頬欠け女
第9話
向かい風の鬱陶しさには、ほとほと嫌気が差す。
突風が吹く度に砂埃が一々目に入り、前髪は激しく捲れ上がる。抑えるために片手を使うと再び砂に視界を潰される悪循環に陥り、ほとんど手探りの状態で歩かなければならない。
加えて、この小躯も強風が苦手な一因だ。中学生の平均を下回る僕の貧相な体は自然の力の前では余りに無力である。いくらなんでも吹き飛ばされることはないが、横風に煽られて車道に押し出されるくらいの危険は常に付き纏う。
更に間の悪いことに今日は夏服移行期間の初日だった。暑がりな僕はいち早く衣替えを済ませたのだけれど、完全に失敗した。
今朝の風は想像以上に冷たい。薄手のワイシャツの通気性は全くの逆効果で、初夏だというのに鳥肌が立っている。天気予報では二十五度近くなるはずなのに、どうしてこうなった。
歯を食い縛りながら内心ぐちぐちと不満を垂れていると、不意に背中に重量が掛かる。赤錆さんが僕にのしかかっていた。
先程から僕を風除けに歩いていた赤錆さんだが、それでも体に堪えるらしい。グイグイと背中を押すのはどうかと思うけれど女性は体を冷やしやすいというし、ここは男らしく彼女を守る壁になろう。背筋を伸ばして風に立ち向かう覚悟を決めた直後だった。
「おぎゃっ」
いつの間にかシャツの内側に侵入していた赤錆さんの両手が僕の脇腹を鷲掴みした。外気よりもよっぽど冷えた掌に情けない悲鳴が漏れる。
「おぎゃっ、だって。ウケる」
ちっとも面白くない。意を決した時に背後から不意打ちされれば、誰だって声の一つは上げる。
「おぎゃっ、おぎゃっ」
今日は珍しく口数の少なかった赤錆さんだが、水を得た魚のようにはしゃぎだした。元気なのは良いことだが、人を小馬鹿にした奇声には若干の苛立ちを覚える。本当に底意地が悪い。
「ほうすけちゃん。バブバブして」
バブバブってなんだ。訳の分からないことを要求するんじゃない。
毅然と抗議してやりたいが、抵抗の後に待っているのは無慈悲な制裁である。非力な僕は黙って歩くしかない。
「おしめはそつぎょうできまちたかー?」
冗談じゃない。僕は生後七ヶ月でトイレを覚えた男だぞ。優秀な排泄遍歴を持つ僕に対してなんて言い草だ。三歳の頃には大体の電化製品を扱えるようになっていたし、家事も一通りはこなしていた。幼児にしては出来過ぎなくらいだ。
「ねぇ、歩くの早い」
しかし、どこかおかしい。
不器用で鈍臭い僕に、果たしてそのようなことができるだろうか。三歳児に一人暮らしの真似事ができるとは到底思えない。そもそも、過保護気味な母さんがそんな危ないことをさせるはずがない。
「待ってよ」
ならば今、鮮明に描き出された情景は一体何なのだろう。何かと物忘れを指摘される僕が幼年期を覚えているなんてあり得るのか。
「待って!」
「うえっ」
シャツの裾を引っ張られて強引に歩みを止められる。振り返ると、赤錆さんがつまらなそうな目で睨んでいた。
どうやら思考に没頭していたらしい。耳の端で拾った赤錆さんの声を思い出し、悪いことしたなあ、と反省する。
おそらく何らかの刑が執行されるが、今回は人の話を聞かなかった僕が悪い。甘んじて受け入れるべきだろう。覚悟の苦笑を浮かべて審判の時を待つ。
「……早くいこ」
「あれ?」
「なに」
「いや、何でもない」
赤錆さんは僕から視線を逸らして足早に歩き出した。遅れないように慌てて追いかけ、隣に並ぶ。
お咎めなしとは珍しい。強風に煽られて朝から疲れてしまったけれど、実はそれなりにツイてるのかもしれない。
「それより、今日はちゃんと断んのよ」
「何を?」
「さっき言ったでしょ。あの女の誘いのこと」
「ああ、
「いい? 絶対だからね」
気の強い赤錆さんは大人びた濃墨先輩と馬が合わないようで、事あるごとに陰口を叩く。
赤錆さんは周囲から大人っぽいと評価されることが多いから、自分よりも老成した濃墨先輩に戸惑っているのかもしれない。先輩の方に赤錆さんを嫌っている様子はないし、彼女が歩み寄ればすぐに仲良くなれると思うのだが、矜持の問題なのか中々上手くはいかないらしい。
「禄な女じゃないんだから。気を許しちゃダメよ」
「うーん、そうかな。どうだろう」
「真面目に聞け」
「いてっ。……でも、僕は優しい人だと思うよ。知り合って二ヶ月しか経ってないのに、わざわざお土産も買ってきてくれるみたいだし」
「それが騙されてるって言ってんの」
抓られた尻を摩りながら小言を聞き流す。
修学旅行出発の前日、僕は濃墨先輩にお土産を渡したいから登校日の放課後、部室を訪ねるよう告げられていた。
しかし、この調子では赤錆さんは許してくれそうにない。濃墨先輩には申し訳ないが断るしかなさそうだ。
後日にでも埋め合わせをしようと考えていると、背後で靴音がして反射的に振り返る。若干の警戒心を伴っての行動だったが、目に映る見知った人影に安堵する。
「ちょっと、またシカト?」
「ちゃんと聞いてるよ」
「もう、しっかりしてよね。……もしかして具合悪いの?」
「大丈夫」
「そ。ならいいけど」
赤錆さんは後ろから迫る彼女に気がついていないのだろうか。その人は早歩きで着実に距離を詰め、赤錆さんの傍で足を止めた。
「それじゃあ、今後はあの狐目女に近づかないこと。いい?」
「……狐目女というのは私のことかしら?」
「ピャーッ!!」
赤錆さんが奇声を上げて僕に飛びついた。すぐ後ろには穏やかな笑顔でありながら隠しきれない怒気を放つ濃墨先輩が目尻をひくつかせて立っていた。
「おどかすんじゃないわよ!!」
赤錆さんが悪いと思う。
濃墨先輩は赤錆さんの大声を意図的に無視して僕に向き直り、そっと右手を差し出す。
「御機嫌よう、包介ちゃん。久し振りに会えて嬉しいわ」
「こちらこそ。またお会いできて光栄です」
「あら。少し見ないうちにおべっかが上手になったかしら?」
「本心ですよ。意地悪だなあ」
「ふふ、御免なさい」
「無視すんな!!」
握手に応じていると、赤錆さんが怒鳴り声を上げた。相変わらずの沸点の低さだ。暇を見てカルシウムの摂取を勧めようと思う。
「ほんとに性格悪い! 人を脅かして遊ぶなんて最低!」
「ちょっと、赤錆さん。失礼だよ」
濃墨先輩は全校から一目置かれる優秀な生徒だ。頭脳明晰、眉目秀麗。彼女を言葉で表すのなら、まさしくそれである。
大和撫子のお手本のような容姿は佇まいだけでも目を惹く美しさを備えており、入学から三年生の今に至るまで、テストで全教科満点を取り続けているという学力も凡人と一線を画している。書道、音楽、美術の分野に関しても優れた才能を発揮しているらしく、運動が苦手なことを除けば完璧な中学生だ。
赤錆さんにも魅力は沢山あるけれど、客観的に能力を比べれば濃墨先輩が優っている。喧嘩を売るのは得策ではない。
それでもきっと、赤錆さんは退かないんだろうな。
この先の口論が目に見えて気持ちが重くなる。
「前々から思ってたけど、あんた目ぇ開いてんの? そんな狐みたいな顔してるから平気で人に嫌がらせできんのよ」
「……はあ。本当に野蛮な子。口を開けば汚い言葉ばかり。包介ちゃんもさぞ迷惑しているでしょう。いい加減、気がついたら?」
「は?」
「まあ、ひどい声。髪色だけでなく声帯にも品がないようね」
「地毛ですぅ。大体、茶髪くらい今時普通よ、普通。あんたの時代が遅れてるだけでしょ」
「……何ですって?」
まずい。
濃墨先輩は大人びた雰囲気のせいか年上に見られることが多い。僕にとっては羨ましい悩みだけれど、本人は気にしているらしく年齢に関わる侮蔑だけははっきりと怒りを露わにする。
赤錆さんは以前にもやらかしているから流石に控えると思っていたのに。
最悪の事態を予期して二人を止めるために身構える。しかし、僕に巻きついたままだった赤錆さんの両腕がぐっと締まり、初動を制された。
「ババア」
「こいつっ!!」
濃墨先輩が鞄を放り出して前に出た。赤錆さんはしがみつく力を強くして、更に僕に密着する。
「このっ、離れなさい!」
「い、や、だ」
「あだっ、あだだだだ」
濃墨先輩が赤錆さんを引き剥がしに掛かる。先輩が引っ張る度に赤錆さんの腕が食い込むのでとても痛い。
どれだけ悲鳴を上げても争いに夢中な彼女達の耳に届く訳もなく、数分の間、僕は万力の如き苦しみと格闘する羽目になった。
風が吹き荒ぶ通学路に荒い呼吸音がこだまする。
壮絶な力比べの勝者は赤錆さんだった。得意気な顔で腕を組み、膝に手をつく濃墨先輩を見下している。
「弱すぎ。あんたなんかに包介を守れるわけないわ」
主に僕を痛めつけている人物が口にすることではないが、細かな突っ込みを入れると平手が飛んでくるので口にはしない。
「ゲホッ、はあ、はあ、単細胞なっ、ゴリラ女の、分際でっ」
「今なんつった?」
「ちょっ、ちょっと待って。ストップ」
二回戦を戦い抜く気力は残っていない。慌てて二人の間に割って入り、鞄から取り出した飴を握らせる。個別に包装されているので外でも安心だ。
「は? なにこれ」
「べっこう飴」
「なんでこんなもの持ってきてんのよ」
「……小腹が空くかもしれないから」
校則を破ってまでお菓子を持ち込んだ理由は、空腹を凌ぐためでも赤錆さんの機嫌をとるためでもない。
口裂け女に対処するための秘密兵器。それこそがべっこう飴の役割だ。
赤錆さんは忘れてしまったかもしれないが、先日公園で聞かされた怪談は今もなお僕の脳に深く刻まれている。弱点が判明している以上、身を守る準備を整えておくのは当たり前のことだ。
二人の気を引くため咄嗟に取り出してしまったが、僕の行動は正しかったのか。手元の飴玉をじっと見つめる赤錆さんの反応を窺う。
「はあ、はあ、ありが、はあ、ありが、とう」
「濃墨先輩も、まずは息を整えてください」
「はあ、はあ、ごめん、なさい、ね」
肩で息をする濃墨先輩に深呼吸を促す。
赤錆さんはけろりとしているので気がつくのが遅れたが、濃墨先輩の疲労は相当なものだった。そんな状態でもお礼を言える礼儀正しさは、ぜひとも見習いたい。
「あたしこういう系の味、苦手なんだけど」
「……ごめん」
取り敢えずケチをつける赤錆さんにもぜひ見習って欲しい。
とはいえ、確認もせずに嫌いな物を押し付けた僕にも非はある。回収しようと赤錆さんが持つ飴に手を伸ばすと、すんでのところで彼女は腕を振り上げた。目標を見失った右手が空を切る。
「何よ」
「あれ、いらないんじゃないの?」
「……別に。食べるわよ」
「そう? なら、いいけど」
赤錆さんの天邪鬼は今に始まったことではない。何にでも反抗したい年頃なのだろう、と勝手に納得して濃墨先輩に振り返る。額に汗が滲んでいるものの、幾らか平静を取り戻せたらしい。淑やかな微笑みからはいつもの余裕が感じられる。
「あら。もしかしてこれは、はづき亭のものかしら?」
「ええ、そうです。知ってるんですか?」
「私もよく利用しているのよ。包介ちゃん、中々の通ね」
調子はすっかり元に戻ったようだ。赤錆さんが不用意な発言をしない限り、争いに発展することはないだろう。
それにしても、包みを見ただけで店名を言い当てるとは。
はづき亭は通学圏内から外れた通りにある、お洒落な喫茶店だ。主に洋菓子と紅茶を扱っているのだが、店長さんが趣味で作った和洋を問わない菓子が会計レジの前で幾つか販売されていて、これが本職に負けないくらい美味しい。
母さんが勧めてくれた店である。濃墨先輩が贔屓にしているということはかなりの名店なのだろう。
母さんのお店を見つける技能に改めて感心していると尻を摘まれた。赤錆さんだ。見なくても分かる。
「あんまり好きじゃない」
「分かってたならなんで食べたんだよ」
僕の態度がお気に召さない赤錆さんは、指先に力をこめる。幸い、肉の厚い箇所を摘まれているので然程痛みはない。
気にせず濃墨先輩に向き直ると、彼女はなにやら難しい顔で飴玉を眺めていた。もしかして濃墨先輩もべっこう飴が苦手なのだろうか。だとすると、僕は二人の女性に嫌いな食べ物を押し付けた、とんでもない無礼者ということになる。
そんな不安げな視線を感じたのか、濃墨先輩は顔を上げると困ったように眉を下げた。
「いえ、違うのよ。べっこう飴を見ていると、あるものを連想してしまって、ね」
「あるもの?」
「口裂け女」
どきり、と心臓が跳ねる。
濃墨先輩は僕が口裂け女を恐れていることを知らない。その名を出したのは単なる偶然に決まっているが、体は意図せずに反応してしまう。
「あれ、包介。どうしたの?」
「……何でもないよ」
赤錆さんが意地の悪い顔で問い掛けてきた。喋るたびに口内で転がる飴玉の音が実に嫌みたらしい。そんな不穏な距離感を感じ取ったのか、濃墨先輩は顎に指を当てて暫く思案し、ゆっくりと口を開く。
「包介ちゃんは口裂け女を知っているのね」
「……はい、一応」
知りたくて知ったわけではない。
「それなら、成り立ちも知っているのかしら」
「成り立ち、ですか?」
「そう。どのようにして口裂け女は生まれるに至ったのか。興味はない?」
口裂け女がどういう経緯で顔に傷を負ったのかは聞いているが、濃墨先輩が尋ねているのはもっと根源的な、噂の出所とか、流行った理由とか、そういうものだろう。
答えを持ち合わせていない僕が頭を悩ませていると、濃墨先輩は小さく咳払いをして、にこりと微笑んだ。
「口裂け女は岐阜県が発祥とされる都市伝説よ。当時は噂に便乗した愉快犯も出て、大変な騒ぎになったらしいわ。それで、包介ちゃん。貴方はどのようにして口裂け女が生まれたと思う?」
「ええっと、そうですね。僕はやっぱり、特徴の合致する人物が実在していて、何かの拍子で伝播していったんだと思います。噂話に尾鰭がついて、段々と今の口裂け女像が出来上がったのではないでしょうか」
見当がつかず、当たり障りのない意見を述べる。深く考えていると瞼の裏に口裂け女の恐ろしい形相が浮かんできてしまうのでてきとうに答えたのだが、濃墨先輩は満足そうに頷いた。
「概ねその通りよ。明治時代、一人歩きする女性が身を守るため、敢えてそのような恰好をとったことが元になっているわ。けれど、口裂け女の起源については他にも説があるのよ」
「他にもですか?」
「ええ。有名なのは、そうね。発祥の地とされる岐阜県では家庭毎の経済格差が大きく、学習塾に通える子とそうでない子が分かれていたの。所得の低い家が子供に諦めさせるため夜の外出を怖がらせる話を吹き込んだ、という説があるわ」
「なるほど。口裂け女は目的をもって生み出されたものだったんですね」
「ふふ。大袈裟な身体能力も子供を怖がらせることを目的にしていたと考えれば辻褄が合うわね」
口裂け女。名前と見た目から酷く恐ろしい存在と思っていたけれど、背景を知れば中々に興味深い。
数々の怪談は人が目的をもって作り出したもの。だとすれば、怪談を知ることは当時の文化や情勢を知ることに繋がるというわけだ。そう考えると、あながち悪いものではないと思えてくる。
「どう? 包介ちゃん。背景や当時の時勢を加味すると、とても面白い話に聞こえてこない?」
「はい。口裂け女にも歴史があるんですね」
「それが分かってもらえて嬉しいわ。そこのお猿さんは人を驚かすことしか頭にないようだから、間違えた知識を植え付けたのではないかと心配していたの」
濃墨先輩は赤錆さんを横目で見ながら鼻で笑って飴を口に放り込んだ。
どうしてこう、彼女達は好戦的なのか。ついさっき敗北を喫したはずの濃墨先輩が、したり顔で喧嘩を仕掛けられる意味が分からない。
背後で飴玉を噛み砕く音が響く。今日も赤錆さんは元気いっぱいだ。
「もういっぺん言ってみなさいよ。ヒョロガリ女」
「頭だけでなく耳も悪いのかしら? 見下げ果てた性根をお持ちですね、と言ったのよ。足の短い子豚ちゃん」
停戦の意思はない。
僕を間に挟んだまま二人が衝突する。再び巻き込まれた僕は揉み合いの最中、腹に赤錆さんの強烈な頭突きをもらい、しばらく悶絶した。
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