第22話
指輪。
青褐先生はそう言っていたが、装飾品の類は普通、恋人に贈るものではなかろうか。普段のお礼としては不適切な気がする。
代案があるわけでもないが、いまいちぴんと来ない。説明できないもやもやに頭を悩ませていると、いつの間にか目の前にティーカップが置かれていた。爽やかな茶葉の香りが行き詰まった思考に染み渡る。
「随分と悩んでいるみたいね」
「ええ、ちょっと」
濃墨先輩が僕の対面に腰を下ろす。ふわりと擬音が聞こえてきそうな軽やかな着席である。
「よければ聞かせてくれる?」
「……実は」
一度口にした相談だ。言うか言わないかで葛藤する段階はとうに過ぎている。青褐先生の助言がすんなりと飲み込めていない現状では、他の意見も積極的に取り入れるべきだ。濃墨先輩なら茶化したりもしないだろうし、安心して相談できる。
というわけで、母さんに贈り物をしたい旨を包み隠さず伝えてみた。
「包介ちゃんのお母様……
「はい。……あれ、名前、言ったことありましたっけ」
「私、気になることはとことん調べる性格なの」
僕の家族を気にするような出来事があったのだろうか。
そんな疑問が頭をよぎるが、よくよく考えればオカルト倶楽部に誘われたその日、簡単な面接みたいなものが行われた。家族構成について話したような気もする。
「それで? 私の他にも相談したのかしら?」
「え、そんなことまで分かるんですか」
「包介ちゃん、分かりやすいもの。折角だから当ててみましょうか。青褐先生でしょう」
ぴたりと言い当てられた。
「そんなに顔に出てますか」
「まあ、それだけではないけれど。今日は悩める包介ちゃんが相談に来るだろうと思っていたの。だから、赤錆ちゃんと烏羽ちゃんには席を外してもらったわ」
そういえば二人の姿が見えない。いつもならとっくに資料室に屯し、小競り合いが始まる時間である。濃墨先輩が言葉巧みにあしらったに違いないが、なんとなく恐ろしい予感がしたので方法は聞かないことにした。
それにしても先輩の、それだけではない、というのは一体どういう意味だろう。表情や態度以外からでも推察できるものなのだろうか。
「じゃーん」
そんな僕の疑問に答えるように濃墨先輩が取り出したのはカードの束だった。トランプより縦に長く、緻密で意味深な絵が描かれている。
「所謂タロットカードというものね」
「ああ、占いに使うやつですか」
「あら、その素っ気ない反応。もしかして占いは嫌い?」
好きか嫌いかで答えるなら、間違いなく嫌いである。
世の中には星座占いやら手相占いやら、占い商法が溢れているが、科学的な根拠は一切ない。誰にでも当て嵌まることをさも理論に基づき導き出したように見せ、当たらなければ知らない振りで、当たった時だけそれ見たことかと騒ぎ立てる。言ったもの勝ちのインチキを信用する方がどうかしている。
特に信じられないのは血液型占いだ。人間の多種多様な気質をたった四つに分類するなんて明らかに無理がある。そもそも、A、B、O、ABなんて分け方をしているのは日本だけで、性格と結びつけるにしても、血液の型を考えればもっと細かく分けるべきだ。むしろ、この奇妙な風潮のせいで周囲から好き勝手に偏見をもたれ、性格が歪んでしまう気がする。こんな前時代的な文化からはとっとと脱却すべきだろう。
「包介ちゃん、B型でしょう」
「……そうですけど。何か問題ありますか」
「占い嫌いは血液型占いがきっかけになりやすいから。B型の人はあまりよく言われないでしょう」
「あのですね、そういう一部の人を陥れようとする考え方が嫌いなわけで、B型だから占いが嫌いというのは偏見ですよ」
「ごめんなさい。そんなに気にしているなんて」
「謝ってほしいんじゃないです。僕は血液型占いの非合理性を理解してほしいのであって」
「もう。謝っているのだからいいじゃない」
口に人差し指を当てられる。それだけで黙るほど僕の熱量は低くないのだが、先輩の目はこれ以上の弁論を許していない。非常に不本意ではあるが仕方なく引き下がると、従順な態度がお気に召したのか先輩は深く頷いた。
「私も占いがすべてとは思っていないわ。ただ、迷った時に客観からの視点が欲しい時があるのよ。いくら根拠がなくとも一応の理由付けがあれば、見知らぬ人の意見でも受け入れやすいでしょう? 決めるのはあくまで自分だけれど、参考程度にはなる。占いとはそういうものなの」
僕は何色の靴下を履けばいいかで迷ったりはしないし、ご飯は食べたいものを食べる。占いに頼らなければ物事を決められないほど落ちぶれてはいないが、そういう人種もいるということだろうか。
「強情な包介ちゃんには実際に試した方が早いわね。早速始めましょうか」
「いや、遠慮します」
僕の断りはまるきり無視して、濃墨先輩は笑顔でカードの山を崩した。時計回りで混ぜ合わせ再びカードを束にする。
「はい。それでは、三つの山に分けてみて」
素直に分けるのも気が乗らない。わざと上の一枚だけを取ってみたが、先輩の冷ややかな視線を感じたので大人しく均等ぐらいの枚数で分ける。
「分けた山をまた一つに戻してくれる?」
言われるままに束を重ねる。一連の工程に意味があるとは思えないが、ケチをつけられる雰囲気ではない。濃墨先輩は山を軽く整えると、一番上のカードをそっと捲る。
「まず一枚目。これは貴方の過去を表すカード」
僕の目の前に差し出されたカードには、外套を纏った骸骨が鎌を構えて佇んでいた。見るからに不吉なカードである。
「幸先悪いですね」
「見た目はね。でも、悪い意味ではないわ。逆位置の死神は終わりからの始まりを表すの。つまり包介ちゃんは、すでにまったく別の道を歩み始めていると言えるわ」
「はあ。いまいち実感は湧かないですけど、そうなんでしょうか」
最近始めたことといえば烏羽さんとの特訓が思い当たるが、真逆の道というわけではない。前々から考えていたことだし、偶然機会が訪れただけであって、根底の人生観が変わったわけではない。死神が絡むような大袈裟な転換ではないだろう。
「占いは直感を大切にするの。細かな意味まで当てはめる必要はないわ」
そういう都合のいい部分が気に入らないのだが、濃墨先輩は途中で切り上げるつもりはないらしい。普段お世話になっているのだからこのくらいは付き合うべきだと、今にも愚痴りそうな頭を無理に納得させる。
「二枚目は現在。カードは……月、ね」
「綺麗な絵ですね。いい事あるってことですか?」
「いえ、正位置の月は、迷い、誤解、疑心暗鬼。あまり良い意味ではないわね。けれど、現状を正しく表しているとも言えるわ」
「誰にでも悩みくらいありそうですけど」
「包介ちゃんは悩んでいても自分だけで解決しようとするでしょう。そんな貴方が青褐先生や私を頼るくらいだもの。生半かな悩みでないからこそ月のカードが現れた、そう考えるべきだと思うわ」
推察と併せるのはずるい。何も言い返せずにいると、濃墨先輩は三枚目のカードを引く。
「三枚目。現状への対策は、あら、法皇の正位置」
「法皇? なんだか胡散臭いですね」
「その感性は分からないけれど……少なくとも、今の包介ちゃんの行動は正しいようね」
「そうなんですか?」
「ええ。法皇は良き相談相手との巡り合わせを意味するの。包介ちゃんが私に悩みを打ち明けたことは、きっと正解のはず」
「遠からず先輩には相談していたと思います」
「あら、ありがとう」
占い頼りになるとは想像していなかったが。正直、青褐先生の助言の方が参考になる気がする。
「嫌そうな顔をしては駄目よ。次で最後だから」
言って、濃墨先輩が捲った四枚目のカードには火の手が上がる塔が描かれていた。背景は豪雨に雷と荒れ放題で、天災をそのまま絵にしたような惨状だ。
「これは未来を示すカード。意味は……災難、事故、暴力、悲劇」
僕の将来は碌でもないらしい。たとえ占いでも、不幸に見舞われると真正面から言われるのは気持ちのいいものではない。責任を感じているのか、濃墨先輩は暗い表情でカードをそそくさとまとめて箱にしまった。
「ごめんなさい。こんなつもりではなかったの」
「いいですよ、たかだか占いですから。それに、生きてれば嫌なことの一つくらい起こります」
「いいえ。私が納得できないわ。何かお詫びをさせてちょうだい」
濃墨先輩にはいつもよくしてもらっている。占いで気分を害したのは事実だが、畏まって謝られるほどではないし、しょっちゅう物忘れを指摘される僕ならば明日には頭から抜けているだろう。
だが、濃墨先輩は一度言い出すと聞かないところがある。嫋やかな笑みに隠れた激情を赤錆さんとの喧嘩で何度か目にしているので、その頑なさはよく知っている。
上手い落とし所があればいいのだけれど。
俯く先輩を前にどうしたものかと考え込んでいると、ふとティーカップが目に留まった。素人目にも分かる上品な造りだ。紅茶に興味がなくとも、これを贈って貰えれば勉強してみようかという気持ちにさせるだろう。
「このティーカップって濃墨先輩が選んだんですか?」
「ええ。そうだけれど」
「あの、良かったらでいいんですけど、プレゼント選びに付き合ってもらえませんか? こういう綺麗なものを贈れたらいいなとは思うんですが、自信がなくて。濃墨先輩が一緒に選んでくれると凄く助かります」
青褐先生の助言通りアクセサリーを買うにしても、僕の感性では酷いことになりそうだ。濃墨先輩なら年齢も考慮した最適なプレゼントを選んでくれるだろうし、一人で女性用のプレゼントを物色する怪しい男という構図も避けられる。
僕にしては冴えた提案である。しかし、先輩の反応は芳しくない。頭は下がったままで、両頬に手を当てて体を揺すっては上目遣いでこちらをちらちらと窺っている。覗き込むようにして視線を合わせると、はっとして顔を背けられた。
「……嫌だったら全然断っていただいて結構ですよ」
「え! 嫌だなんて、そんな。私は全然構わないのよ。ええ、本当に。寧ろ、こちらからお願いしたいくらい。ただ、包介ちゃんから誘われるなんて予想外だったから、少し驚いただけよ。ええ、私は全然大丈夫」
あまり大丈夫そうには見えない。手うちわで顔を仰ぐ濃墨先輩は首まで赤く染まっていて、額には薄っすら汗が滲んでいる。
「本当に大丈夫ですか?」
「ええ、もう大丈夫。取り乱してごめんなさい」
刺繍の入ったハンカチで汗を拭きながら、一つ咳払いする。顔を上げた先輩の笑みは普段よりぎこちなく、薄っすらと開かれた目蓋の奥の瞳は緊張している。
「折角のデートだもの。私も頑張らないと、ね」
デート。そうか、デートになるのか。
帰路についた僕は自宅の玄関扉の前でようやく事態の重要性に気がついた。緊張と興奮がない混ぜになった生温い汗が今更になって溢れ出る。
赤錆さんとのお出かけは何度も経験している。しかし、僕は引っ張り回されるばかりで男女の関係を意識する余裕はなかった。だとすると、濃墨先輩とのお出かけが、僕にとって初めてのデートということになるのか。
「ほ、包介くん? だいじょうぶ?」
「うわあ」
慌てて振り返ると、桑染さんがすぐ後ろに立っていた。
「ご、ごめんね。おはようの返事がなかったから心配になっちゃって」
メールアドレスを教えてから、僕の携帯には毎朝七時に桑染さんからおはようメールが届く。一応、僕からも短文ではあるが返信するよう心がけていたのだが、今朝は偶々忘れてしまったらしい。
「元気ならいいけど……できれば返事して欲しいな」
隣に住んでいるのだし一日くらいどうということはないと思うのだが、僕には大事な約束を忘れた前科がある。不安にさせないためにも、これからは一層気をつけることにしよう。
「それで、さっきから玄関の前でぼーっとしてたけど、何かあったの? わ、わたしでよかったら相談にのるけど」
桑染さんは大人の女性だ。性格は多少、いや、結構変わっているけれど、意見を聞いておいて損はない。そういう軽い心算で、つい口にしてしまった。
「ええっと、今度デートすることになりまして、初めての経験なので緊張してたんです」
和やかだった空気が突如として凍りつく。ぞわりとした怖気に肌は粟立ち、首筋を撫でる夏の風はいやに冷たい。
僕を射すくめる青い双眸。肩を怒らせ背中を丸めても尚、強大な体躯をありありと示す桑染さんを本能的に恐れた故の反応であった。
「どういうこと」
「え?」
「なんでデートするの」
「何でと言われましても、まあ、その、色々事情がありまして」
「わたしとのデートは忘れたくせに」
「いやまあ、そう言われると謝るしかないんですけど」
「謝る気持ちがあるなら先にわたしとデートするべきじゃん」
自然と足が後ずさる。桑染さんは伏せ目で僕を睨んだまま一歩も動いていないが、徐々に距離を詰められていると錯覚するほどの圧力を発している。
「なんで逃げるの」
桑染さんがゆらりと上体を動かした。日々の鍛錬の成果か、本能が察知した危機は反射で体をのけぞらせ、後頭部が誰かにぶつかる。
いつの間に。
振り返る暇もなく抱きすくめられる。唯一自由な首で見上げると無表情の母さんの顔があった。
「なにをしている」
冴えた瞳で、一切の油断なく桑染さんを見据えている。
母さんと桑染さん。二人の格付けはすでに終了している。
桑染さんは先の怒気はどこへやら、みるみるうちに萎み、ついには項垂れてしまった。唇の先が何か言いたげに震えていたが、母さんの強い視線を窺うとそれすらもなくなる。
「学習しない奴だな、お前は」
「……ごめんなさい」
「謝る相手は私か? そんなことも言われないと分からないのか?」
首をすくめた桑染さんが躙り寄り、僕の右手を両手で包む。大きくて柔らかい手のひらは冷や汗でびちょびちょに濡れていて、僕の手はあっという間に水浸しになった。
「ご、ごめんなさい……」
「いや、僕の方こそ。色々申し訳ないです」
色々に何が含まれているのか自分でもよく分かっていないが、謝られた時に謝り返してしまうのは日本人の習性なのだろう。
泣きそうな桑染さんを放っておくわけにもいかず、しばらく手を繋いだままでいると、溜まった汗が熱を持ち始めた。
ぬるぬるした中で握り合っているのも恥ずかしいので引き抜こうとするが、桑染さんの力は強い。僕の手は微動だにせず、諦めて桑染さんに視線で訴えかけるも、何を勘違いしたのか彼女は頬を染めて微笑むだけだ。
そんな、落とし所のわからない時間を引き裂いたのは、業を煮やした母さんが床を踏み鳴らした音だった。
「失せろ!」
「は、はいっ」
びくりと背筋を伸ばした桑染さんは大慌てで自室に戻っていく。残ったのは僕に腕を回したままの母さんと、夏の夕陽に染まった外廊下に響く風の音だけだ。
「おかえり。今日もお疲れ様」
「……うん。早くおうち入ろ」
背中にしがみついたままの母さんが二人羽織で開けた玄関扉から見える慣れ親しんだ室内が、どこか遠いものに感じるのも夏の夕陽のせいなのだろうか。
夕食は無言で終わった。
いつもなら一日の様子すべてを聞きたがる母さんだけれど、烏羽さんと特訓を始めてからはずっとこの調子だ。
「ごちそうさま。お皿、流しに置いといて」
「今日は僕が洗うからそのままでいいよ」
「ううん、ほう君疲れてるでしょ。ママが洗う」
「いいから。これくらいはさせてよ」
腰を上げようとする母さんを抑えて、手早く食器を片付ける。水で簡単に汚れを流していると、後ろから声がかかった。
「背中、大きくなったね」
「そうかな」
「うん。ちょっとだけ」
ちょっとだけか。まあ、変化がないよりはましだろう。
スポンジに洗剤を垂らし、洗い残しのないように食器を磨いていると、水の音に混じって長い溜め息が聞こえる。視線だけ後ろに向けると、物憂げな表情の母さんが頬杖をついていた。
「最近仕事忙しいの?」
「ううん。別に、いつも通りだよ」
「そう? なんだかいつもより疲れてそうだったから。あんまり力になれないかもしれないけど、話したいことがあったら言ってね」
「……それじゃあ聞くけどさ」
「なに?」
「今度デート行くってほんと?」
「あー……うん」
「誰と? 赤錆? それとも烏羽?」
「いや、倶楽部の先輩」
「誰それ。ママの知らない女」
「話したことなかったっけ。何でもできる凄い先輩なんだ」
「……騙されたり、してないよね」
「え、全然そんなことないよ。むしろお世話になりっぱなしなんだ。それに、デートって言っても僕の買い物に付き合ってもらうだけで」
「買い物? 欲しいものあるの?」
しまった。水音で聞こえなかった風体を装って皿を洗い続けるが、内心は焦りでぐちゃぐちゃである。
もしもプレゼントを画策していると知れば、母さんは絶対に遠慮する。有無を言わせぬサプライズだからこそ意味があるのだ。
それ故に、時が来るまでは隠し通さなければならない。背中に突き刺さる強烈な視線を感じながらも皿洗いを続行する。
「言えないの? また、隠し事?」
やはり、母さんの目からは逃げられない。
だが、僕はすでに濃墨先輩を巻き込んだ。簡単に白状はできない。
「……ごめん」
「そう。わかった」
せめてもと真摯に謝るが、何の解決にもならない。
母さんを喜ばせるためなのに、辛い思いをさせている。道を間違えた。そんな予感が心に重くのしかかる。
「やっぱり、母親だけじゃダメなのかな」
「違うよ。そんなことない。僕は」
僕は、充分に幸せだ。そう伝えて抱き締めるのに、泡塗れの手を洗い流してからでは遅過ぎる。
まごつく僕の傍をすり抜ける母さんに腕を伸ばすことさえ叶わない。どこまでも間抜けな僕は、洗いかけの皿を片手に佇むしかなかった。
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