第24話

「緊張するなあ」

 紙袋の持ち手を握りしめて、自宅の玄関扉の前で独りごつ。別れ際、濃墨先輩にかけられた激励の言葉を思い返して何とか自分を奮い立たせようとするが、いざその時を前にするとどうしても尻込みしてしまう。

 本当にこれでよかったのか。もっと無難なものにした方が良かったんじゃないか。不安な気持ちをそのままに紙袋の中の小箱を見つめる。

 予定とは違う、直感に任せたプレゼント。

 濃墨先輩は褒めてくれたが不安は拭いきれない。やはり、今日のこれはなかったことにして、選び直した方がいいのではないか。

「包介くん」

「ひっ」

 自問自答を繰り返していると、突然右側から声をかけられた。反射的に振り向くが人影はない。

「こっち」

 再び声が聞こえる。よく目を凝らすと隣の桑染さん宅の扉が僅かに開き、隙間から爛々と光る青い瞳が覗いていた。

「あ、ああ、桑染さん。こんにちは」

「……こんにちは」

 外に出るつもりはないようだ。桑染さんは扉の陰に潜んだまま、瞬きもせずにじっと僕を見つめている。肉食獣に品定めされているような悪寒が背筋をとおり、腕に鳥肌が立った。

「……楽しかった? 今日のお出掛け」

「え? ええ、まあ、はい」

「そう。よかったね」

「はい。目的のものも買えましたし」

「ふうん。そうなんだ。荷物いっぱいだもんね。……ほんと楽しそう」

 表情は見えないが、不満げな様子は口調からでも伝わってくる。少しでも場を和ませようと愛想笑いを浮かべてみたが、桑染さんの視線は厳しい。

 濃墨先輩とデートに行くと知られて以来、僕と桑染さんの関係はすっかり拗れてしまった。毎朝のメールは変わらず届くが文面はどこか僕を責めるようで、偶然顔を合わせても挨拶だけを手短に済ませ、さっさと家に引っ込んでしまう。そうして謝罪の機会をずるずると逃し続け、今に至ってしまった。

 気まずい。話を切り上げ早々に退散すべきだとドアノブに手を掛けたところで、はたと思い直す。

 あれだけ僕を避けていた桑染さんが自分から話しかけてくれたのだ。歩み寄ろうと寛容になってくれたのか、初めてのデートに浮かれる僕に一言物申したかったのかは分からないが、この絶好の機会を逃す手はない。

 そうと決断すれば行動あるのみだ。紙袋の持ち手を握り直して気合いを入れる。

「桑染さん」

「……なに」

「桑染さんってシュークリーム好きなんですよね」

「そ、そうだけど」

 いつか送られたメールに書いていた記憶がある。急な問いかけに桑染さんは目に見えてたじろいで、冷たいだけだった声色にも動揺が混じる。

「この前のお詫びじゃないんですけど、いつも気に掛けてもらってるお礼です」

 こじんまりとした真っ白な紙箱を扉の隙間に差し込む。桑染さんは不安そうに僕と紙箱を交互に見るが、無言で腕を突き出し続けていると、彼女は恐る恐る箱を受け取った。

「わっ」

 暗がりから喜びの悲鳴が上がる。強引な謝罪であったが、目論見は上手くいったらしい。

 紙箱の中には彼女の好物であるシュークリームが三つ入っている。外観だけで選んだので味の保障はできないが、あれだけ大きなアウトレットモールに店を構えているのだから不味いということもないだろう。

 しばらくして、桑染さんが戻ってきた。先まで釣り上がっていた目尻はとろんと下がり、口元は緩み切っている。

「あ、ありがとぅ……」

「いえいえ。喜んでもらえてよかったです」

 半開きの扉から桑染さんの手がおずおずと差し出される。仲直りの握手を求めているのだろう、応えようと手を伸ばすと、突然扉が開け放たれた。

「もう。いつまでモジモジしてんの」

 桑染さんの後ろに、榛摺さんが仁王立ちしていた。

 どうやら、これまでのやり取りをずっと聞かれていたらしい。呆れ顔の彼女はわざとらしい溜め息を吐いて、桑染さんの頭を撫でる。

「な、なんで出てきちゃうの!」

「なんでじゃないでしょ。怖いから後ろで見ててって頼んだのメアリじゃない」

 いつの間にか下の名前で呼ぶ間柄になっている。初対面から喧嘩した二人だが、上手く付き合えているようで何よりだ。

「それにしても包介クン。結構気が利くのね」

「まあ、これぐらいは」

「へえ。それじゃあもう一つの袋はワタシ用のプレゼントかな?」

「えっ」

 どうしよう。全然考えていなかった。付き合いは短くとも腹を割って話し合った仲なのだから、できる男なら榛摺さんの分も用意しておくべきだった。

 突然の事態にあたふたするだけの僕を見て、詰めの甘さを察したらしい。安心させるように目元で分かる笑みを浮かべる。

「ウソウソ、冗談だよ。でも、その袋が誰宛のプレゼントかは気になるな」

 榛摺さんの目つきが途端に鋭くなった。肩を軽く叩かれた桑染さんは心得たと言わんばかりに中腰のままじりじりと近づいてくる。

 母さんへのプレゼントだと説明するのは容易い。しかし、詰問は誰宛かのみでは済まされず、その中身にまで到達するだろう。選び直すことまで考えてしまうプレゼントだ。笑われたら立ち直れない。

「もう一度聞くね。誰宛のプレゼントなの?」

 猛犬をけしかけられたような緊迫感が辺りを漂う。桑染さんの指は不気味に蠢き、榛摺さんの号令を今か今かと待っている。

 迷っている暇はない。

「プライベートですから。それじゃあ失礼します」

 何かを言いかけ手を伸ばす二人を無視して、僕は自宅に逃げ込んだ。




 後ろ手で急いで鍵をかける。直後に桑染さんの突進を受けた扉が撓むが、流石の彼女でも玄関扉をぶち破ることはできなかった。抗議の殴打は次第に弱まり、未練がましい引っ掻き音を最後に落ち着いた。

 危ないところだった。

 ほっと一息ついて顔を上げる。

「おかえり」

 母さんがすぐ目の前に立っていた。悲鳴は何とか堪えたものの、無理に飲み込んだ反動で首の筋に鋭い痛みが走る。

「た、ただいま」

 慌てて家に飛び込んだから、まだ心の準備ができていない。辛うじて返事はできたものの、緊張で跳ねる心臓の音が頭の中にまで響いていて平常心には程遠い。

「手、ちゃんと洗ってね」

 母さんは平坦な口調で短く告げると、踵を返し居間に戻ってしまった。外履きを片手で脱ぎ揃えて、言われるままに洗面所に向かう。

 タイミングが掴めない。

 紙袋を傍に置き、手にハンドソープを出す。いつもより多めに泡立てて指の間まで丁寧に洗うのは、この後に及んで踏ん切りのつかない僕の内面の表れだろう。鏡に映る顔は緊張で青褪め、口は真一文字に引き絞られている。

 これから感謝を伝えようとする人間の顔ではない。

 やはり、日を改めよう。腐り物でもないし、引き出しにしまえる大きさだ。もう一度よく考えて、タイミングを見極めよう。

 逃げ腰でしかない覚悟を納得させるための言い訳が次々に浮かんでくる。頭では先延ばしたところで意味はないと分かっているが、体は楽な方へと結論を急がせる。

 情けない。けれど、それでいい。それがいい。

 僕の心は折れてしまった。後ろ向きな決意を固めて一人頷く。長い手洗いを終えて目を開けると、鏡に長い髪の毛が映り込んでいた。

「わぁっ!」

 後ろに母さんがいた。今度こそ悲鳴が溢れ、力んだ首筋は完全に引き攣った。鋭い痛みが脊椎を走り、腑抜けた膝が床に落ちる。

「だ、だいじょうぶ?」

 膝立ちで蹲る僕に母さんが駆け寄る。心配をかけまいと微笑むことには成功したが、首にはじんじんとした痺れが残っている。立ち上がるにはもうしばらく時間がかかりそうだ。

「ごめんね、びっくりさせちゃったね」

 おっかなびっくりと僕の首を摩る母さんの顔を見やる。眉尻は不安そうに垂れ下がり、瞳は薄ら濡れている。

 久々に間近で見た顔は、よく見知った顔だった。僕が恐れていた冷徹さも拒絶もない。家族を案じる心配性な母親の顔があるだけだ。

 なんだか拍子抜けしてしまった。母さんに呆れられ、避けられているとばかり思い込んでいたが、どうやら僕の一人相撲だったらしい。母さんはいつもどおりに僕を気にかけてくれていた。何度も言い付けを破った後ろめたさが、僕を臆病にさせていただけだ。

 そう気付いた瞬間、頭に渦巻く躊躇いが真っさらに消えた。もう二の足を踏む必要はない。

 首を痛め、気遣われる状況でプレゼントを贈るのは些か格好がつかないが、格好つけるほどのことでもないだろう。ただ当たり前に、日頃の感謝を伝えるだけのことだ。紙袋から小箱を取り出して母さんの手に握らせる。

「こんな状況で言うことじゃないけど、いつもありがとう。気に入ってくれると嬉しいな」

「……えっ」

 突然の事態に、母さんの思考は停止した。自らの手に置かれた物の意味をまったく理解できず、僕と小箱の間で不安そうに視線を彷徨わせる。

 ただ戸惑うだけの母さんは新鮮で、もう少し観察していたい気もするが、あまり困らせていては本来の主旨に反する。母さんの右手に僕の左手を添えて、一緒に小箱を開ける。

「わあっ」

 プレゼントは木製の指輪だ。艶消しの紫に近い黒色で、磨かれた表面には淡い木目が浮かんでいる。

 最初はマグカップのような無難で普段使いできるものを購入する予定だった。母さんが装飾品の類いを身につけているところは見たことがない。亡き父が贈ったであろう結婚指輪も遠い昔に失くしたらしい。青褐先生の助言はあれど、アクセサリーを贈る予定はなかった。

 それでも、店先で偶然指輪を目にした時、母さんに贈りたいと思った。自分の直感を信じ、決めたのだ。

「ほう゛ぐん゛!!」

 涙でぐしゃぐしゃの母さんが飛び込んできた。咄嗟に首を背けるが避け切ることは叶わず、左頬に柔らかい唇が吸い付く。啄むように付いては離れを繰り返し、涙か涎か判別できない液体で滴った頃にようやく剥がれた。

 両肩に手を置かれ真っ直ぐに見つめられる。案の定、突き出した唇が迫ってきたが、頬にならまだしも、この歳になって口と口の接吻は行き過ぎた愛情表現だと思う。顎の輪郭に人差し指を沿わせて方向をずらすと、母さんは導かれるままにもたれかかってきた。ぎゅっと両腕を回され、体の前面が苦しいくらいに密着する。

「う゛う゛う゛!!」

 鼻をずびずびいわせながら泣き声とも唸り声ともつかない慟哭を上げる母さんの頭にそっと手を置く。

 ここに辿り着くまで、随分時間をかけてしまった。もっと早くに向き合っていれば、母さんがこれほどまでに思い詰めることもなかっただろう。

「心配かけてごめん」

 夏の気温にも負けない母さんの体温にあてられるうちに、額にじっとりとした汗が浮き出てくる。それでも僕は、陽が落ちるまでずっと、泣きじゃくる母さんの頭を撫で続けた。




 朝日の光で目が覚める。傍の目覚まし時計は六時半を指しており、普段より幾分早い起床である。

 腕を組んで伸び上がると肩甲骨のあたりからパキポキと小気味のいい音が鳴る。憂鬱な月曜日だが、体の調子は悪くない。寝ぼけて霞む左目を擦りながらベッドを降りて居間に向かうと、小麦の焼ける香ばしい匂いがした。

 今朝はパンのようだ。腹の虫を鳴らしながら居間を覗くと、食卓に座った母さんがうっとりと左手を見つめていた。目線の先にある薬指には、昨日贈った指輪がはめられている。

「うひひ」

 口元の弛みきっただらしない笑顔は、見る人によっては気味悪く映るだろう。母さんは色々な角度で指輪を見回して充分に堪能すると、愛おしげに頬擦りを始めた。

 喜んでもらえるのは嬉しいが、これほどまでに熱烈だと声を掛けづらい。框に手をかけ機会を伺っていると、僕の視線に母さんが気づいた。

「おはよう、ほうくぅん」

「お、おはよう」

 甘ったるく間延びした挨拶だ。昨日の熱を引きずっているのか、頬は赤く目元は蕩けたままである。母さんは再び不気味に笑うと、とたとたと小走りで駆け寄り抱きついてきた。

「うひひ、ほうくんだぁいすき」

「ああそう。ありがとう」

「……なんか冷たい」

「普段どおりだよ」

 母さんには悪いが今は空腹を何とかする方が優先だ。肩を窄めて抱擁から抜け出して、さっさと食卓に腰掛ける。

「うふ。でもいいよ、ほんとはママが大好きなこと、知ってるからね」

 跳ねるような足取りでキッチンに向かう母さんから目を逸らし、赤い頬を見られないように頬杖をつく。

 昨日の熱を引きずっているのは母さんだけではない。あの晩、布団の中で一日を振り返るうちに、相当気障なプレゼントを贈ってしまったと改めて思い直し、恥ずかしさに身が悶え中々眠りにつけなかった。寝不足で頭はぼやけているが、そわそわした擽ったい感覚が身体を這い回っている。

「おまたせぇ」

 母さんが甘ったるく語尾を伸ばしながら、お盆を持ってやってくる。上には、オーブンで温め直された一口大に切られたパンと瑞々しいサラダが載っていて、腹の虫が一際大きな鳴き声を上げた。

「一つ向こうの道路沿いに新しいパン屋さんできてたから、昨日のうちに買っておいたの」

「おいしそう。いただきます」

「はぁい。召し上がれぇ」

 お盆を置いた母さんは向かいに座ると思ったが、そのまま僕の後ろに回り込み二の腕を摩り出した。食べ辛いのでやめて欲しいが、今朝の母さんのペースに乗っかると日が暮れてしまいそうだ。最早我慢比べの意気込みで無視しながら食事を進める。

「ほう君。ありがとう」

 僕の膨らむ頬を突きながら母さんが言う。先までの蕩け切った口調とは違う真剣味を帯びた響きに思わず手が止まる。

「ママ、幸せよ。ママの息子になってくれてありがとう」

「どうしたのさ。そんなにあらたまって」

「気にしないでいいの。ママが頑張れるのは、ほうくんのおかげってこと」

 頑張ること。意思表示に便利に使われる言葉だが、実際に行動に移すのは中々に難しい。意気込みはすれど途中で失速し、そのまま怠けてしまうことはよくある。

「頑張り続けられるのが大人なのかな」

 ふと、昨日の問いが思い浮かんだ。僕の呟きが聞こえたようで、母さんが小首を傾げる。

「昨日、濃墨先輩と少し話したんだ。子供と大人の境はなんだろうって」

 いざ口にすると、如何にも子供らしい疑問だ。けれど、母さんは唸りながら真面目に考えてくれる。

「年齢とか、見た目とか。仕事をしてるとか、子供がいるとか。大人に見られるって、色んな要素があると思うよ。だけど、この条件を満たしていれば大人だ、ってわかりやすいものはないんじゃないかな。職場でも、仕事の指示を出してる時は大人だけど、プライベートの話は賭け事ばっかりな子供っぽい人もいるし」

「賭け事は大人のすることじゃない?」

「うーん。ママは子供っぽいと思うな。でも、ほう君がそう思うってことはやっぱり、大人の基準なんて人それぞれなんだろうね。全部の面を見ることはできないし、その場その場で評価は変わるんじゃないかな」

 時と場合による。僕にとっての大人代表である母さんでさえそう言うのだから、はっきりした答えはないのかもしれない。

 濃墨先輩を元気づけられそうにはないなと内心諦めていると、母さんは、でもね、と言葉を続けた。

「分からないことを理解しようと頑張れる人は大人だと思うな。だから、ほう君のそういうところ、すごく尊敬してるよ」

 頑固と面倒臭がられる僕の気質の原因で、自分が納得すればそれでいい手前勝手な悪癖だけれど、それを大人らしいと感じる人もいるのか。まさしく人それぞれで時と場合による考え方だ。

 しかし、結局そういうものなのだろう。個々人の思想が渦巻く混沌とした社会で、万人が納得する基準は決められない。広辞苑に具体的に書かれていたとしても、受け入れない人は大勢いる。

 ならばせめて、自分だけは納得したい。納得して、自分の言葉に自信を持ちたい。

 それは、周りが聞けば的外れな回答かもしれないし、答えの果てに何を得られるかも不確かな自己満足のマラソンのようなものだ。それでもいつか、自分で考え抜いた末に導き出した結論が何かの役に立つ時がくると信じ、走り、積み重ね続けていくことが大人になるということなのかもしれない。

 そんなに上手くはいかないだろうけれど。

 誇れる大人になるにはまだ先は長そうだと、母さんの手を握り返しながら一人苦笑した。

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