第12話
赤錆さんの家は僕の家から徒歩数分のところにある。白い立方体が組み合わさった佇まいは清潔感があり、大きめの窓と青々とした芝の広がる庭や、低めの塀にこじんまりとした赤いポストが暖かい家族団欒の光景を想像させる。俗な言い方になってしまうが、お金持ちの家といった外観だ。僕と母さんの住むマンションも立派な方だと思うが、モデルハウスのように完成された赤錆さんの御宅を前にするとどうしても霞んでしまう。
「立派なお宅ね」
「まあね」
褒められるのには慣れているのか、赤錆さんは淡白に返すとさっさと玄関扉の鍵を開けた。
彼女の家にお邪魔するのはもう何度目にもなるが、未だに緊張する。家という私的な領域に踏み込むことに慣れはない。
しかし、濃墨先輩はまったく気後れした様子がなく、むしろ堂々とした態度だ。伸びた背筋にぶれはなく、僕のような卑屈で怪しい挙動はない。
もてなされる側にも品格が求められるということか。できるかどうかは別の話だが、今後の参考にはさせてもらおう。
「丁ー? 帰ったのー?」
玄関口で外履きを脱ぐ機会を探っていると、スリッパをぱたぱたと鳴らしながら赤錆さんのお母さん、
赤錆さんと髪色こそ同じだが、優しげな表情は常にむすくれている彼女とは違って親しみやすさを覚える。赤錆さんのお父さんも朗らかで賑やかな人だし、どうしてこんなにも粗暴な子に育ってしまったのだろう。
「あら、もう来てたのね。いらっしゃい包介くん……と、ごめんなさい、どちら様?」
「はじめまして。オカルト倶楽部部長の
丁寧な挨拶だ。後二年で僕が先輩と同じ振る舞いができるようになるとはとても思えない。
「まあまあ、綺麗な娘ねぇ。丁、ライバル登場なんじゃない?」
「ママ! 変なこと言わないでよ!」
雰囲気は違えど、きゃあきゃあとじゃれ合う二人の後ろ姿はよく似ている。赤錆さんももう少し歳をとれば、椎さんのように上手に愛想を振りまく女性になるのだろうか。
赤錆さんは可愛くて、僕には暴力的だけれど、人情味のある人だ。妥協と寛容を身につければ誰からも好かれるだろう。容易く想像できるその姿を何故か寂しいと思ってしまったのは、きっと気のせいである。
「男の子ねぇ」
「え、何ですか突然」
「大人になれば分かるわよ」
濃墨先輩は口元に手をあて、訳知り顔で笑う。先輩も子供でしょう、と指摘するにはあまりに大人びた所作だった。
「もう、ママったら。ほら、あんた達も早く上がんなさいよ」
「ええ。お邪魔するわね」
数瞬、先輩に見惚れているといつの間にか赤錆さんが戻ってきていた。促されたとおりに靴を脱ぎ揃え、彼女の背中を追って階段を上がる。
てい、と平仮名で書かれたネームプレートは小学生の頃から現役で、部屋の主によってぞんざいに開け放たれた扉の向こうもまた、かつてと同じ内装である。
明るい色の木製家具が揃えられた室内は落ち着きと爽やかさを感じさせ、カーテンや掛け布団の淡いピンク色が可愛らしい。強いて変化を挙げるとすれば、学習机の上に写真立てが増えたくらいだろうか。
「ジロジロ見過ぎ。きも」
「そうね。今のは包介ちゃんが悪いわね」
「ごめんなさい」
たしかに気持ち悪かったかもしれない。素直に謝るが、二人は言うだけ言っておいて僕の謝罪に興味はないらしく、部屋の小物やらぬいぐるみやらを指しては楽しそうにお喋りし始めた。
完全に蚊帳の外である。僕は一体、何のために呼ばれたのか。声を上げようにも、下手に動けば怒られるだけなので大人しく座っているしかない。毛の短いカーペットを指先で無感情に弄っていると、一層自分が惨めに思えてきた。
「あら、寂しくさせてごめんなさい。包介ちゃんは案外甘えん坊さんなのね」
濃墨先輩がぴたりと肩を寄せてくる。華奢でありながらも柔らかい感触は、つまらない駄々を包み込む優しさがある。
「人の部屋でいちゃついてんじゃないわよ」
「いでっ」
優しさの欠片もない赤錆さんの手刀が僕の頭頂部を襲う。瘤になっていないか頭を摩っている隙に、濃墨先輩との間を強引に割られた。
「で、なにすんの。てきとうに遊ぶもの持ってくる?」
「それもいいけれど、折角だし、今日は最近噂になっている放課後の幽霊について話しましょうか」
「放課後の幽霊? 初耳ね。包介は聞いたことある?」
「いや、僕も初めて聞いた」
濃墨先輩は小さく咳払いをした。仄かに漂う緊張感に自然と背筋が正される。
「そうね、どこから話したらいいか……二人は十年ほど前、私達の学校で自殺者が出たという噂を知っているかしら?」
初耳どころではない。語るところのない僕らの学校にそんな大事件が起きていたなんて、まったく知らなかった。赤錆さんも同じようで、目を見開いたまま固まっている。
「噂によると、その人はかつて女子バスケットボール部に所属していた二年生で、クラスの中心にいるような溌剌とした子だったそうよ。家庭環境や友人との関係に問題はなかったみたい」
「十年前の話にしてはやけに具体的ですね」
「噂だもの。伝聞するうちに多少の脚色は加えられているでしょうね」
噂話とはきっとそういうものなのだろう。語り手が話しやすいように加えたちょっとした脚色が重なるにつれ、事実と異なる人物像を作り上げてしまう。往々にしてあり得ることではあるが、気持ちがいいものではない。故人が相手となれば尚更だ。
「その顔やめて」
そういう不愉快な感情が顔に出てしまったようで、赤錆さんに小言を言われた。眉間を揉み解しながら視線で濃墨先輩に続きを促す。
「……もっとも、包介ちゃんの心配するようなことはないわ。自殺した生徒の話は、本当に噂でしかないのよ」
「それはつまり、実際には自殺した生徒なんていない、ということですか?」
「ええ。実はこの噂を聞いた後、十年前から在籍している
「それじゃあ噂はどこから出てきたんでしょうか。一からの作り話なら、広まる前に消えそうなものですけど」
娯楽に飢えた学生とはいえ、噂が流行るにはそれなりの真実味が必要だ。自殺者がいなくとも、連想させる事実がなければ広まるとは考え難い。
それとも、あったのだろうか。例えば、幽霊を見たという事実が。
「ばあ」
「ひえっ」
突然耳元から声がして情けない悲鳴が漏れる。砕けた腰を手で支えながら振り向くと案の定、赤錆さんが嘲るような半笑いを浮かべていた。
「ビビりすぎ。幽霊なんて居るわけないでしょ」
「あら、どうして言い切れるのかしら」
「そんなの当たり前よ。見えもしない非現実的なものを信じる方がどうかしてるわ」
赤錆さんは吐き捨てるように言うと、つまらなそうに鼻を鳴らした。
彼女はオカルト倶楽部に属し怪談や都市伝説に明るいが、あくまでも空想として楽しんでいて、実際には一つも信じていない。僕よりずっと詳しいにも関わらず幽霊に怯えずにいられるのは、実在しないと言い切れる意志の強さがあるからだろう。
「随分と強気な答えね。貴女は自殺霊の噂の理由に見当はついているの?」
「誰かがふざけて作り話を流しただけでしょ? 考えるような話題じゃないわ」
「人の死を扱っているのよ。不謹慎だとは思わない?」
「思わない。他人が死んだところでどうも思わないし、暇つぶしの種に使う奴だっているでしょ」
血も涙もない意見ではあるが、僕も、見知らぬ人が死んだと聞かされても多少憐れみの気持ちが生まれるだけで次の日には忘れている気がする。流石に作り話の出しにしようとは思わないが、他人の生死なんて所詮はそんなものだ。賛同するには冷淡過ぎるが、理解できない考えではない。
しかし、濃墨先輩は心底軽蔑する目で赤錆さんを見つめていた。普段は柔和に細められた目蓋が薄く開かれ、濃い失望の色を映した鋭い眼光が覗く。端正な顔立ちが表情をなくす様は事態を重く感じさせ、吐き出した長い溜息は咄嗟に謝ってしまいそうな圧力がある。
「貴女の口からは聞きたくなかったわ」
「……は?」
赤錆さんが静かに凄む。室温が一つ下がったように思うのは、緊迫した空気にあてられて僕の体温が上がったからか。
「なに? 人の命は平等だとか、くだらない説教するつもり? そんなの綺麗事だって、小学生でも分かってる」
「ええ、そうね。けれど、あの場に居合わせた貴女に、口にする権利があるとは思えない」
赤錆さんの目元が僅かに揺らぐ。しかし、それは一瞬のことで、彼女はますます怒気を強める。
「私が知らないとでも思っているの? こんなこと、いつまでも隠し通せる話ではないでしょう」
赤錆さんが両手で机を砕かんばかりの勢いで叩く。爆発音に似た衝撃は僕を萎縮させるには充分だが、濃墨先輩は微動だにしない。
「訳わかんないことくっちゃべってんじゃないわよ」
底冷えを感じさせる声色で赤錆さんが吐き捨てる。ぎらついた視線は怒りを通り越して殺意すら感じさせるが、真正面から向かい合う濃墨先輩は怯むことなく言葉を続ける。
「貴女にその気がないのなら、私が代わってあげる」
「……うるさい」
「それなら自分から話せるの? 貴女には無理よ」
「うるさい!!」
怒鳴り声が反響する。鼓膜が痺れる勢いだが濃墨先輩は顔色を一つも変えず、対する赤錆さんの瞳には薄ら涙が滲んでいた。
二人の仲は良くはない。しかし、お互いに認め合う部分があり、取っ組み合いの喧嘩はすれど、どこか楽しむような雰囲気があった。
こんなにも激しい言い争いは初めてだ。この後に及んで何の話か理解していない僕が割って入るくらいで諌められる状況ではない。
「あんたになにがわかんのよ! これは、これはあたしと包介の──」
「お菓子もってきたわよぉ」
張り詰めた空気に呑気な声が飛び込む。扉の方に体ごと振り返ると、椎さんがクッキーをいっぱいに並べた盆を片手に立っていた。朗らかな笑顔を浮かべていたが、ひりつく様子を察して目元がすっと細くなる。瞬時に状況を判断できるのは流石の年の功である。
「クッキー焼いたの。お口に合えばいいんだけど」
そして、敢えて触れないのも技術の一つなのだろう。剣呑な空気にまるで気がついていない風を装いながら腰を下ろす。
助け舟を出してくれるらしい。僕一人ではどうにもならなかったので本当に助かった。だからといって、有効な解決策など持ち合わせてはいないが。
「わあ、美味しそうですね」
「そう? どんどん食べてね」
取り敢えず、無理に明るい声を出してプレーンのクッキーを摘み、口に放り込む。歯触りは店売りのものに匹敵する滑らかさだが、緊張で乾燥した舌に味は伝わらない。
「いやあ、美味しいですね。ほんとに美味しい」
甘い物を食べても緊張で麻痺した脳では良い考えが浮かぶはずもなく、無力な僕はクッキーを食べては安い賛辞を繰り返す機械と化した。
赤に薄く色づいていた空は、沈みかけた夕陽で赤黒く染まっていた。雲一つない快晴は清々しいものであるはずだが、この世と思えない色合いの中ではいっそ不気味に思える。
「突然お邪魔した上にお騒がせしてしまい、申し訳ありません」
「いいのよいいのよ。また遊びに来てね。ほら、丁もちゃんと挨拶しなさい」
促されても赤錆さんはそっぽを向いたままだ。
結局、二人が仲直りすることはなかった。
あの後、椎さんが持ち前の明るさで場を和ませようと気を回したのだが、気まずい雰囲気が解消されることはなく、ほとんど会話もないままこの時を迎えてしまった。
尾を引きそうな件である。時間が解決するに越したことはないが、赤錆さんの強情な性格を鑑みると簡単にはいかないだろう。濃墨先輩もけじめは必ずつける人だから、お互いが納得する道を見つけなければ仲違いしたままだ。僕が間を上手く取り持てればいいのだろうけれど、助言をしたところで不必要に燃え上がらせてしまうのが目に見えている。
明日、前振りもなく仲直りしていればいいのにな、と手前勝手な願望を抱いていると、目の前に如何にも高級そうな黒塗りの車がぴたりと横付けした。
重厚なドアが静かに開かれ、運転席から白髪の紳士が降車する。深い皺と蓄えた口髭が人生の経験値を表しているが、背筋の伸びた大柄な体躯は年齢を感じさせない力強さがあり、理想の執事像を体現したような風貌だった。
「巳狗狸お嬢様、お待たせいたしました」
「ありがとう
優雅に会釈した濃墨先輩が後部座席に乗り込むと、車は上質な排気音を奏でながら滑るように動き出し、曲がり角の先に消えた。
上流階級の振る舞いに平凡な僕は圧倒され棒立ちするしかなかったが、赤錆さん達に動揺した様子はない。赤錆さんのお父さんは有名企業の顧問弁護士を務めているので、そういう人達を見慣れているのだろうか。僕のように会釈一つでどぎまぎするような安い精神ではないらしい。
そういう、何者にも動じない彼女の性分がこの状況を作り出しているのだけれど。
「まったく。丁の頑固には困っちゃう。包介くんもごめんね」
「あはは。もう慣れましたから……いてっ」
赤錆さんがそっぽを向いたまま僕の尻を抓る。
ちょっかいをかけられる程度には気持ちは落ち着いたようだ。あまり遅くなっても迷惑なのでそろそろお暇することに決める。
「それじゃあ僕も失礼します。クッキー、ごちそうさまでした」
「うふふ、ありがと。もう遅いし車で送っていこうか? よかったら晩御飯も」
「いえ、すぐ近くですから」
「そう? でも、辛くなったらすぐに連絡してね。ウチはいつでも歓迎するよ」
「はい、ありがとうございます」
濃墨先輩には到底及ばないけれど誠意を込めた会釈をして、尻を摘む赤錆さんの指先を優しく剥がす。
時折振り返りへこへこ頭を下げながら、たったの数分で影を濃くした暗い帰路を歩く。母さんもそろそろ帰ってきている頃だし、心配させないうちに帰ろう。
決心から一拍置いて、路傍の街灯が一斉に点灯する。整備された等間隔の光に切れている電球はなく、しっかり役目果たしている。日常となった設備である分、ありがたみは薄く感じるが、夜の恐怖から人々を守る存在は尊ぶべきものだ。
しかし、電灯の合間にできる陰はどうにもならない。何者かが飛び出してきそうな気配にまで怯えるのは流石に心配性が過ぎるが、朝とも夜ともつかない空の様子はどうしたって不安を煽る。
そうして丁度、きしゃぽっぽ公園を横切った時だった。
金属が擦れ合う嫌な音がした。悲鳴のような甲高い響きに反射で首を向けると、鎖が錆びて輝きを失ったブランコを一人の女性が漕いでいた。
何も驚くことはない。大学生くらいの普通の女の人である。
日暮れの時間に一人でブランコを漕ぐ女性は普通ではないのかもしれないが、少なくとも突然暴れ出しそうな雰囲気はない。身なりが清潔だからだろう。
肩甲骨まで伸びた長い髪に、鼻梁から顎先までを覆うマスクをした普通の女の人。
特別気にすることもない。そのはずだったのに。
女の人と目が合った。彼女は無言で僕を凝視している。
女性がゆるりと立ち上がる。何を思い立ったのか、彼女は僕を見つめたまま真っ直ぐこちらに歩いてくる。知り合いを見つけたのかと思ったが、周りを見渡しても僕以外には誰もいない。
いや、意識し過ぎだ。僕が立っているのは公園の出入り口で、彼女がこれから帰宅するのだとすれば何も疑問はない。一人ブランコを漕いでいたのは辛いことでもあったからだろう。傷心の時にそれらしい行動を取って浸りたくなる気持ちはなんとなく理解できる。
何も心配はない。気にする必要はない。
なのにどうして。
女の人は僕の目の前で足を止めた。落ちた夕陽が陰になり顔はよく見えないが、爛々と輝く双眸が無感情に僕を見下ろしている。
マスクをした美人。
濃墨先輩が昔、教えてくれたことを思い出す。
夕暮れの時間帯は色々な呼び方がある。
夕闇。黄昏。薄暮。
そして、逢魔が時。文字通り、魔と逢う時。
真っ暗闇とは違う、朧げに人の形を浮かび上がらせる陽の加減は尋常を異常と錯覚させる。そういう思い込みが逢魔が時という呼称を作り出したのだと。
だが、こうも言っていた。
逢魔が時には神隠しが起こる。魔物が人界に現れて子供を攫うのは決まって夕暮れ時である。思い込みが作り出した仮の恐怖は伝播するにつれ、いつしか本当に魔を呼び寄せる時間となった。
不審者で済めばいい。未解決のそれらの中には本物の魔が紛れ込んでいるかもしれない。
人と魔物。
僕が前にしているのはどちらだろうか。
「ワタシ、キレイ?」
澄んだ声が鼓膜を震わせる。マスクの下で、頬まで裂けた口角がにたりと上がった気がした。
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