は、人に話すべき段階にないのだろう。
それでも、桑染さんには伝えておくべきだ。
「僕は、桑染さんと過ごした時間を忘れてしまった。多分、思い出すこともないでしょう。貴女が知っている僕と今の僕は、別人みたいなものです」
彼女が僕に興味を持ったのは、昔の僕がいたからだ。それが失われた以上、桑染さんが僕に構う理由はない。
そもそも、彼女のようなお姉さんが、こんなちんちくりんの餓鬼を相手にしていることがおかしいのだ。昔にどういう付き合い方をしていたかは分からないが、今の僕には彼女を引き留めるだけの魅力はない。
「それでも桑染さんは、僕と友達でいてくれますか」
息が震える。一ヶ月前、桑染さんに対して同じような台詞を吐いたが、その時よりもずっと恐ろしい。目を合わせることすらできず、地面を見つめて彼女の言葉を待つ。
どれだけ足を止めていただろうか。緊張感が時間の間隔を曖昧にする。重たい雲が頭上に被さり、辺り一帯が暗くなる。
沈黙に耐え切れず顔を上げようとしたその時、そっと小指を繋がれた。
「包介くんはね、困ったときに作り笑いするの」
よく通る声。彼女はおとがいを逸らし、空を見上げている。
「運動するより、本を読む方が好き。宿題はちゃんとやる。それで、納得がいかないときはこめかみをトントン叩くの」
結んだ小指に力がこもる。桑染さんとの距離が少しだけ近づく。
「あとね。包介くんは、わたしをそのまま見てくれる。金髪で、目が青くて、体の大きいわたしと正面からお話ししてくれる」
彼女は僕に向き直る。金糸のような前髪の隙間から藍色の瞳が覗いている。
「服装とか言葉遣いとか、変わったところはあるよ。でも、人ってすぐに変わるものだと思う。わたしもネットとか、漫画やアニメの影響受けちゃうし、昨日と今日で言ってることが違う人、たくさんいるもん」
彼女は照れ臭そうに笑ったあと、胸が膨らむほどに深く息を吸う。
「でも、別の人になったわけじゃない。いろんな勉強をして、経験して、成長しただけ。たしかに包介くんは変わったけど、今も昔も、わたしが大好きな君のままだよ」
言い切るのと同時に、ぱちりと周りが明るくなる。街灯が一斉に点灯し、仄暗い道沿いが淡く照らされた。
僕は光に嫌われている。けれど、日の下にいる限り、照らしてはくれる。右目が潰れていても、記憶を失くしたとしても、平等に温もりは与えられる。
ならばせめて、彼女達が認めてくれているうちは。
胸を張りたい。背筋を伸ばして光を浴びたい。
僕は僕だ、と。
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