第14話

 擦れて削れた痕だ。

 傷は右眉から目の上を通り、下瞼にまで及んでいる。抉れた痕を色の違う肉が歪に修復し、凹凸は影ができるほど深い。縁取るように散在する大小の穴は砂利が突き刺さってできたのだろうか。黒い点にも見えるそれらは今にも膿が顔を覗かせそうな生々しさがある。

 白く滑らかな肌と対比する惨たらしい傷。しかし、最も忌避感を覚えたのは傷痕の中にある包介クンの右目だった。

 ガラス玉。一切の生気が感じられない眼球。

 瞳の端まで開かれた瞳孔は景色を写すだけで何も見てはいない。死体の眼と同じだ。優しげではにかみ屋な少年の作り物めいた一点は身慄いする異質さがある。

 気持ち悪い。

 拒絶の言葉がはっきりと浮かび、耐えられずに視線を逸らす。

 そこで初めて、自分の犯した過ちに気がついた。

 痛そう。

 可哀想。

 そういう想いをそのままに彼を見た。何が一番傷つくのか、ワタシは知っているのに。

 ハッとして包介クンの首から両手を離す。気道を押さえつけられていた彼は何度か咳を繰り返した後、前髪を手で梳いて顔の右側を隠した。

「すみませんでした。偉そうにものを言われたら気分悪いですよね。挙句、気持ち悪いものまで見せてしまって。本当にごめんなさい」

 頭を下げ、バツが悪そうに笑う。

 その卑屈な笑みには見覚えがある。暗い気持ちになった時、鏡に映る顔とそっくりだ。

 強すぎた風は次第に落ち着き、日の沈んだ空に紺色が広がっていく。街灯の淡い光が写した包介クンの影は輪郭が曖昧で、今にも消えてしまいそうだった。

 ただ、沈黙が流れる。

 耐えきれなくなったのか、包介クンが遠慮がちに口を開いた。

「この傷、車に撥ねられた時についたみたいです。もう少し上手く隠せたらいいんですけど、ガーゼや包帯だと目立ったり痒くなったりで中々難しくて」

 言って、包介クンは再び前髪を撫で付ける。

 念入りに。もう二度と傷痕が見えることがないように。

 軽弾みに曝け出せるような代物ではない。それがどれだけの苦しみを包介クンに与えてきたか想像もつかない。だけど、ワタシは聞かずにはいられなかった。興味本位ではない。不気味な何かの正体を知ることで少しでも安心したかった。

「……その目」

「はい、なんでしょう」

「包介クンの右目は、その、ちゃんと見えてるの?」

 包介クンは困り眉の間を掻く。答え難いというよりは、説明に窮しているみたいだった。数秒間が空いて、彼は思考をなぞるように言葉を紡ぐ。

「ええっと、視力は残ってるんですが、事故の際に外傷性の散瞳というのを患いまして、簡単に言うと瞳孔が開きっぱなしなんです。眩しすぎて見えないんですよ。本来は専用のコンタクトレンズで症状を緩和するみたいなんですけど、僕の場合、傷がありますから、見えればいいというわけでもなくて」

 尋常の虹彩ではあり得ない、墨を垂らしたような黒。爛れた皮膚の中にある焦点のないそれをもう一度見たいとは思わない。包介クンは視えることより、他人に不快感を与えないことを選んだのだろう。

「事故って言ったよね。……いつ頃の話なの?」

「実はよく覚えていないんです。昔のことだからか、突然のことだったからかは分からないんですけど。車に撥ねられたことは後で母に聞きました」

 緩やかな風が吹き前髪の毛先が揺れる。呟いた包介クンの声はひどく疲れて聞こえた。

 遠くでカラスが鳴く。夜の訪れを告げる甲高い声を境に、空は増々色を濃くする。煌めき始めた小さな星の粒も彼の目には眩しすぎるのかもしれない。

「ゴメンね、首絞めたりして。……それに、傷のことも」

「いえ、こちらこそ申し訳ないです。その、僕は榛摺さんが羨ましかったのかもしれません」

「……ワタシが?」

 小さな傷痕で済んだからだろうか。たしかに、包介クンの痕を前にすると自分はまだ幸運だったように思える。

 だが、ワタシの考えはまるで検討違いだったみたいで、表情から察した包介クンは慌てて訂正した。

「ああ、そうじゃないんです。僕は悩めることが羨ましいと思ったんです」

 どういうことだろう。

 悩むことはストレスでしかない。忘れられるならその方がいいに決まってる。なかったことにできるならもっと自由に生きられる。

「榛摺さんにはないものねだりにしか聞こえないかもしれませんが……でも、僕は分からない今が怖いんです」

 諦めたように笑う。どうにもならない今を取り繕っただけにすぎないその表情は頼りない。

「いつ、どこで、どうして車に撥ねられたのか。僕の不注意か、運転手の過失か」

 包介クンは地面を見つめ、一つ一つを指折り数えていく。自らに空いた穴を確かめるようにゆっくりと。

「僕は何も憶えていない。自分のことなのに、僕が一番自分を知らない。知らないから、悩むこともできない。そんな今が怖いんです。母さんにもっと詳しく聞けるならいいんですけど、この話をするとすごく辛そうな顔になるんです。それを思うと難しくて。結局僕も、向き合うことから逃げているのかもしれないですね」

「……そうだね。ワタシとキミはすごく似てる」

 傷があるところ。

 それを恥ずかしく思うところ。

 追求を投げ出した自分は罰せられるべきであると考えるところ。

 保身のために黙するワタシと、大切な人のために口を噤む包介クンとでは大きな違いはあるけども、話し合いを恐れているのは同じだ。

 ワタシも包介クンも同じ、臆病者だ。

「でも、それは悪いことなのかな」

 包介クンを見て気が付いたことがある。

 ワタシ達は、自分を責めることが当たり前になっている。ワタシの場合はそれを肥大させて本心を隠す言い訳に利用していたけど、自責思考自体はたしかに根付いていて、どんな失敗も原因は自分にあるとまず考える。

 悪い考え方ではない、と思う。包介クンが言ったように、平等な視点を持つことができる。

 でも。

 外から見て、ワタシ達は可哀想な人だ。お昼に会った浮気性の男とその女にしても、ワタシに敵意を抱いていたはずが傷を見た途端言葉を詰まらせた。相手の憎悪を思い留まらせるほどの悲壮さが、この傷痕にある。

 だったら。

 それだけのものをどうして、ワタシ達は責めているのだろう。向き合うことから逃げるのはそんなに恥ずかしいことなのだろうか。

「ワタシ達はもっと、自分に優しくしてあげてもいいんじゃないかな」

 もう充分に傷ついた。一生残る傷を負い、顔を隠して生きざるを得なくなった。

 自分でどう考えようと、ワタシ達は被害者だ。気にしないでと強がってみても周りの目は変わらない。気は遣われるし、フォローもされる。傷があるから向けられる好意はたしかにある。

 でも、それは恥ずかしいことじゃない。他人に優しくされるのは、傷痕がもたらしたほんの微かなメリットだ。少しくらい甘えたっていいだろう。

 傷がないように振る舞って、自分に厳しく生きることだけが正解じゃない。

「たしかに榛摺さんは自分に厳しいと思いますが、僕は充分優しいですよ。優しすぎるくらいです」

「ほら、そういうところ」

 包介クンの鼻先を軽く突いてやると、子供扱いが気に入らなかったのか目に見えてむすくれた。

 でも、これくらいが丁度いい。長く時間をかけるほど自分の考えは固まって、どんどん頑固になっていくのは身をもって知っている。お姉さんぶった上からのアドバイスの方が多少は聞き入れやすいだろう。

「……分かりました。考えてみます」

 口ではそう言っても納得はいっていないみたいで、包介クンは眉間に皺を寄せてウンウン唸っている。

 如何にも悩んでいる表情だ。無機質で無感情な右目はもう見えない。悩みもふてくされも素直に全部が顔に出る、分かりやすい男の子だ。

「それじゃ、今度こそ帰ろうか。もう真っ暗だよ」

 夜の帳はすっかり落ちて、月がくっきり浮かんでいた。子供が帰る時間はとうに過ぎて、ワタシも普段ならお風呂に入っている頃だ。肌を撫でる風は随分落ち着いたけど、冷たいそれを長い時間浴びたくはない。

 ワタシに倣って空を見上げた包介クンは屋根の隙間から降り注ぐ月光に照らされ、ぽかんと口を開けていた。

「あ、本当ですね。危ないですし、よかったら送らせてください」

「えー? オオカミになったりしない?」

「狼ですか? まあ、格好いいとは思いますけど、なれるものなんですか?」

 やっぱり少しズレている。真面目に聞き返す彼はまるで意味を理解していないみたいだ。

 でもまあ、たまには年下にエスコートされるのも悪くない。オオカミには程遠い子犬のような彼だけど、薄く笑ったその顔はちょっぴり頼りになりそうだ。

「折角だし、お願いしようかな」

「はい、任せてください」

 ベンチから立ち上がりマスクを戻す。指先だけのその動きを鬱陶しいと感じている自分に気づく。

 いつか、これを必要としなくなる日が来るかもしれない。

 語り尽くした爽快感で勘違いしているだけと言うならそれまでだけど、少なくとも包介クンの前でワタシの弱さを隠す必要はなさそうだ。

 小さな彼の小さな肩に寄りかかって歩く夜道は、不思議と安心できた。




 日が沈みきるほどに話し込んだ僕達の帰り道は一緒だった。

 驚くべきことに榛摺さんの家は僕と同じマンションで、しかも二つ隣の部屋だったのだ。昨今は防犯上の観点からも隣室への挨拶は敬遠する傾向にあるが、それにしても今まで出会わなかったことが不思議で仕方がない。

 しかし、榛摺さんの方はよくよく思い返すと外廊下で僕を見かけたことがあるらしい。

 ただ、その時は決まって大柄の外国人に絡まれていたので避けていたとのことだった。

 桑染さんだ。特徴が合致する知り合いは彼女しかいない。

 榛摺さんは僕が桑染さんに恐喝されているのではないかと心配していたので、誤解を解くため彼女のことを簡単に紹介したところ、桑染さんの経歴、特に職業について興味を示した。

 なんと、桑染さんの出身大学は榛摺さんが通う大学と同じなのだという。また、文学部に所属する彼女にとって桑染さんの職は理想の一つのようで、一度会って話をしてみたいとか。

 桑染さんが人との接触を苦手とすることはもちろん承知しているが、悩みを共有し助言もしてくれた榛摺さんの願いを無碍にはしたくない。

 そういう流れで僕達は今、桑染さん宅の前に立っている。

 前に僕、後ろに榛摺さん。立ち位置を逆にした方が収まりはいいだろうが、丸投げするだけでは同行する意味がない。背中越しに伝わるソワソワとした雰囲気を遮るために胸を張り、鼻から深く息を吐く。

「それじゃあ呼びますね」

「うん、お願い」

 ボタンを押してチャイムを鳴らす。

 しばらく間を置いた後、扉の向こうで激しい衝突音と何かが倒れる音がした。忙しない足音が走り回り、時々悲鳴が聞こえる。

「……ホントに大丈夫な人なの?」

 榛摺さんのなんとも言い難い質問に愛想笑いで答えると、ガチャガチャと騒がしい音の後、病床の老婆のような萎れた声が受話器を通して話しかけてきた。

「……はい、桑染です」

「あ、黒橡です。突然ごめんなさい。少しお時間いいですか?」

「もっ、もちろん! でも、ちょっとだけ待っててほしくて」

「結構かかりそうですか?」

「ぜんぜん! えっと、三十分くらい」

 結構かかりそうだ。扉の前で待ちぼうけるには大分長い。榛摺さんも見るからに苦い顔をしているし、日を改めた方がいいかもしれない。

「無理しなくていいですよ。折を見てまたお伺いします」

「え!? まっ、待って! すぐ行くから!!」

 通話が切れて、間髪入れずに玄関扉が開かれる。丸縁の眼鏡をかけ灰色のパーカーを着た桑染さんが吐く息も絶え絶えにドアノブに手をかけていた。

 見事な金髪はあちこち撥ねていて、目の下には濃い隈が浮かんでいる。廊下で出会う彼女は雰囲気こそ暗いがばっちりお洒落しているので、生活感丸出しの格好は新鮮に映った。

「ご、ごめんね、こんな格好で。そっ、それでっ、今日はどうしたの? 遊びに来たの? ごはん? もしかして、お、お風呂かな?」

「いえ、そうじゃなくて。紹介したい方がいるんですよ」

 途端に表情をなくした桑染さんはがくりと肩を落としてから、切れ味の鋭い視線で榛摺さんを睨みつける。誰もがこれほど分かりやすく感情を表現できれば、この世に言葉は要らないのかもしれない。

 剥き出しの敵意に榛摺さんがたじろぐ。しかし、彼女は流石の社交性ですぐに持ち直すと、目元だけでも伝わるとびきりの笑顔を作った。

「こんばんは。榛摺はりずり麗美れいみと申します。実はワタシ、貴女の後輩にあたりまして」

「そんなことはどうでもいい。それより、ほ、包介くんとどういう関係なの」

「今日公園で知り合ったんです。ね?」

「はい。そうなんですよ。すっかり意気投合しちゃって」

 話を合わせて微笑みかけると、桑染さんは榛摺さんを足元から頭の先まで訝し気に見回した。微塵も信用していないらしい。

「こいつ、ショタコンじゃないの? 変なことされてない?」

「ちょっと、包介クンの前で変なこと言わないでくださいよ」

「なにその反応。怪しい」

 桑染さんは榛摺さんを不審者と決めつけてかかっているようだ。腰が低い割に強情な彼女を納得させるのは骨が折れる。打つ手がなくなったのか、榛摺さんがこっそり僕の肩を小突いて助けを求めてきた。

 話すきっかけになったのは榛摺さんが口裂け女の真似事を仕掛けてきたせいだし、変なことをされたというのは間違いではないが、敢えて状況をややこしくする必要もない。口裂け女云々には触れないように知り合った経緯を改めて説明する。

「……ふーん、そうなんだ。つまりこの榛摺? っていう女は包介くんの話を聞いて、すっかりわたしに憧れちゃって、ぜひとも一度ご挨拶がしたいと押しかけてきたわけだね?」

「そんなところですね」

 桑染さんは警戒こそ緩めていないが、口元は得意げににやついていた。多少大袈裟に話過ぎた気がしないでもないが、目的は果たせたので充分だろう。榛摺さんの引き攣った目元は見なかったことにする。

「まあ、そういうことなら? 仲良くしてあげてもいいですよ」

 桑染さんはふすふす鼻息を漏らしながら、尊大な態度で榛摺さんを一瞥した。赤錆さんが偶に言う、どや顔というのをいまいち理解していなかったが、成程これがそうかと思う。少し気に障るものがあり、茶化したくなる気持ちがよく分かった。

 とはいえ、二人はそれなりに打ち解け合えたようだ。

「はい、よろしくお願いしま──」

 榛摺さんが桑染さんの申し出に応えようと笑いかけたところで、突風が吹いた。

 今朝と比べると風の勢いは随分落ち着いたので油断していたが、同じ轍は踏まない。体は咄嗟に反応し前髪が捲れ上がるのを防ぐ。

 しかし、榛摺さんは違った。話が纏まった安堵から体も緩んでいたらしく、風の煽りをまともに受け体勢が崩れた。慌てて僕にしがみついて寸でのところで立て直す。

 後頭部が柔らかな感触に包まれ、今度は僕がにやけそうになった。

「ゴ、ゴメン。大丈夫?」

「はい、僕は全然」

「ちょっと!!」

 浮ついた気持ちを責め立てるような厳しい声にどきりと心臓が跳ねる。だが、声の主である桑染さんは僕にのしかかる榛摺さんだけを睨みつけていた。大きく肩で息をする彼女に余裕はもうない。鬼の形相で拳を握りしめている。

「そんな貧乳、包介くんに押し付けないで!」

 そんなことはない。僕の後頭部に触れた柔らかさは何というか、非常に女性的だった。桑染さんの言い放った身体的特徴が当てはまるのは、僕の知り合いでは赤錆さんと濃墨先輩しかいない。

 気にする必要などどこにもないのだ。みんな違ってみんないい。それでいいじゃないか。世界は愛と平和で回っている。

「お言葉ですけど、アナタのがデカすぎるだけなんじゃないですか」

 そんな都合のいい話はない。一体僕は、今日一日で何度争いを目撃するのだろう。

「おっ、大きい方がいいに決まってるもん!」

「まあ、低俗な男には丁度いいかもしれないですね。垂れ下がった悲惨な未来も想像できないしょうもない男には」

「包介くんはしょうもなくなんかない!」

「ええ、そうですね。しょうもなくなんかない包介クンは形が整ってる方が好きだと思いますよ。そうだよね?」

 同意を求められても困る。というか、桑染さんの中で僕の趣向はどうなっているのか。

 何を答えたところで火に油を注ぐ結果になるのは目に見えているので、てきとうに笑って沈黙を決め込む。歯切れの悪い僕は頼りにならないと判断したのか、二人は再び相対し暴力的な勢いで主張を吐き捨て始めた。

「大きさ!」

「形!」

 風の強い日は本当に疲れる。

 傷痕のこともそうだが、争いの種を運び込むという新たな発見をしてしまった。平和に暮らすうえでの注意事項がまた増えた。

 もっともそれが、学びというのかもしれない。危機を避けるため、時には痛い目に遭いながら心身の維持に必要な行いを覚えていく。苦労が成長のすべてではないが、辛い思い出は学びを深いものに変える。そう理由をつければ傷つくこともそんなに悪くはない。

 この右目にも、いつか意味を与えられたらと思う。

 終わりのない争いを尻目に、僕は静かに帰宅した。

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