第4話

「どんなのがいい?」

 怖くないのがいい。

 その要求が通れば、どれだけ楽だろうか。

 僕は幽霊の類が大の苦手だ。過去に目撃してしまったとか、危ない目に遭ったなどの経験があるわけではないが、存在を想像するだけで怖気が走る。心霊特番のテレビコマーシャルのせいで五分ほど動悸が治まらなかったこともあるので、生まれ持った気質なのだろう。

 もちろん、怪談のほとんどが作り話だと頭では理解している。しかし、何度自分に言い聞かせようとも、それらを見聞きしてしまった後は脳裏に浮かぶ恐ろしげな映像を払拭できず、しばらくは見えない脅威に怯えながらの生活を強いられてしまう。

 根性では絶対に乗り越えられない。僕にとって怪談とは、底知れぬ恐怖の象徴そのものだ。

「あ、そうだ。今日、栗皮くりかわに聞いたんだけど」

 いよいよ始まってしまう。こうなった赤錆さんは止まらない。潔く腹を括る以外にできることはない。

「最近この辺りに口裂け女が出るらしいよ」

「……口裂け女?」

「そ、あの有名なやつ。パッと見はマスクを着けた綺麗な女の人なんだけど、取ってびっくり口が頬まで裂けてましたっていう都市伝説」

「……それだけ?」

「口裂け女ってそういうもんでしょ」

「はあ、そうなんだ」

 なんだか拍子抜けである。変に勿体つけるから、とんでもなく恐ろしい話が飛び出してくるのではないかと無駄に緊張してしまった。

 マスクをした人ならそこら中に居るし、口が他より大きいだけの女性を怖いとは思わない。情報元の栗皮さんも、偶々特徴の合致する人に遭遇して面白おかしく囃し立てただけだろう。

 一時はどうなることかと思ったが随分と平和に解決できた。安心感で自然と口元が緩む。そんな僕の反応がつまらないのか、赤錆さんはむすくれた顔になってスカートのポケットからスマートフォンを取り出し、何やら画面をいじり始めた。

「こんなの」

 目の前にスマートフォンを突きつけてくる。

 口が頬どころか耳の付け根まで裂け、鰐のような鋭い牙を剥く化け物の憤怒の表情が画面一杯に映し出されていた。

「ひぇ」

 あまりの恐怖に尻が浮く。絶叫を堪えた自分を褒めてあげたいくらい衝撃的な画像だった。

「整形手術が失敗して、こんな風になったらしいよ」

「い、いいからそれどかしてよ」

「は? 包介ってこんな安っぽいやつにもビビるの? 無意味に白目剥いてるとこなんて、如何にもてきとうじゃない」

 赤錆さんは小馬鹿にするような目でじっくりと怯える僕を鑑賞した後、やけに鈍い動きでスマートフォンをしまった。恐怖が一先ず取り除かれたことに、ほっと胸を撫で下ろす。

「口裂け女ってね、出会った人に向かって、私、綺麗? って尋ねてくるんだって。雰囲気は美人だし突然聞いてくるもんだから、大抵の人は綺麗ですって答えるの。そしたら急にマスクを剥いで、これでも? って。そこで悲鳴を上げたら終わり。隠し持っていた刃物で息の根を止めるまで永遠に追いかけてくるらしいわ」

「……不細工って答えたら?」

「女の人にそんなこと言う奴が無事で済むわけないじゃない。当然殺されるわね」

 そんなの、出会った時点で終わりじゃないか。

「まあ、ハッキリ言って全然怖くないけどね。色々設定があるんだけど、百メートルを六秒で走るなんてどう考えてもおかしいでしょ。チーターと同じレベルよ。刃物で刺し殺すっていうのも全然特徴活かせてないし、全体的に作り込みが甘いのよね。撃退法もいっぱいあるし」

「え、撃退できるの」

「うん。一番有名なのは、ポマードって三回唱えるやつ。手術を担当した医者がポマードで髪を整えてたらしくて、単語を聞くとトラウマが蘇るんだって。あとは、べっこう飴を投げつける、とかかな。ちょっと可愛い対処法よね」

 外出時はべっこう飴を持ち歩くことにしよう。作り話であることは重々承知だが、安心を買うと思えば安い出費だ。あの恐ろしい相貌が高速で駆けてくる光景を細部まで想像してしまった僕に、それ以外の選択肢はない。

「ていうか、口裂け女も知らないんだ。じゃあもしかして、メリーさんの電話も知らないの?」

「……知らないけど」

「へえ。メリーさんの電話っていうのは」

「ちょっ、ちょっと待って。さっきの話で十分反省したからさ、今日はこれくらいにしてくれないかな」

 口裂け女だけでも一杯一杯なのに、追い打ちをかけられたら今度こそ眠れなくなる。誠意を込めて頭を下げると、赤錆さんは退屈そうに息を吐き、ゆったりとした所作で足を組み替えた。妙に貫禄のある動きは映画で見たマフィアのボスと似ている。

「あのねえ、なんであたしがわざわざ怖い話してるか分かってる?」

「そ、それはもちろん。僕が赤錆さんの靴を汚したからだろ」

「そう。包介はあたしの大事な一張羅を汚したわけ」

「あれ? 昨日は違うの履いてなかった?」

 じろりと睨めつけられたので慌てて黙る。口答えは許されていない。

「要は、あたしは深く傷ついたってこと。それだけのことを仕出かしておいて、小話一つで許されるなんて虫がよすぎるでしょ」

「そ、そんな」

 あれだけ怖い思いをしたのに、責苦はまだ続くというのか。

「当然、耳を塞いだり、目を閉じたりするのはなしだから」

「……はい」

「よし」

 言い付けなんて無視してしまえばいい。しかし、事の発端が自分にあるという負い目から強く反発することができない。赤錆さんの焦げ茶色の瞳は嗜虐的な光を帯びており、映り込む僕の顔は死期を悟った蛙よりも青ざめている。

 いよいよ、本日二度目の怪談が始まってしまう。

「メリーさんの電話は、ある少女が体験した話。その少女は幼い頃、両親にねだって外国製の人形を買ってもらったの。フランス人形って言った方がイメージしやすいかな。まあ、リカちゃん人形とかよりも精巧に作られた高価な人形をイメージして。それで、少女は人形にメリーって名前を付けてすごく可愛がってたんだけど、年をとるごとにだんだん遊ばなくなっていったの。まあ、いつまでもお人形遊びしてるわけにはいかないし」

「赤錆さんも辞めたの? あんなに好きだったのに」

「は? いつの話よ」

 恐怖を紛らわせるために挟んだ軽口は、にべもなく切り捨てられた。彼女にとって僕を強引に巻き込んだおままごとは既に過去の記憶であるらしい。

「ふん。続けるわよ。それから何年か経った後、父親の転勤で少女の引っ越しが決まった。準備の途中、少女は久しぶりに人形を見つけたけど、ほったらかしてたせいかボロボロになっていたから、いい機会だと思って処分することにしたの。ほんとに雑に、ゴミ捨て場にぽいって捨てた。昔はあんなに可愛がっていたのに薄情な話よね。ところで、神道では物には魂が宿るとされているけど、それじゃあ粗雑に扱われた人形は持ち主のことをどう思うのかしら?」

 別の話題で話を濁す余裕など、とうになくなっていた。緊張で乾いた喉に無理矢理飲み込んだ唾液が引っかかる。赤錆さんの声は液体のように柔軟に、余すことなく僕の脳内に染み込んできて、聞いてはいけないと分かっているのに彼女から目を離すことができない。

「引っ越しが無事に終わって新しい土地に慣れた頃には、人形のことなんてすっかり忘れていた。そんなある日の夜、少女の家に電話がかかってきた。いつもは親が出るんだけど、その日は生憎仕事でまだ帰ってなかったから少女は渋々電話を取ったの。もしもし、もしもし、どちら様ですか。けど、いくら待っても相手は無言。しばらく待ってもそのままだから切ってしまおうと思ったその時、幼い女の子の声で、わたしメリーさん。今、ゴミ捨て場に居るの。それだけ言って電話は切れた。悪戯にしては不気味よね。だって、メリーは少女がゴミ捨て場に捨てた人形の名前だもの。少女が気味悪く思っていると、間を置かずにまた電話がかかってきた。恐怖心から誰かに縋りたくなったのね、お母さんからの電話だと思い込んだ少女は反射的に受話器を取ってしまった。もしもし、お母さん? でも、電話の相手はお母さんじゃない。わたしメリーさん。今、駅の前にいるの。わたしメリーさん。今、公園の前にいるの。わたしメリーさん。わたしメリーさん。わたしメリーさん。少女はどうにかなりそうだった。メリーさんの言った場所は全部、家の近所にあるものだから。メリーさんと名乗る相手は最後に、わたしメリーさん。今、あなたの家の前にいるの。そしてまた、電話が切れた。悪戯にしては余りにも手が込んでる。電話の相手はストーカー? それとも本当にメリーさんなの? 何が何だか分からなくなって、少女は電話線を力づくで引っこ抜いた。これでもう電話はかかってこない。そのはずなのに、呼び出し音が鳴る。少女はほとんど発狂して受話器を乱暴に取って、見えない相手を怒鳴りつけた。あなた一体何なのよ、いい加減にして。でも、電話は繋がっていなかった。電話線は少女が抜いたんだから当然よね。じゃああの時、部屋に響いた音は何だったのか。どうして着信音じゃなく、呼び出し音が鳴ったのか。ねえ、包介。電話はどこからかけられていたのかな」

 赤錆さんが僕の耳元に口を寄せる。極度の恐怖で硬直した体は突然の動きに何も反応できない。

「わたしメリーさん。今、あなたのうしろにいるの」

「わ゛ぁぁぁああ!!」

 よく通る微声が脳に深く突き刺さり、全身に渦巻いていた恐怖が爆発した。震えていた両足が跳ね上がり、支えを失った体が大きく反り返る。

 ベンチからひっくり返ってしまった。赤錆さんは僕の醜態に満足し、腹を抱えて笑っている。

「あははっ、ビビり過ぎだって。メリーさんで叫ぶ人、初めて見た」

 本当に怖かった。

 何とか体を起き上がらせるが、後ろに誰か立っているような気配がして首を動かすことができない。

「ふふっ。でもこの話、よくできてるよね。構成は分かりやすいし、じわじわ迫ってくる恐怖も上手く表現してる。だから有名なんだろうけど」

 一頻り笑った赤錆さんは乱れた呼吸を整えながら淡々と批評を述べる。怪談を話し終えた後の彼女の癖だ。自分で話していて怖くならないのか。すぐに切り替えられる冷静さが只々羨ましい。

 しかし、今は赤錆さんの講釈に耳を傾けている場合ではない。今日を乗り切るために聞くべきことは他にある。

「……対処法は?」

「は?」

「た、対処法だよ。その、メ、メリーさんに襲われたとき、どうやって身を守ればいいのかなって」

 人形を買ったことも捨てたこともないが、万が一ということがある。話の真偽はともかく、対策手段を把握しておかなければ一生後ろを振り返られなくなりそうだ。

「知らない」

「へ」

 そんな。口裂け女には、ちゃんと対策が用意されていたのに。僕は死ぬまでメリーさんの脅威に怯えながら生きていかなければならないのか。

 僕を恐怖のどん底に突き落とした張本人は一仕事を終えたような爽やかな顔で両腕を伸ばした後、満足げに息を吐いた。

「だって作り話だし。少女がその後どうなったかも分からないのに、対策が用意されてるわけないじゃない。まあ、二次創作にはないこともないけど」

「本当!?」

「うわっ、何はしゃいでんのよ」

 地獄で仏に会った気分だ。こんなに恐ろしい怪談を元に創作活動を行うなんて正気の沙汰とは思えないが、今の僕には天の恵みに等しい吉報である。

 居住まいを正して赤錆さんに体を向けると、彼女は咳払いをしてから人差し指をぴんと立てた。

「オチの解釈を変えて、後ろを取られたから終わりって考えるの。そしたらほら、色々方法が思いつくでしょ。例えば、壁にぴったり背中をつけるとか。それでメリーさんが壁に埋まっちゃう話は面白かったな」

 なるほど。たしかに、メリーさんは人形という実体を持つため、壁などの物質に干渉してしまう。仮に正面から突っ込んできても体格では人間が勝る。視認さえできれば生存の確率はぐんと上がり、不退転の覚悟があるなら侵入経路を限定できる分、有効な手立てだろう。

「あとは携帯電話を持つことね。家の電話じゃ逃げ場はないけど、携帯なら電話がかかってきても人通りの多いとこに逃げ込めるでしょ。どう、包介。携帯欲しくなった?」

「……うん」

 べっこう飴に加え、また買うものが増えた。母さんには何と説明しよう。命に関わるからと正直に話しても、納得してもらえる自信はない。

「はい、これで話は終わり。靴は……そうね、また今度でいいか」

「大丈夫なの?」

「撥水スプレーかけてるから拭けばどうとでもなるわよ」

「えっ!?」

 今までの拷問はなんだったんだ。不当な処罰に声を上げようとしたが、赤錆さんの視線に制され、大人しく縮こまる。今日の僕はずっとこんな調子だ。

「また降り出しても嫌だし、早く帰ろ」

 赤錆さんがベンチから元気よく跳ね降りる。話し込んでいるうちに雨はすっかり上がっていたが、空は相変わらず分厚い雲に覆われたままだ。油断すると降り始めてしまいそうなので、遅れないようにゴミと荷物を取り纏めて立ち上がる。

「あ」

 慌てていたせいか学ランの端がささくれに引っかかり、少しだけ解れてしまう。

 良くないことが起こりそうな、そんな一抹の不安を抱きながら、僕達は曇天の下へ踏み出した。




 公園から十数分歩いたところで、僕と母さんの住むマンションが見えた。空は相変わらず鉛色だが幸いにも雨に見舞われることはなく、制服の汚れも比較的少ない。赤錆さんの家はまだ先なのでどうなるか分からないが、大した距離でもないのでずぶ濡れになる心配はないだろう。

 小走りで軒下に移動して赤錆さんを振り返る。彼女が同じように足を動かすことはなく、つまらなそうに眉を顰めてゆっくりとした足取りで僕の隣に並んだ。

「楽しそうね」

「そんなことないよ」

 学校と家が近くて気に入らないといちゃもんを付けられては堪らない。へらへら笑って誤魔化しながらエントランスに入る。

 手狭ではあるが小綺麗な広間だ。元々、一人暮らしの女性に向けて作られているので整備は行き届いている。セキュリティも家賃の割に充実しているし、かなり良い物件だと思う。

「チッ」

 もっとも、赤錆さんは僕が上等な場所に住んでいるのが気に入らないらしく、別れ際はいつも機嫌が悪くなる。舌打ちはやめてもらいたいが、言ったところで平手が飛んでくるだけなので聞かなかった振りをするのが一番だ。大人しく鍵を取り出してロックの解除に取り掛かる。

「約束、忘れないでよ」

「分かってるよ」

「明日はいつも通り八時集合だからね」

「分かってるってば」

「なにその言い方。今日だって包介が」

「あ、開いた。それじゃあまた明日」

 今日は本当に疲れたのでこれ以上赤錆さんの小言に付き合う体力は残っていない。言葉を遮って自動ドアをくぐる。さしもの赤錆さんもオートロックを強引に突破するつもりはないようで、恨めしげに僕を睨み付けるに留まった。明日になれば落ち着いているだろうし、特に問題はない。

 ようやく一日が終わった。清々しい気持ちでエレベーターを呼ぶと、秒と待たずに到着したので早速乗り込む。閉まる扉の間から自動ドアに手をついて何かを呟く赤錆さんがちらりと見えたが、今更降りるのも億劫だし大抵は罵倒の言葉なのでさっさとずらかることにした。

 小さな揺れの後、内臓がぐんと下に引かれるような負荷がかかる。四方を囲む壁から感じる息苦しさに、途中で誰かが乗り込んでくるかもしれないという緊張感。こういう居心地の悪い時間は決まって悪い想像を膨らませてしまう。

 手違いで桑染さんに届いた手紙。金玉を襲った痛烈な蹴り。青褐先生から受けた辱め。

 そして、二つの怪談。

 脳裏では未だにメリーさんの囁きが反響していて、逃れるために目を瞑ろうものなら暗闇の奥から牙を剥いた口裂け女が姿を現わす。

 怖い。

 こんな日に限って母さんの帰りは遅い。今の時刻から試算すると、大体四時間を一人で過ごさなければならない。本来ならば喜ばしいはずの自由時間が、怪談のせいで苦しみに変わってしまった。こんなことなら意地を張らずに赤錆さんの家に厄介になっておけば良かったと今更になって思うが、後の祭りである。

 怪談とは関係のないエレベーターまで恐ろしく思えてきて、いよいよ足が震えてきたその時、電子のベルが目的階の到着を告げた。

 助かった。いや、助かってはいないか。

 周囲を警戒しながら自宅の前に移動し、慎重に玄関扉を解錠する。音を立てないよう上半身を張り付けて押し開いた扉の先で見慣れた玄関が僕を迎えた。当然母さんの靴はなく、端に寄せられたサンダルと数本のビニール傘が刺さった傘立て以外に物は置いていない。

 無人の家。

 はっきり言葉で表すと、心許なさがより一層押し寄せてくる。

「……はあ」

 母さんが戻るまでの時間をどう乗り切るべきか。普段なら宿題を片付けるところだが、孤独からくる不安のせいでまったくやる気になれない。

「はあ、嫌だなあ」

 鞄を放って制服もそのままにソファに体を投げ出す。手近にあったリモコンでテレビを点けてみたが、夕暮れの時間帯は都心部を取り上げた情報番組ばかりで興味を惹かれるものはない。

 すぐに電源を落としてソファに体重を預け直す。静寂を取り戻した室内に秒針の規則的な音が響き始める。普段は気にも留めない微音のはずが、いやにうるさく聞こえる。

 気が散ってしょうがない。気晴らしに何かつまもうとコンビニ袋の中のチョコレート菓子に手を伸ばしかけたところで、ふと背筋に視線を感じた。

 誰かいるのか。反射で振り返るが、がらんとした居間の光景があるばかりで危惧する怪物の姿はない。

 神経質になり過ぎだ。メリーさんの電話は作り話だと、赤錆さん自身が言っていたじゃないか。

 頭を振ってこびりついた幻影を払う。無理にでも明るい気分を作らないと精神が参ってしまう。

 そうだ、久しぶりに昔の小説を読み返そう。

 落ち着かない気持ちは別の何かに集中して忘れてしまうのが一番だ。読み終える頃には母さんも帰ってくるだろうし、宿題は明日早起きして片付ければ問題ない。

 早速、本を取りに自室に向かおうと立ち上がった瞬間。

 じりりりりりり。

「うわっ!」

 突如として固定電話の着信音が鳴り響いた。歩き出そうとした矢先の出来事だったので、驚いて尻餅を突いてしまった。

「びっくりした」

 誰に見られたわけでもないのに照れ隠しの独り言が口を衝いて出る。すっくと起き上がり、やかましく鳴り続ける電話の液晶を見ると知らない番号が表示されていた。

 怪談を聞いた手前、否が応でもメリーさんの存在が連想されるが、まさか怪異が通信会社と契約して番号を取得しているということはないだろう。つまり、この電話は人の手によってかけられたもので間違いない。

 しかし、どこからかかってきたのだろうか。市外局番が携帯電話に使用されるものなので、ガス会社や水道局といった公共機関である可能性は低い。母さんや赤錆さんは登録済みなので、数字ではなく名前で表示されるはずだ。

 となると、相手先はセールスか間違い電話に絞られ、それならば敢えて受け取る必要もない。申し訳ないが見送らせてもらうことを決め、電話が鳴り止むのをじっと待つ。

 三十秒ほど経った後、着信音が留守番電話サービスに切り替わった。

「あっ、あ……、と、……さ、い」

 通信環境が悪いのか言葉が掠れてよく聞き取れない。セールスにしては元気がないし、間違い電話だろうか。

「おっ、おっ、……は、…………ね。わ、…………と、おっ、……あっ、いやっ、…………へっ」

 電話に顔を寄せ、耳を澄ませてみてもはっきり聞こえない。言葉尻に混ざった笑い声に少しだけ薄ら寒いものを感じる。

「あ、そっ、……ら、コンビニ…………見えた……一人か…………」

 コンビニ、という単語が辛うじて拾えた。登下校中の買い物は校則で禁止されているので一応周りを気にしてはいたのだが、誰かに見られていたのか。

「……、ね。ほ、…………、そ、そそそそ……、今から、そっち…………」

 ぞわりとした怖気が体中を走り、全身の皮膚が一斉に粟立つ。

 今からそっち、と確かに言った。聞き間違いではない。

 今からそっち。

 まさか、そんな。あり得ない。

 だって、あれは作り話だ。そもそも恨まれる心当たりなんてない。違う。そんなわけない。

「あっ、最…………。え、……へへ。わっ、……、メ……リ……」

 嘘だ。なんで。これはまるで本物の。

 メリーさんの電話。

 まさか、僕がメリーさんに狙われるなんて。脅威に怯える一方、心のどこかで襲われるはずがないと油断していた。

 息が苦しい。冷えた汗が背筋を伝い、両足が凍りついたように動かなくなる。瞳が小刻みに揺れ始め、周囲の輪郭が朧気になってきた。

「あっ、そ、そ…………、わたし、……家に…………。……、え…………、家、わ、…………家……、……いい……、……て」

 家。すでにメリーさんはこの家に侵入しているというのか。聞いた話よりもずっと化け物地味た速さだ。

 いざ直面して、その恐ろしさを改めて実感する。引き攣った笑みを浮かべて躙り寄るメリーさんの幻影が脳裏を埋め尽くし、遂には膝が笑い出した。石のように固まった首筋から伝播する筋肉の痙攣が強制的に奥歯を噛み締めさせる。

 誰か、頼むから悪い冗談だと言ってくれ。

 縋る気持ちで念じても誰かに届くわけがない。僕はこのまま、為すすべもなく殺されてしまうのだろうか。なぜ標的に選ばれたのかも分からないまま、一人きりで死んでいくのか。

 いや、違う。

 諦めるな。僕はまだ、母さんに何一つ返せていない。

 このまま死ぬわけにはいかない。生き残るために何をすべきか、冷静に考えろ。

「ふぅ──」

 震える息を吐ききって薄く空気を吸い込む。恐怖で麻痺した思考回路に酸素が巡り、末端の神経が僅かに感覚を取り戻す。

 大丈夫。落ち着け。冷静になれ。

 僕は戦える。

 脳から発せられた電気信号が両足に伝わるのと同時に、自室に向かって一直線に駆ける。流れる景色に素早く視線を這わせるが廊下にメリーさんの姿はない。

 まだ間に合う。ベッドに飛び乗り、壁を背に入り口を見据える。

 家への侵入を許してしまった以上、ここから逃げ出すのは難しい。それに、僕一人が逃げられたとしても、事態を知らず帰宅した母さんが餌食になってしまうかもしれない。

 だからこそ、ここで仕留める。正面から打ち倒す。

 今日、赤錆さんからメリーさんの怪談を聞けたのは僥倖だった。酷く怖い思いをしたが、こうして対抗策を実行に移せている。背後の空間を潰した以上、メリーさんの攻撃方向は限定され、襲い掛かってくる瞬間を視認できる可能性は高くなる。怪談の内容が正しければメリーさんは人形としての実体を持っていて、ならばこちらの突き蹴りにも多少は効果があるはずだ。

 やれる。やるしかない。

 もう一度深く息を吐き出して、両の拳に力を込める。油断なく張り巡らせた警戒の糸が部屋の隅にまで足を伸ばし、ひりついた空気に感覚が溶けていく。

 極限の集中状態。秒針の間隔が長い。体内を回る血液の音が聞こえるような気さえする。

 それが災いとなった。研ぎ澄まされた神経は背中にのしかかる重みを疑いようもなく明確に感じ取ってしまった。

 後ろに何かがいる。

 まるで最初からそこにあったかのように音もなく、それは唐突に現れた。

 最初から間違えていた。迎え撃つなんて思い上がりも甚だしい。それらは人知を超えた存在であるからこそ伝説と形容されるというのに。

 都市伝説。怪異。

 僕なんかが敵う相手じゃなかったんだ。

 後ろのが口を開いたのが分かる。

 だめだ。終わった。

「わたし今、包介くんの後ろにいるの」

 人は恐怖でも気を失う。知りたくなかった知識を身をもって経験した僕の意識は、呆気なく暗闇の底へ落ちていった。

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