第26話
学校から十数分歩いたところで、青褐先生の自宅が見えてきた。四階建ての頑丈そうなアパートで、外壁は綺麗に塗装されている。
「つまんないとこに住んでるわね」
隣で赤錆さんがぼやく。住居につまるもつまらないもないと思うが、彼女は常に一言つけないと気が済まないだけなので突っ込むだけ無駄だ。聞こえないふりをして集合玄関に入る。
「うわ出た。オートロック」
女性の一人暮らしには妥当な防犯設備だと思う。赤錆さんと違って慣れている僕は尻込みすることもない。
パネルの前に立ち、今一度メモを確認する。壁に並ぶ郵便受けに表札は出ていないが、書かれた住所が間違えていることもないだろう。数字をひとつずつ慎重に押して呼び鈴を鳴らす。
無言で耳を澄ませていると、ぷつりと通話の繋がる音がした。
「……はい」
貼り合わさった喉を無理に引き剥がしたような嗄れた声だ。症状は想像していたより酷いらしい。
「一年三組の黒橡です。お見舞いに伺いました」
「……はい?」
上手く伝わらなかったか。僕の尻を撫でる赤錆さんの手を払い除けて、息を整える。
「青褐先生のお宅でしょうか。一年三組、黒橡包介です。蘇芳先生に言われて、お見舞いに伺いました」
気持ち大きめに、はきはきと話してみる。先ほどよりは聞き取りやすいはずだが、返事はない。焦れた烏羽さんの貧乏ゆすりが酷くなってきた。
「……わ、分かりました。今、開けます。ただ、準備があるので部屋の前で少し待っていてください」
今にも倒れそうな息遣いである。人を招き入れる準備ができるほどの余裕があるとは思えないので、無理をする前に部屋に乗り込んだ方が早いだろう。
「おっ、やっと開いたな。とっとと行こうぜ」
烏羽さんを先頭にオートロックのガラス戸をくぐり、階段を上る。青褐先生の部屋は三階だ。赤錆さんが僕の尻に張り手をして急かしてくるが、大した階数でもないので我慢する。
三階の表示を見つけ、非常口の明かりが灯る重い防火扉を開ける。メモ用紙と部屋番号を交互に見ながら端まで歩いたところでようやく、青褐先生の部屋に辿り着いた。念の為、もう一度部屋を間違えていないか確認してからインターホンを押す。
「……出ない」
「寝てんじゃないの」
「そんなことはないと思うけど」
再びインターホンを押すが、玄関扉の奥からは返事どころか物音ひとつしない。
「鍵開いてんじゃねえか?」
烏羽さんに言うとおりにドアノブに手をかけてみると、扉はあっさりと開いた。
「先生、入りますよ」
近所迷惑にならない程度に呼び掛けて、そろりと室内に入る。赤錆さんと烏羽さんも忍足で続く。
靴を脱ぎ揃えて居間まで歩を進めるが、依然、青褐先生の姿は確認できない。辺りを見回し、ベッドが置かれた寝室であろう部屋が目に入る。
そこで、ベッド脇の謎の物体に視点が釘付けになった。
あれはなんだ。
丸くて大きなお餅に、透け透けの黒い布切れが食い込んでいる。全体像は伸びをする猫のような姿勢であり、上半身にあたる部分には薄ピンク色のもこもこが覆っていて、お餅だけがぷりんとこちらに突き出された状態だ。
そこまで考えて、はっとする。間違いない。あれは人だ。寝巻きを脱ぎかけ力尽きた人だ。
あられもない姿を晒しているのは青褐先生だ。ならばあの白くて大きく、丸みを帯びた柔らかそうなお餅はまさか
「見るな!」
「ぎゃあ!!」
目を思い切り叩かれた。皮膚が破裂するような痛みに視覚と思考が上書きされる。
「なんて恰好してんのよ!」
「すげぇ……あのセンセーがケツ丸出しで倒れてる……」
のたうち回る僕の横で赤錆さんが驚きと怒りが混ざった罵声を上げる。烏羽さんにいたっては動揺を通り越して感動していた。
「んぅ……」
僕らが騒いだおかげで青褐先生は意識を取り戻したみたいだ。くぐもった呻き声を漏らしながら大きなお尻をふりふりと揺らす。間の抜けた、しかし、中学生には扇情的な光景は、またしても赤錆さんの琴線に触れた。
「子供の前で生尻を振るな!」
「んひぃっ!」
赤錆さんに容赦はない。大人であろうと病人であろうと等しく怒りをぶつける彼女は、怒号と共に青褐先生のお尻を引っ叩いた。刻まれた紅葉は実に鮮やかな赤色をしている。
「ひぃぃ」
激しい痛みにより先生は完全に覚醒したようだが、脱ぎかけの寝巻きに腕と足を絡め取られ満足に身動きが取れていない。尺取り虫の如く床を這い回る先生に赤錆さんの追撃が迫る。
「でかい、ケツを、振ってんじゃ、ない!!」
赤錆さんが子気味良いリズムで尻を叩く。先生のお尻はもとの白さが見えないくらい真っ赤に染まり、漏れる呻きには涙が混じり始めた。
「お、おい。その辺にしておけ」
見たことのない暴力の形に引き気味になりながらも、烏羽さんが赤錆さんを抑える。興奮冷めやらず、なおもお尻を睨みつける赤錆さんにすっかり怯えてしまった先生は、その場で縮こまってしまった。
とにかく、安静にさせなくては。
肌に触れないよう細心の注意を払いながら上の寝巻きを戻す。ようやく現れた先生の顔は垂れ流しの涙と鼻水に塗れて酷いことになっていた。前髪は汗の湿気で捲れ上がり、普段の規則正しい分け目は見る影もない。
「先生、大丈夫ですか?」
当然、大丈夫ではない。先生は涙を拭うこともせず、ひくひくとしゃっくりを繰り返している。
返事は期待できない。ひとまずは固いフローリングの上にある腫れ上がったお尻を救出することを決める。
「ちょっと失礼しますね」
先生の腿裏に手を差し込み、肩をがっちりと掴む。体の硬直が腕を通じて伝わるが、むしろ好都合だ。足から腰までの力の流れを意識しながら一息で先生を抱え上げる。
数ヶ月前の僕なら持ち上げられるか危ういところだったが、思いの外すんなりといった。特訓を経て、気付かぬ間に体の使い方を学んでいたらしい。中々成果が表れずやきもきしていたが、こういうふとした瞬間の気付きは堪らなく嬉しい。
「やり過ぎだよ赤錆さん」
青褐先生をベッドに下ろして赤錆さんに振り返る。
目前まで張り手が迫っていた。すんでのところで身を躱し慌てて距離をとる。
「な、何するのさ」
「あんたが何やってんのよ!」
赤錆さんの敵は今の一瞬で僕に移ったようだ。唇をわなわなと震わせた彼女の顔は、先生の尻を引っ叩いた時よりも一層赤く変色している。
近頃の赤錆さんの地雷はどこに埋まっているか分かったものではない。小学生の頃はもっと余裕があったのに、何が彼女をここまで凶暴に変えてしまったのか。
鼻息荒く肩を上下させる赤錆さんを前に動けないでいると、烏羽さんが無造作に彼女に近づき丸い頭に拳骨を落とした。
「病人の家で騒ぎ過ぎだ」
キレた赤錆さんが飛びかかるが、真っ向からの攻撃に不覚を取る烏羽さんではない。赤錆さんの両手首を捕えると足を払って簡単に転ばせる。そのままうつ伏せにひっくり返すと、肩と腕を極めてしまった。
烏羽さんが一緒にいてくれてよかった。赤錆さんの相手は任せて、ベッドに腰掛けた青褐先生の前で膝をつく。
呼吸は落ち着いてきたが、泣き腫らした目蓋と垂れた粘っこい鼻水はそのままだ。ポケットティッシュを取り出して先生の鼻に当てがう。
「飲み物出しますね」
蘇芳先生に託された荷物からスポーツドリンクを取り出し、青褐先生の手に持たせる。本当はコップに移したいが、勝手に戸棚を漁るのは失礼だろう。先生はじっとペットボトルを見つめたまま動かないので、キャップを外して握りしめたティッシュと交換する。
「……ごめんなさい」
先生がぽつりと消え入りそうな声で呟く。ようやく聞けたまともな一言が謝罪とは、体調だけでなく気持ちも相当落ち込んでいるようだ。
「病気の時は誰でもそんなものですよ」
先生の手に手のひらを重ねて、ペットボトルを口元に運ばせる。先生は羞恥心からか戸惑った目で僕を見上げるが、支えがなければ滑って落としそうなほど握力が落ちている。恥ずかしかろうが譲れない。
「うぅ……」
抵抗は無駄と悟ってか、先生がペットボトルに口をつけた。ゆっくり傾けると、先生の喉仏が控えめに上下し始める。
赤ん坊にミルクをあげるのってこんな感じだろうか。
僕は未だ床を這い回り寝技の攻防を繰り広げる烏羽さんと赤錆さんを眺めながら、担任の先生に抱くにはあまりに失礼な感想を思い浮かべていた。
それからしばらくして、限界を迎えたらしい青褐先生はゆったりと体をベッドに預けると、すぐに寝息を立て始めた。額には粒だった汗が滲んでいるが、顔色は幾分回復したように見える。
「生徒の前でよく寝れるわね」
赤錆さんが平然と言う。つい先ほどまで烏羽さんと大立ち回りをしていたとは思えない落ち着き振りだ。僕としては赤錆さんの感情の起伏の方が不思議だが、彼女にとって取っ組み合いはコミュニケーションの一種なのだろうと、てきとうに理由付けして納得する。
「それだけ無理してたんだよ。僕達が騒いだせいもあると思うけど」
普段は冷たい仮面を被り生徒に恐れられる先生も、寝顔は無垢な赤子のようだ。同じ無表情でも目蓋を閉じるだけで随分印象が違う。
「……で、どうする? 無事なのは分かったし、もう帰るか?」
部屋の真ん中で胡座をかく烏羽さんが時計を顎で指す。
時刻は五時を少し過ぎた。空はまだ明るいが、子供は帰り支度を始める頃合いだろう。
しかし、病人をそのままにするのは気がかりである。先生が目を覚ますまでは、誰かついていた方がいいだろう。
「僕は念のため先生が起きるまで残るから、二人は先に帰りなよ」
「だめ」
即座に否定された。間違った判断ではないと思うのだが、赤錆さんはおろか烏羽さんまで頻りに頷いているので、おかしいのは僕の方らしい。
「でも、あんまり遅くなっても危ないよ」
「ほんとに暗くなってきたら叩き起こして帰るわよ。それより、暇を潰せるものが一つもないことの方が問題ね」
赤錆さんはぐるりと室内を見回して、つまらなそうに息を吐いた。
先生の部屋には物がほとんどない。最低限の家具や生活家電は備えられているものの、テレビはなく、床のフローリングは剥き出しである。食卓として使っているであろう天板の低いテーブルも、どこの量販店でも取り扱っている木目調が印刷された簡易な天板で、こだわりは感じられない。空白の目立つ殺風景な室内に烏羽さんはすでに飽きてしまったのか、大口を開けて欠伸した。
「なんか面白いものないかな」
赤錆さんの傍若無人さは先生の家でも変わらない。当たり前のようにクローゼットを開いて中を物色し始める。
「服も似たような地味なのばっかりね。あんまり数もないし」
「そうか? こんなもんじゃねえ?」
烏羽さんも先生の私服には多少の興味があるようだ。赤錆さんの隣に並んで、同じようにクローゼットを探り出す。この手の話題に僕が入り込む余地はないので大人しく俯いておく。
「みてよこのパンツ。ババアくさいデザインね。ブラもタンクトップみたいなのしかないし」
二人の探索は見てはいけない領域に突入した。背中を向けていてよかったと心の底から思う。
「別に普通じゃね? アタシも同じようなやつしか持ってないぞ」
「は? あんた、おっぱいデカいのにまだスポブラなの?」
「おっ、で、でかいとかいうな!」
「軽い下ネタにマジになんないでよ。ていうか、まさかパンツもガキみたいなの履いてんじゃないでしょうね」
「パンツは履かねえよ。アタシ、スパッツ派だから」
「は? スパッツでもパンツは履くでしょ」
「ん?」
「は?」
雲行きが怪しくなってきた。今更振り返るわけにもいかず目を瞑って必死に耐えるが、聴覚はどんどん研ぎ澄まされていく。
「え、マジで言ってんの?」
「だ、だって、スパッツってそういうもんだろ!」
「本来の使い方は分かんないけど、日常で直履きはヤバいでしょ。めちゃくちゃカタチはっきりするじゃない」
女子の目から見ても直履きは異質なのか。烏羽さん宅に泊まったあの日、初めて身につけた感触を思い出しながら、僕の感性は正常だったと安堵する。
「……ど変態」
「ち、違うし! 動きやすいから!」
「はいはい。そういう趣味なのはわかったから」
「だから違う!!」
反対に、烏羽さんにとっては考えもしなかった事実らしい。必死に否定する口振りは大袈裟であるが、おそらく本心だろう。
烏羽さんは僕以上に性的な知識が足りていない。自身の特殊な癖を満たすために愛用していたのではなく、純粋に履き心地を気に入っていただけに違いない。
とはいえ、年頃の男子学生には刺激が強いのも事実である。学校で知られてしまったら、あらぬ風評を立てられていたはずだ。この場で赤錆さんに指摘されたのは、かえって良かったのかもしれない。
「それならコイツもおかしいだろ! アタシのスパッツ直で履いたし!」
「えっ」
親目線の訳知り顔で余裕をこいていると、突然火の粉が飛んできた。あれは仕方のない出来事なので僕に悪意は一切ないが、弁明するには絵面がまずすぎる。同級生の女子にスパッツを借りました、なんてどんな理由があろうと許されざる事態である。
なんとかして話を逸さなければ。
あくまでも二人の会話が聞こえていないふりをしながら、必死に材料を探す。
「あ、あれはなんだろう。なんか面白そうなの見つけたよ」
苦し紛れに辺りを探ると、ベッドの脚の近くに本を見つけた。隠すように置かれたそれは丁寧な装丁が施されているが、表題は書かれていない。
「なにそれ」
「あ」
赤錆さんに本を掠め取られる。彼女はぱらぱらと中身を捲ると、とびきり意地悪な笑みを浮かべた。
「日記みたい。暇つぶしにはちょうどいいわね」
「勝手に見るのはまずいよ」
「包介が見つけたんでしょ」
「日記だなんて思わなかったんだよ」
誤魔化しの材料を探してはいたが、先生のプライベートを傷つけるつもりはない。赤錆さんの言うとおり、僕のその場しのぎが原因なので偉そうに注意できる立場ではないが、それでも止めなければ。日記に向けて腕を伸ばすが、寸でのところで逃げられてしまう。
「やめなってば」
「生徒にデカケツ叩かれてべそかく以上に恥ずかしいことなんてないでしょ。日記見られるくらい、どうってことないわよ」
一理ある。
思わず納得しかけた僕を無視して、赤錆さんは部屋の真ん中で胡座をかくと嬉々として日記を捲り始めた。烏羽さんも下着の件はすっかり忘れて、赤錆さんの肩越しに日記を覗き込む。
「包介は見ないの?」
「見ない」
「あっそ」
二人の防護を掻い潜り日記を取り戻すのは不可能だ。せめて僕だけは先生の秘密を守ろうと、赤錆さん達に背を向けて固く目を瞑る。
「毎日つけてる。やっぱ細けえ人なんだな」
「ね。結構文章も長いし。ていうか、なんか包介のことばっかりじゃない?」
「まあ、毎日呼び出してるしな。色々書くことが多いんじゃねえの」
「それにしたってこの量はおかしくない? ほら、この週なんて包介のことしか書いてない」
とはいえ、気にならないといえば嘘になる。せめて静かに読んでくれと心の内で訴えるが、二人の実況は止まらない。
「ほら、ここなんてヤバすぎ」
「センセーって普段こんなこと考えてんだな」
「直接的な表現がないのがいやらしいわね」
「センセーって今いくつだっけ」
「二十四か五」
「おぅ……そう考えるとキツいな」
「触らせるのが好きなのかな。生々しくて気持ち悪いわね」
えらい言い草だ。青褐先生が酷評されるようなことを書くとは思えないが、相当刺激的な内容らしい。耳を塞いでしまえば気にする必要もなくなるのだろうけれど、増長した好奇心がそれを許さない。
「……え」
「……なんだよこれ」
理性との間で葛藤していると、下世話な騒がしさから一転、二人は深刻な声色で呟き、それきり黙り込んでしまった。軽蔑からなる冷えた雰囲気とは別種の緊張感が漂う。
駄目だ。もう我慢できない。
「ど、どうしたの」
出歯亀根性丸出しで振り返るが、僕の声は二人に届いていない。日記を捲る手は止まり、あるページを凝視している。ますます盛り上がる好奇心に駆られるまま、膝立ちでにじり寄り二人の肩越しに覗き見る。
「えっ」
僕は目が悪い。片目しか使えないので焦点が合うまでに時間を要し、特に文字ともなれば眉間に力を集中させなければ正確に読み取れない。じっと見つめ続け、ようやく文面の輪郭がはっきりした瞬間、無意識のうちに声が漏れた。
冬道。黒橡包介。右目。傷。
子供を撥ねた。
青褐先生は、僕を車で撥ねた張本人だった。
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