第8話

 目を開くと見知った天井が広がっていた。

 白色の照明が眩しい。重い頭から察するに僕は随分眠っていたようだ。起き上がるのも億劫で、首だけ動かして枕元の時計を見やる。

 針はもうすぐ日を跨ごうとしていた。何日間も寝込んでいたとは考えたくないが、それにしても寝過ぎである。普段とかけ離れた生活を送ってしまった不安と後数時間で学校が始まるという事実にますます体が怠くなる。

「ほう君っ!!」

「うげぇ」

 腹に母さんが飛び込んできた。勢いの強さにベッドが軋み、僕の腹筋も悲鳴を上げる。空きっ腹には手厳しい衝撃だ。

 文句の一つでも言うべきかと上体を持ち上げ、思い直す。母さんが僕の腹に顔を押し付けたまま動かない。心配症の母さんは何かと騒ぐことが多いが、こうして無言でくっつていてくるのは相当参っている証だ。また心配をかけてしまったであろう僕に、母さんを叱咤する権利などない。中途半端に上げた右手をそっと母さんの頭に乗せる。

 それにしても、どうして僕はこんな時間まで眠りこけていたのだろうか。どうにも記憶が曖昧だ。母さんの髪に指を通しながら一日の出来事を辿る。

 今日は確か、いつもより早く学校に行って、青褐先生に怒られて、帰り際に怪談を聞かされた。口裂け女とメリーさんの電話の二本立てで、家に帰った後は本当に電話がかかってきた。

 そうだ。僕はメリーさんに襲われたのだ。

 忘れていた怖気が寒気となって肌を粟立たせる。視界がぐっと狭くなり、息苦しさが口で呼吸をさせていた。

 呑気に母さんの頭を撫でている場合ではない。メリーさんに襲われたはずの僕が生きている理由は定かではないが、とにかく逃げなければ。

 母さんの両頬に手を添えて目を合わせる。潤んだ瞳や指先にかかる鼻息、突き出された唇を気にしている暇はない。

「母さん、今すぐ逃げないと」

「……もう少し、このままでいさせて」

「こんなことしてる場合じゃないよ。メリーさんがすぐそこまで」

「こんなことってなに!? ママがこんなに心配してるのに!!」

「ご、ごめん。心配させたのは悪かったよ。でも、今はそれどころじゃ」

「うるさい! ほう君のバカ!!」

 取りつく島もない。母さんは再びひっつき虫と化した。落ち着かせるのは時間がかかりそうだ。こんな危機的状況で悠長なことはしていられないが、混乱した母さんを連れて逃げ切れるほどメリーさんは甘い怪異でない。

 それならば、他にやれることはないか。一秒も無駄にしないため部屋中を見回す。

 そこそこ古い学習机に、参考書や小説が点々と並んだ木製の本棚。座り慣れたキャスター付きの椅子にも異常はなく、人形らしきものは見当たらない。いつも通りの自室があるだけだ。

 メリーさんはすでに退散していたのか。気絶するまで驚かして満足したのかもしれない。

 希望的観測を抱きながら勝手に安心していると、部屋の隅に音もなく佇むそれに気づいてぎょっとする。

 人がいる。いつからそこにいたのか、その人は身動ぎ一つせず俯きがちに正座していた。息を殺すのが上手いのか今の今まで気がつかなかったが、一度視認してしまうとその異質さが浮き彫りになる。

 座っていても分かるガタイの良さ。暗く光る金髪に青を基調としたフリルの多いドレス。

 隣の部屋の桑染さんだ。何故、彼女が僕の部屋に。というか、母さんとの妙なやり取りを見られてしまった。マザコンと捉えられかねない状況に顔がぼうっと熱くなる。

 だが、浮ついた気持ちは母さんの表情で真っさらに掻き消えた。

 母さんの桑染さんに向ける目が異様に冷たい。怒気のような表層的で激しい感情であれば宥める隙もあるのだが、母さんはただ、本当に汚らしいものを見る目をしていて、射竦められた桑染さんは置物のように固まっている。

「ほう君」

「え、なっ、なに」

「この人、知ってる?」

「うん。隣に住んでる桑染さん」

「そう。隣の桑染さん」

 母さんは平坦に繰り返すと、僕の頬を指先で撫でてゆっくりとベッドから降りた。無表情のまま桑染さんの方に体を向ける。

「二十二歳。独身。彼氏なし。できたこともなし。企業のお抱え翻訳家で、うちの隣の502号室に一人暮らし。典型的なガリ勉。愛想がなければ可愛げもない、図体だけは立派な粘着質の女」

 淡々と放たれる言葉は次第に悪意が滲み始め、一言一言に桑染さんの肩がびくりと反応する。蛍光灯の光に照らされる母さんの顔色は青白く、人間らしい血の気を感じられなかった。

 二人の間に何があったんだ。はっきり尋ねられればいいのだが、口の挟める空気ではない。桑染さんも母さんの迫力にすっかり参っていて、床を眺めるだけの瞳は涙に濡れている。

「ほう君。この女、ほう君のストーカーだよ」

「え」




 信じられない。信じられるわけがない。

 桑染さんは大人の女性だ。加えて、人目を惹く美貌を備えており、若くして立派な職にも就いている。万人から羨まれるような人だ。

 そんな桑染さんが僕のストーカー。まさか、ありえない。

 そもそもメリットがない。ストーカーの理由として最初に思いつくのは恋愛関係の絡れだが、赤錆さんが言うように僕にはまったく魅力がない。恋愛の線は当然除外され、だとすれば怨恨か悪ふざけのどちらかに起因するものと考えられるが、それもおかしな話だ。

 桑染さんほどの人が危険を犯してまで、くだらない犯罪に手を染めるだろうか。確かに僕が日々の生活の中で彼女の怒りを買っていたというのはあり得るが、所詮は僕である。理不尽に金玉を蹴られても何一つ言い返せない小心者を、桑染さんがわざわざ相手にするとは思えない。陰湿な嫌がらせに走る意味もない。僕に危険を冒すだけの価値はない。

 ということで、桑染さんはストーカーなどではなく母さんの勘違いである。誤解も解けたし事件は解決、夜も遅いので解散、という素敵な流れを迎えられればよかったのだが、残されていた一本の留守番電話がすべてを現実に変えてしまった。

 一分と少しに渡る、途切れ途切れのメッセージ。

 最初に聞いた時は怪現象にしか思えなかったが、よくよく聞き直してみると僕は相当に内容を間違えていたことが分かった。

 これから乗り込むというメリーさんの宣告ではなく、お食事の誘いだった。一人の食事が可哀想と感じた桑染さんが、善意で申し出てくれたのだ。

 これだけなら、隣の世話焼きなお姉さん程度の認識で済んだかもしれない。だが、僕の気絶と桑染さんの忍耐力が事態を大きなものへと発展させた。応答がないことを心配した桑染さんはおよそ四時間に渡り、僕たちの家の前を行ったり来たりしていたらしい。帰宅した母さんはインターホンの前でぷるぷる震える桑染さんを訝しみ、事情を厳しく問い詰めた。

 そして、擁護できない行動の数々が暴かれてしまった。

 登下校を監視していたこと。

 壁に耳を当て生活音を盗聴していたこと。

 食事の時間を合わせて悦に浸っていたこと。

 時たまゴミを漁っていたこと。

 僕の隠し撮りを集めた写真フォルダがあること。

 怒り狂った母さんはあらん限りの罵声を浴びせ、心身ともに衰弱しきった桑染さんが部屋の隅で縮こまっていたところに僕が目を覚まし、この奇妙な状況が出来上がったらしかった。

「これで分かったでしょ。変態なのよ、こいつ」

 横に座る母さんが腹立たしげに吐き捨てる。相当血が上っているのか、表情は涼しげだが僕の太ももに置かれた手のひらは熱い。

「警察に突き出すのもいいけど手続き面倒だし、とりあえず二度と近づかない誓約書を書かせて、今すぐ引っ越させよう。そのあとの処分はママに任せて」

 先ほどから母さんは僕にしか話しかけていない。桑染さんを視界に入れるのも嫌なのか、意図的に顔を背けている。

 この流れはよくない。桑染さんに色々と問題があることはいくつかの証言で明らかになったが、処遇を決めるには早計である。

 何故、ストーカー行為を行ったのか。理由をはっきりさせない限り判断は下せない。

「ほう君?」

「ごめん、母さん。まだ桑染さんに聞ききたいことが残ってるんだ。もう少し待ってもらっていいかな」

「なんで? これ以上聞くことなんてないでしょ?」

「大事なことなんだ。お願い」

「……分かった。でも、ママの気持ちは変わらないからね」

 唇を尖らせる母さんから視線を切って、桑染さんに向き直る。

 席に着くことすら許されなかった彼女は、今にも首を吊りそうな絶望した表情で立たされていた。食卓を挟んで桑染さんだけが直立する構図は圧迫面接のように見えなくもない。少しでも緊張を解そうと気持ち明るめの声で話しかける。

「ええっと、桑染さん。一応の確認ですが、留守番電話や僕に対する諸々の行為は、すべて自分の意思で行ったということで間違いないですか?」

 桑染さんが小さく頷くと、母さんは満足そうに鼻息を立てる。

「はい、ありがとうございます。それで質問なんですが、その、どうしてそんなことを? 僕が怒らせるようなことをしてしまいましたか? そうでなければ、いつも優しくしてくださる桑染さんがこんなことをするとは思えなくて」

「それはこいつが変態だからだよ。小さい男の子に興奮する人なの。ほんと気持ち悪い」

「母さん」

「……怖い顔しても謝らないからね」

 僕は小さい男の子ではないし、悪戯に桑染さんを傷つける茶々も控えてもらいたい。何度も変態と呼ばれるのはいい気分ではないだろう。

 謝罪の意を込めて桑染さんに目配せする。そこで僕は彼女が発する異様な気配に気がついた。

 震えている。怯えからくるものではない。迫り上がる憤りを耐えるための身震いだ。

「わたしは、変態じゃない」

「あぁ?」

 母さんがチンピラみたいに凄む。普段の柔らかい雰囲気からは想像もつかないガラの悪さは中々に堂に入っているが、桑染さんは肩を震わせるばかりで表情は読めない。

「今、なんつった?」

「わたしは、変態じゃない!!」

 桑染さんの感情が爆発した。噴火と称してもいい。壁を震わせるほどの怒声を発した彼女はそれでも勢いを緩めることはなく、引き締められた前腕には筋張った筋肉が浮き出ていた。

「ほ、包介くんが悪いんだよ! わたしのこと忘れたりするから! 折角合格したのに約束破ったりするから! 全部全部、包介くんが悪いんだもん!!」

 堰を切ったように、矢継ぎ早に言葉を投げつけられる。心情を吐露するそれは悲痛な思いに満ちていて、桑染さんは泣きながら叫び続ける。

「嘘つき、嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき! 包介くんは嘘ばっかり! どうせ、どうせわたしのことなんか嫌いなんでしょ!」

「桑染さん、少し落ち着いて」

「うるさいっ!!」

 宥めようと側に寄り、差し伸べた手が払い除けられた。涙に濡れた瞳に危い光が灯る。赤錆さんがキレた時と同じ目だ。体が覚えた危険信号は襲いくる暴力を危惧して首の肉を硬くする。

 避けられるか。距離を取ろうと咄嗟に床を蹴ったが、桑染さんの一歩は大きい。後追いで掴みかかる彼女は悠々と僕を捉え、振りかざした両腕がすぐそばに迫る。

「触るな!」

「ふぎゃっ!!」

 すんでのところで母さんが桑染さんの横腹に体当たりをかました。体格で劣る母さんだが、桑染さんの体躯をもってしても意識の外からの衝撃には耐えられず、体の側面を床に強かに打ち付ける。

 危険な倒れ方だ。桑染さんは痛みで動けないようで、丸くなって低い声で呻いている。見下ろす母さんは対照的に酷く冷めた顔をしていて、桑染さんの一挙一動を無感情に監視していた。

 深夜にやることじゃない。いつやるのが適切かは分からないが、今やるべきでないことだけは分かる。

 とにかく、桑染さんがストーカー行為に走った理由を究明する手立ては掴めた。

 破られた約束。嘘つきという言葉。

 そのままに捉えるなら、僕が桑染さんと結んだ何らかの約束を反故にし、それに傷ついた彼女が真意を探るために起こした行動が次第にストーキングに変わった、といったところか。

 しかし、約束とは何だ。思い当たる節はまったくない。いつ頃の話か分かれば、少しはあたりもつけられるだろうか。蹲り、遂には鼻を啜り始めた桑染さんに歩み寄ろうとすると、母さんに肩を掴まれた。

「ダメ」

「母さん」

「ほう君、こいつに同情してるでしょ。ママは許さないよ。こんな変態、野放しにするわけないじゃない」

「原因は僕にあるかもしれないんだ」

「関係ない。変態で犯罪者だよ? 庇う必要なんてどこにもない」

「それでも」

 それでも、僕は納得してから決めたい。自分の意志で決断したい。

 その積み重ねがきっと、大人になることだと思うから。それが、母さんを支えられる人間になることだと思うから。

「お願い、母さん。桑染さんの話、もっとちゃんと聞きたいんだ」

「ダメ」

「ダメでも聞くよ」

 母さんの目を真っ直ぐに見つめる。挑むような目つきで見返されるが、こちらも妥協するつもりはない。言葉もなく、視線をぶつけ合う時間が続く。

「……はあ。ほんとに頑固なんだから」

 母さんは分かりやすくぶすくれたかと思うと不意に目元を緩め、柔らかに僕の肩から手を離す。

「ごめん」

「悪いなんて思ってないでしょ。ママ分かるんだから」

「……ごめん」

「まったくもう。昔はもっと素直だったのに」

 意地を張って得たお許しだ。必ず納得のいく形で解決してみせる。

 そろりと桑染さんに近づき、傍にゆっくり屈む。幸いにも痛みは引いたようで、呻きはもう聞こえない。代わりに、嗚咽とも捉えられる独り言をぶつぶつ唱えている。

「桑染さん」

 桑染さんの全身がびくりと揺れる。体は更に縮こまり、肘や肩が体の中心に引きつけられて丸くなっていく。完全な球体になる前に話をつけなければならない。

「桑染さん」

 もう一度、名前を呼ぶ。次は反応があった。そろりそろりと首が持ち上げられる。合わせて僕が正座に居直ると、桑染さんも真似るようにしておずおずと上体を起こす。

「さっきはごめんなさい。怪我はないですか?」

 僅かに顎が引かれた。前髪の毛先が控え目に靡く。一つ一つの動作が小さい。

 目立たないように。見つからないように。

 桑染さんの仕草にはそうした性格が表れている。一朝一夕で身についたものではない。長く、それこそ物心ついた頃から時間をかけて作り上げられたものだ。

 桑染さんは美人で頭もいいが、世の中はそう単純ではない。評価されるだけの能力をもっていても、周囲が好意を寄せるとは限らない。桑染さんはそういう不条理に晒されてきたのだと思う。

 だからこそ、分からない。そんな彼女が危険を犯してまで僕に執着した意味はなんだ。彼女を駆り立てた理由とは。彼女の言う約束の正体を暴けば明らかになるのだろうか。

「桑染さん。約束を破った、とはどういう意味でしょうか」

 桑染さんの喉が音を立てて動く。彼女ははぷはぷと短い息継ぎを重ね、胸が膨らんだところで大きく息を吐いた。あからさまな緊張を携えて顔を上げる。かと思えば、眉尻がしおらしく下がり再び項垂れてしまった。

 腹を括ったように見えたが、まだ迷いがあるようだ。無理に急かしてしまえば真実は分からない。時間をかけて彼女の答えを待ちたいところだが、母さんの気は長くなかった。

 煮え切らない態度に苛立って椅子の足を蹴飛ばす。桑染さんは本当にお尻を蹴られたみたいに大きく跳ねて、背筋を反り返るほどに正した。

「や、約束というのはわたしが高校三年生の時に結んだ、一緒にお出かけするというものです。大学に合格したらって条件で、包介くんもいいよって言ってくれて。それでわたし、頑張ったんです。親に邪魔者扱いされた時も負けないで、頑張って、頑張ったのに」

 せっつかれた語り口調は訥々とした独白に代わり、端々に悲哀が滲む。腿の上に置かれた両拳に力が入り、元々白い肌が更に色を失っていく。

「包介くん、いなかった」

 暗い声音が雫のように落ちる。

 おそらくそれが、桑染さんを決定的に変えてしまったのだろう。

 ストーカーに身を落としてまで、追い求める価値がある約束。

 それなのに、僕は何も覚えていない。欠片も思い出せない。桑染さんと交流があったことさえ定かでない。

「あの日、図書館でずっと待ってたの。でも、包介くんは来なくて」

「図書館というと、もしかしてあの写真に写っていた場所ですか?」

「……うん、そう」

 毎朝手渡されていた差出人不明の封筒。あれは桑染さんからのメッセージだったようだ。ということは、僕はずっと思い違っていたのか。桑染さんは気づいてもらえるよう努力していたのに、僕は一人で誰かの間違いだと決めつけて、彼女の試みを不意にした。よく話し合っていれば避けられた事態だ。自分の馬鹿さ加減が嫌になる。

「ほう君、写真ってなに?」

「母さんには言ってなかったっけ。実は、桑染さんから偶に写真の入った封筒を手渡されていたんだ。ちょっと待ってて」

 リビングに置いたままの学生鞄を探りに行き、クリアファイルに無造作に挟まれたそれを取り出して母さんに渡す。摘み上げるようにして中を改めた母さんの目尻が僅かにひくついた。

「……ああ、お前が」

 桑染さんを横目で捉えて、ぽつりと呟く。冷めた瞳は変わらずだが、奥に重い疲れの色が隠れているように思えた。

 母さんの心中で納得するものがあったのだろう。何かを言いかけ閉口するを繰り返し、諦めの長い溜め息を吐き出す。

「つまりは、ほう君が小学生の頃、こいつと出かける約束してたんだけど、色々用事が重なって行けなかったの。それでこいつは、未練がましく付き纏って理由を聞こうとしたって話」

「でも、僕はその約束について何も覚えていないんだ」

「……ほら、ほう君あの時事故とか引っ越しでバタバタしてたじゃない。忙しくて忘れちゃったのかもね」

 たしかに、妙に慌ただしい時期があった。ぼんやりとしか思い出せないのも、それだけ当時が多忙だったということか。

 もっとも、その後に連絡も謝罪もしなかったのは許されることではない。

「桑染さん。申し訳ありません」

 直角に腰を曲げて頭を下げる。

 僕には桑染さんに報いる義務がある。けれど、取り繕うだけの記憶を手繰れない僕には誠心誠意謝ることしかできない。傷つけると分かっていても、事実を伝える以外に選択はない。

「僕は、これだけ話しをしていても、桑染さんと結んだ約束を何一つ思い出せない」

 酷い話だ。桑染さんは約束をすっぽかされたその日から悩み続けていたというのに。僕は最低だ。

「……ううん、包介くんが謝る必要なんてないんだよ」

 桑染さんは思いがけない言葉を口にした。目元は擦りすぎて真っ赤になっていたが、微笑を湛えている。諦念か自嘲か、投げやりなそれを見ていると罪悪感に押しつぶされそうになる。

「分かってた。多分、思い出してもらえないってこと。忘れられてたことはショックだったけど、心のどこかではホッとしたんだ。わたしが一方的に近づいて、初めての、たった一人の友達なのに、わたしは助けられてばっかりで。包介くんにとっては鬱陶しくて気持ち悪い奴でしかなかったもん。またこうして話してくれることが奇跡だよ」

 桑染さんが力なく笑う。長い前髪が青白い顔に陰鬱な影を落とす。金色の鈍い輝きは真鍮のようで、それ自体が重たく見える。

「なのに、もとに戻れるなんて勝手に期待しちゃった。ゼロから始めてもう一度なんて、そんなわけないのにね」

「全部が始めからじゃない」

 昔のことは覚えていないから比べることはできないけれど、何も知らないわけじゃない。

 桑染さんの優しさを知っている。マメなところ、自分に対して真面目なところ、緊張しやすいところ、行動力があるところ、意外とそそっかしいところも。

 彼女の望む元通りの関係に戻ることはないだろう。これから先、僕がすべてを思い出す確証もない。

 だが、やり直すことはできる。約束をないがしろにされようが、ストーキングを働こうが、お互いに歩み寄る意思があるなら何度だって繋がることはできる。

「桑染さん」

 名前を呼んだ声は震えていたが、気にせず右手を差し出す。

「僕ともう一度、友達になってくれませんか」

 伏し目がちな桑染さんの視線が手のひらに注がれる。静脈を通る血液が熱く感じるのは緊張のせいだ。

 断られるかもしれない。その可能性は容易く人を凍らせる。桑染さんはずっとこんな気持ちでいたのだろうか。

 ならば尚更、僕は恐れるわけにはいかない。彼女の勇気に値する覚悟を示すべきだ。

「……わ、わたし、嫌われても仕方ないこと、たくさんしたんだよ」

「そんなことないです」

「あ、朝も会いたくて、起きる時間合わせたり、エ、エレベーターも一緒に乗りたくて、用事もないのに出掛けたり」

「むしろ、嫌われてなくて良かったです」

「で、でも、だって、だっで」

 固く握られた拳を両手で包む。

 軽率に女性に触れるべきではないと赤錆さんからきつく言われているが、今は関係ない。涙をいっぱいに溜め然りに鼻水を啜る桑染さんを前に、そうせずにはいられなかった。

「桑染さんだから、友達になりたいんです」

 暖かい涙の雫が僕の手を濡らす。それを除ける傘のように、桑染さんの手のひらが重ねられる。

 熱い体温が加わる。顔を上げると桑染さんと初めて目が合った。涙を湛えた淡い青色の瞳が蛍光灯の光を反射させる。止め処なく移り変わる色彩は鮮やかで、深い海にも煌びやかな宝石にも見える。

「わ゛っ、わだしこそっ、よ、よろじぐおねがいじま゛ず」

 桑染さんが僕の両手を胸元に当てる。彼女と僕で一塊となった手のひらを揺らす脈動は大きく早いが、不思議と安心を促す緩やかさを伴っている。

 問題が解決したわけではない。これから、どのような関係になるかも分からない。

 僕は大した人間ではない。桑染さんは失望するかもしれない。彼女が長年思っていた理想の繋がりに、僕は恐らく値しない。

 それでも、前に進む。先を悲嘆して繋がりを避けることもできるだろう。けれど今この時、僕はたしかに桑染さんと友達になりたいと思い、彼女は了承してくれた。過去の溝を認めながらも僕の申し出を受け入れてくれた。

 今、この場の直感を、僕は大切にしたいと思った。

「……ずいぶん優しいみたいだけど、ママは許さないよ」

 沈黙を保っていた母さんが苦々しげに吐き出した。蚊帳の外に追い出されたことが気に食わなかったのか、一言が重い。場の雰囲気が再び乾いていく。

「こいつが昔、ほう君と知り合いなのは分かった。けど、それがこれから付き合いを持つ理由にはならないでしょ。そもそも、事の発端はこいつがほう君をストーキングしていたからなんだし、そんな危ない奴を近づけるわけないじゃない。ママは認めないよ」

 腹に両腕を巻き付けられ、力づくで引き戻された。桑染さんの手がするりと抜ける。

 母さんは水を差すだけだと分かっていても、口を挟まずにはいられなかったのだろう。頭上にある顔は不満げであるが、他の案も思いつかないようで眉間に皺が寄っていた。

「理由ならある」

 とても単純で、当然の理由だ。

「男は美人とお近付きになりたい生き物だからね」

 桑染さんがストーカーだと告白した時、そこまで嫌な気分にならなかったのも彼女が美人のお姉さんだからだろう。形はどうあれ、女性に興味を持たれるのは嬉しいものだ。僕が赤錆さんを強く注意できないのも、そういう理由に違いない。

 とはいえ、真面目に宣言するにはあまりにも軽薄な理由である。それくらいの常識は持ち合わせているので、わざとおどけて話してみたのだが、二人からの返事はない。失笑くらいはもらえると思っていたのに、余程に気持ちが悪かったのか。

 心配になって恐る恐る桑染さんの表情を伺うと、彼女は口元を両手で隠し目を見開いていた。心なしか血色も良く見える。

 ならば何故、こんなにも空気が冷えているのか。原因は一目瞭然で、母さんが如何にも白けた表情で僕を見下ろしているからだった。

「すけこまし」

 口答えを許さない威圧感に僕は黙って俯いた。




 あれから休日を挟み、週明けの月曜がやってきた。週末は余暇に相応しい快晴が続いたが、今日はあいにくの雨模様である。人々の心情を映したような薄暗い景観に心なしか息苦しさを覚える。欠伸を吐くだけでも肩が重たく感じられた。

「みっともない」

「欠伸くらい許してよ」

 隣を歩く赤錆さんも今朝の湿気には参っているのか、語調に棘がある。彼女の機嫌が悪ければ、それだけ僕が痛い目に遭うわけだし、そろそろをお披露目しようか。空いた左手でポケットを探っていると、赤錆さんは訝しげな顔で足を止めた。

「なに探してんのよ」

「前に言ってたやつ。ちょっと待ってね、なんか引っかかって……あ、取れた」

 慣れない動作に多少苦戦しつつも赤錆さん御所望の品を取り出す。ほんの僅かに彼女の口元が和らいだ。

「遅い。それにガラケーって。おじいちゃんじゃないんだから」

「僕にはこれくらいで充分だよ」

 子供用と銘打たれた僕の初めての携帯電話は最近は見る機会もすっかり減った折り畳み式で、機能も最低限である。店員さんは頻りにスマートフォンを勧めていたが、機能が増えるにつれお金もかかる。月々の支払いを最小限にとどめるためにも、誘いを振り切り購入を決めたのだった。

 赤錆さんは僕の手から携帯電話を掠め取ると、物珍しそうに見回し始めた。保有して一日も経っていないが、僕の所有物が素っ気ない彼女の興味を惹けたと思うと何故だか得意げな気持ちになる。

「へえ。ほんとに買ったんだ」

「あると便利だし」

 嘘だ。メリーさんへの対策が一番の理由である。

 この前の一件は僕の勘違いだったが、メリーさんの存在自体が否定されたわけではない。むしろ、その恐ろしさを深く思い知らされた。連絡手段の有無は生死に直結する。日々を安心して過ごすためにも、母さんに頼み込んで購入を決めたのだ。

「まあ、どうでもいいけど。それより、あたしのアドレス教えるから早く登録しろ」

「え、どうしようかな」

「次口ごたえしたらぶつから」

「はい」

 大人しく従うことにして、差し出されたスマートフォンの画面に表示されたアドレスを打ち込む。肩を並べて画面を覗き込む格好は距離が近くて照れ臭いが、こうでもしないとよく見えないので仕方ない。何とか登録し終えて顔を上げると、赤錆さんは満足そうに鼻息を吹いた。

「はー、最悪。包介が最初に登録したのがあたしなんて。きもすぎ」

 赤錆さんは三人目である。買ったその日に母さんを登録し、今朝、外廊下で会ったついでに桑染さんも登録した。しかし、事実を述べるのは何となく嫌な予感がするので触れないでおく。

 きもいきもいと罵倒を繰り返す赤錆さんにてきとうな苦笑いを浮かべていると、手の中で携帯電話が震えた。桑染さんからメールが届いたみたいだ。早速開封して中身を確認する。

 メアリです。お昼頃には晴れるみたい。気をつけて帰ってきてね。

 そんな文が書かれていて、後ろを振り返ればマンションの五階から手を振る桑染さんが見えた。

 振り幅が大きいのは、彼女の腕が長いからだけではないだろう。ともすれば落ちてしまいそうな勢いは可愛らしく思うが、自分に向けられたものだと思うと気恥ずかしくもある。

 会釈を返して向き直ると、赤錆さんが勝手にメールを盗み見ていた。デリカシーがまるでない。

「なにこれ」

「まず覗き見たことを謝るべきじゃないかな」

「説明」

「あのね、僕だからいいけど他の人にやったら」

「説明」

「……桑染さんからのメールだよ。ほら、少し前に赤錆さんも会っただろ」

 悪びれもしないので諦めて携帯をポケットにしまう。何が気に食わないのか、赤錆さんはポケット越しに携帯電話を睨みつけている。

「いやらしい」

「なにがさ」

「どうせでかいおっぱいに鼻の下伸ばしてんでしょ。気持ち悪い」

「おっ、おぱっ、そ、そんなわけないだろ!」

 断じていやらしい気持ちなどない。目を合わせてばかりいると恥ずかしくなって自然と視線が下がることはあるが、卑猥なことは絶対に考えていない、はずだ。

 妙なことを吹聴されては堪らないのですぐにでも誤解を解きたい。しかし、赤錆さんはご立腹の様子で、後ろ姿には釈明を受け付けない固い意志が見える。

 やはり、雨の日は碌なことがない。やけっぱちな気持ちで赤錆さんの背中を追う僕の姿を灰色の空がせせら笑っているようで、口の端から漏れ出した溜め息は湿気にやられて沈んでいった。

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