第20話

 烏羽さんとの夜を越え、一週間が経った。

 善は急げと校内の人目につかない空間で始められた特訓は非常に実戦的である。型の練習もそこそこに、初日から組手が行われた。

 最初は、女性に暴力を振るうなんてできない、などとすかしていたが、烏羽さんの苛烈さに甘い考えはすぐに正された。ぼこすかにやられた痕は、未だ青痣として残っている。

 厳しい仕打ちに泣きそうになったが、真剣みは増した。痛みは伴うけれど、指導方針は間違っていないのだろう。何度も殴られるうちに、烏羽さんと相対する放課後にも慣れつつある。

「じゃあいくぞー」

「うん」

 とはいえ、あくまで慣れただけで、力がついたわけではない。

 烏羽さんが一足飛びで間合いを詰めてくる。間延びした掛け声とは真逆の鋭い踏み込みに、体は全く追いつかない。

「あいたっ」

 放たれた右の突きが腹に打ち当たる。寸前で腕を引いてくれたおかげで痛みはそれほどでもないが、僕より五割は重い烏羽さんの拳は容易く体を突き飛ばす。

 見えてはいたのに反応できなかった。膝に手をつくに留まれたのはただの意地だ。

「相変わらず軽いな。ちゃんと食べてるか?」

「うん」

「体が一番大事だからな。なんだったら、ウチで食ってけよ」

「まあ、機会があれば」

「そう言うヤツは大抵来ないんだよな」

「あはは」

 溜め息と共に差し出された手を握り、引き起こしてもらう。烏羽さんのような厚く力強い手のひらに近づくには、まだまだ鍛錬が必要だろう。

 強者への道はまだ一歩も踏み出してはいない。だが、道が見えただけでも大きな進展だ。烏羽さんという心強い師もいることだし、修練に励めば花は開かずとも根は張れる。偶然に近い形で得た状況であるが、与えられたものに感謝してしっかり励みたいと思う。

「よし。再開するか」

「はい」

 左足を前に出し、腰に重りをつけるように重心を安定させる。脇を締めて、けれど肩に力は入れず、適度な緊張を筋肉に巡らせる。

 打って出るには経験が足りない。まずは防御が大切なのはゲームと同じだ。烏羽さんの全身をぼんやりと捉え、一挙一動を見逃さないよう注意を払う。

 集中しろ。全身を使え。

 烏羽さんの前足が地を滑るように踏み出され、それに応えるべく重心をずらしたところで、

「からすばあぁっ!!」

 烏羽さんが怒声と共に撥ねられた。如何に鍛錬を積んでいても、無警戒の横腹に体当たりされれば誰でも吹き飛ぶ。

「いってえ!」

「謝れ! 謝れ!」

「何だテメェ、離れろクソッ」

「謝れよアバズレがあっ!」

 乱入者の正体は赤錆さんだった。烏羽さんに馬乗りになって、ぺちぺちと両腕を振り回している。

 何故、赤錆さんがここに。

 いや、それよりも烏羽さんを助けないと。

「誰がアバズレだコラァ!!」

 僕が動くより早く、烏羽さんは抵抗した。

 両足を踏ん張り、腰を跳ね上げて赤錆さんを除ける。完全にマウントポジションをとられていたのに、あっという間に脱出した。なんて力強さだ。

 綺麗に放り出された赤錆さんは顔から芝生に突っ込む。柔らかい地面なので傷が残ったりはしないだろうが、痛いことに変わりはない。鼻の奥に響く鈍痛が、見ているだけの僕にも伝わる。

「なんだテメェは。ヤル気か? あ゛?」

 烏羽さんが凄む。追い討ちをかけず、対話を試みるあたり完全に冷静さを失ってはいないようだが、矛を納めるつもりもなさそうだ。

「……殺す」

 鼻を抑えながら何とか起き上がった赤錆さんも、気持ちでは負けていない。烏羽さんの険しい視線を一身に受けて尚、呪い殺すような目で睨み返す。

 一触即発。

 いつの間にか隣に来ていた醤君と栗皮さんが、ごくりと固唾を飲み込む。どうして彼らが秘密の特訓場所にいるのか。すぐにでも問い質したいが、そんな暇はない。

「ま、まずは落ち着こう!」

 とにかく場を治めなくては。対峙する二人の間に割って入り大きく両手を広げる。

 しかし、僕の震えた弱弱しい声はまるで響くことなく、頭上では剥き出しの敵意がぶつかり渦巻いている。

 武力を行使するしかない。だが、二人同時に止める力量はない。そもそも、僕は烏羽さんに勝てない。ならば当然、相対すべき相手は。

 赤錆さんだ。

 右足を肩幅まで下げてじっとりと腰を落とし、気持ち広めに構える。

 僕と赤錆さんの体格は同じくらいだ。全力で体当たりをかまされれば受け止めきれない。だからといって蹴りで初動を止めるわけにもいかず、避けるだけでは烏羽さんがとどめをさすだろう。

 受け止める、ではなく、受け流す。これ以上の被害を抑えるには、それしかない。

 手を握り、開くを繰り返して、数時間前に廊下で赤錆さんを捌いた感覚を思い返す。

 相手の力に合わせて流す。達人技のように見えるがその実、仕組みは難しくない。

 例えば扉を開く時、人間はドアノブの感触や伝わる抵抗、見た目の材質から重さを推定し適切な力と体勢で押し引きしている。無意識のうちに繊細な力の制御と経験からくる高度な予測を行っているのだ。その予測が崩れた時、即ち、扉が驚くほど軽いか、もしくは扉が突然開かれた時、人は面白いくらい簡単に体勢を崩してしまう。

 僕はその状況を意図的に作るだけだ。赤錆さんがぶつかる瞬間、跳ね飛ばすつもりであっただろう体を半身で捌き、方向を少し変えてやる。芝の上に優しく転がして抑え込めば誰も傷つくことはない。

 来い。

 震える吐息が覚悟に変わる。守るために身につけた術を、あろうことか守りたい人に向けるのは皮肉でしかないが、使うべき時に使えないのでは意味がない。

 初めての実戦だ。上手くやれ。

 心臓がうるさく、熱を持った両腕にむず痒い痺れが広がる。膝が笑うように揺れ、地面を踏み締める感覚は曖昧だが、その瞬間を待ち望む昂揚が心を満たす。縮み切ったバネの如き爆発力が、解放の時を今か今かと急いている。

 見据えた先の赤錆さんがくしゃりと顔を歪めた。痛覚が戻ったか。いや、それでも彼女は飛び込んでくるはずだ。判断に要した時間は数舜で、集中に揺らぎはない。

「おい、包介」

 急に肩を叩かれた。意識の外からの接触は反射で体を飛び上がらせ、爆発寸前の瞬発力は無意味な形で発散させられてしまう。

 折角の集中が台無しだ。恨みがましく横に目をやると、醤君がすぐ傍まで近寄っていた。

「どうしたの」

「さすがにそれはないんじゃないか」

 醤君は非難がましく僕を見つめるが、責められるようなことはしていない。寧ろ、最善の手段をとっている。

「赤錆はさ、お前のこと心配してここまで尾けてきたんだよ。それを敵みたいに扱うのは、ちょっとどうかと思うぜ」

「うん。丁が可哀想だよ」

 栗皮さんまで加わってきた。烏羽さんに至っては先までの怒気を何故か僕に向けている。

「ちょ、ちょっと待ってよ。僕はそんなつもりなくて、ただ、二人を止めようと」

「止めるにしてもよ、そこまで身構えるか?」

「そりゃあ赤錆さんは強いもの。力だって入るよ」

「でもさ、烏羽さんばっかり庇うのはひどくない? 丁だけが悪者になっちゃうじゃん」

「いやいやいや」

 嫌な流れだ。矛先が僕に向きを変えている。突如乱入し、訳も分からないうちに襲いかかってきたのは赤錆さんなのに。

 まずい。この流れは非常まずい。何をどうしようが僕が悪くなる臭いがぷんぷんする。

 早々に納めるしかない。幸いにも殴り合いの雰囲気は消えた。事の発端である赤錆さんを味方につければ、誤魔化して逃げ切れる。

「ね、ねえ赤錆さん。みんなの勘違いだよね。赤錆さんは僕に悪者扱いされたなんて思ってないよね?」

 肩を強張らせて立ち尽くす赤錆さんに媚を売る。火照った体はとうに冷めた。こめかみに滲む生ぬるい汗が気持ち悪い。急拵えの作り笑いのせいで口角が引き攣り、無理に歪めた目尻はひくついているが、これ以外の方法は思いつかない。

「ね? 赤錆さん」

 声を掛けても反応がない。俯いたまま沈黙している。いよいよ緊迫した空気に耐えられなくなり、赤錆さんの顔を下から覗き込む。

「えっ」

 泣いていた。林檎みたいに赤くなった丸い頬の上を玉になった涙が伝う。真一文字に結んだ唇は奥歯を噛み締めすぎたせいか微かに震えていて、シャツの端を握る手は筋が張っている。

「どうした、ケガか?」

 黙りこくる様子を不審に思ったのか、醤君達が駆け寄る。はっとした赤錆さんは泣き顔を見られたくないらしく、僕の胸に顔面を押し付けてきた。真夏の放課後だというのに、彼女の体温は外気よりもずっと熱い。

 事態を呑み込めない栗皮さんは赤錆さんの肩を揺するが、一層と顔を押し付けてくるばかりで離れる気配はない。所在をなくした右手が何となしに彼女の頭を撫でる。

「どうすればいいんだろう」

 僕の手に余る状況であるのは確かだった。




 資料室の窓は北向きにある。丁度いい薄暗さで夏の今頃は涼むにはもってこいなのだが、今日ばかりは日光で室内を一杯に照らして欲しい。

「事情は分かったわ」

 濃墨先輩は長い溜め息を吐き、疲れ切った声色で言った。

 目元を赤く腫らした赤錆さん。逃げ出したい僕。そっぽを向いて貧乏揺すりをする烏羽さん。

 順に並ぶ僕達の対面に先輩が座る構図は正しく先生に説教を受ける生徒である。役目は果たしたとばかりにそそくさと帰宅した醤君と栗皮さんの後ろ姿が今になって恨めしい。

「まず、私が言いたいことは」

 濃墨先輩がゆっくりと人差し指を立て、赤錆さんに向ける。

「今回の件は赤錆ちゃんの早とちりが原因ね。烏羽ちゃんに謝りなさい」

 僕を慮っての行動らしいが、勘違いして烏羽さんに殴りかかった事実は変わらない。

 基本的に謝らない赤錆さんだが、今回に関しては思うところもあるのだろう。喉の奥をぐるぐる鳴らして葛藤するも、ついには烏羽さんに向き直った。

「……悪かったわね」

 存外の素直な謝罪に烏羽さんがたじろぐ。苛立ちを表に出していた手前、気まずいのか肩透かしを食わされた表情で頭を掻いた。

「まぁ、そんな気にしてねぇし。いいよ別に」

 烏羽さんが普段のドスの効いた声とは逆の、ぼそぼそとした小さな声で呟く。

 視線は壁に向けられ会話というには怪しい光景であるが、想いはきっと伝わったはずだ。力みっぱなしだった赤錆さんの肩も心なしか下がって見える。

 兎にも角にも、これで一件落着だ。濃墨先輩を頼ってよかった。僕達だけでは遺恨を残す結果になっていただろう。感謝の意を込めて、心の中で先輩に手を合わせる。

「包介ちゃん。自分は関係ないみたいな顔しないの」

「え、は、はい。すみません」

 突然名指しで怒られた。慌てて姿勢を正したものの、心当たりはまるでない。

「……どうして私が怒っているのか、理解している?」

 薄く開かれた瞼から覗く三白眼気味の瞳が放つ光は鋭い。射すくめられた体が緊張で硬直する。

 心の広い先輩から厳しく追求されるほどの失態は犯していない、と思うのだが、何か話さなければ耐えられない。

「ええっと、あっ、こんなごたごたに巻き込んでしまったからでしょうか。すみません。僕達だけで解決できれば良かったんですけど」

「違うわ」

 ぴしゃりと否定された。言い訳の余地がない明白な否定に涙が出そうになる。

 そんな様子が哀れに映ったのだろう、濃墨先輩は眉間を抑えながら続ける。

「……あのね、私も、赤錆ちゃんも、包介ちゃんが心配なの。それなのに報告もせず、危ないことを始めて、怪我をして、それを隠そうとしたこと。私達はそこに怒っているの」

 僕の体は僕のものだ。どれだけ痛めつけられようが、自分で納得しているならそれでいい。

 そう簡単に言ってしまうのを躊躇うほどの真剣な眼差しが向けられる。濃墨先輩からは真っ直ぐに見つめられ、視線を少しずらせば、腫れぼったい目元の赤錆さんがこちらをじっと覗き込んでいる。

 秘密の特訓という語感に舞い上がっていたのかもしれない。

 烏羽さんの家に泊まった翌日、登校の約束を反故にしたあの日に気がついておくべきだったのだろう。

 いつもより少し遅く教室に入った僕を待っていたのは、無言で僕の自席に座る赤錆さんだった。彼女は僕を見つけると鳩尾に拳を叩き込み言葉もなく退室したのだが、思い返せば瞳に薄っすら涙が滲んでいたようにも思う。殴られたから帳消しになったと安易に捉えた僕が馬鹿だった。

 赤錆さんがどれだけ心配していたかはメールの数でも分かっていたはずだ。小学生の頃とは違い、僕には持ち運べる連絡手段がある。にも関わらず応答がなければ、身に何かあったのではないかと心配させてしまうのは当然のことだ。携帯電話を持つことの意味を、僕は正しく理解していなかった。

「心配かけてごめんなさい」

 深く頭を下げる。謝るには遅すぎるが、それでもけじめはつけなければならない。

 そのまま、数十秒は経っただろうか。鼻を啜るだけの赤錆さんがゆっくりと口を開いた。

「……こっち見て」

 言われるままに顔を上げる。飛んできたのはお許しの言葉ではなく、平手だった。

「いったい!!」

 思い切り振り抜かれ、耳鳴りを伴う破裂音の後にじわりと熱が広がる。痛みが尾を引くスナップの効いたビンタだ。

「うるさい」

 胸倉を掴まれ、額同士がぶつかりそうなところまで強引に引き寄せられる。間近で見る赤錆さんの目は据わっていて、話の通じる気配はない。

「余計な手間とらせやがって」

 彼女は本当に僕を心配していたのだろうか。

 荒い鼻息が前髪を揺らす。至近距離の迫力に目を逸らすが、軽い張り手ですぐに戻される。

「むかつく」

 更に胸倉を引かれ、ついに額がぶつかり合う。互いの息の生温さまでもが分かる危険な距離だ。光のない瞳は底知れぬ恐怖を孕み、見据えられた僕の体は痺れたように動かない。

 だというのに、この甘い高揚はなんだろう。一方的に叩かれ恐怖で固まっているはずなのに、何かを期待して心臓が早鐘を打つ。

 徐々に近づく赤錆さんが視界を埋め尽くしていく。

「おい」

 烏羽さんが赤錆さんの首根っこを捕まえて、強引に引き剥がした。

「人前で何してんだ」

「節操がなさすぎるでしょう」

 赤錆さんは捕らえられた子猫のような格好で苦々しく舌を鳴らした。ぬらりと光る濡れた赤い唇に目を奪われたが、慌てて視線を逸らす。

 再び気まずい沈黙が場を包む。

 怒られているはずが勝手に浮ついた心になっていたのを見透かされたのか、濃墨先輩の視線は冷たい。烏羽さんは困り眉で頬を掻き、赤錆さんが唇を舐める様子は妙に艶かしい。

「……こほん」

 何が正解か分からず縮こまっていると、濃墨先輩がわざとらしく咳払いした。

「話を戻すわね。包介ちゃんが隠し事をしていたことについてだけれど、何か理由があるのでしょう?」

 もっともな疑問である。

 今回の一件は赤錆さんの早とちりが原因だが、そもそも僕が事前に知らせていたなら未然に防げた、と周りの目には映るかもしれない。

 赤錆さんの暴走しやすい性格を知っていてなお、隠れて特訓をしていた理由。

 あらたまって説明するほど大層なものではない。しかし、できることなら誰にも知られたくない。むしろ、この場で白状するのが一番格好悪い。

「包介ちゃん?」

「なに黙ってんだよ」

「……はやくいって」

 沈黙する僕を訝しんだ彼女達が詰め寄る。このまま黙秘を貫けはしないだろう。赤錆さんと烏羽さんは近づき過ぎるあまり互いの頬がぶつかりそうになっていて、いつの間にか立ち上がり後ろに回っていた濃墨先輩が僕の肩に手を置いた。三方を囲まれ、逃げ場はない。

「……みんなに内緒で強くなりたかったんです」

「どういうこと?」

「よくあるじゃないですか。冴えない奴が実は強い、みたいな展開。みんなが危ない目に遭った時、颯爽と悪い奴らをやっつけられたらカッコいいかなあ、って」

 ダサい。丸っ切り中学生男子の妄想だ。口を動かすたびに顔が熱くなる。

「だって嫌じゃないですか。赤錆さんも、烏羽さんも、濃墨先輩も、みんな綺麗だから変な人に襲われるかもしれないでしょう。思い上がりだし古臭い考えですけど、男なら、守れはしなくても壁くらいにはなりたいって思うじゃないですか」

 次々に溢れる言葉は自己弁護などという高尚なものではない。恥ずかしさを紛らわすため捨て鉢で吐き出された痛々しい独白だ。吐けば吐くだけ惨めでみっともない気持ちになると分かってはいても、ひとりでに動く口を止められない。

 情けない。せめて、もう少し実力がついていれば、もっと堂々としていられたのに。

 皆の生暖かい眼差しが舐めるように肌にこびりつく。いっそ貝にでもなってしまいたい。

「だから言いたくなかったんだよ」

 恨言がぽつりと零れる。涙までもが零れる事態は避けられたが、心は泣いていた。

「言葉で聞くとめちゃくちゃ恥ずかしいヤツだな」

 烏羽さんの忌憚のない意見が突き刺さる。彼女の言葉は誤魔化しがない分、切れ味が鋭い。

「まあまあ。男の子らしくていいじゃない。私はとっても素敵だと思うわ」

 濃墨先輩の上辺だけの心遣いもまるで響かない。僕の髪を撫でる手つきには苦笑いが透けている。

 どうしてこんな辱めを受けなければならないのか。もう放っておいてくれ。

 寸でのところで堪えた涙がとうとう溢れ出しそうになったその時、意外な人から救いの声がかかった。

「あたしはいいと思うけど」

 唇を尖らせた赤錆さんが単調に言う。

「好きにさせればいいじゃない。本人がやる気になってるんだから。もちろん怪我はダメだけど、貧弱体質から抜け出すいい機会でしょ」

「私は包介ちゃんがこのままでも構わないわ」

「あんたがそうでも包介がイヤっていってんの。大体、包介が自分から何かやりたがるなんて珍しいんだから。あたし達の役割は、茶化さないでちゃんと見守ってやることよ」

 違う意味で泣きそうだ。赤錆さんがこんなにも僕のことを考えてくれていたなんて。

 感謝の暖かい気持ちで胸がいっぱいになる。赤錆さんはちらりとこちらを見やると鬱陶しそうに手を払ったが、それでも僕は彼女を見つめ続けた。

「……赤錆ちゃんの言う通りね。包介ちゃんが決めたことだもの。きちんと応援してあげるのが年長者の務めよね」

「まあ、アタシは鍛えるって決めたからな。今更どうこう言わねえよ」

 赤錆さんの言葉に押され、二人の態度も軟化する。

 何となく中弛みした空気の中、濃墨先輩が手を打った。

「はい。今日の活動はこれでおしまい。暗くなるうちに帰りましょう」

 窓に目を向けると、空の青色は淡く色を変え始めていた。

「ウィーッス」

 烏羽さんが気怠げに立ち上がり、てきぱきと帰り支度を済ませた先輩に続いて部屋を出る。二人を待たせては申し訳ないと席を立とうとするが、赤錆さんに二の腕をつねられた。

「いたっ」

「痛くないでしょ」

「それはまあ、うん」

 声が出るのは癖みたいなものだ。赤錆さんが僕の腕を支点に立ち上がる。

 顔が近い。上体が仰け反るが、つねられたままの二の腕を引かれて戻される。

 無言でたっぷりと僕を観察した赤錆さんが不意に口元を和らげた。

「ちゃんと守ってよね」

 薄く微笑んだ彼女に覚えた不思議な高鳴りは何だったのだろう。帰って一眠りしたあとも、結局正体は分からずじまいだった。




 赤錆さんと烏羽さんのいざこざがあってから数日が経った。

 あれから特訓は続けているけれど、僕の体には依然変化はない。

 だが、痛みを恐れて目を瞑ることはなくなった。避けられなくとも、来ると分かれば我慢はできる。

 ただの根性論で、打たれ強さとは違う。むしろ、寿命を縮めそうな変化だが強者への一歩には違いない。

 いつだって、倒れそうな自分を支えるのは強い精神力だ。蝶のように舞えずとも、岩のように耐え忍ぶ心があれば、いつかは針を突き立てる隙も訪れよう。

 そう、知った風なことを考えてはみたものの、代わり映えのない毎日は少しずつやる気を削いでいく。それでもなお僕が特訓を続けられているのは、師である烏羽さんが絶対的なことと、取り巻く彼女達のおかげだろう。

「いくわよ包介!」

「うん」

 放課後、すっかり足を運び慣れた旧体育館裏の庭に赤錆さんの声が響く。彼女は闘牛のように足踏みを繰り返し、充分に足元を確かめてから前傾に低く構えた。

「ふんっ!」

 荒く息を吐き出した赤錆さんが、僕を目掛けて走り出す。一直線に飛び込む体はそれなりの速さで、正面から受け止めるにはお互い怪我をしそうな勢いだが、今はそれほど怖くはない。

 赤錆さんは軽く、動きは直線的だ。屈強な男が同じことをすれば非常に厄介だけれども、自身と同程度の体格ならば未熟な技術でも捌くことはできる。

 肉薄した赤錆さんが目の前で大きく両腕を広げる。僕を抱え上げ地面に叩きつけるつもりだろう。

 動作が大きい。重心を前に移しながら屈み、腕を掻い潜る。組みついてしまえば、体重で押し込みあっという間に倒せる。

 はずだった。

「うわっ」

 距離感を間違えた。

 赤錆さんの腕は想定より早く迫っていて、遅れた僕は為す術もなく捕らえられる。

 こうなると止まらない。勢いをそのままに僕を押し倒した赤錆さんは愚直な突進からは想像がつかない見事な技術で馬乗りになる。

「ふん」

「いたっ」

 彼女の張り手が両頬を襲う。痛みはないが、舐めるように肌を押すそれは視界と首の自由を奪う。足をばたつかせても、赤錆さんの尻は丁度丹田に降ろされている。僕の筋力では持ち上げることができない。

「おいおい、なにやってんだよ」

 いいようにやられ抵抗の気力すらなくしたのを察したのか、烏羽さんが嘆息しながら間に入る。赤錆さんの張り手は一応止まったが、僕から降りる気はないのかどっしりと腰を落としたままだ。

「あのなぁ、あれくらい避けられただろ。なんで上手くいかねえんだ」

「ごめん」

「別に謝ることじゃねえけどよ。真面目にやってんのは分かるし」

 目測を誤った理由に心当たりはある。

 使い物にならない右目のせいだ。日常生活に支障はないものの、ふとした時に枷になる。

 相談して改善するものでもないので、地道に訓練を続けていくしかないだろう。

「まあ、あたしが強くなってきたのもあるけどね。やっぱ包介は尻に敷かれるくらいが丁度いいんじゃない」

「あ゛? オマエのどこが強いんだよ。さっきのぶちかましだってひどいもんだぞ。女じゃなかったら、避けて蹴られて、それで終わりだ。ちゃんとコイツの優しさに感謝しとけよ」

「は? 喧嘩売ってんの?」

「ハッ、弱いくせにイキがんなよ。また泣きベソかく羽目になるぞ」

「は?」

「あ゛?」

 人のお腹の上で喧嘩するのはやめて欲しい。たちどころに不穏な空気が広がり、赤錆さんの尻圧が重くなる。

「……何をしているのよ、貴女達」

「濃墨先輩」

 赤錆さんと烏羽さんの二人だけなら、この場はとっくに崩壊していた。今もこうして特訓を続けられているのは濃墨先輩の存在が大きい。

 あの一件の時、赤錆さんの誤解は解け和解はしたものの、僕が特訓に時間を割くことについて彼女は頑として譲らなかった。僕の意思を蔑ろにした主張に烏羽さんは苛立ち、議論は平行線どころか再び殴り合いに行き着きそうだったが、濃墨先輩の一声であっという間に収まった。

 僕の特訓は倶楽部活動の一貫とする。週に二回を目処とし、特訓の際は必ず赤錆さんと濃墨先輩が立ち会う。

 建設的な提案である。それぞれが少しずつ妥協し、最善でなくとも納得はできる。そうして僕は、後ろめたさもなく悠々と特訓に取り組めるようになったのだ。

 見ているだけでは暇だと赤錆さんが混ざるようになったのは予想外であったが。

 おかげで烏羽さんの指導計画が狂い、徐々にではあるが空気が悪くなっている。もちろん、赤錆さんは邪魔をするつもりではなく善意の申し出であり、烏羽さんも自分とばかりでは変な癖がつくかもしれないと自らが許可をだしたので強く指摘することができない。濃墨先輩の仲裁でとりあえずの均衡は保っているものの衝突は時間の問題だ。

「包介ちゃんの上で喧嘩しない。赤錆ちゃんは早く降りなさい」

「は? これから寝技の練習だから。口出ししないで」

「オマエに寝技なんてできるわけないだろ。べたべたべたべた気持ちわりい。遊びたいなら向こういっとけ」

「は?」

「あ゛?」

「……頭が痛くなってきた」

 一人で筋トレをしていた方がいいのかもしれない。僕の腹の上で争う彼女達を眺めているとそんな考えが浮かぶ。

 けれど、そもそも一人ならトレーニングを始めることはなかっただろう。強さに憧れはすれど、結局は行動に移さず終わっていたに違いない。

 烏羽さんに強引に連れて行かれたあの日。被害者のような気持ちでいたが、彼女について行くと選択したのは僕自身だ。お腹を痛める出来事は増えてしまったけれど、望む自分に向けて努力はできている、と思う。

 一人で過ごす時間と、誰かと過ごす時間。

 優劣をつけるものではないのだろう。どちらにも学びはあり、かけがえのない時間である。

 ならば、彼女達が傍にいてくれるうちは。

 いつ失ってもおかしくないからこそ、共に過ごせる今を大切にしたいと、そんな風に思った。

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