ミックリさんの御呪い
第21話
マラソンは苦行だ。
達成感という不確かな報酬を手にするため、果てしない距離をひたすらに走り続けなければならない。集団で臨まされるせいか諦めることが罪のような圧力があり、限界を迎えようが怪我をしようが足を動かすことを強要される。
時期もまずい。照りつける太陽は気力と水分を容赦なく奪い、靴底を焼く灼熱の砂は立ち止まることさえ許さない。冬場はグラウンドに雪が積もるので、夏のうちにマラソンが授業に組み込まれるのも仕方がないのかもしれないが、それにしても辛すぎる。
設けられた時間制限の中では自分のペースを保つことも難しい。一足先に走り終えた生徒の視線は貧弱な僕を責めているようで、汗と涙の判別が難しくなってきた。
「包介、がんばれ! あと一周!」
醤君の声が遠くに聞こえる。もうすぐこの長い苦行も終わるらしい。
あと一周。まだ一周。
通学路より遥かに短いその距離が永遠のように思える。体力はすでに底をつき、一歩がひたすらに重い。酸素を求めた肺が暴れていて、何をもって足が動いているのか自分でも分からない。上がった顎が視界に焼き付けさせた雲一つない青空は、死にかけの僕を嘲笑うかのような鮮やかな色をしていた。
「よし、頑張った! よく戻ってきた!」
突如として抱き留められる。醤君だ。僕は気がつかないうちにゴールしていたらしい。汗で潰れた目は終わりすら見えていなかった。彼が止めてくれなければ、僕は走りながら息絶えていたかもしれない。
「おー、やっと終わったか。時間もないしさっさと締めるぞー」
荒れ狂う呼吸を整える暇もない。
「気を付け。礼」
「次の授業に遅れんなよ」
大口を開けて欠伸を吐き出した吾亦紅先生の背中を見届け、各々が校舎に戻っていく。背筋を伸ばし仲間内で談笑を楽しむ者や、疲れが抜けきれず俯きがちな者、同い年とはいえ体力差は大きい。青白い顔で必死に息を整える僕は、中でも最底辺の存在だろう。
特訓の成果は未だに表れない。強いて言えば、多少痛みに耐性がついたことぐらいか。つい先日に抱いた淡い期待は、既に色を失い始めている。
泥の沼を掻き分けるような抵抗を感じながらひたすらに腿を上げ、何とか渡し廊下に入る。砂に塗れた運動靴を脱いで汚れを叩き落としていると、頭上から声を掛けられた。
「死にかけじゃん。ウケる」
「これからの課題は体力だな」
赤錆さんと烏羽さんだった。すでに制服に着替えていて、額には汗一つ浮かんでいない。運動靴を靴袋に収めた醤君が立ち上がり、不満げに声を上げた。
「おいおい、こっちはマラソンだぞ。マット運動と比べんなよ」
「は? マット運動も辛いし。ていうか、何で女子の内容知ってんのよ。気持ち悪い」
「
「あっそ。どうでもいいわ」
横柄な態度である。反論は無駄と悟った醤君は大袈裟に溜め息を吐いて、面倒臭そうに顎をしゃくった。
「早く行こうぜ。やってらんねえよ」
「うん」
「あ、ちょっと待ちなさいよ。栗皮が用事あるって」
「えっ、美咲が?」
醤君の表情が一転して明るくなる。たしか、醤君は栗皮さんと付き合っているのだったか。いつも爽やかな彼がもじもじする様子は新鮮で、何となく気持ち悪い。
「なっ、なんだよその目は」
「いや別に」
「言っとくけどな、女子に触られてる時、お前も似たような顔してるからな」
そんなはずはないと思うが、念のため気をつけておこう。
そんな、たわいもない軽口の応酬であったが、横槍を入れてくる者がいた。
「女子に体触られてるの」
赤錆さんだ。なんてことのない真顔だが、言いようのない恐怖と圧力を感じる。
醤君の失言である。筋違いとは分かっていても文句を言いたい気分になり、横目で彼を睨めつける。マラソン由来ではない冷えた汗を額に浮かべた醤君は、素知らぬ風を装いながらそっぽを向いて口笛を吹いていた。
「たまに囲まれるよな。かわいいだのなんだの言われてっけど、そこらへん、男としてどう思ってんだ?」
烏羽さんまで参戦してきた。素直さ故か空気を読むことを知らない彼女は、ずけずけと地雷を踏み抜いていく。
「へえ、そう。そうなんだ」
「いや、その、女子って小さいものに何でもかわいいって言うじゃないか。だから別に本当にそう思われてるわけじゃなくて、なんかこう、その場の流れみたいなものだよ」
「体触られたのは?」
「ええっと、ほら、丁度頭が撫でやすい高さにあるんじゃないかな。きっと」
何が悲しくて己の背丈の低さを根拠に弁明を図らなければならないのか。身を切ったにも関わらず赤錆さんの反応は渋い。
「二の腕とか太ももとかも触られてるだろ。オマエも満更でもなさそうだし」
頼むから静かにしていてくれないか。烏羽さんの言葉は的確に事態を悪化させる。醤君は遠い目で晴れやかな青空を眺めていた。
「よかったね。女の子と仲良くできて」
赤錆さんの怒気が殺気に変わった。据わった瞳に睨まれて、膀胱が縮み上がる。
「ねえ、嬉しかった?」
「嬉しくないです」
「それじゃあ烏羽が嘘ついてるの?」
「アタシ嘘つかない」
もう耐えられない。大声を上げて逃げ出す狂った案が頭をよぎる。小刻みに震える膝が使い物にならなくなる前に実行に移そうと踵を返すと、すぐ後ろに立っていた女子にぶつかりそうになった。
「なにやってんのさ」
腰に手を当てた栗皮さんが呆れた様子で嘆息する。意識を彼方に飛ばしていた醤君の顔に生気が戻った。
「助かった!」
「もう、智がなんとかしないとダメでしょ」
「いやー、正直キツいぜ」
「なにがキツいのよ」
「はいはい、丁もすぐ喧嘩しない」
協力者が一人増えるだけでこうも違うのか。栗皮さんはいとも簡単に赤錆さんを御し、剣呑な空気はあっという間に収拾した。
「それじゃあうちらはもう行くね。智は……後で二人で話そっか。みんなの前じゃ、ちょっと恥ずかしいし。それと、包介くんはあんまり丁に心配かけちゃダメだよ」
颯爽と去っていく栗皮さんの背中が大きく見える。恋人の手腕を誇り、得意げに目配せする醤君に若干の腹立たしさを覚えたが、栗皮さんに免じて言葉にはしなかった。
マラソンとその後の出来事で予想以上に消耗した僕は、すぐに睡魔に襲われた。微睡の中で受けた国語の授業はいつの間にか終わりを向かえ、日直の号令でようやく正気を取り戻したが、起立と同時に膝を机に強打し哀れにも嘲笑の的となってしまった。
「シャキッとしろよ」
いびきをかいていた烏羽さんに注意されるのは釈然としないが、正論なので言い返せない。せめてもの抵抗に不満顔をつくると頬肉を抓られる。
「いたい」
「師匠に生意気な顔するからだ」
烏羽さんは好き放題に頬を捏ねた後、トイレ、と短い言葉を残して教室を出て行った。
赤くなった頬を摩りながら溜息を吐いていると肩を叩かれる。振り向くと、後ろの席の
「なあなあ。最近、烏羽とめっちゃ仲良くね? 付き合ってんの?」
「つーか、赤錆さんはどうしたんだよ」
「濃墨先輩の謎も誤魔化されたままだしな」
またか。最近、この手の質問が増えた。
烏羽さんには稽古をつけてもらっていて、赤錆さんと濃墨先輩は同じ倶楽部に属しているだけだ。共に過ごす時間は長いが、彼女らは僕を手のかかる子供か、暇潰しの玩具くらいにしか思っていない。彼らが期待するような甘酸っぱい関係とは程遠い。
「なんにもないよ。びっくりするくらい」
「なんだよ。つまんねえな」
「そういう松葉鼠君達はどうなのさ。いい雰囲気の人とかいないの?」
玄君と松葉鼠君は数秒顔を見合わせたあと、がっくりと肩を落とした。現実はどこも厳しいらしい。
「まあ、女だけが人生じゃないしな」
「そうだよ、男だけの方が楽しいよな!」
から元気が救いになることもある。
無理に明るい声を出して肩を組んできた松葉鼠君に応えていると、彼の体が大きく揺れた。誰かに背中を押されたみたいだ。
「っテッエなァ」
松葉鼠君は大仰な動作で振り返り、すぐに青くなる。
トイレから戻った烏羽さんが手を振り水を切っていた。
「邪魔」
金縛りの恐怖から解放され、烏羽さんの眉間はずいぶん和らいだが、それでも不意に険しさが覗く。ぶっきらぼうな一言は彼女をよく知らない人を畏怖させるには充分で、松葉鼠君はすごすごと自席に帰って行った。後ろの席の玄君は逃げ場もないので、ただ俯いてやり過ごすことにしたようだ。
「機嫌悪そうだね」
「……別に、悪いわけじゃねえけどよ。近ごろ彼氏がどうとか彼女が欲しいとか、くだらねえ話が聞こえるからうんざりしてるだけだ」
あの夜に聞いた烏羽さんの独白はまだ記憶に新しい。気に入らなければ実力行使を厭わない性格でありながら男性に恐怖心を抱く彼女が恋愛に抱く感情は、ひときわ複雑なのだろう。
「オマエも彼女とか欲しいの?」
「いたら楽しそうだよね」
「ゲ、マジかよ。考えらんねえわ。大体、彼女ができたとして、何して遊ぶんだよ」
いざ問われると答えに窮する。すぐに思いつくのは、どこかに出かけたり、プレゼントを渡したり、そんなところだ。赤錆さんならもっと上手に説明できるのだろうけれど、僕の貧困な想像力ではそれが限界である。
もごもごするだけの僕を前に、烏羽さんは勝ち誇るように鼻を鳴らした。
「なんだよ。一緒にゲーセン行くとか、その程度なんだろ? だったら彼氏と彼女なんて、アタシとオマエの関係と大して変わらねえじゃんか」
「えっ、じゃあやっぱり、お前ら付き合ってるってこと?」
「あ゛?」
聞き耳を立てていた玄君が、耐え切れず、といった様子で口を挟む。
「いや、だって、そういう関係ってことは、付き合ってるみたいなもんじゃん」
音が出そうな勢いで赤くなった烏羽さんの頭にはたしかに湯気が見えた。わなわなと口元を歪める彼女は何故か僕に向き直り、腕を高く振り被る。
「いだぁっ!?」
脳天を直撃した張り手は、目から火が出たと錯覚するほどに強烈だった。
職員室までの道には慣れたものだ。上級生の教室や未だ立ち入ることのない特別教室を通り過ぎた先で威圧感を放つその扉も、何度も呼び出されていればただの木製の引き戸に過ぎない。いつものように三度叩いて中に入ると、ちらりと先生方の視線が集まるが、またか、とうんざりした顔で背中を向けられた。
「黒橡さん」
手招きする青褐先生のもとに向かい、言付けされていた書類を渡す。
今日の呼び出しの理由は、昨日締切の進路希望調査が僕だけ提出されていない、というものだ。日常的に怒られている僕はなるべく早くの提出を心がけていて、件の進路希望調査についてもたしかに青褐先生に手渡した記憶がある。しかし、先生がもらっていないと主張すれば従うしかない。
「あれ?」
机に積まれた紙の束が目に入る。一番上の付箋だらけになったそれは紛れもなく僕の進路希望調査票だった。
「先生も人間です。間違えることはあります」
人間なら間違えた時は謝罪すべきだと思う。
悪びれる素振りもない先生に非難がましい目を向けると、わざとらしい咳払いで誤魔化された。
「そんなことより、最近は烏羽さんとよくお話ししているようですね」
「まあ、席も近いので」
「趣味が合うとは思えませんが。何を話しているんですか?」
「学生らしい他愛もない話ですよ」
「他愛もない?」
青褐先生の声色が途端に冷えた。緩んだ空気がぴりりと引き締まる。
「私が貴方と烏羽さんの関係を知らないとでも思っているんですか」
「えっ」
「放課後、彼女に暴力を振るわれてますよね」
「ああ、そういうことですか」
僕が烏羽さんと特訓していること。本当は隠しておきたいが、赤錆さんの例がある。僕なりに反省し、あれ以来、聞かれた時は素直に答えるようにしていたが、そういえば青褐先生にはまだ説明していなかった。
「稽古をつけてもらってるんです。いじめられてるわけではないので心配しないでください」
「それは知ってます」
それでは何が疑問なのか。意図が分からず首を傾げると、突然手を握られた。僕の右手を包み込む先生の両手は手汗でしっとりと湿っている。
「心配です」
「だ、大丈夫ですよ。烏羽さんはきちんと加減してくれてますし、赤錆さんと濃墨先輩も見てくれてますから」
「……それでも、心配です」
青褐先生が絞り出すように呟く。深く息を吐き出してから僕を見上げた瞳には強い意志が宿っている。
「絶対に怪我をしないと約束してください」
申し訳ないが約束はできない。病院に行くほどの大怪我はしないと断言できるが、青痣くらいはしょっちゅうできる。現に、僕の腹と腿にはすでにいくつもの痣が刻まれている。痛みを知らないまま強くなることはない。
だが、正直に伝えたところで先生を不安にさせるだけだろう。嘘は吐きたくないのでてきとうに笑って誤魔化そうとしたが、先生は無言で小指を突き出してきた。罪悪感を抱えながら自分の小指と結ぶ。
「ゆびきりげんまん、嘘吐いたら……どうしましょうか」
「針千本じゃないんですか」
「できもしない罰を課しても意味がありません。そうですね、マッサージでもしてもらいましょうか」
「まあ、肩叩きくらいなら」
「全身です。先生に嘘を吐くのだから、それくらいは当然でしょう。たっぷり一時間はお願いします」
生徒に求めることではない。真面目ぶった顔で言い放たれた要求は非現実的な内容だが、冗談と笑い飛ばせないのが青褐先生の恐ろしいところだ。
早く強くなって怪我しない。
僕は一人、ゆびきりにしては重すぎる決意を固めた。
「それともう一つ。悩み事があれば、なんでも先生に相談してください」
「なんでもですか」
「なんでもです」
「はあ」
「なんですか、その気のない返事は」
「……すみません」
「いいですか、なんでもですよ。どんな些細な悩みでも必ず相談してください」
単なる定型句かと思ったが、青褐先生は今まさに相談されることを望んでいるらしい。爛々とした目は夜でも光を放ちそうなほどのぎらつき具合である。
悩みはないか。そう問われれば、たしかにある。あまりに個人的で、人を頼るものではないが、僕は今、男一人ではとても解決できそうにない問題を抱えている。
相談すべきか、しないべきか。いや、どのみち先生からは逃れられないし、この場で白状した方が後々楽だろう。
「女性に喜ばれるプレゼントって何でしょうか」
母さんへの贈り物。少し前から考えていたことだった。
最近の僕は突然外泊したり特訓を始めたりで、生活が一変した。当然、事情は事細かに伝えて一応の許可は得たものの、心配性の母さんは気が気でないはずだ。
心境の変化は行動にはっきりと表れている。行き過ぎた発言はなくなったが、物憂げな顔で抱き締めてくることが多くなった。休日、目を覚ますと、僕の手を握ってベッドに腰掛けていたこともある。自主性を妨げたくはないが危険を冒して欲しくもないという揺れ動く親心が、鈍い僕にも察せられた。
勝手気ままを許してもらっている身にできることはないか。短絡的だが、日頃の感謝を形にしたいとプレゼントを贈ることを思いついたのだった。
「相手はどなたですか?」
こういう時に茶化されないのは本当にありがたい。だが、素直に母親です、と答えられるほど僕は大人ではない。
「普段からお世話になっている年上の女性です」
濁した結果、非常に曖昧な回答になってしまった。具体性がなければ助言のしようもない。やはり観念して正直に告げるべきかと思ったが、意外にも先生からの追及はなかった。唇に指をかけ、お世話、年上、と何かを呟いている。
「あの、先生?」
「え? あ、はい、すみません。す、少し考え込んでいたものですから」
何か気になるところがあったのか。それとも、反応が遅れるほど集中して考えてくれているのか。
「その方の好みは分かります?」
「ええっと、素朴な見た目のものが好きみたいです」
「まあ、そうですね。シンプルなものが一番です、はい」
そう言って先生が手を伸ばしたマグカップは飾り気のない無地のベージュ色をしている。母さんも同じような落ち着いた色合いのものを多く持っているので趣味が合うのかもしれない。
青褐先生は演技くさい咳払いをして、急に真面目な顔になる。
「黒橡さん、いいですか。プレゼントは気持ちです」
「はあ」
「どんなものでも構いません。その気持ちが嬉しいのです」
「そういうものですか」
「そういうものです」
得意げに言い切った先生は、ちなみに、と左手の甲を見せる。
「私は身につけられるものを贈ってもらえると嬉しいです。指輪とか可愛いと思います。薬指のサイズは、そうですね……十三号と伝えれば大丈夫です」
十三号というのは女性の平均的な指の太さなのだろうか。聞き慣れぬ単位は混乱だけを生み、気づけば僕は意味も分からずお礼を述べていた。
「うふふ。楽しみにしてますね」
微笑みの理由は分からないが取り返しのつかない過ちを犯してしまった気がする。取り敢えず会釈して、僕は足早に職員室を後にした。
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