第19話

 腹を割って語り合った数分後、すっきりしたらしい烏羽さんは早々に眠りに落ちた。彼女の安眠を守るという目的を達成したのだが、午後十時現在、新たな問題が発生している。

 寝苦しい。

 烏羽さんの四肢が僕の体に絡みついている。指が組み合った左手は手のひらどころか前腕までぴったりと合わさり、空いた右手は尻を頻りに撫で摩る。長く肉付きの良い二本の脚は、朝顔の蔦が支柱に巻き付くかの如く腰に回され、身動きはまったくとれない。包み込まれるように密着され、暑さで頭が馬鹿になりそうだ。

 辛うじて自由な指先で腕をつついてみるが、起きる気配はない。それどころか両の手足が鈍く、しかし力強く体の上を這い的確に関節の動きを制してくる。

「いたいいたいいたい」

 ギチギチと締め上げられ苦痛に喘ぐ僕とは対照的に、烏羽さんの寝息は規則的で穏やかである。安眠の提供を果たせたことを喜ぶべきか。いや、呑気なことを考えている場合ではない。

 汗ばみ吸い付く肌。ボディーソープの甘い香り。つむじをくすぐる生々しい吐息。

 クラスで無敵の逞しい体つきは、いざ触れると艶かしく官能的だ。指が沈み込んだ奥には筋肉質な弾力があり、豊かな体に包まれていると邪な猛りが沸々と湧いてくる。

 いけない。

 信頼があってこその共寝だ。烏羽さんを裏切るようなことがあってはならない。音を漏らさず深呼吸してドロドロした欲望を抑えつける。

「んんっ」

 悩まし気な息が鼓膜を震わせる。もぞもぞと位置をずらしたかと思えば頭を抱き寄せられて、顔面がすっぽりと胸元に収まってしまった。

 おっぱいって柔らかいんだなあ。

 暴力的なまでの多幸感が脳を埋め尽くす。母さんの母性と強引さが入り混じった押しつけがましい胸や、赤錆さんの絶壁じみた胸とも違う。偶然当たった榛摺さんの胸は突然の出来事で驚きが勝った。

 同級生の、それも豊かな柔らかさは僕が知っている胸とは明らかに感じるものが違っていて、これこそがまさに僕が初めて触れた胸、いや、おっぱいなのかもしれない。

「いや」

 そんなことを考えている場合じゃないだろう。

 腰に回されていた足の片方がするりと肌を撫でながら降りていく。またしても理性を持っていかれそうになるが、拘束は緩んだ。絶好の好機である。

 再び動きを制限されるより早く腰を引く。少しでも体を離さなければ、いよいよ過ちを犯しかねない。

「んふぅ」

 それは失策だった。

 少しばかりの距離を稼ぎほっと息を吐く間もなく、僅かに開いた両足の間を烏羽さんの右足が割って入ってきた。僕のより太く逞しく、それでいてほんのりと肉ののった太腿が股下に当てがわれる。

 下腹の奥が熱い。股間の一物が優しくやわっこい感触に押し上げられる。スパッツと皮膚の境界線はすでに融解した。そう錯覚するほどの興奮が全身の感覚を曖昧にし、ただ気持ち良さだけが脳に深く刻まれる。一度、赤錆さんに教え込まれたせいだろう。言葉と感触で深く理解した気持ち良いという感覚は爆発しそうな快感をもたらしていた。

 だから、喜ばしいことなのだろう。滾る情欲が暴発する前に与えられた痛みは歓迎すべきものであるはずだ。

「ぽぅ」

 押しつけられた太腿が勢いよく股の下を通る。道すがら、金玉を轢き転がして。

 悲鳴を抑えられたのは奇跡に近い。足蹴にされた時とは違う内臓が圧し潰されるような鈍痛が腹の下でぐるぐると回り続ける。痛みは薄れず永遠に続くかに思えてしまう不快感が多大なストレスを与えたためか、脳内では二つの胡桃が掌の中で擦れ合う映像が繰り返し流れていた。

 痛いというより苦しい。苦悶に表情を歪めてみても渦巻く苦痛が和らぐことはない。

 再び烏羽さんの腕が伸びる。全身を包む暖かい肉は憎らしくなるぐらい母性的で、一人で耐えるには重すぎる痛みに苛まされる僕の身体は彼女の抱擁を無抵抗に受け入れる。

「ふっ、んふふっ」

 不思議なもので、こうしてくっついていると苦しみが薄らいでいくように感じる。頭上で漏れる妙な笑い声も気にならない。原因は烏羽さんであることも忘れ、されるがままに身体を預けてしまう。

 女性の神秘というべきか、煮え滾っていた情欲はすでに霧散した。覚醒した脳は再び微睡みに入り、目蓋を下ろせばすぐにでも眠れそうだ。依然鈍痛は付き纏うが、烏羽さんの僕より熱い体温は痛みを全身に散らしていくような暖かさがある。

 抱き合いながら眠る。

 年頃の異性同士、有り得ない行為だ。しかし、僕の邪な欲望は痛みと共に徐々に消え失せ、大した問題ではないようにも思えてくる。そもそも、烏羽さんが気にしていないからこそ寝床を共にしているのであって、欲だの常識だのの葛藤は僕の独り相撲だ。悩むのも馬鹿らしいと現状を都合よく解釈してしまうほどに落ち掛けた頭は一割も稼働していない。眠気に身を任せてしまえば、明日の朝には何もかも解決しているだろうなどと根拠のない万能感まで湧いてきた。

 後回しの甘い考えだ。

 だから、気が付かなかった。いつの間にか居間に電気が点いていて、大柄な男性が僕らを見下ろしていることに。

「誰だオマエ」

 もっともな疑問だった。




 空気が重い。重いと感じているのは僕だけかもしれないが、同じ状況に立たされて平常心を保てる者はいないだろう。それはきっと、目の前の男性も同じはずだ。

 娘が知らない男と一緒に寝ているところに出くわす父親の気持ちなんて想像したくもない。

 台所で何やら用意をしている広い背中を見やる。

 パンパンに膨れ上がった広背筋。まくったワイシャツの袖口を限界まで押し広げる上腕は丸太をへし折れそうなほどに逞しく、鍛え抜いたヒラメ筋はスラックス越しでもくっきりと形が分かる。

 背丈は百九十センチはあるだろう。嘘みたいに筋肉を搭載した体は百キロに届くと思われる。スーパーマンの衣装が似合いそうな人を初めて見た。

「コーヒーは飲めるかい?」

「アッハイ、ダイジョブデス」

「大人だなあ」

 コーヒーは得意ではないが、否定する勇気は当然ない。

 窮屈そうに準備を終え、振り返った男性が手に持つカップは異様に小さい。体が大きすぎて錯覚しているだけと頭では理解できるが、それにしたって小さく見える。不思議の国に来たみたいだ。

 目の前にカップを置かれ、対面に男性が腰掛ける。僕に威圧感を与えないためか爽やかな笑みを貼り付けてはいるが、太い眉に顎下に生え揃った無精髭、彫りの深い顔立ちは野性味を隠し切れていない。

烏羽からすば刑事けいじ薫子かおるこの父親だ。刑事さんって呼んでくれな。……いや、お義父さんの方がいいのか?」

 冗談でも笑えない。

 とにかく機嫌を損ねまいとひたすらに俯いていると、萎縮する僕を見て取り繕う意味はないと悟ったのか、刑事さんは一つ咳払いをして表情をきりりと正す。

「君の名前は?」

「く、黒橡くろつるばみ包介ほうすけ、烏羽さんとは同じクラスです」

「へえ。どっかで聞いた名前だな。まあそれはおいといて、黒橡君は一体ウチで何をしてたんだ?」

「……金縛りの調査、です」

「金縛りぃ?」

 これだけでは何の説明にもならない。共寝に至った経緯について詳しく話す必要がある。

 放課後、金縛りについて相談を受けたこと。

 就寝中の烏羽さんを見守るため、突然外泊が決定したこと。

 烏羽さんからの提案を受け、手を繋いで眠っているうちにいかがわしい態勢になってしまったこと。

 順を追って説明したが、信じられない内容だと思う。大して仲のよくない男女が同じ屋根の下で過ごすことになるなんて、どんな理由だろうと信じられるわけがない。てきとうなことを言うなとぶん殴られるのではないか。

 けれど刑事さんは深く頷くだけで、コーヒーを一口啜るとしみじみと熱い息を吐き出した。

「大体分かったよ。……大変だったなぁ、君」

 どういう意味だろうか。大変なのは食事や寝床の用意をしてくれた烏羽さんの方だ。

 分かりやすく顔に疑問符が浮かんでいたためか、刑事さんが頭を振る。

「いや、そうじゃなくてさ。黒橡君ぐらいの歳だと、我慢するの大変だったろ」

「……はい」

 親御さんの前で肯定することではないが、ひとりでに言葉は漏れていた。それほどまでに危うい状況だった。

「ハハハ、素直な子だな。でもまあ、男だから仕方ないよな。変に誤魔化すよりよっぽどカッコいいぜ」

 刑事さんが豪快に笑う。喉奥を震わせる野太い笑い声は山賊みたいな恐ろしさがあるが、筋肉だらけの逞しい体には上辺だけの爽やかな笑顔よりずっと似合っている。

「しかし、金縛りか。やっぱり無理させてたのかなあ。なあ、薫子は学校ではどんな感じだ?」

「頼りにされてます」

 怖がられてます、と正直には言えない。

 我ながら流暢に嘘を吐いたと思ったが、刑事さんは目を細めじっとりと僕を見つめる。

「嘘だな」

「えっ」

 あっさりと見破られた。

「刑事の目は誤魔化せないぞ」

 刑事さんはニヤリと笑う。

 駄洒落か何かと勘違いしたが、聞けば刑事さんは本当に警察署に勤めているらしい。刑事第一課に所属する警部補でドラマに出てくる刑事と似たような立場だそうだ。

 名前と同じ役職に就くなんて皮肉だろ、と彼は笑ったが、背広にコートを羽織った刑事さんが事件現場に駆けつける場面は想像に容易い。見た目だけでも天職に思える。

「薫子は俺に似て目付き悪いからなあ。やっぱり学校でも怖い顔してるか?」

「……正直な話をしますと、クラスでは怖がられてます。でも、すごくかっこいい子だなって思います」

 僕が数と暴力に屈しようとした時も、烏羽さんは自分の正義を曲げなかった。弱さを自覚していながらも不合理に立ち向かっていた。

 信念を持ち、実行できる人は格好いいものだ。彼女は理想に届かない自分を嗤っていたが、静かに語る姿は夜の闇の中にありながら輝いて見えた。

 烏羽さんが絶望した現状は僕が憧れていた場所だ。その領域にさえ到達できていない僕には本来、彼女の悩みを聞く資格はないのだろう。軽はずみな提案が今更になって恥ずかしくなった。

 自嘲気味な気持ちが顔に出ていたのか、刑事さんが思い遣るように語る。

「黒橡くんもいい男だよ。痛みを知ってるってのはいい男の条件だ」

 僕が知っているのは交通事故の痛みくらいだ。いや、覚えていないのだからそれすらもない。ぬくぬく育った甘ったれだ。

 折角の心遣いを真っ向から否定するのは失礼かと思い苦笑いで場を濁すが、刑事さんに誤魔化しは効かない。

 刑事さんの人差し指が右目の下を指差す。

「傷、かなり深く残ったろ」

 数舜、呼吸を忘れた。

 傷のことを知っているのは小学校から一緒の同級生と一部の生徒、あとは母さんと榛摺さんだけだ。実際に傷痕を見た者となると更に数は限られる。

 烏羽さんが話したのか。それにしては指さす箇所が正確だ。

 一体、どこで洩れた。

 呆気にとられる僕を置き去りに、刑事さんは続ける。

「思い出したよ。四年前の交通事故。通報受けて出動したの、俺なんだ。あの頃は交番勤務だったからなあ。子供相手の事故は何度かあったけど、君ぐらい血塗れなのは初めてだったからよく覚えてるよ。あの日は路面の凍結が酷くて──」

「教えてください。僕を撥ねたのは誰ですか」

 考えるより先に口が動いた。

 刑事さんは僕が忘れた過去を知っている。現場検証を行ったのなら、ひょっとして母さん以上に事情を知っているかもしれない。

 僕はいつ、どこで、どのようにして、誰に撥ねられたのか。聞かねばならないことは山のようにある。

 刑事さんは突然の前のめりな姿勢に目を丸くしていたが、僕の心情を感じ取ってくれたらしくすぐに真剣な面持ちになる。

「……そうか、君は憶えていないんだな。大まかにしか答えられないが、それでもいいか?」

「はい」

「近所の第二公園は知ってるか? 君が撥ねられたのはあの入口すぐ傍だったな。時期は二月の中頃くらいか。不意に君が飛び出してきて、ブレーキが間に合わなかったらしい」

「原因は僕にあるんですね」

「そうだ。運転手の話が真実だとすればな」

「嘘の可能性もあるんですか?」

「ああ。でも、現場を見れば何が正しいのかは大体分かる。それに、嘘を吐く余裕があるようには思えなかったな。なにせ、運転手は当時大学生の」

 そこまで言って刑事さんは止まった。口元に手を当て、下を向く。

「刑事さん、続きを」

 反応はない。

「刑事さん」

 依然、反応はない。

 何を黙り込む必要があるのか。守秘義務か。僕は当事者だし、すでに終わった事故である。本来知り得た情報をもう一度聞くだけだ。傷の復讐をするわけでもない。たとえ規則が許さなくとも、口頭で教えるくらいならいいだろう。

 それに、刑事さんは僕が飛び出したと言った。僕は純然な被害者ではない。無邪気では済まない不注意で運転手の人生を狂わせてしまった可能性さえある。

 聞かずにいられるか。こんなこと。

「刑事さん」

「それは君の癖か?」

「はい?」

「それだよ」

 僕を見据えたままこめかみを指差す。そこでようやく指がこめかみを叩いていることに気がついた。いつもの悪癖だ。一時の衝動に任せ、年長者を前に苛立ちを露わにしてしまった。

 恥を晒し、自分ばかりに没頭していた頭の中が少しずつ冷えていく。

「すみません」

「いいさ。大切なことだ」

 刑事さんは簡単に笑い飛ばして、コーヒーを飲み下した。重油のようにどろりとしたそれは僕が戯れに嗜むものとはまるで違い、大人との差を否応がなしに思い知らされる。

「別に意地悪をしたいわけじゃないんだ。自分のことなのに知らないのは気持ち悪いよな。けど、誰が君を撥ねたのかは当人の口から伝えるべきことだと思う」

「どういう意味ですか」

「そのままの意味さ。俺が伝えるべきことじゃない。君を撥ねた誰かが直接、伝えるべきことだ」

 刑事さんの口振りは僕が僕を撥ねた誰かと相対する時が訪れるように聞こえるが、事故から四年間、音沙汰はない。その誰かと今更接触できるとは思えない。

「話し込んじゃったな。子供はもう寝る時間だぞ」

 刑事さんは残ったコーヒーを一息で嚥下した。突出した喉仏がごくりと震える。

 話はまだ何も終わってはいない。食い下がろうと身を乗り出すが刑事さんは僕から視線を切ると、椅子に掛けた背広に手早く袖を通す。

「悪いが俺はこれからもうひと仕事だ。薫子の顔を見に寄っただけだしな」

 時計は既に明日を示していた。過酷な職務に再び挑もうとする刑事さんを自分の都合で引き留めるわけにもいかない。走り出しそうな口を無理に噤む。

「悪いな。あと少し、我慢してくれ」

 すれ違い様に大きな手が髪を掻き回していく。まるで納得のいかない頭には何の気休めにもならず、市民を守る広い背中も恨めしく映る。

 結局、眠りに就いたのは三時を過ぎた後だった。




「起きろ」

 優しく揺り動かされる。ぼやける目を瞬かせて曇りを取り払うと、烏羽さんの顔がすぐそこにあった。僕を見下ろす彼女はすでに制服に着替えている。

「おはよう」

「おう。ぱっぱと顔洗ってこい」

 促されるままに立ち上がる。足裏に伝わる畳の感触が新鮮で、仄かな井草の香りが寝ぼけた頭に少しずつ広がって、ようやっと状況を理解した。

「ああ、烏羽さんの家だった」

「当たり前だろ。何言ってんだオマエ」

 不審がって僕を見つめる彼女にてきとうな誤魔化し笑いを返して、洗面所に向かう。他人の家のはずが迷わず辿り着けたことに少し不思議な気持ちになる。

「タオルてきとうなの使ってな」

「うん」

 鏡に映る顔は酷く不満げだ。寝不足が原因か、薄っすらと隈も浮かんでいる。あちこち跳ねた重たい髪の毛は右目の傷こそ隠せてはいるが人前に出せる状態ではなかった。

 冷水で頭を丸洗いして、こびりついた湿気を落とす。掌が傷痕の上を通る度、凹凸が引っかかり欠けた目蓋がベロベロと裏返るが慣れたものだ。昨晩から燻る不満までは洗い流すことはできないが、それでも幾分すっきりした。

 目についた大きめのバスタオルを手に取り、水気を拭き取る。乾けばまた跳ねるのだろうが、一先ずは整って見えるので問題ない。

「ありがとう、終わったよ」

「まだびしょびしょじゃねぇか」

「え? そうかな」

「そうだよ。ドライヤーかけてやるから先に飯食べな」

 食卓の上にはほうれん草の味噌汁とご飯、玉子焼きが並べられている。質素な献立ではあるが、烏羽さんは殆ど一人暮らしのようなものだ。早起きして朝ご飯を用意するだけでも尊敬に値する。

「いただきます」

「おう」

 烏羽さんが対面の椅子に座る。女の子は何かと準備に忙しいと赤錆さんはよく愚痴を溢しているので、烏羽さんもおめかししたり、家事に勤しむかと思ったが意外にも暇しているらしい。頬杖をついてじっと僕を見つめている。眠気が少し残っているのか、学校にいる時よりも目元の険が和らいで見える。

「烏羽さんはもう食べたの?」

「ああ。オマエ、全然起きなかったからな。アタシが起こさなかったら遅刻してたぞ」

「目覚ましがあれば起きられるんだけどなあ。手間掛けてごめんね」

 謝りながら玉子焼きを口に運ぶ。

「あ、美味しい」

 甘い味付けだ。卵の層は薄く、食感が柔らかい。しかしながら、ほのかな醤油の風味がお菓子っぽさを消している。鰹ダシの効いた薄味の味噌汁ともよく合っている。

「オマエも甘い方が好きなのか」

「も?」

「お父も甘いのが好きなんだ。男ってのはいつまで経っても舌が子供なんだな」

「烏羽さんはどっちが好きなの?」

「……甘い方」

 恥ずかしいことではないのだから変に茶化さなければいいのに。

 烏羽さんは恨めしげにこちらを睨むが、悪いことをしたつもりは全くない。気にせず味噌汁を啜る。

「よく噛めよ」

「うん」

 言われた通りに黙々と顎を動かす。烏羽さんの視線を受けながら十数分、米粒の一つも残さず食べ切る。

「ごちそうさまでした」

「ん」

「美味しかった」

「ん」

「昨日の親子丼も美味しかった。料理上手なんだね」

「……もういいからさっさと頭乾かすぞ」

 そう言って立ち上がり、食器を片付けようとする烏羽さんを慌てて制する。昨日に引き続いてご馳走になってばかりなのは流石に心苦しい。昨晩は有耶無耶にされたが、今回ばかりは皿洗いくらい手伝いたい。

 しかし、烏羽さんは僕の未だに水気をたっぷり含んだ長い髪を早くなんとかしたいようで、指先がわきわきと蠢いている。

 一先ずは食器をひとまとめに流し台に移して水にさらしておく。背中に刺さる烏羽さんの視線に従い洗面台に向かうと、彼女は得意げに鼻息を吐き出し、僕の両肩に手を置いた。鏡に映る烏羽さんは僕より頭一つ背が高く、立ったままでも支障はなさそうだ。

「人の頭乾かすの初めてだ」

「まあ、あんまりない機会だと思うけど」

「なんだよ。テンション低いな」

「ドライヤーって面倒くさくない?」

「ちゃんと乾かさないと臭くなるぞ。それに、こんだけ長いと犬みたいで楽しそうだし」

「犬……」

「なんだよ。犬可愛いじゃねぇか」

 複雑な気持ちだが、烏羽さんにはお世話になった。濡れた頭を貸すくらいのことはわけない。

 烏羽さんが温風をあてながら僕の髪をもさもさと手櫛でとかす。無遠慮な手つきは本当に犬を可愛がるような荒々しさであったが、指の腹で行うそれに痛みはなく、なんだか安心する。

「ん」

 不意に、烏羽の指が傷痕に触れた。彼女は小さく声を漏らしたが、表情は変わらない。

 烏羽さんが無言のまま傷痕をなぞる。

「ホントに傷、あるんだな」

 傷痕のことを知っている人は限られる。実際に見た人は更に少ない。

 だが、僕みたいな地味なやつが奇天烈な髪をしている理由を知りたがる人もいるだろう。クラスメイトと交流の薄い烏羽さんさえ知っていた。僕が気づいていないだけで、公然の秘密になっているのかもしれない。

「今も痛むのか?」

「ううん」

「そうか」

 烏羽さんはそれきり黙り込み、また髪をとかし始めた。荒々しかった手つきは心なしか丁寧で優しい。

 彼女は僕の傷痕に触れ、何を思ったのだろうか。

 グロい。気持ち悪い。

 概ねそんなところだろうか。間違っても印象が良くなることはない。一夜を明かし、せっかく縮まったと思った距離が再び開いてしまった。

 仕方のないことだ。榛摺さんのように傷がきっかけに会話が弾む方が珍しい。普通は気味悪がられて終わりだ。

 言葉のない洗面所は落ち着かない。手持ち無沙汰で右手が前髪を撫でる。烏羽さんがパチンとドライヤーの電源を切り、いよいよ室内に音がなくなった。

「直接見てもいいか」

「えっ」

「いやならいい」

「い、いや別に。烏羽さんが見たいなら」

 触れた時の凹凸で醜い顔面は想像できたはずだが、興味本位だろうか。恐る恐る前髪を上げる。隠された傷痕はいつもと変わらず酷いものだ。光のない右目は座礁して乾いた鯨のようで、鏡に映る僕達を無感情に反射する。

 洗面台の照明の明るさに目蓋を閉じるが、欠けたそれでは満足に役目も果たせない。視界の半分が光に覆われ、チカチカと明滅を繰り返す。

「もういい?」

 烏羽さんは答えない。鏡越しに僕の焦点の合わない右目を睨みつけている。

「烏羽さん?」

「……ああ、悪い。もう大丈夫」

 二度目の呼び掛けでようやく反応した烏羽さんはバツが悪そうに僕の頭を撫でる。

 前髪を下ろして抑えれば、いつも通りの陰気な髪型に簡単に戻った。

「そろそろ学校行く時間だな。早く歯ぁ磨いとけよ」

「うん」

 慌てたような足取りで洗面所を後にする烏羽さんの背を、歯ブラシを片手に見送る。

 醜い傷痕。気味の悪い右目。

 これを見た誰もが動揺し、ある者は憐れみ、ある者は不快感を露にする。豪胆な烏羽さんでさえそうなのだ。この傷は明らかに異質なのだろう。

 昨晩の刑事さんの言葉を思い出す。

 僕を撥ねた誰かが直接、伝えるべきこと。

 誰かとは何者か。僕が飛び出した状況は。

 理由を知れば、自分を知れる。後ろめたさがなくなる。他者からの視線にも真っ直ぐに応えられるようになる。

 理由を知るいつかがくることを、僕はずっと待っている。

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