第13話
失敗は成功の母である。失敗から学び、反省し、次の自分に繋げる。人は失敗から成長するものだ。
だけど、現実の問題として。
失敗はそんな簡単には乗り越えられない。前向きに捉えるには相応の時間が必要で、二度としないと誓っても繰り返すことはある。
そして、失敗には後悔がつきものだ。
どうしてこんなミスをしたのか。どうしてもっと良い方法が思いつかなかったのか。
思い返すだけで気が滅入り、明日への気力は根こそぎ奪われる。
後悔こそが次への一歩と唱える人もいる。でも、悩み苦しんだ時間のうち実際に役に立つのはほんの一部で、大抵は自己嫌悪で終わる。自分を追い込むだけ追い込んで、後に残るのは傷ついた自尊心と失敗への恐れだ。
ワタシは未だに後悔している。
あの時、あの場所で。
手間をかけさせ、慮れながら、家族の顔に泥を塗った。逃げ出したい一心で尊い好意を無駄にした。
恵まれた自分を驕り、自惚れ、明るい世界を信じた
「さよなら」
「待ってよ麗美ちゃん! 話を──」
男の言葉を遮るようにしてテーブルに千円札を叩きつける。頼んだ安いコーヒーには口もつけていないので明らかに赤字だけど、小銭をジャラジャラと探り出していては格好がつかないので仕方ない。
「麗美!」
立ち上がり際に腕を掴まれる。男の手ではない。うんざりして目を向けると、浮気相手の女が泣きそうになりながらワタシの腕に縋り付いていた。
「なに? もう帰るとこなんだけど」
「彼と寝たことはちゃんと謝る! だから」
「別にもういいって。お幸せに」
「麗美ちゃん! 俺達はホントにそんなつもりじゃなくて」
「もういいって言ってるじゃん」
とっとと家に帰りたいのだが、握力が強くて振りほどけない。しかも、ちょっと爪刺さってるし。こういう自分勝手な奴が一番嫌いだ。
ワタシが女のせいでまごついていると、すかさず男が飛び出して床に額を擦り付けた。素晴らしいチームワークだ。
「ごめん!」
「……あのさあ、土下座されても困るんだよね。本人は満足してるのかもしれないけど、やられてる身としてはさ、許すことを強要されてるみたいで凄く気分悪い」
「ごめん!!」
分かってはいたことだけど、話が全く通じない。
そもそも聞く気もないだろう。こいつらは謝ったという事実が欲しいだけで、自分達が納得できればそれでいいのだ。ほんとにめんどくさい。
「じゃあなに。ワタシに何て言って欲しいの?」
男があからさまに痛いところを突かれたって顔になる。バレなきゃ平気だと思って浮気したんだからもっと堂々してればいいのに。
どこまでも薄っぺらい男。そもそも、交際の経緯からして薄っぺらかった。ワタシに近づいてきたのもどうせ、美人と噂の女を落とせば自分の株が上がるとでも思ったんだろう。女を自己顕示の手段としか見ていない典型的な見栄っ張りだ。
女も女である。こんな男のどこに惹かれたのか。見る目がないとしか言いようがない。これだけ可愛ければもっといい男がいそうなものだけど。
「……そういう言い方はないんじゃない」
「ん? なに?」
効果がないと悟ったのか、女が声色を低くして不満げに呟く。
「麗美にはどうせ分かんないだろうけど、彼、すっごく悩んでたんだよ。付き合ってからも全然会えなくて、もう飽きられたんじゃないかって」
交際してまだ一月半しか経ってないし、飽きるほど知らない。会わない理由は連絡を取る度にバイトや飲み会で忙しいと散々愚痴るから気を遣っただけだ。
しかし、どういうわけかこの女の脳内ではワタシが男を振り回す高慢ちきで奔放な女になっているらしい。男の話を鵜呑みにしたのか、浮気を正当化するためにワタシを敵に仕立て上げたのか。どういう理屈でその結論に至ったかは理解できないし、するつもりもないが、お似合いのカップルであることは分かった。
「つまりワタシが悪かったってこと?」
「そうじゃないけど……もっと人の気持ちも考えなよ」
ワタシが悪いってことじゃん。
と、言葉にするとまた面倒になりそうだ。女に謝罪の姿勢がまるで見えないのも脇に置いて、ぱっぱと話を切り上げることにする。
「分かった。たしかに彼の気持ち、ちゃんと考えてなかったかも。ごめん。でも、こういうことがあった以上もう彼氏彼女の関係は無理。別れましょ」
結局のところ二人が望んだ答えはこれだ。
てきとうに謝った事実を作って浮気をなあなあにする。別れた後、二人は晴れて正式な恋人となり新しい道を歩んでいく。安いファミレスを話し合いの場に選んだのは経費削減のためだろう。
もう充分。しかし、手首に巻きついた女の手は離れない。
「……いい女ぶらないでよ」
これだけ空気を読んであげたのに、まだ文句があるのか。面倒臭すぎて溜め息が出そうだ。
「そういう理解ある女アピール、ほんとイラつく。気を遣ってる感出してさ。麗美ってほんと性格悪いよね。そんなんだから浮気されんだよ」
被害者はワタシなのに、ずいぶんな言い草だ。溜まった恨みを吐き出す口調は耳にネチネチした嫌な余韻を残し、聞いているだけで胃がもたれる。
いい加減付き合ってられない。女の手を無理やり払い除けて踵を返す。ここにいては気分が悪くなる一方だ。早く帰りたい。
だけど、足が止まった。背中に吐きかけられた女の一言に止まらざるをえなかった。
「マスクとったらどうせブスのくせに」
顔が引き攣る。目元が熱く、首筋が強張る。
この女はなにも知らないらしい。勝ち誇った様子で顎を上げ鼻を鳴らす。反対に男の顔は青白く変色し、飛び火を恐れて俯いている。
そういえば、と思い出す。
ワタシがこの男とほとんど初対面の関係でありながら交際に踏み切ったのは、マスクの下を見ても動揺しなかったからだった。
ワタシはスレた振りをしながらも案外ロマンチックな期待を捨て切れていないようだ。結果がこのザマかと思うと嘆きを通り越して笑えてくる。
くだらない。
必死こいて勉強して、誰もワタシを知らない大学までやってきたのに。過去はどこまでも纏わりつき詮索の蛆が涌く。
いっそのこと全部曝け出してしまおうか。
これまでの努力を無駄にする捨て鉢な思いに身を任せ、まっすぐ女に詰め寄り、隠していたそれを見せてやる。
バツが悪そうに目を背ける女の姿に、少しだけ心が軽くなった。
やり過ぎた。大学では悪目立ちしないよう、お淑やかに暮らすつもりだったのに。
あの女の子は間違いなく今日のワタシの振る舞いを言いふらすだろう。マスクの下がバレることを今更気にはしないけど、バカスカ喧嘩腰で捲し立てたのが知れ渡れば、今後の学生生活に支障が出る。
というか、めんどくさい。陰口を叩かれるのも変に気を遣われるのも時間の無駄でしかない。
大学二年目の夏。あと三年を切ったと思えば短いものだが、これから噂に延々ついて回られると考えるとうんざりする。
「……はあ。つらい」
当たり前だけど、後悔はいつも後からやってくる。
たった今もそうだ。堪らず呟いた独り言は偶然側を歩いていた女児に聞こえてしまったらしく、気の毒そうな目で一瞥された。
大人の威厳も何もあったものじゃない。それとも、通りすがりの子供から不憫に思われるくらい疲れた顔をしていたのだろうか。ワタシの顔の下半分はマスクに覆われているのだから相当なものである。
やってられない。目先の気苦労で頭がおかしくなりそうだ。何かでストレスを発散しないと精神が保たない。
だが、何をすればいいのか。美味しい物を食べに行く気力はないし、酒に逃げるには年齢が後数週間足りない。そもそも、浮気がバレて逆上するような輩のせいで予定外の出費をすること自体納得がいかない。けど、不満を吐き出せる親しい友達もいなければ趣味と呼べるほどのものもないワタシが簡単に実行できるストレス解消法なんてのは何も思いつかない。
いっそのこと浸ってやろうか。
意味もなく川沿いで黄昏たり、海辺で水平線を眺めたりしてみようか。センチメンタルな気分を最大限に味わうため、敢えてそれっぽく振る舞うのも一興かもしれない。後で恥ずかしくなって身悶えするに違いない考えだけど、それすらどうでもいい。イライラを燻らせるよりは、つまらないドラマの真似をして後で恥を笑う方がマシだ。
何もかもがバカらしくなってきたワタシの前にタイミングよく公園の入り口が現れる。浅い人生と安い絶望には、寂れた近所の公園ぐらいが丁度いい。ここを今日のセンチメンタルスポットに決める。
設置された遊具はいたる所の塗装が剥げた木製の汽車と、撫でるだけで手のひらが鉄臭くなりそうな低めの鉄棒、あとはサビだらけでいつ整備されたかも分からないブランコがあるだけだ。住宅街の中にしてはそれなりに大きな公園だが、目の肥えた現代っ子にとってはまったく価値のない場所だろう。夕方という時間帯もあって、利用者は一人もいない。
沈みかけた夕陽。無人の公園。
さて、どこで浸ろうか。
鉄棒は論外。汽車の遊具はワタシには小さすぎる。中で膝を抱えていてもヤバイ絵面が出来上がるだけだ。消去法でブランコに座る。鎖の結合部が悲鳴を上げたのはワタシの重さではなく老朽化によるものだ。そう思いたい。
腰を落ち着けると、周りを見る余裕が生まれた。
家々の小窓に明かりが灯り始め、醤油の焼ける芳しい匂いが微かに香る。風に揺れる背の高い蝦夷松の尖った葉が音を奏で、後に続く控えめな虫のさざめきが耳に優しい。赤い空を背景に飛んで行く二羽のカラスは、目が眩むほど太陽の鮮やかなオレンジ色に溶けていった。
公園に佇む大人は草臥れた保護者かロリコンの二種類しかいないと思っていたが、実際に佇む側を経験してみると意外と心が落ち着いた。公園で項垂れる彼ら彼女らは時間を浪費しているわけではなく、安らぎのためにぼーっとしていたのだと実感する。
そうしてしばらく日の落ちる様を眺めていると、視界の端に人影を捉えた。公園の入り口を振り返る。
小さい男の子がこちらを見ている。
無地の黒い学ラン。歳は中学一年生といったところか。顔立ちは幼く、私服なら小学生にしか見えない男の子だが、目元に色濃く表れた疲労のせいで幾分老けてみえる。子供を徹夜で働かせたら多分こんな感じになるだろう。ゲゲゲの鬼太郎をふわふわにしたみたいな奇抜な髪型をしている割に、疲弊した現代社会を体現したような子だ。
そんな子が、ワタシを見て固まっている。
失礼な態度だ。たしかに大学生がブランコに乗って遠くを見つめる様子は異様かもしれないが、凝視されるほど怪しくはない。
というか、不審者を見るにしても大袈裟だ。蒼白の表情からは今にも腰を抜かしそうな尋常じゃない怯えが伝わってくる。まるで、化け物を前にしたみたいに。
化け物。
そういえば、昔のあだ名は口裂け女だった。いつか、そう呼ばれていたことを思い出す。
ワタシの顔には傷がある。
小学生の頃に負った、頬から口端までを繋ぐ横四センチくらいの切り傷。歳を重ね、抉れた穴は塞がったけど、醜い凹凸は残ったままだ。頬肉を貫通しそのまま引き切られた痕が消えることはない。
以来、ワタシはマスクを外せなくなった。傷痕が見つかる度に向けられる憐れみの目が何より苦痛だった。
痛そう。可哀想。
いくつも慰めの言葉をかけられた。ただ、裏では陰口を囁かれていたことも知っている。クラスの中心から一転、日陰に身を落としたワタシの変わり様が面白かったのだろう。
長く伸ばした黒髪に顔の大半を覆う大きめのマスクを身につけたワタシは、たしかに口裂け女そっくりだった。
それは今でも変わらない。長い髪もマスクも。表情を取り繕う術は身につけたけど、心の底の暗い部分は何も変わっていない。何も乗り越えていない。この男の子の目にワタシがどう映っているのか、怯えた顔を見れば明らかだ。
ワタシはあの日、口裂け女になった。
だったら最後まで、ワタシは化け物であるべきなのだろうか。周りの望む通り、子供騙しの都市伝説になりきるべきなのだろうか。
思考までもが化け物じみてきて、面白くもないのに笑えた。
ブランコから立ち上がる。鎖が耳障りな音を立て、静けさに包まれた公園に不快な響きをもたらす。立ち尽くす男の子をじっと見据え、一歩一歩を確かめながら近づいていく。
すぐ目の前に立つと、怯えが手に取るように伝わってきた。頭一つ低いところにある顔は今にも泣き出しそうに歪んでいる。
化け物。
君もそう言いたいんでしょう。
だったらお望み通り、ワタシは化け物になってやる。
「ワタシ、キレイ?」
「趣味が悪いですよ……」
「ゴメンゴメン。あんまり反応がいいからつい」
アーチ状の屋根の下、ベンチに座る彼に謝りながらすぐ隣に腰を下ろす。
小柄な男の子、黒橡包介クンは如何にも気弱で人畜無害な風体だけど、いざ話してみると意外に肝が据わっていた。見るからに年上のワタシを相手にしても気後れする様子はまったくない。
大人と話すのに慣れているのだろうか。ワタシが包介クンと同じ歳の頃はもっとビクビクしてたと思う。
「にしても、君くらいの子でも口裂け女って知ってるんだ」
「……僕は知りたくありませんでしたけど」
怖い話が苦手。第一印象とはずいぶん違う彼だけど、そういうところは見た目通りらしい。口裂け女に怖がる要素なんてないと思うが、そこは人それぞれだろう。あの慌てっぷりは本心から恐れていないとできない。
ワタシに声をかけられた包介クンはちょっと引くぐらいの勢いで鞄の中を探り、ようやく見つけたべっこう飴を震えながら差し出してきた。特に考えもなく受け取ると今度は涙声で何度もポマードと唱え出し、それも効果がないと分かると、すとんと腰を抜かしてしまった。
投げやりな気分で都市伝説の真似事をしたことについては、間違いなくこちらに非がある。けど、包介クンも大概だ。言葉一つでワタシを口裂け女と思い込むなんて、なかなか失礼な奴だ。
思い返すとまたムカッとしてきた。ちょっとからかってやろう。
「それで答えは?」
「え?」
「ワタシ、キレイ?」
「……綺麗なんじゃないですか」
「心がこもってない」
「マスクで隠れているから、よく分からないですよ」
もっともな意見だが、生意気な態度だ。理由があってマスクを着けているとはつゆ程も思っていないらしい。
傷を見せれば少しは態度を改めるかな。
そんな考えがあっさりと浮かぶ。ファミレスの件のせいか、抵抗が薄くなってるみたいだ。
まあ、見せびらかしたところで問題はない。この子と話す機会はこれきりだ。年下らしくない余裕ぶった表情を崩せれば、それで満足できる。
そういう軽い心積もりでマスクを下ろす。屋外で痕を曝け出すのは久しぶりで、湿気を取り払う風が気持ちいい。これで包介クンが狼狽すれば言うことはなしだ。
「切り傷ですか?」
「えっ? ……ああ、うん。そうだけど」
予想とはまったく違う反応だった。やけに落ち着いた声音に、逆にこちらが驚いてしまう。
「真っ直ぐな痕だから事故ではなさそうですけど、どうしてついたんですか?」
なんの捻りもなく、ど直球でデリケートなことを聞いてきた。
これまでに傷の理由を尋ねた人は何人かいたけど、包介クンほど真っ直ぐに、それも出会って間もない関係で聞いてきた人は初めてだ。興味本位を通り越して不躾である。
聞く相手によっては好奇心旺盛な子供で済まないかもしれない。大人として、しっかり注意しておかないと。
なのに、言葉が出ない。喉に栓をされたみたいに空気を吐けない。頭に並べた説教の文面が次々と浮かんでは、形になる前に消えていく。
包介クンの眼差しがワタシの判断を狂わせる。
「……小学生の時、彫刻刀で刺されたの」
勝手に口が動いていた。何か話さなければならないというプレッシャーに負けたのか。それとも、誰かに聞いて欲しかったのか。
ワタシの過去を。傷を負うに至った経緯を。
情けない。誰かに話したところで傷痕が消えるわけじゃない。ワタシがすべてを台無しにした事実は、どう足掻いても変わらない。
だというのに、仮初めの慰めを求めてワタシの舌は止まらない。
「同じクラスの女の子に。突然グサって刺されちゃった」
「その子は何か問題のある生徒だったんですか?」
「ヒステリック気質ではあったけど……でも、刺した理由はちゃんとあったよ」
「榛摺さんとその女の子の関係に問題があったということでしょうか」
「うん。正確には三人かな。ワタシ、その子から恋愛相談を受けてたんだ。まだ小学生だったから経験とかなかったんだけど、まあ、流れでね」
「頼りにされてたんですね」
「面倒を押し付けられてただけだよ」
だけど、嬉しかった。多くの人から頼られるのは自分の能力が認められるのと同じで、その居心地の良さは他に代え難い喜びがあった。
そして、自惚れた。自分の判断はいつも正しくて、何もかもが思い通りに進むと信じていた。人の心を軽く見ていた。
だから、見誤った。
「相手の男の子の方がね、ワタシのこと好きだったんだ」
次のバレンタインでいよいよ勝負をかけようと女の子に持ち掛けた翌日、彼女の思い人がワタシに告白してきた。
ワタシは恋を知らない。可愛いと持て囃され、数多の恋愛相談を持ちかけられてはいたけど、誠実に、正面から好意を告げられるのは初めてだった。
混乱して、保留し、苦悩の末に断ることを決めた。突然知った恋慕より、友情を選んだ。
そうして決意を抱いて登校した朝の教室。
ワタシの頬に彫刻刀が突き立てられた。
研がれた刃先は容易に頬肉を貫き、左の奥歯を削り、引かれた刃は唇の端から振り抜かれた。溢れ出た粘っこい血の鉄臭い味が口いっぱいに広がって、刺されたと理解したのは保健室に運び込まれた後だった。
「で、見ての通り。空いた穴は塞がったけど、こんなみっともない顔、誰にも見せられないから、マスクで隠してたってわけ」
「女の子はどうなったんですか?」
間髪入れず、当たり前のように続きを要求する包介クンに思わず噴き出しそうになる。
この子にとって他人の傷痕などはどうでもいいらしい。普通はこの辺りで気まずそうな顔をするものだけど。
もっとも、ワタシもここで話を終えるつもりはない。包介クンには責任を持って、きちんと最後まで付き合ってもらう。
冷たい風が通り過ぎる。むき出しの痕を指の腹でなぞると、糸を引くように微かな熱をもった。
「女の子はずっと泣いてたよ。泣きながら叫んでた。ワタシの方は保健室で応急処置された後、病院に運ばれて、傷口を縫って、一日くらいで退院したかな。突然のことで処理しきれなくて、気づいてたら家に帰ってた」
実際、そこまで重くは受け止めていなかったのかもしれない。ぼんやりと天井を眺めながら思っていたのは、喉がイガイガするとか、飲んだり食べたりした物が口から溢れちゃったりするのかなとか、そんなどうでもいいことだった。
でも。
「お父さんはそうじゃなかった。もちろん、お母さんも。病院の先生から痕は一生残るって聞かされた時はホントすごかったよ。真っ赤になってプルプル震えながら泣いてるの。どうしてウチの子が、って何度も言ってた。それで、退院した次の日に女の子の家に乗り込むことになったんだ。入院中に一度も謝罪に来なかったのも原因の一つみたい。普段は優しい人達なんだけどね」
「一大事ですから。ご両親がお怒りになるのも当然でしょう」
「アハッ!」
「え、僕、面白いこと言いました?」
「いやあ、急に常識的なこと言うからつい」
デリカシーはまるでないのに一般的な倫理観は持ち合わせているらしい。
顔に傷が残るのは不憫だけど、その理由を問い質すことは躊躇わない。独特な思考回路は見た目と性格のギャップが激しい彼らしく、それが妙に笑えた。
「えーっと、それで……あ、そうそう、女の子の家に行って、そこで初めて親同士が顔を合わせたんだ。曲がりなりにもこっちは被害者だし、向こうもすぐ頭を下げると思ってたんだけど、そうはならなかった」
親の目なしというか、蛙の子は蛙というか。
ヒステリーは遺伝みたいで、開口一番に吐きつけてきたのは侮辱の言葉だった。
淫売、アバズレ、キチガイ、その他にも色々。
女の子の中ではワタシが男の子に色目を使ったことになっていて、多分な脚色を加えた被害妄想を両親に伝えたらしい。当時のワタシには彼女の両親が吐いた言葉の意味を半分も理解できなかったけど、罵られていることは分かった。元凶はワタシにあると決めつけて、顔の傷は当然の報いであるとも叫んでいた。
「そういう対応だったから、こっちも更にヒートアップしちゃって。お父さんはすごく用意してたみたい。弁護士に相談して、学校にも事実確認して。そうして一週間くらい経った後かな。全部の準備を整えて、話し合いのために関係者全員を集めたんだ」
話し合い、というには語弊があるかもしれない。
向こうの親は自分達の正しさを信じて疑わず、誰も伴わずに家族三人でやってきた。対してこちらは弁護士、現場にいた担任の先生に学年主任、それと教頭同席の盤石の体勢で構え、事が有利に進むよう意見書の類も揃えていた。
感情的な暴論が通る余地は一切なかった。自信たっぷりに正当性を主張していた女の子一家も、弁護士が冷静に一つ一つを説き伏せていくとみるみる表情が変わっていった。
そうして遂に仲間割れを始めた。
きっかけは彼女の父親の呟きだった。苛立ちから溢したらしい愚痴が母親の怒りに火を点けて、小規模な言い争いは次第に怒声飛び交う激戦と化した。
かわいそうだとは思わなかった。盲目的に娘を信じ、一片の疑問も持つことなくワタシを好き放題に罵倒した彼等に同情心はまったく湧かなかった。
それは周りの大人達も同じだったのだろう。暴言をぶつけ合う彼らに向ける目は冷めていて、ただただ軽蔑していた。
「もともと負けるわけなかったんだ。目撃者も沢山いるし、その子はすぐ泣くからクラスでも煙たがられてたし。準備の段階から勝負はついてた。だから、話し合いは弁護士の先生に任せっきりでよかったの」
上手くいくはずだった。ワタシが余計なことを言わなければ。
「ワタシさ、もういいですって言ったんだ。どうしてか分かんないんだけど」
許すつもりはなかった。なのに、そう漏らしていた。
お父さんが、お母さんが、周りの人達がワタシのためにどれだけの時間を割き、心を痛め、尽くしてくれたかをすぐそばで見ていた。
それなのに、ワタシはすべてを台無しにした。被害者であるワタシ自身が追及を投げ出した。
「ホント、なんでだろうね。勢いに流されたのかな? 結局、向こうがワタシの発言を盾にしてゴネ続けるから形だけ和解して終わっちゃった」
得たものは治療費と幾らかの慰謝料。失ったものは自信と両親からの信頼。
誰と話しても腫れ物に触れるような扱いを受け、お父さんは特にその傾向が顕著だった。理解できない子供に対し辟易しているようにも思えた。
そうしてワタシはマスクを身に着けるようになった。
二度と自惚れないように。誰かと深い繋がりをもたないように。
傷痕は罪の証なのだろう。産み育ててくれた最大の理解者を裏切った罰だ。
「はい、これでつまんない話は終わり。まったく、女の子の秘密は詮索するもんじゃないぞ」
とはいえ、少し心が軽くなったのは確かだった。不幸話は空気を悪くするだけだから、語り終えた後は後悔するのが常だけど、今日は不思議と気分が良い。
空に向かって腕を伸ばすと、強張った筋肉に心地よい痛みが伝わる。ほっと一息吐いてしまえば、いつも通りのワタシに戻れた。不安の種は変わらず根を張っているが、取り敢えず今日眠ることはできそうだ。
「じゃ、そろそろ帰ろうか。付き合ってくれてありがとね」
「当然のことじゃないですか」
「ん?」
包介クンは地面に視線を落としたまま呟くように言った。右の人差し指が一定のリズムでこめかみを叩いている。
今、この子はなんて言った?
「当時の榛摺さんは小学生で、しかも大怪我したばかりでしょう? そんな憔悴した状態で大人同士が争う場面を見せつけられたら、責任を感じるのも無理ないですよ」
「いやいやいや。違うって」
そうじゃない。しょうがないなんてことはあり得ない。
ワタシの一言があの家族に逃げ道を作った。両親の献身を不意にしたのは紛れもない事実だ。この子は本当にワタシの話を聞いていたのか。
「お父さんもお母さんもワタシのために頑張ってくれてたんだよ。それをワタシが台無しにしたの」
「いつでも正しい判断ができるとは限りません。まして、榛摺さんは状況の理解もままならない精神状態だったはずです」
「違う。キミは間違ってる。悪いのはワタシだよ」
両親がどんな気持ちか考えず、無責任な行動をした。そもそも、得意げに他人の恋愛に首を突っ込まなければこんな事は起こらなかった。
「悪いのは榛摺さんを刺した子です。感情的に貴女を傷つけた挙句、自分が被害者のように振る舞った。その結果、多くの人を巻き込んで榛摺さんに不要な重荷を背負わせたんです」
「ワタシがもういいって言ったのは逃げ出したい気持ちからだよ。自分の勝手で周りに迷惑をかけたのはワタシも同じ」
「思い通りにならない我儘で起こした癇癪と、周囲の圧力に耐え切れず零してしまった弱音を同じに扱うのはおかしくないですか?」
「だって、仕方ないじゃない。その子はまだ子供で、我儘を言うのだって当然だよ」
「子供だから許されるんですか? それなら榛摺さんこそ許されるべきでしょう。もっとも、貴女に罪などないと思いますが」
平行線だ。ワタシが何を言っても、目の前の少年は物知り顔で言葉を返し一向に意見を曲げようとしない。
苛つく。
先までの清々しさは丸ごと上書きされた。ワタシを擁護しているように聞こえるが、心を見透かしているとでも言いたげな語り口が無性に腹立たしい。
それらしい慰めの言葉をかけてもらえれば平和に終わる話なのに。長ったらしい前髪を毟ってやろうかと睨みつけてやる。
「あ」
包介クンが短い声を上げ、跳ねるように顔を上げた。ワタシの怒りに気がついて謝るのかと思ったが、合点がいったとでも言いたげな明るい表情を見るにそうではないらしい。
「違和感の正体が分かりました。さっきから榛摺さん、自分が悪者じゃないと困るような口振りなんですよ」
「……なに?」
「だって変じゃないですか? 最初は件の女の子やその家族に対して明らかに軽蔑した態度をとっていたのに、急に自分だけが悪いような口調に変わりましたよね」
「それはキミの感じ方でしょ。ワタシはそんなつもりで話してない」
「そうですかね。でも、庇う必要はないでしょう?」
「庇う? ワタシが?」
「はい。ついさっき、榛摺さんは子供の間違いは許されるべきだと仰っていましたね。自分は許されないのに相手の事情は考慮すべきなんて、自戒するにしても行き過ぎかと思いまして」
こまっしゃくれた態度がいちいち鼻につく。見当違いも甚だしいと強引に議論を終わらせてしまいたい。早くしないと自分も知らない何かを知る羽目になる。そんな予感がする。
この子は一番触れてほしくないワタシの何かを暴こうとしている。
「すみません。言葉足らずでしたよね。ええっと、まず、僕は榛摺さんが思い悩む原因となった人々は大きく三つに分けられると思います」
風がうるさい。蝦夷松がざわりと揺れる。耳障りなこの音が彼の声を掻き消してしまえばいいのにと思う。
「一つは当然、榛摺さんを刺した女の子です。彼女が事件の始まりであることは間違いありません。二つ目はその家族ですね。我が子が加害者であると信じたくない気持ちは分かりますが、本当に子の成長を願うならきちんと叱り貴女方に誠実に謝罪すべきでした。そして、三つ目」
榛摺さんは納得しないと思いますが。
そう前置きした包介クンは苦笑して、けど迷いなく言葉を続ける。
「貴女の御両親です。個人的にですが、僕はこの件に関する御両親の対応は些か性急だったのではないかと思うんですよ」
ピキリと傷痕が疼いた。風の勢いが一層強くなり、髪に隠れた包介クンの右耳が露わになる。
「榛摺さんの話だと、話し合いまでの一連の流れは、刺されてから一週間くらいの出来事ですよね? たしかに素早く行動して相手側に準備させないのは重要だと思いますが、それにしても榛摺さんへの配慮が足りないと感じたんです。榛摺さんは突然、一生物の傷を負ったわけじゃないですか。だとしたら当時の榛摺さんには療養の時間が必要だったはずです。けれど、話の中で具体的にどういう治療があったかについて一切触れていなかった。もしかして、御両親は相手の追求ばかりに目がいって榛摺さんの気持ちは疎かにしていたのではないでしょうか」
「……それは仕方ないでしょ。両方共上手く進めるなんてできない」
「ああ、それじゃあやっぱり、御両親とよく話す時間は設けられていなかったんですね」
包介クンは納得して頷き、深い黒の瞳でワタシを見据える。鏡のようなそれにワタシの強張った顔が映り込んでいる。
「話しを戻しますね。つまり、僕は榛摺さんが言うところの失言を零してしまった理由の一つに、御両親の対応が含まれていると思うんですよ」
「それはワタシが自分が悪いと思い込んでる理由にはならないじゃない」
「ええ。なので一つ確認したいんですが、榛摺さんはその後、御両親とこの件について話し合ったことはありますか?」
「あるわけ──」
あるわけがない。思い出したくもないであろう過去を掘り起こす必要はどこにもない。あれはすでに終わった話だ。
ワタシが何を思おうが、一人で抱えていれば誰も傷つける心配はない。だからワタシは考えるのを止めた。自分の驕りが元凶なのだと結論付けた。
「自責思考は後ろ向きに捉えられがちですが、良い点もあります。周りを恨む必要がないので穏やかな性格になりますし、客観的な視点を養うことができますから。でも、一番の利点は、責任の所在を考えなくて済むことです」
言い聞かせるような優しい声音。それは強風の中にあっても途切れることなく、言葉の一つ一つがはっきりとワタシの耳に届く。
「人のせいにするのは楽なようでいて疲れますよね。しかも、相手が親では尚更です。だから貴女は自分一人に責任を負わせて御両親との話し合いを嫌った。納得のいかない気持ちに蓋をして、これ以上のストレスを避けた」
一つ、息を吸う。得意げに、ゆっくりと。
自分の正しさを信じて疑わない、かつてのワタシのように。一番強かった、あの頃のワタシのように。
「つまるところ、榛摺さんは御両親と向き合うことから逃げているのではないですか?」
プチンと大事な何かが切れて、ワタシの両手は自力とは思えない早さで包介クンの首を掴んでいた。
知った風な口利きが癪に触ったのか。両親を否定されたことに我慢ならなかったのか。
それとも。
彼の推論が図星だったからか。
頭の中がわけがわかんなくなるくらい熱い。震える指に感覚はなく、石のように固まっている。
包介クンの抵抗は弱々しく、ワタシの手首を緩く掴むだけだ。苦しそうに眉を寄せ、朧げな瞳でワタシを見つめている。
あと少し力を加えれば、永遠に黙らせることができるだろう。
身を乗り出して両手の親指をより深く差し込んだところで、また強い風が吹いた。上気した横面が叩かれて一瞬思考に隙ができる。
そして、止まった。
体が。思考が。ひょっとしたら時間さえも。そう錯覚するほどの光景が網膜に焼き付いた。
風が捲り上げた包介クンの前髪の下は、惨たらしい傷で覆われていた。
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