第18話

 人の家のお風呂に入るのは初めてだが、違和感しかない。見慣れぬ光景に嗅ぎ慣れぬ匂いの中、全裸で鏡に映る姿は丸腰で異国に降り立つような心許なさを覚える。衣服は社会性を保証するだけでなく、着用する者の心も守るものなのだと改めて思い知った。

「湯加減どうだ?」

 突如として掛けられた声に全身が跳ねる。引き攣った首筋を抑えて振り返れば、烏羽さんの輪郭が磨りガラス越しでぼんやりと透けている。

 子供同士とはいえ、無防備過ぎやしないか。僕を異性と意識する女性はいないだろうけれど、それにしたって裸なのだ。何かの間違いで浴室の扉が開いてしまったらどうするつもりなのか。自然と両手が股間を隠す。

「だ、大丈夫」

「そうか。着替え置いとくぞ」

「う、うん。ありがとう」

「それと、パンツのことだけど……それで我慢してくれな」

 歯切れ悪く言って烏羽さんは遠ざかっていった。

 我慢とはなんだろう。下着の用意がなかったのならそれはそれで構わないが、彼女の言葉には別の意味があるように聞こえる。もっとも、この場で考えるだけ無駄なのでさっさと体を洗って直接確かめることにした。

「さて」

 目の前には五つのボトルがある。ボディソープは共通で、シャンプーとリンスは烏羽さんとお父さんで分けているみたいだ。

 そうすると、僕はお父さんのものを使わせてもらった方が良いのかも知れない。女性用は何かと高くつくと赤錆さんが愚痴っていた。烏羽さんのお父さんのものが安価とは限らないが、彼女のを使うよりはいいかと思い手を伸ばす。

「シャンプーはアタシの使っていいぞ」

「ひぇっ」

 再び声を掛けられた。尻が浮き座椅子に強かに打ちつける。

「お父のシャンプー、スースーすんだよ」

「あ、ああ、そうなんだ」

 心臓に悪い。母さんもそうだが、女の人というのはどうしてノックをしないのか。もやもやした不満を留めながら手皿に出した烏羽さんのシャンプーは甘い花の香りがした。

 僕は毛量が多い。すぐに泡立ち碌に目も開けられない状態になる。手探りで頭皮を揉み解し蛇口を捻ってシャワーを浴びると

「あ」

 風呂場の戸を開けた烏羽さんと鏡越しに目が合った。

「悪い。顔洗い用の石鹸、切れてたかなと思って」

 そういう問題ではないと思う。

 ことりと石鹸を置いた彼女は乾いた笑いを浮かべると、用事は済んだとばかりに戸を閉める。シャンプーが目に入ったわけでもないのに僕は泣きたくなった。




 なんだこれは。

 体を洗い終え浴室から出た僕に用意されていた着替えには、見慣れぬ衣類が紛れていた。

 つるつるした触り心地でよく伸びる。薄手の短パンみたいな形をしているが大きさは小さめで、履いた時にはかなり肌に密着しそうだ。ひっくり返してみても縫い目は分からずポケットの類もついていない。

 ズボンとして履けばいいのか。しかし、寝巻き代わりのTシャツと短パンは別で用意されている。おそらくは烏羽さんのお父さんのもので、僕が着るとぶかぶかになるのは間違いない。

 もしかして大きさを選べるようにしてくれたのだろうか。そう好意的に考えることもできるが、それならば上が用意されていないのは変だし、そもそも他に大きな問題がある。

 下着がない。

 Tシャツの下を探してみても相当するものは見つからず、風呂上がりの湯気と一緒になって嫌な予感が背筋を伝う。

「か、烏羽さーん」

 返答はない。もう一度声をかけようかと思ったが、彼女にはノックせずにずかずか立ち入る習性がある。全裸を二度も見られるのは何としても避けたい。あらためて目の前の黒い短パンを手に取る。

 否、これは短パンではない。

 スパッツ。

 そう、これはスパッツだ。男の僕に馴染みはないがタイツと同じさらさらした生地で確信する。一時期赤錆さんが好んで着用していたはずだ。スカートの下に履くと下着が見られずに済むから安心して運動できる、といった理由だったか。ちらちらと見せつけられ気恥ずかしく思っていた記憶が段々と蘇ってきた。

 スパッツは下着を見られないために履くもの。つまり赤錆さんはスパッツの下にはきちんと下着を着用していたことになる。

 だが、スパッツとは本来それ単体で下着になるものだ。スポーツに励む人々が筋肉の揺れを抑え体の一部のような履き心地を再現するために開発されたものではなかったか。

 二通りの考え。烏羽さん一家が後者を支持している可能性は十分にあり得る。

 「……いや」

 可能性の話ではない。烏羽さんは着替えを置いた去り際に、下着についてぼそりと呟いた言葉。

 それで我慢してくれ。

 そのままの意味だ。現実から目を背けてはならない。彼女は確かに、下着としてスパッツを置いていったのだ。

 そもそも他人の下着を借りるのに抵抗がある。それならば二日連続で同じパンツを履く方がマシだ。しかし、僕のパンツの行方は知れず、直に短パンを履くわけにもいかない。

 覚悟を決めるしかない。

 すっかり渇いた喉に飲み込んだ唾液が引っかかる。そっと広げて足を通し伸びるゴムから指を外すと気持ちがいいくらいぴたりと肌に張り付いた。

「……落ち着かない」

 普段トランクスを愛用する僕にとって、股間のブツを固定する密着感は逆に不快だ。上から見ても形がはっきり浮かび上がっていて、見えないのに見えている哲学じみた変態が出来上がっている。

 これ以上直視するのは精神衛生上よくない。手早く寝巻きへ着替えを済ませ脱衣所を後にする。

 居間では頬杖をついた烏羽さんがぼうっとテレビを眺めながらお茶を啜っていた。僕の葛藤なんてものにはまるで気が付いていないらしい。食事を用意してもらい風呂を借りた立場で不満を抱くのはおこがましいにも程があるが、釈然としない思いが心の内で燻る。

「烏羽さん、あがったよ」

「ん? おう」

 素気無い返事をした彼女は茫洋とした目で僕の頭から爪先までを一瞥する。

「やっぱ大きいか」

 烏羽さんはそう呟いたが、僕としては思っていたよりも小さいという印象を受ける。烏羽さんは体格がいいし、そのお父さんともなればTシャツだけで僕の全身を覆えてしまうような大きさなのではないかと不安もあったが、意外にも衣服として着られている。

 もちろん丈は長く腰紐を結ばなければズボンはすぐに落ちてしまうが、そんなことはどうでもいい。

 僕の股間事情の方が問題である。決意して足を通したものの、包み込まれる未知の感覚には慣れそうにない。耐え切れない程ではないが、安心して眠るのは難しいだろう。

 とにかく、僕のパンツを見つけなければ。

「それよりさ、僕のパンツどうしたの?」

「あー……癖で洗濯カゴの中入れたわ。まあ、一回履いたんだしそれでいいだろ」

「……履いてから言うのも何だけど、お父さんは嫌がるよ、きっと」

「あ゛? なんでお父が出てくんだ?」

「え? これ、お父さんの服だよね?」

「全部アタシのだぞ」

 なるほど道理で着られているわけだ。烏羽さんのお父さんは想像通り大柄で、僕には大きすぎたのだろう。

 仕方なしとはいえ自身の衣服を貸し出してくれた烏羽さんには感謝しかない。全部がどこまでを含んでいるのかは考えないことにした。

「アタシも入ってくるわ」

「うん、分かった」

「あ、あと携帯うるせえから電源切っといたぞ」

 烏羽さんが啖呵を切って終わらせた後も、母さんは繰り返し電話を掛けてきていた。鞄に仕舞い込んでからはしばらく歩き通しだったから気にならなかったが、家の中ではマナーモードにしているとはいえ喧しかったようだ。

 どう言い訳したものか。

 首を回しながら大股歩きで浴室に向かう烏羽さんの背中を眺めながら思惟に耽る。

 今更帰れはしないだろう。義理に欠いた行動もしたくない。しかし、母さんと烏羽さんの関係は先の言い争いのせいで壊滅的だ。手厚く扱ってもらったのだから彼女の役に立ちたいと説明しても帰ってこいの一点張りで会話にならない可能性が高い。

 解決の糸口はないものかと携帯の電源を入れてみる。

「うわっ」

 夥しい数の着信と十数件のメールが届いていた。母さんで埋め尽くされた二分刻みの着信履歴は恐怖しかない。捨て鉢になって発信ボタンを連打したのかとも思ったが、メールの一つ一つが百文字近い長文であり、心の込められたそれらが母さんの狂気を表現している。

 今日はもう諦めた方がいい。僕の無事と帰宅は明日になる旨を書いたメールを送信し、反応が返ってくるより早く電源を切る。明日の僕がどうにかできるとは思えないが、考えたところで何もできない。悩みはせめて、金縛りだけに留めておきたかった。




「そろそろ寝るか」

 時刻は九時を少し回ったばかりで寝るには早い。だが、僕らの間に共通の話題はほとんどなく、話が盛り上がることもない。就寝のための準備は既に済ませていたし、夜更かしするよりは早めに床に就く方がいい。烏羽さんの提案に頷く。

「で、どうするか」

 僅かではあるが、声が強張って聞こえる。金縛りへの恐怖からだろう。僕にとっては医学的見地に基づいた科学的な現象であるが、彼女からすれば正体不明の怪現象である。待ち構えた恐ろしげな門を前に足踏みしてしまうのは当然だ。

「僕が烏羽さんの寝てるところを見張る予定だったよね」

「ああ。けど、そしたらオマエが一睡もできないし、流石にそこまではさせられねえよ。で、思いついたんだけど、寝てる時ずっと手ぇ繋いでようぜ。やばくなった時に握ればすぐわかるだろ?」

 ここまで過ごして薄々感じていたが、どうやら僕は完全に異性として意識されていないらしい。それこそ、近所の子供くらいにしか思われていないだろう。

 同学年とすら思われていない現状に納得はできないが、それは喜ぶべきことでもある。赤錆さんみたいな多感な女の子が相手だったら、気を遣うばかりでとっくに疲れ果てていた。触れられることに抵抗がないのなら、手を繋ぐというのは有効な策だ。多少の寝苦しさと気恥ずかしさはあれど、すぐに異変を察知できる。徹夜の見張りも覚悟していた身としては何も文句はない。

「わかった。そうしよう」

「よし。じゃ、もう寝るぞ」

 表情を明るくした烏羽さんが僕の手をとり、元気よく椅子から立つと弾んだ足取りで和室に向かう。彼女の母の仏壇が供えられた部屋だ。

「え、そこで寝るの?」

「おう。早く布団敷こうぜ」

「う、うん」

 遺影のある部屋で眠る。

 嫋やかな笑みを浮かべる写真の顔に邪気はない。だが、仏壇と床を同じにするというのは何も起きないと分かっていても緊張を覚える。

 金縛りの原因は烏羽さんの母親にあるのではないかという不安。

 無用な心配だ。恨み辛みを残すような凄惨な最期であったなら烏羽さんがああも呆気からんと話せるとは思えない。僕が気にすべきは金縛りのことだけだ。余計な考えは捨てろ。

「準備できたぞ」

 目を閉じ、怖がりな頭に向けひたすらに言い聞かせていると、いつの間にか二組の布団が敷かれていた。烏羽さんは器用にも空いた片手だけで準備を済ませたらしい。

「合宿みたいでテンション上がるな」

 小学生の頃ならまだしもこの歳になって異性同室の合宿は有り得ないし、布団を隙間なく合わせたりもしない。水を差して空気を悪くするのも野暮なので口を挟んだりはしないが、烏羽さんの常識が多少ずれていることはクラスメイトとして覚えておくことにした。

「わ」

 不意に腕を引かれる。縺れた足では体を支えることができず、重力のままに落ちていく。

 一足先に布団へ寝転んだ烏羽さんの胸元に向かって。

 いくら意識されていないとはいえ、押し倒すのはまずい。

 咄嗟に手をつき宙空で半回転する。瞬時の判断は功を奏し、彼女の隣に仰向けで不時着した。

 人間、追い詰められると曲芸じみた動きも可能にするらしい。あのまま烏羽さんに覆い被さっていたら気まずいどころの話ではない。

「おおう、なに必死こいてんだよ」

 決死の回避を目の当たりにして尚、彼女は快活に笑った。繋いだ手からは温かい体温が伝わるばかりで、緊張はまるでない。

 危機感がなさ過ぎる。男女を意識しなくて済むのは好都合だが、こうも無防備に接せられると別の問題が生じてくる。

「なんか手、熱くなってないか? へへ、やっぱオマエも怖いんだろ」

 誤解だが、上手い言い訳も思いつかない。てきとうな愛想笑いを浮かべておく。

「なんか腹立つな。オマエが電気消しにいけ」

 投げ捨てるように手を離された。言いつけに大人しく従って電気のスイッチを切る。カーテン越しに電灯の光が差し込み薄ぼんやりと辺りは見渡せるので困ることはない。

 足元を確かめながら戻り布団の間に体を滑り込ませる。先ほど乱暴に放られたばかりだが、布の擦れる音を耳聡く聞きつけた烏羽さんの左手が指先を這い上がってきた。

 表面を撫でるだけの鈍い動きは何とももどかしい。こちらから握り返すとびくりと硬直したが、厚い手のひらの筋肉はすぐに弛緩する。一応は安心してくれているみたいだ。

 それならゆっくり眠れる。

 目蓋を閉じると暗闇が訪れ、能天気な頭はすぐに意識を朧げにしていく。枕が違えば眠れないという話をよく聞くが、どうやら僕はそこまで繊細にできてはないらしい。初めて訪れたクラスメイトの家で、しかも女の子の隣でこうもあっさり眠りに就けるのはある種の才能なのかもしれない。

「……なあ」

 囁き声が聞こえる。微睡の中では雑音でしかない。眠りに落ちかけた脳は欲求に素直で、聞こえない振りを選択する。

「なあってば」

 こめかみに指をかけられ、無理矢理頭を動かされた。首の筋がぴきりと痛む。

「起きてんだろ」

 やり過ごせそうにない。仕方なく目を開けると数十センチの距離に烏羽さんの顔があった。輪郭はぼんやりとしているが、双眸の鋭さは暗がりの中でもよく目立つ。これから眠るとは思えない冴え具合だ。

「なんか話そうぜ」

「……寝るんじゃないの?」

「いいだろ少しぐらい。オマエも眠れないだろ」

 僕は寝落ちる寸前だったのだが、ごねたところで彼女の意見は変わらないだろう。欠伸を噛み殺して適当に相槌をうつ。

「恋バナしよう。恋バナ」

 付き合わない方が良かったかもしれない。僕にはあまりに縁遠い話題に、すでにげんなり気味である。烏羽さんは浮いた話に興味がなさそうな印象を勝手に抱いていたが、やはり年頃の女の子は皆気になるものなのだろうか。

 いや、多分、合宿の定番は恋話という想像からの提案だ。うきうきとした表情は話の内容より雰囲気を楽しんでいるように思える。

「でさ、前から気になってんだけど、赤錆? って娘と付き合ってんの?」

「付き合ってないよ」

「いつも一緒にいるじゃねえか」

 たしかに共にする時間は多い。クラスが違えば自然と疎遠になっていくものだけれど未だに登下校は一緒だ。休日も偶に呼び出されるし、ひょっとすると赤錆さんに一番近い男は僕なのかもしれない。

 だが、そういう関係では決してない。

「赤錆さんからは荷物持ちくらいにしか思われてないよ」

 実際に荷物を持たされることはそれほど多くないが、どれだけ高く見積もっても召使いがいいところだろう。

 本人に言うと気持ち悪がられるので口にしないが、赤錆さんは可愛い。見た目は勿論のこと、人付き合いに関しても強引でありながら引き際を弁えた絶妙な立ち回りで相応の地位を確立していて、冴えない僕とは住む世界が違う。身分を越えた付き合いは赤錆さんの気まぐれでしかなく、期待するような面白い話はまったくない。頑な態度を感じ取ったのか、烏羽さんはつまらなそうに息を吐いた。

「そういう烏羽さんは付き合ってる人とかいないの?」

「あ゛?」

「空手と柔道の道場に通ってるんだよね。強くてかっこいい人多そうだけど」

「なんで知ってんだよ」

「ええっと、教室でちょっと耳にして。それで、実際のところはどう?」

「もう辞めた。ていうか、彼氏いたらオマエ呼んだりしねえだろ」

 それもそうか。しかし、道場に通っていたのなら頼りになる男の知り合いは幾らでもいるはずだ。オカルトに詳しそう、という理由なら僕が役に立たないことは説明しているし、敢えて選ぶ必要はない。

 一度気になり始めると途端に頭が疑問で一杯になる。今度は僕が眠れなくなりそうだ。すっかり興が削がれそっぽを向いた烏羽さんの手を引く。

「なんだよ」

「あのさ、今更なんだけど、どうして僕に声をかけたの?」

「あ゛? そりゃあ、オマエがオカルト倶楽部に入ってるからだよ」

「でも、僕は役に立たないって説明したよね。それでも誘ったのは何か理由があるのかなと思って」

「……別にどうでもいいだろ」

 冷たく言い放つと、烏羽さんはまた顔を背けてしまった。真意を聞き出すまでは眠れそうにないのだが、しつこく追及するには相手が怖すぎる。彼女が気分で暴力を振るう人でないことは一緒に時間を過ごすうちに何となく分かってはいるが、わざわざ空気を悪くするのも馬鹿らしい。

 居間にかけられた時計の秒針が動く音だけが聞こえる静寂が再び訪れる。完全に頭は覚醒してしまいしばらくは眠れそうにないが、天井を見つめる他にやることもない。

 それでもいつかは眠れるだろうと再び目蓋を下ろす。羊でも数えてみようかと考えたところで、繋いだ手がきゅっと握られた。

「男が怖いんだ」

 背中を向けたままの彼女の表情は分からない。ただ、指先と言葉尻が微かに震えている。

「道場に通ってたって言ったろ。アタシ、結構強くてさ、同年代なら男相手でも負けなしだった。大会でもそこそこ良い成績残してんだぜ」

 嘲るように、吐き捨てるように。

「でも」

 そう続けた烏羽さんは短く息を吐いて嗤った。それが自分を傷つけることを知っていて、それでも溢れた苦々しい声に聞こえた。

「去年の秋、負けたんだ。初めて、同い年の男子に」

 背中を向けたままの彼女の表情は判然としない。しかし、自らの恥を確かめるようでいて投げやりに響く言葉の一つ一つが消え入りそうに笑う彼女を強く想像させる。

「油断はあった。今まではてきとうに流してもあしらえたからな。だから、しっかり対策を練って挑めば必ず勝てる。でも、その次はどうだ。一か月後は。一年後は。十年後は。技術がどうとか言うけどさ、喧嘩は結局タッパだよ。でかくて重いヤツの方が強い。女のアタシがどれだけ努力したって、いつか男に勝てなくなる日が来る」

 確かな経験が導いた結論はあまりに重い。

 烏羽さんは暴力の現実を知っている。だからこそ、自身の無力をこれ以上ないくらいに痛感してしまう。

「そう考えると急に男が怖くなった。今までは気のいい馬鹿な連中だとしか思ってなかったのに。ホント、情けない話だよ。ちょっと勝てたからって余裕こいて見下してたんだ。目の前のヤツらが皆アタシより強くなると思った時、怖くてしょうがなかった」

 淡々とした語り口は、むしろ失望の表れなのかもしれない。

 限界を悟った自身への落胆。

 慰めの声を掛けられたら、共感できたならどんなによかっただろう。残念ながら僕に烏羽さんの悩みは分からない。掛けるべき言葉も見つからない。

 誇れる長所もなく誰かを羨むばかりの僕には、何も。

「金縛りが起きるようになったのもその頃だったかな。ビビりすぎて体がおかしくなったんだと思う。……オマエの説明も何となく理解はできたんだ。でも、一度ビビっちまうと全部が怖くなってさ。変なこと頼んじゃってゴメンな」

「なら、どうして僕に相談したの?」

 僕は男で、烏羽さんが恐怖する対象だ。頼れる人がいないのなら、僕が提案したとおり、赤錆さんや濃墨先輩に頼めばいい。彼女達が外泊まで付き合うかは定かではないが、それでも男の僕に頼むよりは些か心は楽なはずだ。

「……オマエがクラスで一番弱そうだったから、かな」

 失礼極まりない理由であるが、声を大にして否定できないのが辛いところだ。クラスで一番体格が劣っているのは僕である。

 弱みを見せたところで支障がなく、いざとなれば力尽くで黙らせられる。確かに、隠し事を頼むには適任だ。

 しかし、いつまでも弱いままではない。

 僕は男だ。成長期でもある。いずれ体は大きくなって筋肉もつくだろう。プロレスラーのような屈強な体は難しいかもしれないが、普通の女の子には武器でも使われない限り負けはしない体にはなる、と思う。

 肉体の性差は間違いなくある。個人差はあるだろうが女性に比べ男性の力が強いのは至極当たり前の摂理だ。女性の社会進出が唱えられている昨今では前時代的と批判されるかもしれないが、身体能力や筋肉量の差について考えを改めるつもりはない。烏羽さんにとって受け入れ難いものだとしても。

「僕もいつかは烏羽さんより強くなるよ」

「オマエが?」

 烏羽さんが鼻で笑う。だが、繋いだ手に少し力を込めるとぴくりと肩を震わせた。

「そうかもな。……きっと、そういうもんなんだろうな」

 彼女はそう呟いて、また静かになった。自身に言い聞かせる小さな声は諦めの感情そのもので、こちらに向けられたままの背中はゲームセンターで男達を蹴散らした時よりずっと小さく見える。

 烏羽さんが言うように、金縛りの原因は男への怯えから来たのかもしれない。金縛りの主な原因として肉体的な疲労が考えられているが、精神的負担による影響が大きいとの意見もある。信じた自分を否定され、世界の半分が強大な敵に変わる。易々と受け入れられるものではないだろう。それこそ、脳と体が違ってしまうくらいには。

 だけれども、僕が伝えるべきことは知ったかぶった高説ではない。

 伝えることは他にある。弱くて頼りない僕が伝えられることは他にもある。

「僕はどんなに強くなっても、君を怖がらせたりしない」

 指先でなぞるようにはっきりと言う。

「今日、僕は君に助けられた。だから、次は僕が君の味方になるよ」

 多分、そういうものなのだろう。

 強い者が弱い者を守るという傲慢ではない。助けられたから、助けになりたい。

 偶然学校が同じだっただけの僕の言葉に彼女を救う力がないことは分かっている。いつか彼女に危機が訪れた時に僕が傍にいるとは限らず、きっとその時は別の誰かが彼女を助けるだろう。僕と烏羽さんは大した関係ではない。

 それでも、伝えたかった。

 僕は君に助けられたと。

 君が鍛錬に費やした日々は決して無駄ではないのだと。

 言葉で、はっきりと伝えたかった。

「バカじゃねえの」

 背中越しに吐きつけられた返答はびっくりするほど冷たかった。熱い想いをぶつけたつもりだが、盛り上がっていたのは僕だけのようだ。

 烏羽さんがぐるりと寝返りをうつ。冷ややかな目だ。柄にもないことをするんじゃなかった。

 気まずさに目を逸らすと、烏羽さんは何を思ったか突然僕の体を弄り始めた。検分するような無遠慮な手つきは肩から腰にかけてを満遍なく摩り、むず痒さに身が捩れる。

「体は細えし上背もねえ。手もすべすべじゃねえか」

 好き放題触って勝手なことを言う。先まで落ち込んでいたとは思えない振る舞いだ。

 事実ばかりで反論の余地はないので目線で抗議を図るも暗がりの中では効果は薄い。烏羽さんは気にした様子もなく僕の頬を両手で挟む。

「けど、根性はありそうだな」

 烏羽さんが歯を剥いて笑う。悪巧みした小学生じみた無邪気な笑顔は中学に上がった僕らには年相応に思えるが、薄っすら浮き出る眉間の皺は心の弱い者を萎縮させる野性味に溢れている。

「アタシが鍛えてやるよ」

 僕は男だ。強さに憧れもある。烏羽さんの提案は僕にとって望外の僥倖だ。

 ちょっと早まったかもしれないと思ったのは、口に出さないことにした。

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