第17話

 目に痛い電気の光と、四方から叫びかけてくる綯交ぜになった電子音。脳と骨が震え、覚束ない足先は床を上手く踏み締められず、船上に立つような不安定さが視界を揺らす。車酔いの兆候に似た漠然とした気持ち悪さが込み上げ、右手が勝手に前髪を抑える。

 想像以上に喧しい。利用客数は二、三人と少ないことが救いに思えたが、人口密度が低いにも関わらず繁華街の往来並みの喧騒を掻き鳴らしている事実が空恐ろしくなる。興味本位で立ち入るべきではなかった。

「何で遊ぶ!?」

 騒音に負けないくらいの大声で烏羽さんが叫ぶ。教室なら耳を塞ぐ音量だが、ここではそれが適当に聞こえる。

 長居すれば確実に耳の聞こえが悪くなる。厳しい人達の声が総じて大きい理由は周りを威圧するだけでなく、単純に激しい音に慣らされてしまった結果なのかもしれない。

 だが、折角連れてきてもらったのだから、何もしないで帰るのも忍びない。僕をゲームセンターに連れ出したのは醤君の誘いを断らせてしまった烏羽さんの心遣いなのかもしれず、善意に応える努力はすべきだと思った。

「おすすめは?」

「あ゛?! 何?!」

 帰りたい。喉まで出かけた気持ちを飲み込んで、対戦型のアーケードゲームを指差す。

 学校から着の身着のままで来てしまった僕は財布を持っていない。先ほど通り過ぎ際に目にしたが、レースゲームやシューティングゲームと思しき大型の筐体は一度遊ぶのに三百円も必要としていた。大金ではないが借りるには心苦しい金額である。入口の看板に書かれていたが、学生は五時前の退店が規則だ。残り一時間もないので、単価の安いゲームを少し触るくらいが丁度いいだろう。

「そしたら格ゲーやろうぜ!」

 打算で選んだゲームだが、偶然にも烏羽さんの好みに合っていたらしい。彼女は笑って僕の肩を叩くと、小走りで筐体に向かう。

「アタシの得意なヤツ」

 得意げな顔で烏羽さんが紹介した画面の中では、ごつごつしたグローブを拳にはめた上裸の青年と道着を着込んだ奇抜な髪型の老人がしこたま殴り合っていた。どちらも筋骨隆々で、突きや蹴りが当たる度に人体から出るには派手過ぎる効果音が響く。

 格闘ゲームの存在は知っていたが、実際目の当たりにすると中々に野蛮な印象を受ける。だが、それ以上に高揚している自分がいる。僕は見た目からして貧弱だけれど、闘争に興味がないわけではない。むしろ、弱さを自覚しているからこそ、人一倍憧れがある。

「ヤル気じゃねぇか。やったことあんの?」

「初めてだけど負けないと思うよ」

「あ゛? 舐めた口きけんのも今のうちだぞ」

 低い声で脅してきたが烏羽さんは初体験の僕を慮り、硬貨の投入口やボタンを押しやすい手の置き位置まで丁寧に教えてくれた。言う通りにボタンを押していくと無事にゲームが始まり、キャラクター選択画面に遷移する。

「アタシのオススメはコイツ。主人公ポジションのキャラだな」

 烏羽さんの指したキャラクターは仏頂面のハンサムで、極真空手を得意とするらしい。しかし、それよりも興味を惹かれるキャラクターがいる。

「この人は?」

「コイツ? けっこう強いけどなんでだ?」

「ブルース・リーみたいで格好いいなと思って」

「え、オマエ知ってんの」

「もちろん。男の教科書みたいなものさ」

 ブルース・リーは言わずと知れた伝説の武術家である。名を馳せたアクション俳優は数多くいるけれど、彼の登場が映画の歴史を動かしたのは間違いない。男なら誰しも一度は憧れる存在だろう。

「……操作はむずいけど、好きなキャラの方が楽しいかもな。よし、それじゃあアタシがレクチャーしてやる」

 烏羽さんが隣の筐体用の椅子を引き摺ってどしりと腰を下ろす。マナー違反に当たるのではないかと店員のお兄さんに視線を送るが、特に気にした風もなくぼんやりと店内を見回している。客が少ないので、あからさまな迷惑行為でなければ融通を効かせてくれるようだ。

「ほら、余所見すんな。始まるぞ」

 軽快な掛け声と共に戦いが始まる。相手はなんと熊であった。現実では勝ち目のない野生動物と真っ向から殴り合えるのもゲームならではだろう。

「コンピューター相手だから焦んなくていい。ガードから覚えろ」

 言われた通り守りに専念する。鍛え抜かれた肉体とはいえ、獣の爪を地肌で受け止め大した傷も負わないのは釈然としないが、一々文句をつけていては何事も楽しめない。攻めの切れ間に素早い突きを合わせる。

「このキャラはコンボが持ち味だ。ぺぺって感じでやってみろ」

 言われた通りにボタンを連打するが上手くいかない。それどころか、複雑な操作に集中するあまり防御が疎かになり、気がつけば形勢が逆転してしまった。

「焦ったいな。こうすんだよ」

 烏羽さんが苛立った様子で立ち上がり、僕の後ろに回る。背中から覆い被さるように腕が伸びてきて、操作レバーを握る手が上から包み込まれた。

 僕の手より一回り大きく、皮が厚い。中手骨は均され、細かな傷がそこかしこに刻まれている。物を殴り慣れている拳だ。

「ほっ」

 僕の手ごとレバーを素早く半回転させると、キャラクターが呼応して鋭い横蹴りを放った。直撃した熊の体が画面の端まで吹き飛ぶ。烏羽さんは隙を見逃さず、朦朧とした熊に流れるような連打を叩き込み、あっという間に勝利を勝ち取った。余韻に浸るブルース・リー似のキャラクターも、心なしか僕が操作していた時より活き活きして見える。

「まあ、こんな感じだな。じゃ、早速対戦しようぜ」

「もうちょっと練習したいな」

「バカ。こういうのは実戦で鍛えるもんなの」

 僕の髪をくしゃくしゃに掻き回してから烏羽さんは対面の筐体に座り、程なくして挑戦者の文字がでかでかと表示された。烏羽さんの操作キャラクターは、おすすめされたハンサムな空手家の青年だ。

「実力の違いってやつを教えてやるよ」

 初心者の僕に勝てるわけがないが、やられっぱなしも情けない。勝負は二本先取制、少なくとも一本は取ろう。

 試合開始が高らかに宣言され、同時に前蹴りが飛んでくる。

 慌ててはいけない。覚えたことを一つずつ。

 鋭く伸びる足をきっちり防ぎ、次いで襲いくる連続突きもしっかり対処する。

 専念すれば防御は難しくない。時折混ざる腿を狙う下段蹴りは発生が早く見てからの回避は間に合わないが、速さに反して威力は高くない。許容範囲だ。亀の如く守りを固める僕に焦れた烏羽さんは投げようと掴みに掛かる。

 これを待っていた。

 こっそり技表を確認して覚えた、距離を取ってからの差し込み横蹴り。比較的簡単な操作で繰り出せる割に動きが美しく、意表を突くにはもってこいだ。

 オレンジ色の激しい光。重く響く効果音。

 力強い踏み込みから、ばねのように弾けた必殺の横蹴りが相手の鳩尾に突き刺さる。烏羽さんは反応できず、真面にもらった画面の中の青年は力なく倒れ込んだ。

 流れを引き寄せる。伏せたままの青年に走り寄り、頭部目掛けて足を振り抜く。

「あれっ」

 空振りした。青年はころころと転がって真横に位置取り、素知らぬ顔で立ち上がる。このゲーム、奥行きがあったのか。

 気付いた時には手遅れで、足払いで今度はこちらが転がされると容赦なく拳が振り下ろされる。何とか起き上がり後方に飛び退くが烏羽さんにはお見通しで、一切の抵抗を許さない連打がそのまま体力を削り切ってしまった。

「悪い。やりすぎた」

 格が違う。初心者と経験者、当然の結果だが割り切るには悔しさが残る。

「次は合わせるからさ」

「いや、本気で来て欲しい」

 手加減されても意味はない。せめて防御は自分のものにしたい。烏羽さんの本気の攻めを防ぎきれるようになれば胸を張って習得したと言えるだろう。

「……意外と熱いよな、オマエ」

「もう始まってるよ」

「おわっ」

 開始の号令と同時に直突きを放つ。運良く出鼻を挫いたものの烏羽さんはすぐに持ち直した。勢いを増す猛烈な連打に防戦一方ではあるが、彼女の癖を感覚で覚え始めたらしく、先の一戦より動きが読める。上中二連突きから振り上げられた上段回し蹴りを受け止め、いよいよ反撃に転じようとした矢先。

「いたっ」

 背中を蹴飛ばされた。筐体にぶつかる前に踏み止まるが、致命的な隙を晒してしまった僕のキャラクターはこてんぱんにやられてしまっていた。

「おいヘタクソ。早く代われよ」

 僕は下手だし見苦しい戦いをしていたのは否定できない。だが、真剣勝負に水を差される謂れはない。

 若干の怒りを滲ませ振り返ると、ブレザー型の学生服を着た男子生徒が五人屯していた。全員が髪を整髪剤で逆立たせ、各々目立つ色のベルトを巻いている。僕を蹴ったのはおそらく真ん中の茶髪の男子だ。両方のポケットに手を突っ込み、嫌味たらしくにやついている。

「あ? 何見てんの? やんのか? あ?」

 茶髪が気色ばむ。僕が見るからに弱そうなので安心して喧嘩をふっかけているのだろう。後ろの仲間連中も面白そうに成り行きを見守っており、分かりやすい弱い者いじめの構図が出来上がっている。

 頭に来た。一発ぶん殴ってやる。

 とはならない。一人相手でも勝ち目は薄いのに、向こうはなんと五人である。一矢報いるどころか、より苛烈な暴力に曝されるかもしれない。

 情けない限りだが、素直に引き退がる以外に道はない。席を立ち、そそくさとその場を離れる。

「おい」

 呼び止められた。

 男の声ではない。聞く者の足を竦ませるドスの効いた低音だが、その声の主を僕はたしかに知っている。

「邪魔してんじゃねえよ」

 仁王立ちした烏羽さんが真っ向から五人組を睨んでいた。

 彼女の体格はこの場の誰よりも立派で、荒事に慣れた雰囲気がある。静かな気迫に臆した男子生徒達がごくりと唾を飲み込んだ。

 烏羽さんが一歩を踏み出す。滑らかな足運びは一見脱力しているようだが、しっかりと床を掴んでいる。その気になればいつでも軸足の力を寸分違わず腰に伝え、首が跳ね飛ぶ凶悪な突きを放つだろう。

 彼女の歩みに合わせて五人組が後退る。彼らの顔から余裕はとうに消えていた。

「チッ、シラけたな。もう行こうぜ」

 烏羽さんが顎をしゃくって僕を呼ぶ。仕草に一々威圧感がある。僕は一応敵ではないのだが、舌打ちの音を聞くだけでびびってしまった。悠々と、それでいて警戒と戦いの準備を整えて歩く彼女の背中を慌てて追いかける。

「お、おい」

「あ゛?」

「おまえ、もしかして女か?」

 茶髪の彼の問いかけに反応して烏羽さんが立ち止まる。俯きながらついていた僕は勢い余って背中にぶつかったが、彼女はびくともしなかった。

「だったらなんだよ」

「へへっ、マ、マジかよ。もう男みたいなもんじゃん。お、おまえらもそう思うよな? な?」

 吹っ掛けた手前、引くに引けなくなったのだろう。精一杯の虚勢だ。声は悲しい程震えていて、頼った仲間達はというと皆一様に目を逸らし無関係を装っていた。烏羽さんは深い溜め息を吐き出して、心底呆れた様子で彼を見やる。

「言いたいことはそれだけか」

「な、何だよ」

「キメェしダセェ。死んだ方がいいよ、オマエ」

 不良然りヤクザ然り、社会の鼻つまみは面子ばかりを気にする。傍から見ればちっぽけでくだらない矜恃だが、茶髪の彼にとっては何より大事なものだったらしい。あれだけ怯えていたにも関わらず、脇目も振らず烏羽さんに殴りかかる。

 大振りの一撃を前に、烏羽さんは酷く冷静だった。半歩進んで肩をぶつける。たったそれだけで彼の体は大きく流れ、渾身のパンチは振り切る前に失速した。

 肉体の質が違う。そもそも、体の厚みからして比べものにならない。性差を超えた圧倒的な体つきは一度の接触で戦意を根こそぎ奪い、茶髪の彼の顔色はみるみるうちに青くなる。

 胸を張り、五人組の中央を堂々と縦断する烏羽さんの背中は広く、背中を丸めてついていくだけの僕はまさしく金魚の糞だった。




 薄闇に包まれ始めた見慣れない道を連れ立って歩く。繁華街とまでは呼べないが、幾つかの飲食店が立ち並ぶ通りにはぼんやりと電飾の光が浮かび、死人のような顔をした大人達が次々横を通り過ぎていく。

「悪かったな」

 肩に鞄を担いだ烏羽さんが、ふと謝罪の言葉を口にした。人工の明かりを浴びた横顔は陰影を濃く映し、険しい瞳を一層深刻なものに思わせる。

「何が?」

「変なことに巻き込んじまった」

 絡まれたのは僕だ。烏羽さんが謝る理由はどこにもない。

「烏羽さんのおかげで怪我なく済んだ。逆にお礼を言いたいよ」

「呑気なヤツだな」

 鼻で笑われた。嘲笑ではあるが気を和ませたのは確かなようで、刻まれた眉間の皺が少しだけ浅くなる。

「オマエはアタシにビビんねぇよな」

「結構ビビってるけど」

「ビビってたらそんな軽口叩かねえよ。そういや、さっきの不良達にもそんなにビビってなかったよな。実はああいうの、慣れてたりすんのか?」

「慣れてはないよ。ただ、諦めるのは早いかな」

 赤錆さんと青褐先生。思い浮かんだのは二人の顔だ。

 彼女達はいつだって突然にやってきて、僕の事情は知ったことかと勝手な注文を押し付ける。反論は発言する前から圧力に潰され、不平不満を唱えても結局は従うしかなくなる。毎日のように呼び出され詰られるうちに、すっかり諦め癖がついていた。

「あの茶髪のちっせえ子、よく来てるよな。青褐センセーにもしょっちゅう呼び出されてるし。何の用事なんだ?」

「用事っていうか我儘っていうか、よく分からない時も結構あるよ」

「イヤになんねえの?」

「それはないよ。絶対」

 考えるよりも早く断言していた。煮え切らない言葉ばかり漏らす僕の明言に驚いたのか、烏羽さんの鋭い目が丸くなる。

「えらい自信だな。アタシだったら我慢できねえわ」

「いつも助けられてるし、本当に嫌がることはされないから。二人を嫌いになんてならないよ」

「ふーん。そんなもんか」

 それだけ言って、烏羽さんは前を向いた。興味を失ったというよりは深入りを避けたようだ。僕も自身の全てを理解してもらおうと思うほど自惚れた思考は持ち合わせていない。

 特に会話もなく黙々と歩き続けていると、烏羽さんがコンビニの脇を左に曲がった。一つ道を移っただけで店の明かりは鳴りを潜める。並ぶ家屋は平家が多く、薄暮時の空と合わさって郷愁を感じさせた。

「着いた」

 烏羽さんが指差した先には年季の入った三階建てのアパートがあった。ざらついた漆喰の壁と錆の目立つ手摺りが殊更に古ぼけた印象を与える。一階部分は倉庫と車の駐車スペースになっていて、退勤時間に差し掛かっているためか停まる車の数は多い。高そうな車ばかりが並んでいて、趣味にお金をかける独身男性が住んでいそうだな、と安易な想像を巡らせる。

「やっぱ今日も遅いか」

「お父さん?」

「ああ。ま、いつものことだ」

 あっさり言って、鉄製の簡素な階段を登る。烏羽さんは流石の慣れた足取りで軽快に登り進めていくが、階段は角度が急で幅も狭いため足元を確認する必要があった。もしかすると彼女の下着が見えてしまうかもしれないと危惧したのも一因ではある。

 慎重に上り進めると、烏羽さんは三階の一番奥の扉で立ち止まった。部屋のネームプレートには何も書かれていないが、ここが彼女の家なのだろう。スカートのポケットに手を突っ込み無造作に取り出した鍵には交通安全のお守りが括り付けられていた。

 軽い金属音と共に玄関扉が開く。玄関は僕の住む家よりもっと狭く、くたびれたスニーカーと使い古され艶を失った革靴が乱雑に置かれている。烏羽さんのお父さんは相当に忙しい人みたいだ。

「上がれよ」

「うん。お邪魔します」

 烏羽さんの脱ぎ散らかした靴が気になったのでこっそり揃えておく。ワックスの古くなった板張りの廊下を抜けると、天板の削れた机にクッションが変色した椅子、それと薄型というには厚めの液晶テレビが置かれただけの簡素なリビングがあった。隅に見えるくすんだステンレス製の流し台が時代を感じさせる。外見からして古めかしかったが、内装も年季が入っている。

「手、ちゃんと洗えよ。奥に洗面台あるから」

 顎でしゃっくた先に行くと、またしても昭和の臭いを漂わせる洗面所があった。水とお湯でハンドルが分かれている型の洗面台だ。二槽式の洗濯機なんて初めて見た。

 何から何まで、とにかく古い。それでも不潔な印象を感じないのは、それだけ掃除が行き届いているからだろう。

「烏羽さんって綺麗好きなんだね」

 手を洗いながら居間に残る烏羽さんに声を掛ける。

「ふん。で、飯どうする」

「あ」

 すっかり忘れていた。宿を借りる手前、食事は僕が調達してくるべきだろう。しかし、僕は学校帰りの着の身着のままで財布すら持ってきていない。ご飯を買うから金を貸せというのは流石に無礼であるし、どう答えるか迷っていると洗面所の角から烏羽さんがひょっこり頭を出した。

「親子丼でいいか? つーか、それ以外材料ない」

 答えるより早く烏羽さんは頭を引っ込め、しばらくしてコンロに火が着く音がした。掃除だけでなく料理もできるとは。ぶっきらぼうな烏羽さんの家庭的な一面に何故だかわくわくしてきた。

 蛇口を締めて居間に戻り、台所に立つ彼女の背中を眺める。手際良く玉葱を刻む横にはタッパーが置かれ、中にはタレに漬け込まれた鶏肉が入っている。

「普段から準備してるの?」

「ん? ああ、これか? あると手間省けるし便利だぞ」

 振り返ることなく答える烏羽さんの手元は動き続けていて、あっという間に玉葱二玉を刻み終えると温まったフライパンの上に食材を並べた。香ばしい匂いと肉の焼ける音が食欲を唆る。

「なんだよ、そんなにじっと見て。……似合わないってバカにしてんのか」

「ううん。僕は料理できないから。凄いなと思って」

「どんぶり飯なんてすごくもなんともないぞ」

 素っ気なく言って、烏羽さんは片手で卵を割る。無駄な手つきは一切なく、小皿にあけたそれらを菜箸で掻き混ぜる。箸と皿のぶつかる音が耳に気持ちいい。

「落ち着かないから座ってろ」

「はい」

 ご馳走になる身でありながら邪魔してしまうのはいただけない。言われた通りに食卓につく。

 腰を落ち着けると室内に漂う生活感というものがより鮮明に感じられる。室内灯の淡白な光が浮かび上がらせた輪郭は薄ぼけているのに不思議なものだ。いや、ぼやけているからこそ他の感覚器官が働いているのか。腰掛けた椅子は既製品で大きさはうちにあるものと大差はないだろうけれど、心なしか高く思える。

 煮沸する出汁醤油の甘じょっぱい香りの中に井草の匂いを嗅ぎ取って導かれるように首を向ける。

 客間だろうか。畳張りのその部屋の奥に飾られた仏壇が目に入った。黒々とした唐木造りで遠目からでも艶が見える。視力が悪いのではっきりとはしないが、供えられた遺影に写っているのは年若い女性のようだった。

「お母さんの」

 調理を終え、丼を二つ両手に持ちながらやってきた烏羽さんが言う。

「小一くらいの時、交通事故で。もう昔のことだし気にしないでいい」

 僕を配慮しての言葉かとも思ったが、表情は呆気からんとしているのでそのままの意味らしい。だからといって軽はずみに触れるべき話題でもない。今はただ目の前の御馳走に舌鼓を打とうと両手を合わせる。

「いただきます」

「おう」

 半熟気味の卵に包まれた鶏肉の口当たりは柔らかい。調味料はあまり使っていないように見えたが肉の下味がしっかりついているためか味ははっきりしていて奥が深い。烏羽さんは丼飯などと謙遜していたが心が温まる優しくて美味しい素敵な料理だ。

「あ」

 夢中で箸を口に運んでいると彼女は思い出したように顔を上げる。

「そういや、オマエのそれも事故なんだってな」

 噂は思った以上に広まっているみたいだ。クラスには小学校からの顔見知りも多く、痕を晒さないよう気を付けてはいても妙な髪型は隠せない。他人の秘密なんていうのは世間話の種でしかなく、烏羽さんが偶々耳にする機会もあるだろう。

 しかし、食事中の話題にはあまりふさわしくないように思う。興味が湧く気持ちは分からないでもないが、凸凹した色の違う皮膚にぽつぽつ空いた細かい穴は、腐って小蝿にたかられた死肉を連想させるので、見せたところでお互い不幸になるだけだ。

 そういう微妙な心持が顔に出ていたらしく、察した烏羽さんがかぶりを振る。

「ああ、別に見せろってことじゃねえよ。ちょっと思い出しただけ。あんま見せたくないんだろ?」

「うん。ごめん」

「謝ることじゃねぇだろ」

 目を合わせずに言った彼女に倣い、黙々と食事を続ける。家では母さんがひっきりなしに話しかけてくるので会話のない静かな食事は新鮮だ。どちらがいいというわけでもないが、咀嚼に集中したためか食べ終えた満足感もひとしおだった。

「ごちそうさまでした」

「おう」

 満杯の腹を摩っていると烏羽さんが立ち上がり、てきぱきと皿を片付け始めた。

「ちょっ、ちょっと。片付けくらい僕にさせてよ」

 もてなされてばかりでは気が済まない。皿洗いなら手伝えると慌てて止めに入るが突き出された掌に制される。

「気にすんな。それより、先入っていいぞ」

「えっ、何が?」

「風呂」

 遊び場に案内してもらい、ご飯を頂いた。充実した一日だったと振り返りたいところだが、そう都合よくはいかない。むしろ、このお泊まりはここからが本番なのだ。

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