第5話
何かのせいにするのは楽だ。
人が、環境が、時代が悪いと理由付ければ、自分を責めずに済む。周囲の無能を証明すれば、己の尊厳が保たれる。
わたしにはそれができるだけの才がある。知性が、体力が、他人を見下すに足る能力が備わっている。
けど。
けど、そういう人間が、自分の誤ちと向き合わなければいけない時が訪れたとして。一切の言い訳が許されない現実を突き付けられたとして。増長し、付け上がった人間は、目を背けたくなる事実にどう対処するのだろうか。
自分の失態を認められず、周りに責任を押し付けるのか。
自分の無能から目を背け、思考を放棄するのか。
わたしは。わたしの場合は。
事実をありのままに受け入れた。犯した罪を自覚して、与えられた罰を背負う覚悟を決めた。
それでも。それでもわたしは。
わたしは未だに諦めきれずにいる。言い訳を並べ、頭で分かっている振りをして、また罪を重ねている。
母が見栄張りの屑だと気づいたのは小学四年生の頃だった。
母は二十六歳の六月、勤め先の外資系企業で知り合ったフランス人と交際期間が二ヶ月に満たないうちに結婚し、のぼせ上がった目出度い頭で無計画にわたしを産み落とした。
それから一年。性格の不一致という如何にもな理由で二人は離婚し、わたしは立ち歩きを覚えると同時に片親を失った。幼い時の話だが、父は一度も振り返らずに空港のゲートに消えたことは覚えている。
母の収入が安定していたのが唯一の救いだろう。あの女は自身の至らなさに言い訳するように仕事に精を出し、邪魔なわたしは小金持ちの祖父母に預けられた。
彼らにとってわたしは一応、初孫にあたる。しかし、歓迎はされなかった。父親譲りの金髪と青い瞳が気に入らなかったのだろう。時代錯誤の価値観に縛られた祖父母はわたしの派手な容姿が近所に知れることを嫌い、一切の外出を禁止した。
古臭い木造住宅で誰と話すわけでもなく、縮こまって生活する日々。あまりにやることがないものだから、祖母の家事をこっそりと観察して一通り覚えてしまったのが仇となった。
小学校進学を機に母がわたしを引き取りにきた。ある程度の家事能力を身につけていることをどこからか嗅ぎつけたらしい。あの女はかねてより子供の有用な活用方法を模索しており、家を空けがちな自分に代わって家事を取り仕切る家政婦もまた欲していた。
意図せずして母の求める都合のいい人材に育ってしまっていたわたしは、最初こそ陰険な祖父母のもとを離れられると浮かれたが、越して数日でその思惑に勘づき、以前にも増して鬱屈した雰囲気を纏うようになった。
家族などという血で繋がれただけの関係に味方はいない。所詮、人は自分にとって有益かどうかでしか判断されず、価値がなければ子供だろうと簡単に切り捨てられる。当たり前の話だが、そう感じた。
不運はそれだけに収まらない。会話の経験、というよりは声を発した経験が極端に少なかったわたしは、まともなコミュニケーションを取ることができず、入学式から間も無くして排斥対象に選ばれた。端的に言えば、虐めの標的になった。
主だった理由は目立つ髪色が気に入らない、だったか。父の置き土産は尽くわたしを苦しめる。幼稚園時代からコツコツと囲いを作っていたらしいボス猿気質の女、
逃げ場のない現実を突きつけられる日々が続く。押し黙って一日が終わることをただ願い、置物みたいに固まるわたしは他人の目にはさぞ不気味に映ったのだろう。金髪おばけという渾名は中々に芯を突いている。
苦い記憶ばかりを刻んで中学校に上がった。
地区に中学校は一つしかないので、顔ぶれはほとんど変わらない。登校距離が若干伸びただけで環境に変化はなく、再び胃痛と戦いながらの学生生活を送ることを覚悟した。
しかし、陰湿な虐めは意外な形で終わりを迎えた。
桃花が転校したのだ。両親の仕事の都合というひどくつまらない理由であったが、主導者の喪失によって虐めの質は目に見えて低下した。また、統率が取れなくなったことで連中が仲間割れを起こしたのも嬉しい誤算だ。
時を同じくして、わたしは成長期に突入した。女子にしては遅めだったが爆発力は相当なもので、中学二年生の時点で男子を含めても校内一を誇る長身に成長した。母はそれほど大きくないし、これも父からの遺伝だろう。体格に比例して筋力も増し、体育のバレーで誤って虐めグループの一人の顔面にボールを叩きつけてからは被害は完全になくなった。
ストレスからの解放。思い掛けずして平穏を手に入れたわたしは、空いた時間を勉学に費やすことにした。
無駄に仕事熱心な母のおかげで食うには困らないものの、趣味に没頭するだけの金銭的余裕があるわけではない。その点、勉強は参考書一冊でも長い時間を潰すことができ、稼ぎ手である母の了承も得やすかった。
暇潰しという不純な動機で始めた新しい習慣。決して褒められた理由ではないが、それでも着実に成績は伸び、結果として地区で最も高い偏差値を誇る進学校へ入学することに成功した。滑るように手のひらを返した教師連中には腹が立ったが、二度と会うこともないので見逃してやった。
自宅に近く、中学の猿共では手の届かない偏差値。この二点のみを条件に選んだ高校だが、真面目で大人しい生徒ばかりが集まった教室の居心地は存外に良かった。
嫌がらせも人付き合いも存在せず、授業を聞き流しているだけで一日が過ぎていく。高校三年生に進級した春も取り立てて変化はなく、蔓延する受験への切迫した空気に流されるようにして適当な大学へ進むのだろうと、そう思っていた。
「お母さん、結婚を考えてるの」
久し振りに姿を見せた母は、開口一番にそう言い放った。背後には角のたったスーツに身を包み、営業用の気取った笑みを貼り付けた四十絡みの男が控えている。
「えっ……あ、……は?」
「あっ、ごめん。突然言われても困るわよね。こちら、叢雲カタリストパートナーズの桑染さん」
「はじめまして、メアリちゃん」
男が一歩前に出て右手を差し出す。節くれだった浅黒い指だ。乾燥してひび割れた唇から覗くセラミック製の白い歯を見ていると、強烈な不快感が怖気となって背筋を走った。
やめろ。わたしの家に入ってくるな。
ここは、わたしだけの居場所だ。お前らみたいな汚れた人間が踏み入っていい場所じゃない。
「こんばんは。お母さんから聞いてはいたけど、本当に綺麗なブロンドだね」
「うふふ。この子、髪にだけは頑固なのよ」
ふざけるな。自分が外国人と繋がっていた証明のために染めることを許さなかったのはお前だろう。わたしがこの髪のせいでどれだけの苦痛を味合わされたと思っている。
母が浮ついた表情で耳に顔を寄せてくる。厚化粧の饐えた臭いに吐きそうになった。
「ね、素敵な人でしょ。それでどうかな、メアリちゃん。私たちの結婚、認めてくれる?」
こいつは何を言っているんだ。はにかみながら問う母に激しい憎悪が湧き上がる。眼球の奥が熱を帯び、こめかみから毛細血管の切れる音がした。
下らない見栄でわたしを産み、好き勝手に生きてきたくせに。
親の責務から逃げたくせに。
わたしの孤独を知らないくせに。
教科書をズタズタに引き裂かれた後に食べる給食の味なんて、まるで想像できないだろう。取り囲まれて延々と罵声を吐き掛けられた経験はあるか。いつ背中を突き飛ばされるか怯えて暮らす恐怖をお前に理解できるのか。
わたしはずっと、一人で耐えてきた。蹲って、口を噤んで、堪え忍び続けてきた。
全てはお前の身勝手が引き起こしたことだ。
認めて欲しい? 都合のいい時だけ母親面するな。お前に親を名乗る資格なんてない。
どす黒い感情に全身が満たされ、暴力的な思考回路に切り替わる。怒りで握り締めた拳は白み、感覚はとうに失せていた。
目の前にある気色の悪い顔面を血で染め上げれば、少しは気分が晴れるだろうか。雑言を放つ醜い口に生え揃った歯を残らずへし折れば、永遠に黙らせることができるだろうか。
一歩、強く前に踏み出す。固めた拳を振り抜くだけで二人まとめてぶちのめす自信がある。
やれ。
しかし、わたしの体は思いとは裏腹に脱力し、頬を無理矢理につり上がらせた。
「おめでとう、お母さん」
あらかじめ用意していたように淀みなく、言葉が紡がれる。
本心とは真逆の答え。母が求めた模範解答。生まれて初めての愛想笑いが驚くほど自然に作られた。母が涙を流して抱きついてくる。後ろの男は安堵の息を吐き、ハンカチでそっと目元を拭った。
安っぽいホームドラマの一場面。
こいつらも、わたしも、この世界の何もかも。
みんな死ねばいいのに。
怨嗟の念を笑顔に隠して、心から願った。
再婚相手の出現に伴い、母が家に入り浸るようになった。
普段は物音一つしない穏やかな空間が喧しい笑い声と他人の臭いで充満する。自分の住処を土足で踏み荒らされるのは想像以上の不快感を齎し、わたしは早急に新たな居場所を見つける必要性に迫られた。
目星はすでにつけてある。
徒歩で二十分ほど離れたところに位置する図書館。学校行事の度に時間を潰した思い出の場所だ。
長居してもお金はかからないし、咎められることもない。古ぼけた外装と埃臭い館内はよほどに不評らしく他の利用者を見た覚えはないので、他人の気配に集中力を乱される心配もない。正に絶好の場所だった。
いい加減、視界の端でイチャつく中年カップルにも限界なので、翌日の土曜日、早速わたしは図書館に向かうことにした。
初夏というにはまだ肌寒い道程を淡々と進む。勉強道具を詰め込んだ重いリュックサックを背負っての行軍ではあったが、健康な足腰を持つわたしにはさしたる問題はない。爽やかな朝日を浴びながら歩き続けていると、予定通りに目的の図書館に到着した。
車どころか自転車の一つさえ停められていない駐車場を横切りながら、館の外観を見上げる。
久々に訪れたが、相変わらずボロい。建て付けの悪い引き戸や剥げかけた石畳も昔のままだ。外壁の至る所にヒビ割れが散見し、廃墟と言われても納得のオンボロぶりである。
建付けの悪い引き戸を強引に開け放ち、中を覗く。やはり利用者は見当たらない。もう少し進んだところに図書室が併設された綺麗なコミュニティセンターがあるそうなので、近いうちに取り壊されるかもしれない。
まあ、わたしの卒業まで保てばそれでいい。大学に受かって一人暮らしを始めれば、この町に戻るつもりはない。
開館から数分しか経っていないのに居眠りしている係員の前をこっそりと通り過ぎ、奥に隠れた閲覧席に向かう。
軋む床板も、やけて表題の読めない単行本も、重みで歪んだ本棚も、目に映るすべてが懐かしい。こんな場所でも、たかが数年で立派な思い出になるようだ。
感慨深いものを覚えながら足を動かしていると、あるはずのないものが目に入った。
人がいる。
わたし一人だけと思っていたから、完全に油断していた。びくりと強張った体を慌てて本棚の陰に隠し、こっそり様子を伺う。
子供だ。年の頃は小学生くらいだろうか。白のワイシャツにサスペンダー付きのスラックスと、やけに畏まった格好をしている。綺麗に分けた七三の髪も合わさって、いいところのお坊っちゃんにしか見えない。古い木目の本棚達に囲まれる様は妙に絵になっている。
男の子はどうやら高いところにある本を取りたいようだ。小さな体を精一杯伸ばして爪先立ちで震えている。踏み台でも持ってくればいいのにと思ったが、付近を見回してみるとそれらしいものは見当たらない。係員は居眠り中だし、彼にはどうすることもできなかったのだろう。
なぜだが、昔の自分を重ねてしまった。頼り方を知らず、黙り込むことしかできなかったあの頃の自分を。
だからなのかもしれない。わたしは考えもなしに男の子に近づいて、覆い被さるように本棚に手をついていた。
男の子の見上げる視線を感じるが、気にしない。子供相手でもまともに話せない。余計な事を口走り、気まずい空気を作る自信がある。
男の子が探っていた周辺から適当にあたりをつけて何冊か抜き出す。後はこれらを差し出して反応を見るだけだ。目当ての本があれば勝手に持ち去っていくだろうし、なければまた適当に選んでやればいい。
軽い気持ちで下を向く。そこで初めて、わたしは男の子の容貌をはっきりと捉えた。
電撃が走った。
童女と見紛うほど可憐な顔立ち。丸い頬は薄っすら紅く色づき、筋の通った小ぶりな鼻が愛らしい。何より印象的なのは下がり気味の柔和な眦と、長い睫毛が綺麗に生え揃った目蓋から覗く黒い瞳である。
今までに感じたことのない視線だ。観られることには慣れていたが、わたしに向けられる視線はそのすべてに金髪の外国人という好奇のフィルターがかけられていた。
まるで、珍しい動物を観察するみたいな無遠慮な視線が。人間に向ける目ではなかった。
男の子のジッとわたしを見上げる瞳。そこには一切の偏見が含まれていない。ただ純粋に、わたしという個人を真っ直ぐに見据えている。彼のような眼でわたしを見つめる人は初めてだった。
「ありがとうございます」
風鈴のように涼やかで、穏やかな声。耳孔に染み込む心地よい響きに頬の筋肉が弛緩する。
しばらく余韻を堪能していると、白くてちみっちゃい掌が控えめに差し出された。そこでようやくハッとして、慌てて男の子の手に本を置く。
彼は両手でしっかりと本を掴むとピシリと背筋を正して完璧なお辞儀をした。昔、気まぐれでビジネスマナーの参考書を読んだことがあるが、その図解と比べても遜色ないお辞儀だ。幼い顔からは想像もつかない成熟した所作に思わず見惚れてしまう。
「それでは失礼します。本当にありがとうございました」
わたしが恍惚として立ち尽くしていると、男の子が軽い会釈をして踵を返す。
行ってしまう。焦燥に駆られた心は無意識のうちに体を動かさせ、彼の右袖を掴ませていた。
何してるんだ、わたし。こんなのただの不審者じゃないか。
男の子が歩みを止め、ゆるりと振り返る。表情は穏やかなままだが、内心はひどく困惑しているはずだ。心なしか秀麗な眉も八の字に下がって見える。
今すぐ手を離せばまだ間に合う。少なくとも、取り繕う暇は作れるはずだ。
例えばそう、袖にゴミが付いていた、とか。捲れていたからつい直そうと、なんて理由でもいい。言葉さえ発せられればどうとでも誤魔化せる。
「……一緒にいたい」
とうとうトチ狂ったのかと思った。最悪なミスだ。女子高生が男子小学生に掛ける言葉ではない。常軌を逸した発言に自分で自分が怖くなる。
通報される未来がいよいよ現実味を帯びてきて、じっとりとした汗が額を伝う。うるさい動悸が荒い鼻息となって表出し、吹かれた彼のサラサラの前髪が緩い軌跡を残して靡く。
知的な光を携えた黒檀の瞳は何を思うのだろうか。
淡い桜色の唇はどんな言葉を紡ぐのか。
あれほど愛らしく見えた彼の姿が、今はただ恐ろしい。
「はい、こちらこそ」
男の子が笑った。窓から差し込む木立ちによって和らげられた陽光に照らされた微笑みはあまりに幻想的で、常に靄がかっていたわたしの灰色の視界は一斉に色づいた。全身が熱を持ち、指先に至るまでの全神経が皮膚の下で暴れている。とりわけ心臓は激しく脈動していて、収縮運動の波動が脳の深くにまで伝わっている。
自分が自分でないような、しかし、フワフワとした心地のいい高揚感。
「
これが恋だと気づくのに、そう時間はかからなかった。
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