第16話

 一人の時間は大切だ。

 SNSの普及が進んだ昨今では尚更そう感じることが多い。文書や狼煙で連絡を取り合っていた時代からは想像がつかないほど交流の利便性が高まり、迅速に情報を共有できるようになったのは尊ぶべき進歩であるが、同時に、手軽に交流できる環境は人類から真の孤独を奪った。

 誰かが傍にいてくれる。字面で見れば好ましく思える。しかし、日常的に誰かの助けを求められる環境は、そればかりをあてにし、流され、芯のない人格が形成されてしまう危険がある。

 意見が揺れる人間は信用できない。確固たる自我を持つには一人きりで深く考え自分を見つめ直す時間が必要だと思う。

 だから、今日という日は僕にとって大切な一日なのだ。

「きりーつ、れー」

 作業と化した号令を聞きながら礼をする。ようやく学校が終わった。

 頭を上げるのと一緒に大きな欠伸を吐き出すと、教壇に立つ青褐先生からただならぬ視線を感じたので慌てて姿勢を正す。余計な失態で時間を取られることは避けなければならない。

 なにせ今日は赤錆さんに委員会の予定が入っている。それはつまり、一人の帰宅が保証されているということだ。

 赤錆さんと一緒に帰るのが苦痛というわけではないけれど、周りの目が気になってしまうのは事実だし、毎日のように罵倒されると慣れているとはいえ悲しくなってくる。久し振りの優雅な帰り道をたっぷり満喫させて貰おう。

「暗くならないうちに帰りなさい」

 じっとりと教室を見回した青褐先生が低い声で呟き、教室を出る。緊張から解放された生徒達は俄かに明るさを取り戻した。

 帰りのホームルールを無事に乗り越えたことだし、今日は呼び出しもないだろう。安心して帰宅の準備を進めていると頭上から声が降ってくる。見上げると人好きの良い笑みを浮かべたひしお君が立っていた。

「おつかれ包介。なに、お前もう帰んの?」

「うん。醤君は?」

「俺も帰り。今日部活休みだからさ。それでさ、この後、松葉鼠まつばねずと一緒にゲーセン行くんだけど、お前もどう?」

「うーん、今日財布持ってきてないからなあ」

「ちょっとぐらいなら貸すからさ。なっ、偶にはいいだろ?」

「うーん」

 普段の僕なら断っていただろう。しかし、赤錆さんがいないという非日常感と醤君の善意が決断を迷わせる。ゲームセンターという選択も魅力的だ。僕はもう中学生になるというのに、ああいう遊び場には行ったことがない。怖い人が多い印象が強く今までは敬遠していたけれど、醤君達は勝手を知っているみたいだし、これを機に経験を積むのも悪くない。

 一人の時間を楽しむという当初の目的からは逸れてしまうが、クラスメイトと親睦を深める機会もまた得難いものである。見聞を広めることも自分を形作るうえで重要なのは変わりはない。

 誘いを受けようと視線を戻すと、いつの間にか醤君の背後に誰かが立っていた。

 醤君は大柄な方で、筋肉質でもある。それにも関わらず姿が確認できるというのは後ろの誰かが相応の体格であるということに他ならず、僕にははっきりとした心当たりがあった。

「まだ終わんねえのか」

「あ? 何だよ、ちょっと待……あっ、すみません」

 横槍を入れられた醤君は勇ましく振り向き、途端にしおらしくなって道を開ける。

 彼の背後を陣取っていたのは、隣の席の烏羽からすばさんだった。

 一体、僕に何の用だろう。気に障るようなことはしていないはずだが、彼女の鋭い眼光はやってもいない罪を告白しそうになる迫力がある。

「……オマエ、オカルト研究部の部員って本当か?」

「正確にはオカルト倶楽部だけど」

「あ゛?」

「ごめんなさい」

「なんで謝るんだ」

 貴女が怖いからです、とは口が裂けても言えない。追及を恐れてへらへら笑ってみたが、烏羽さんの険のある眼差しに変化はない。だんだんと尻すぼみになる自分の笑い声がひどく情けなく聞こえる。

「まあいい。で、オカルト倶楽部? に入ってんのは間違いないんだよな」

「うん。そうだけど、どうかした?」

「……相談とかも受け付けてんの?」

 烏羽さんは青褐先生に食ってかかるほど意思が強い。体つきに違わず腕も立つとの噂だ。幽霊を怖がるとは思えないが、見るからに頼りない僕に持ち掛けるということはそれほどに困っているのだろうか。

「相談に乗れるかどうかは濃墨先輩に聞いてみないと分からないよ。それとも赤錆さんを紹介しようか? ああ見えてそっちの分野に強いんだ」

「オマエは?」

 僕は知識があるわけでも、特殊な能力があるわけでもない。加えて人より臆病で、何故先輩に勧誘されたのか未だに分からない。数合わせの役目さえ果たせているか怪しい僕が、烏羽さんの悩みを解決できるとは思えない。

「ごめん。僕じゃ多分、助けになれないと思う」

「なんでだよ」

「おかしな話だけど、僕はオカルトにまったく詳しくないんだ。だから、濃墨先輩か赤錆さんに相談した方がいい結果に繋がるんじゃないかな。役に立たなくてごめん」

 烏羽さんはむっつりした顔で腰に手を当て、僕を見下ろす。期待が外れて呆れているのか。オカルト倶楽部の部員と聞けば頼りになると思われても仕方がないが、見栄を張って嘘を吐く場面でもない。

「あのさ、アタシはオマエに頼んでんだけど」

「ええっと、さっきも言ったけど僕は」

「アタシは、オマエに、頼んでんの」

 拳で胸を押される。どうやら烏羽さんは僕の弱気な姿勢に呆れているらしい。そっぽを向いて髪を掻き回す彼女はつまらなそうに唇を尖らせた。

「話ぐらいは聞けんだろ」

「……分かった。僕でいいなら」

 期待に応えることはできないだろう。だが、烏羽さんが望むとおり、話し相手になることくらいはできる。

 どこまで務まるかは分からないが気持ちを正して前に向き直ると、烏羽さんは自席に勢いよく腰を下ろした。

「あの、ゲーセンは?」

 静かに棒立ちして事の成り行きを見守っていた醤君がぽつりと呟く。烏羽さんが一瞥すると、すべてを悟ったらしい彼は曖昧な笑みを浮かべながらぺこぺこお辞儀を繰り返し、そっとその場を離れていった。

 早めに解決するに越したことはないが、願い事は往々にして届かないものだ。今日の帰りは遅くなるだろう。




「二ヶ月くらい前、ちょうど中学に上がった頃の話だ」

「うん」

「普通に学校行って、家のことして、いつも通りに寝てた時にヤバイことになったんだ」

「やばいこと?」

「夜中に急に目が覚めたからさ、トイレにでも行くかと思ったら体が全然動かないんだよ。どんだけ力入れてもビクともしなくて、ヤベエヤベエって焦ってたら爪先が何かに触られて、段々何かが這い上がってきて、でも首は動かないから何かが何なのかも分かんなくて」

 語るにつれ烏羽さんの顔が青くなる。いつの間にか教室に他の生徒はいなくなっていて、怯えた様子の彼女はその事実すら気味悪く感じているようだった。きょろきょろと落ち着きなく視線を動かし、カーテンが揺れるだけで肩を強張らせる。想像以上に重症だ。

「それで、その何かは結局何だったの?」

「わかんねえ。確かめる前に気を失ったらしい」

「それからも何度か同じことはあった?」

「ああ。ここ最近は立て続けに起きてる」

「なるほど」

「……随分余裕そうだな」

 濃墨先輩に教えてもらっていなければ、烏羽さんと一緒に怯え、震える羽目になっていただろう。だが、幸いにも僕はこの現象を知っている。

 彼女を悩ませているのは金縛りで間違いない。

 体験者の多さから認知度は高く、最も身近な怪奇現象と言っても過言ではない。運動不全の他、人がのしかかるような圧迫感が伴うため霊障の一種であるとも信じられている。

 しかし、金縛りは現代科学で説明のつく現象だ。

 医学的には睡眠麻痺と呼ばれ、全身の脱力と脳の覚醒が同時に起こった状態のことを指す。大雑把に言えば、凄く現実味のある夢を見ている状態だ。

 そして、夢であるために思考が反映されてしまう。たとえ原理を知っていても、体が動かない恐怖を制御するのは難しい。そうした怯えが自ら霊を作り出し、金縛りは怪奇現象に姿を変える。

「よく分からん」

 必死に説明したが、僕の熱意が烏羽さんに伝わることはなかった。聞き齧りの知識なので、実際に体験し苦しむ彼女には上辺だけで無責任に聞こえたかもしれない。

 とはいえ、それ以上の助言は何もない。更なる安心を得たいのなら、話し上手で人心掌握もお手の物な濃墨先輩に直接相談するしかないだろう。

「金縛りは寝てる時におきるんだよな?」

「うん。そのはずだよ」

 烏羽さんは眉を寄せ、じっくりと考え込んでいる。僕の拙い説明を理解しようと努力してくれているのだろうか。

 顎に手を添え一頻り悩んだ彼女は名案を思いついたのか、ぱっと表情を明るくした。

「そうだ。アタシが寝てる時に見張っててくれよ」

「え?」

 意味がよく分からず、気の抜けた声が出た。

 寝てる時の見張りとはどういうことだ。仮に言葉通りの意味だとしたら問題が多すぎる。

「だから、今日ウチに泊まってアタシの様子見てろってことだよ」

 言い直されて、ますます困惑する。敢えて人に、それも同級生の男子に頼む意図が分からない。

「ビデオカメラで撮るとかじゃ駄目なのかな」

「カメラもってない」

「携帯はどうだろう。あるか分からないけど、睡眠中の状態を記録するアプリとか探してみたら?」

「ゆ、幽霊が映ってたらどうすんだよ」

 その時は僕がいたとしても、どうすることもできないだろう。そういう否定的な態度が出ていたらしく、烏羽さんはみるみるうちに不機嫌な顔になる。

「ウチに泊まるのがそんなにイヤか」

「嫌じゃないけど突然だし、ご両親も困るんじゃないかな」

「基本アタシ一人だから大丈夫だ。ていうか、誰かいるならオマエに頼んだりしない」

 それもそうかと一瞬納得しかけたが、簡単に承諾していい提案ではない。僕が烏羽さんの家に行くことになれば、母さんを一人きりにしてしまう。色々と心配性な母さんのことだ。書き置きを残したとしても、僕が迷惑をかけていないか心配で眠れなくなるかもしれない。

 やはり、烏羽さんの頼みを聞くことはできない。

「ごめん。烏羽さんは大丈夫かもしれないけど、僕の方は許可がもらえないと思う」

「許可? 親のか?」

「うん」

「じゃあ今とれよ」

「働いてる時間だから無理だよ」

「メールぐらい送れるだろ」

 盲点だった。すっかり忘れていたが、僕は携帯電話を持っているのだ。烏羽さんの言う通り、メールならすぐにでも送れる。

 けれど、いずれにせよ許可が下りることはないだろう。返事があまりに遅ければ、彼女も痺れを切らして諦めるに違いない。そうなれば儲け物で、僕は予定通り一人の時間を得ることができる。

 打算に塗れた気持ちを隠し、あくまでもお伺いを立てるような内容のメールを送信する。

「仕事中だし返事は遅くなると思うよ」

「連絡はしたんだし、もう泊まりに来てもいいだろ」

「えっ」

「アタシが寝てるとこちゃんと見張っててもらうからな」

 それだと僕は一睡もできない。尚更外泊するわけにはいかず愛想笑いで粘っていると、机上に出した携帯が震えた。

 想定より随分早い。なんと母さんから電話が掛かってきた。携帯電話で通話するのは初めてで、少し手間取りつつも何とか通話ボタンを見つける。

「ほう君! 説明して!!」

 直後に響いたのは母さんの咆哮みたいな怒声だった。耳に当てていたら鼓膜がおかしくなっていただろう。音割れが酷く、ざらついた余韻が頭蓋骨の中で反響している。

「烏羽って誰!? 女!?」

「ちょ、落ち着いてよ」

「落ち着けるわけないでしょ!!」

 声の大きさにたじろいで思わず机に置いてしまったが、言葉がはっきり聞き取れる。烏羽さんは耳を塞いだまま僕を非難がましく睨んでいて、どうにかしろと顎をしゃくった。

「ええっと、メールにも書いたけど一応説明するね。烏羽さんってクラスの子がちょっと困ったことになってて、それで、今日一日泊まって欲しいと」

「そんなの知らない! 絶対許さないからね!!」

 取りつく島もない。だが、好都合だ。烏羽さんも怒り狂う母さんとの会話を聞いて、説得が如何に困難か充分理解しただろう。突発的な外泊許可など、まず下りない。基本的に母さんは家族以外と関わりを持つことに慎重なのだ。

 一応、交渉の努力はしたので烏羽さんも納得してくれる。そう思って振り返ると、彼女の眉間には深い皺が刻まれ、眼光はより一層鋭い光を帯びていた。苛立ちを抑え切れないのか、目尻がひくついている。

 自分の思い通りにいかず腹が立ったのだろうか。いくらなんでも家庭の事情を無視してまで外泊を強要するとは考え難いが、きれた人間というのは何をするか分からない。烏羽さんを諭すためにも、まずは母さんを宥めようと携帯に手を伸ばす。

「あっ」

 烏羽さんに携帯をとられた。取り返そうにも、彼女の耳は僕の背丈よりかなり高い位置にある。座った姿勢からでは、腕を伸ばしても届かない。

「オイ、アンタ。黒橡の母親か?」

「……お前が烏羽か」

「アタシは別に他所様の家庭に口出してまで自分の理屈を通すつもりはない。無理なら無理で違う方法を考えるさ」

「あらそう。じゃあもう用はないわね。さようなら」

 低い声色で威圧する母さんと静かに苛立つ烏羽さん。何も起きないはずがなく、漂う剣呑な空気に冷や汗が止まらない。

「まだ話は終わってねえぞ。アタシはコイツに無理させてまで言うこときかせるつもりはないが、個人的な意見は別だ。さっきから、アンタの言い分が気に入らない。いつまでも子供が言いなりになると思わない方がいい」

「そういうお前は口の利き方がなってないみたいだけど。あ、もしかして、御両親に愛してもらえなかったのかしら? かわいそう」

 言い過ぎだ。一言注意しなければと立ち上がるが、烏羽さんの突き出された手のひらに制される。

「そうかもしれない。けどな、アタシは自分に誇りを持ってるし、こういうアタシにしてくれた親に感謝してる。少なくとも、囲い込むだけのアンタの教育方針よりはずっと立派だよ」

「ご忠告どうもありがとう。頭がおかしいようだから二度と息子に近付かないでね」

「ハハッ。それじゃあ折角だしもう一つお節介をやいてやる。コイツはウチに泊める。アンタの意見は知らない」

「はぁっ?! ちょっと待ちなさ」

 母さんの言葉を待たず、烏羽さんは通話を切った。爽やかな微笑みと共に携帯電話を差し出してくる。

「よし。これで問題ないな」

 問題しかない。満足げに頷く烏羽さんにつられ、乾いた笑いが出る。心なしか目元が熱い。人間、どうしようもなくなると感情を表現する機能が壊れてしまうらしい。

 震え続ける携帯を握り締め焦点の合わない視点を彷徨わせていると、肩に手を回される。筋肉でできた固さと厚みから有無を言わせぬ力強さを感じる。

「じゃ、いくか」

 烏羽さんは普段の険しい表情からは考えられないくらい満面の笑みを浮かべている。彼女の中で僕が泊まることは決定事項となった。

 だが、諦めるには早い。というか、ここで諦めると後が怖い。母さんが僕を叱りつけることはないけれど、無言の圧を四六時中かけてくる。精神的にはそちらの方が厳しい。

 幸か不幸か、外泊は大きな行事だ。突然の誘いである以上、突然の断りもまた致し方ないものであるし、一度離れることができれば機会はある。母さんの機嫌をとるために試せることは何でもやるべきだ。刺激しないよう、回された手を丁重に除ける。

「分かったよ。でもその前に、着替え取ってこないと。だから、後で烏羽さんの家で合流しよう」

「おとうのがあるからそれ貸す」

「下着類まで借りるわけにはいかないよ」

「一日ぐらいパンツ変えなくても大丈夫だろ」

 赤錆さんが聞いたら唖然としそうな言葉だ。母さんに洗濯してもらっている手前、偉そうなことは言えないが、連日同じ下着を履くのは僕も考えられない。潔癖というよりは習慣からくる忌避感だろう。

 常識という感覚的な違いを理解してもらうのは難しい。強く否定するには論が足りず曖昧に笑って遠回しに断ると、烏羽さんはあからさまに不機嫌な顔を作った。

「なんだよ。まだ文句あんのか」

「文句じゃないけど……もしかして急いでるの?」

 家に帰って荷物を取り、その足で泊まりに行く。土壇場の反故に勘付いているのでなければ、さして問題はないはずだ。機嫌を悪くするほどの不都合があるとは思えない。

「遊ぶ時間減るだろ」

「遊ぶ? なにで?」

「ゲーセン。早くいかなきゃ間に合わないぞ」

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