第6話

 それからはもう、天国のような毎日を過ごした。

 学校が終われば参考書をまとめて、図書館へ一直線に走る。踊り出しそうになる足取りを堪えて閲覧席を覗けば、いつでも彼が出迎えてくれる。

 黒橡包介くん。

 彼はわたしの光そのものだ。運命的な出会いを果たしたあの日から、その気持ちは欠片も揺るがない。

 やけた紙面に羅列した活字に落とす冴えた瞳が好き。

 風に靡いた前髪を優しく払う指が好き。

 視線が合った時に浮かべる淑やかな微笑みが好き。

 彼を構成する要素すべてがわたしを惹きつけて離さない。美しいものがこんなに心を満たすなんて思いもしなかった。

 そして、彼の美しさは容姿や仕草などの表層的な面に限られるものではない。むしろ、その心にこそ色濃く現れている。

 包介くんは決して相手を急かさない。常に柔らかい口調で話し、わたしが何度吃っても丁寧に意図を読み取ろうとしてくれる。

 小学生の彼からすれば、満足に会話もできない高校生なんてのは変人以外の何者でもない。馬鹿にするか、避ける方が自然だ。

 けど、包介くんはわたしを見た目で判断することなく、内面を評価してくれた。話す内容から人となりを見定め、好意的に接してくれた。

 それがどれだけ難しいことか。人は自分と違うもの、常識から外れた存在を嫌う生き物だ。世間では個性だなんだと声高に叫ばれているが根底は変わらない。集団による排斥が人間の本性であると、わたしはこれまでの人生で嫌になるほど学んでいる。

 わたしは人間に失望していた。物心ついた時から培われ続けてきた不信感はそう思わせるには充分なほど膨らんでいたし、元来の悲観的な性質もあって、この先誰かと心を交わすことなどないと確信していた。

 それほどに強い観念を包介くんは呆気なく覆してみせたのだ。何か裏があるのではないか、陰でわたしをからかっているのではないかと邪推して、身勝手な敵愾心を向けたこともある。それでも彼は決して微笑みを崩さず、普段通りに振る舞った。

 包介くんは敵意を知らないわけではない。自身に向けられた感情をきちんと理解した上で、包み込むような優しさをもってわたしに接したのだ。

 圧倒的母性。母からは終ぞ知ることのなかった不可思議の答えを、わたしは小学生の男の子に見た。

 思わず彼をママと呼んでしまったのも、当然の心理である。陽だまりの中にある閲覧席もまた彼が発する包容力を後押ししていて、包介くんのお腹の中もこんな風にあったかいんだろうなあ、なんて妄想に耽る程度には夢中になっていた。

 幸福で満たされた、わたしと包介くんだけの世界。

 しかし、涎を垂らして温もりに浸かっている場合ではない。わたしは受験生で、勉強の為にここに赴いている。浪人という選択肢はなく、万に一つも失敗するわけにはいかない。

 でも、この幸福な時間も失いたくない。男ができたことで、よりあからさまになった母の圧力。暗く淀んだ、けれど刺すような鋭さを伴う教室の空気。悪化の一途を辿る周囲の環境に苦しめられたわたしは、一つの妙案を思いついた。

 ご褒美をもらおう。

 中間テストの順位や模試の結果など、何か分かりやすい形で成果が出るものがいい。それらにかまけて、包介くんと今以上に深い繋がりを持とう。すでに身に余る恩恵をもらっていたが、度重なるストレスは内に燻る欲望を表出させ、気がつくとわたしは自習用のノートに要求の数々を書き殴っていた。

 例えば、下の名前で呼んでもらうとか。消しゴムを交換してもらうとか。小指を繋いでもらうとか、他にもたくさん。

 今思い返すと、相当ヤバイ発想だ。男子小学生にそんなお願いをする女子高生は間違いなく危ない奴だし、そもそも包介くんにメリットがない。

 だけど、当時のわたしは自分の異常性を客観視する余裕すらなくて、思い立ったその翌日、荒い語気で想いをぶつけてしまった。

 包介くんが受け入れてくれたのは奇跡と言っていい。いや、聖母の如き包容力を備える彼にとっては当たり前のことなのかもしれない。あっさりと首を縦に振る包介くんに、わたしは色々なところを熱くした。

 効果は覿面だった。元々高い成績は更に伸び、ちょっとひくぐらいの水準に達した。見栄に取り憑かれた母でさえ口元が引きつっていたからよっぽどだろう。第一志望校は難関校と呼ばれる大学であったが、わたしの学力は合格確実圏内にしっかりと収まっていた。

 ご褒美の内容も過激になっていた。着々と迫る受験へのストレスはもちろんあったが、何でも要求を飲んでくれる包介くんに甘えていた面が大きい。わたしの要望は少しずつ身体的接触を含むものに姿を変え、偏差値が七十を超えた時は恋人繋ぎまでしてしまった。

 わたしは調子に乗っていた。けど、だからこそ、ここまで生きてこられた。包介くんと出会わなければ、すべてを投げ出していたかもしれない。数多の困難を一人で乗り越えるなんてのは、とてもできなかった。

 すべては包介くんのおかげだ。彼の優しさが、美しさが、わたしを生かしている。

 そしてとうとう、この日を迎えた。

 合格発表当日。

 多くの人間の運命を定める数字の羅列が後数分後に貼り出される。出身も学校も、ひょっとしたら年齢も違う人々が大学入り口前に密集しているが、この時ばかりは皆一様の願いを抱いているだろう。

 合格したい。その想いを胸に誰も彼もが緊張と期待の篭った目をしている。

 わたしもそうだ。努力を重ね、万全の体制で試験に臨んだ。合格する自信は充分にある。

 しかし、いざこの場に立つと途端に不安が湧いてくる。

 自己採点は過去の合格水準を超えていたが、記入ミスがなかったかと言われれば断言はできない。本試験は前評判に従って質より数を重視する方針で臨んだが、それが正解かを示す根拠はうやむやだ。ライバルを蹴落とすために書き込まれた嘘である可能性もありうる。

 多数の懸念点。悪い想像は連鎖的に膨らみ、腹の奥がざわつき始める。周囲に渦巻く息詰まりする空気も合わさって、途端に呼吸が辛くなる。

 こうなるとどうしようもない。両肩は鉄より重く、目の前は薄っすらと白んでいく。自分の存在が曖昧になるような、気分の悪い非現実感が身体を支配する。

 ああ、だめだ。こういう思考は良くない。

 頭を振って憂鬱を散らす。オカルトは信じていないが、暗い考えは望まない結果を呼び寄せるように感じる。

 落ちたら、ではなく、受かった時の未来に思いを馳せよう。ここを乗り切れば最上のご褒美が待っていることを、わたしは知っている。

 もし、もしも受かったら。

 わたしは今日、包介くんとデートする。

 去年の十二月、センター試験の前から取り決めていた約束だった。申し込む前日は本試験並みに緊張していたと記憶している。包介くんが快く受け入れてくれた時、似合わないガッツポーズまでとってしまった。

 デートの計画はすでに立てている。まず、いつもの図書館で待ち合わせ。そのあとは電車を乗り継いで水族館に向かう。二時間ほど離れた場所にあるけど、包介くんと一緒ならあっという間に着くはずだ。たった一度、母の気まぐれで貰ったお小遣いで一人赴いただけの場所だけど、魚達がぼんやりとライトアップされた水の中を泳ぐ幻想的な光景は忘れ難い思い出である。

 昼食は近場のお店で摂る。海産物が有名な土地なので、外れることはないだろう。外食は初めてだが、心配はいらない。受け答えの例文はしっかり頭に入れてあるし、仮に失敗したとしても包介くんがなんとかしてくれる。飲食禁止の図書館では見られなかった彼の食事姿が今から楽しみだ。

 それから、夕暮れ時まで町をブラブラと散策する。包介くんには門限があるので遅くまで遊ぶことはできない。その限られた貴重な時間に無計画な町歩きを予定に組み込んだ理由は、彼にわたしと同じ轍を踏んで欲しくないからだ。

 包介くんは優れた社交性を持っているが、行動範囲は広くない。この一年間、ほとんど毎日図書館で顔を合わせていたことがその証拠だ。遊びの誘惑で溢れる小学生が図書館に居着くとは、あまり考えられない。学校での様子を尋ねた時も上手くはぐらかされてしまった。

 きっと包介くんの周りには理解者がいないのだろう。彼は謂わば異物だ。優秀な能力も馬鹿に囲まれた環境では異端として扱われる。完璧すぎる彼が持て余されている光景は容易に想像できた。

 とすれば、もしかしたら彼の唯一の友達かもしれないわたしがすべきことはなにか。年長者として、彼にしてあげられることは。

 わたしは、彼に世界の広さを教えるべきだと思った。

 異国の文化だとか刺激的なレジャー体験だとか、そんな大袈裟な話じゃない。水族館のそわそわしてしまう雰囲気とか、ちょっと贅沢なご飯のワクワク感とか、夕暮れに染まる町並みを眺めるどこか懐かしい時間だとか、そういう世の中にありふれた発見を彼に知って欲しかった。

 それはきっと、何一つ体験できなかったわたしだから思いついたことで、わたしにしかできないことだと思った。無償で与えてもらった愛に少しでも応えたかった。

 わたしは、包介くんのために合格する。

 熱い鼻息を吹き出して口を真一文字に結ぶ。決意を新たにした時には頭の靄は晴れていた。

「ただいまより、合格者を掲示します」

 拡声器ごしの嗄れた声が聞こえ、それを合図に合格者一覧が貼り付けられた掲示板のキャスターがタイルの上を走る。

 いよいよ結果発表だ。

 ざわめく人々が一斉に静まり返った。喉を通る生唾の音が冷えた空気に溶けて消える。

 わたしの番号は0100214番。縁起も何もない数字だが、繰り返し諳んじるうちにすっかり愛着が湧いてしまった。

 一つ目の掲示板が姿を現した。間髪入れず、二、三と入り口前に運び込まれる。

 忙しない音が鳴り止み、すべて並んだ。あのどれかに、わたしの未来が載っている。首をずいと前に出し、目を凝らす。

 0100011番。0100019番。

 宙空をなぞる人差し指が徐々に自分の番号に近づいていく。一つ一つ過ぎる度、鼓動が激しさを増していく。

 0100190番。0100198番。0100210番。

 0100214番。

「あ」

 瞬間、頭が真っ白になった。次いで流れ込んできたのは、歓喜や安堵、感謝の念がごちゃ混ぜになった感情だった。

 何度も目蓋を擦り、もう一度指差しで番号を数え、視線を受験票と往復させる。

「あった」

 合格している。間違いなく、わたしの番号が載っている。

「やった」

 呆けた声が口を衝く。

 合格はほとんど確実だった。当然の結果だ、と自分に言い聞かせてみても、悴んだ両手を震わせる興奮は収まりそうにない。消えかけていた全身の感覚が蘇り、内から湧き上がる熱で再び朧げになる。

 受かった。

 勉強に関しては、これといって苦労はしていない。合格は日々の惰性の副産物だ。だというのに、涙が出そうなのはなぜだろう。報われたと思うのは思い上がりだろうか。

 こうしちゃいられない。

 垂れかけていた鼻水を乱暴に拭い、しわくちゃになった受験票を鞄に放り込む。行き先は三ヶ月前から決まっている。高速で踵を返し、わたしは一目散に走りだした。

 駅まで徒歩五分。今のわたしなら二分。

 息は切れているのに、まるで苦しくない。地下鉄に繋がる階段を滑るように降り、熟練のバトンパスのような手つきで改札機の読み取り部をタッチする。

 目の先であつらえたように電車が到着し、邪魔なホームドアが開かれる。車内のムッとした熱気が目の下を蒸し焼いた。いつもなら人波に二の足を踏んでいただろうが、今はその躊躇すら惜しい。突き出した手刀で強引に道を切り開き、電車に乗り込む。

 早く。早く会いたい。

 逸る気持ちが両足を小刻みに揺らしている。移り変わる停車駅のランプがこんなにもどかしく思うのは初めてだ。一つ、一つと点き変わるたび、体の熱が温度を上げる。

 早く。もっと早く。

 太ももを叩く指先に痛みが伴い始めた時、ようやく目的の駅に到着した。

 ドアが開くのと同時にプラットフォームに降り立つ。エスカレーターを駆け上がって、滑る地面に転びそうになりながら、それでも全力で走る。

 繁華街から住宅街へ。人の影は着実に目減りしていくが、脳内に響く祝福の歓声は激しさを増す。歩幅はさらに広く、足の回転は衰えず。道の先に見えた図書館は漏れ出る包介くんの美しさがそうさせるのか、光の粒子を放って見えた。

 邪魔な引き戸を腕の一振りで払う。突然の来訪者に受付の職員がギョッとしているがどうでもいい。体面を気にしている暇があるなら一秒でも早く彼に会いたい。

 包介くんはどんな顔をするだろう。喜んでくれるかな。笑って褒めてくれるかな。

 にやける口を隠すことなく本棚の間を抜け、辿り着いた閲覧席には

「あれ?」

 包介くんはいなかった。

 次の日も、その次の日も。彼がわたしの前に姿を現わすことはなかった。




 あれから四年が経った。苦労して手にしたはずの大学生活で、わたしは何を得たのだろう。

 講義の内容も、一人暮らしで得た経験も、すべて取るに足らないものだ。規則化された日々を送るうちに、いつの出来事か判然としなくなった。

 大学生時代を過ごした自室を無気力に見回す。

 相変わらず殺風景な部屋。最低限の家具しか置かれておらず、棚には書籍の類いが点々と並べられているだけだ。あの日以来、わたしは何かに興味を持つことができなくなった。

 こんな精神状態でよくもまあ職に就けたものだ。望んでもいないのに降ってきた幸運を自嘲する。

 わたしは今年の四月から、大手企業の実務翻訳家として雇われることが決まっている。当然、わたし個人の力で成し得たわけではない。世話になっていたゼミの教授が気まぐれで斡旋した翻訳のアルバイトをこなしているうちに、なし崩し的に声がかかったというだけの話だ。

 教授は初めからわたしを紹介するつもりでアルバイトを任せていたというが、真意はどうでもよかった。取り敢えずの将来が定まったという事実の他に感じたものはない。

 ただ、一応の感謝はしている。口下手なわたしを気にした教授は色々と便宜を計らったようで、企業と打ち合わせをして面接試験免除の約束を取り付けてくれた。実は特例の処置を施してもらうため、企業からの依頼をアルバイトという形で優先的にわたしに回していたらしい。それを踏まえると、教授がわたしを推薦するつもりだったのは本当なのかもしれない。

 もっとも、当人の無計画性を知れば落胆するだろう。去年の春には内定が決まっていたのに、二月の今になってようやく引越し先を探し始める怠け振りは、これから社会に出る人間とは到底思えない。

 引っ越しを決めた理由も酷い。わたしの新しい業務内容はアルバイトでやってきたことと大差なく、送られてきた資料を期日までに翻訳するだけだ。在宅業務も許されている。居住地にも厳密な指定はないので、本来は引っ越しの必要はない。

 決断したのは単純に、隣の大学生の騒ぎ声にいい加減我慢できなくなったからだ。何をそんなに大声を出す必要があるのか。結局、大学で一人も友達ができなかったわたしには理解の及ばない領域だが、愚痴をこぼしていてもしょうがない。

 今日中にどこに住むかだけでも決めてしまわないと。

 溜め息を吐いてから、充電ケーブルが刺さったままのスマートフォンを手に取る。

 出来るだけ近場がいい。急な環境の変化は心労しか呼ばない。外出の用事もほとんどないから周辺施設にこだわりもない。とりあえず、治安の良さを目安に探せばいいか。

 そういう経緯で近所の地区を適当に調べていると、スクロールする指が止まった。

「……あ」

 数日振りの声が漏れる。

 わたしの目に留まったのは、かつて暮らした町の名前だった。

 二度と見ることはないと思っていた。母が残っているであろうこの町に、戻ろうと考えたことはない。

 それでも、液晶に映る小さく書かれた地名から目を離すことができない。

「……包介くん」

 絶望の淵からわたしを引き上げ、再び奈落に突き落とした少年。

 大学に進学した後も諦めきれず、何度か図書館に足を運んだ。しかし、彼が姿を現すことはなく、いつしか家に引き篭もるようになった。

 今、彼は何をしているのだろう。

 あれから色々と考えた。どうして彼は突然姿を消したのか。例えば、親の都合で突然引っ越すことになったとか。誰かに邪魔されて図書館に行けなくなってしまったとか。辻褄合わせの理由なら幾らでも挙げられる。

 でも、真実は違う。絶対に認めたくないし、だからこそ目を背け続けていたけど、頭のどこかでは理解している。

 包介くんはわたしが嫌いになったのだ。

 毎日のようにベタベタと話しかけてくる気味の悪いデカブツを恐れたのだ。

 しつこく付き纏い、歪なにやけ面で相席を申し込むイかれた女子高生。それがわたしだ。

 そんな危険人物が恥知らずにもデートに誘ってきたのだから、とうとう嫌気がさしたのだろう。適当に話を合わせてから姿を消すのは、変質者を振り切る最適解と言える。彼の迷惑も顧みず、わたしは一人で浮かれていただけだ。

 ちゃんと、分かってる。

 それなのにどうしてか、わたしの指は未練がましくあの町の名前を検索している。

 憂鬱な通学路。通っていた近所のスーパー。思い出の古びた図書館。

 すべて、この目で直接捉えた風景だ。辛い記憶がほとんどだけど、細やかな幸せもある。憎み切れない町だったと、今ではそう思える。

 引っ越し先を探すという当初の目的を忘れて感傷に浸っていると、昔通っていた中学校の画像を見つけた。

「……もうすぐ、中学生か」

 包介くんが順調に成長していたら、来年度から中学生になるはずだ。

 彼は一体、どんな男の子になっているだろう。

 正統派の御曹司タイプだろうか。真面目な彼にはクラス委員長が似合うと思う。不良になるわけがないし、素敵な紳士に育っていることは間違いない。

 制服も気になる。学ランか、ブレザーか。わたしとしてはぜひ、学ランを着てほしい。成長期を見越して買った大きめサイズの制服に困る彼の姿を想像すると、心がぽかぽかと暖かくなる。畏まった私服でバッチリと決めている時とはまた違う、新たな魅力を発揮してくれるだろう。

「可愛かったなぁ」

 しみじみと思う。

 包介くんとの平穏で幸福に満ちた時間は、決して色褪せることはない。思い返すだけ辛くなると分かっているのに、それでも。

「今のわたしを見たら、どう思うかなぁ」

 わたしは大学生になっても何一つ成長していない。いや、身長はちょっと伸びて、体重もほんの少しだけ増えたけど、内面はあの頃と同じ子供のままだ。

 だから今、恥知らずにも包介くんに会いたい気持ちを抑えられないでいる。

 本当に勝手な話だ。所詮はわたしも、身勝手で業突く張りな母と同じ穴の貉ということだろう。言い訳と自己弁護で塗り固めた都合のいい思考回路は、弱い自分をひたすらに罵倒しながらも包介くんに会うための算段をつけている。

 一目見るだけ。

 守れるはずもない制約を己に課しながら、わたしは故郷に向かう電車の時刻表を検索した。




 どことなく黴臭い。

 薄っすらと雪が積もった故郷のホームに降りて、最初に抱いた感想はそれだった。

 ぐるりと周囲を見回してみても特段変わったところは見受けられない。錆だらけの鉄骨や無人の改札も当時のままのようだ。

 キョロキョロと視線を動かして辺りの様子を確認していると、わたしを凝視する幼児が目に入った。

 何かおかしなところでもあっただろうか。自分の体をさり気なく改めて、ふと気がつく。

 引きこもってばかりいたから自分の風貌をすっかり忘れていた。派手な頭の大女。待ち合わせの目印に使われそうな奇抜さだ。注目されると面倒なので上着のフードを目深に被り、さっさと駅の階段を降りる。

 行き先は最初から決まってる。迷う必要はない。スマートフォンを取り出して昨晩リストアップした観測場所を確認する。

 距離は時間にして十分。一般的な下校時間までには余裕で間に合うので焦る必要はない。

 閑静な住宅地をのんびりと歩く。金持ちそうな門構えが多く、疎らに見かける人々は上品な身なりをしている。子供の頃は気にならなかったが、住みやすいという評判は本当のようだ。

 如何にも見栄っ張りの母が好きそうな町。

 大学に進学してから一切の連絡をとっていないので母がここに暮らしているのかさえ分からないが、仮に住んでいたとしたら鉢合わせる可能性もある。

 まあ、面倒事に発展する心配はないだろう。今でも母を恨んでいるが、偶然顔を合わせたとして一目で奴と分かる自信はない。母がどんな顔だったか、よく覚えていないのだ。それはきっと向こうも同じで、仮にわたしと出くわしてもそのまま素通りするだろう。お互いがお互いに興味がない。どこか知らないところで不幸になっていれば上々である。

 それよりも、問題は包介くんだ。

 彼を見つけ出すには登下校をおさえるしかない。

 馴染みの町とはいえ、わたしに頼れる知り合いはおらず、学校関係者と上手く交渉する能力もない。遠くから校門を観測する以外に方法がなかった。

 上手く見つけられるだろうか。

 見張りに適した場所は厳選したつもりだが、遠方からの観測のみで出入りする全生徒の顔を確認するのは不可能である。そもそも、包介くんが未だこの町に住んでいる確証もない。彼の通う小学校は当時にそれとなく聞き出しただけで、転校してしまった可能性は十二分に存在する。

 やはり無謀だったか。

 いや、違う。あの夜、わたしが感じた情熱は本物だ。理屈をつけたところで止まりはしないし、行動に移さなかったら一生後悔する。

 だったら、回りくどい言葉で自分を正当化するべきではない。固めた決意に身を任せ、やり切るだけだ。

 つらつらと内心を吐露して腹をくくり直していると、目的の場所が見えてきた。後ろ手でリュックサックを触り、今朝方購入した双眼鏡の感触を確かめる。

 準備万端。自身を鼓舞するように、フードの下で薄気味悪く笑った直後だった。

「ちょっ、やめて」

「カイロ貼らないとお腹冷えちゃうでしょ」

「外で服捲る方が絶対冷えるって!」

「わがまま言わない」

「あっ! 冷たっ!」

 曲がり角から白いお腹が現れた。それを追いかけるように二本の腕が絡みつき、再び角の向こうに引き摺り込む。

 真冬の往来で、少女が少年を半裸に剥く常軌を逸した光景が繰り広げられていた。

「急に飛び出したら危ないわよ」

「寒っ、寒いっ! 早く服戻して!」

「まだちゃんと貼れてないから。じっとして」

 少年の悲痛な叫びと少女の喜色の滲む諫言が聞こえてくる。小学生だろうか。一瞬ではあるが、ランドセルを背負っているのが見えた。

 どういう関係性なのか。

 男女間であれほど激しいスキンシップは、子供同士でも珍しい気がする。金髪おばけと呼ばれ、バイ菌扱いされていたわたしには尚更だ。充実した生活を送る子供らに何となく不愉快な気持ちになる。

 いけない。数度瞬きして我を取り戻す。こんなところで足を止めている場合ではない。終業式だろうか、理由ははっきりしないが、下校時間が想定よりかなり早い。早く観測地点を確保しなければ。

 しかし、何かがわたしの琴線に触れた。見覚えがないはずの子供の姿に、爪先が凍りついたように固まっている。

 高鳴る鼓動に疑問を覚えながら思惟に耽っていると、子供達の騒ぎ声が不意に止まった。

「あったかくなってきた」

「ほら、感謝してよ」

「うん、ありがと……熱っ! 凄い熱いよ、このカイロ!」

「あー、服の上から貼るやつみたい」

「なんで直に貼るんだよ!」

「包介、一々うるさい」

 包介。

 考えるよりも早く、わたしの体は曲がり角の先へと飛び出していた。

「わっ」

 少年が驚きの声を上げ、それを誤魔化すように愛想笑いを浮かべる。

 野暮ったい印象だ。体格に合わないもこもこしたダウンジャケットと、右目を覆い隠すボサボサの髪の毛が情けなさに拍車をかけている。わたしの知っている包介くんとはまるで違う。

 けど、確信する。彼は包介くんだ。

 恰好は随分変わったが、顔形は当時と同じ。長い前髪から覗く優しい瞳と困り眉の笑顔は、わたしの記憶に焼き付けられた微笑みと相違ない。僅かに困惑が見え隠れしているが問題ない。むしろいい。

 今の彼は何というか、こう、ちょっと隙がある。寒気で桃色に染まった丸い頬も合わさって、色っぽい。生々しい感じがして唆られる、というか。上手く言葉にできないが、独り占めにしてしまいたくなる。

 ああ、いけない。予定外の再会に思考が暴走している。ふとした瞬間に包介くんを抱き上げて小躍りしながら家に持ち帰ってしまいそうだ。誤ちを犯す前にフードを脱いで火照った頭を外気に晒す。

「……何か用ですか」

 脳のクールダウンに努めていると、横から敵意剥き出しの声が掛けられた。

 空気の読めない奴。舌打ちを噛み殺して、不遜な目つきでわたしを睨む少女に視線を移す。

 若さしか取り柄のないような女だ。頭の悪そうな茶髪は地毛だろうか。小学生の分際で染めていたとしたら、ど底辺街道真っしぐらなクズである。ネコ科を連想させる生意気な瞳も気に入らない。大人を舐め切った態度に礼儀を教えてやりたくなる。

 だけど、こんな奴に構っている暇はない。重要なのは、包介くんとどうやってお話しするか、だ。

 彼が約束を破った理由として一番可能性が高いのは、わたしが気持ち悪かったからである。そうならば包介くんにとってこの再会は望ましいものではなく、あからさまにはしないまでも疎ましく思われる危険がある。

 慎重を期さなければならない。不用意な発言は永遠の拒絶に繋がる。

 焦ってはいけない。冷静にならないと。

 もしものためという建前でじっくり練った包介くんとの会話シミュレーションを思い出す。

 大丈夫。わたしの想いはきっと届く。

「ひ、ひひひ久し振りっ!」

 緊張で口元が強張り、盛大に吃ってしまった。出だしから躓いたが、顧みる余裕はない。第一、包介くんは人の失態を笑うほど浅はかな人間ではない。修正は充分に可能だ。予定通り、彼の反応を見極めて状況に応じたプランに移行する。

 一つ目は、好意的な反応を返してくれた場合。わたしが最も理想とする形だ。会話も滞りなく進むと予想されるので、わたしの近況を話題に挙げた後、それとなくあの日の事情について聞き出す。

 二つ目は、気まずそうな態度を取られた場合。このパターンが一番現実的だろう。いくら嫌っていたとはいえ、誠実な彼が約束を反故にしたことを気に病まないわけがない。正確な真相を知るためにも、萎縮させてしまわないような立ち回りが必要になる。

 危惧していた無視や逃走は恐らくない。微笑み返してくれた時点で最悪の選択肢は潰された。あとは、包介くんに不審に思われないよう間を置かず、流暢に発言することだけを意識すればいい。

 大丈夫。鼻息が荒くならないようにゆっくりと息を吐いて、包介くんの言葉を待つ。

「ええっと、すみません。どこかでお会いしましたか?」

「え?」

 今、なんて言った? わたしのこと、憶えていない?

 包介くんが曖昧な笑みを浮かべて首を傾げる。彼の癖だ。答えに窮し、本当に困った時に見せる表情だ。

 目の前の少年は、紛れもなくわたしと約束を交わした男の子だ。

 用事が重なって来られなかっただけだと、答えて欲しかった。考えたくはないけど、拒絶される覚悟も決めていた。彼が約束を破った真相を、どうしても知りたかった。会って、理由を聞きたかった。

 でも、忘れられているなんて。

「ほ、ほら、わたしだよ、桑染メアリ。図書館でいつも一緒だったでしょ?」

 忘れられるはずがない。わたし達は半年間、同じ時を過ごしてきた。穏やかで緩やかな、暖かい陽だまりに包まれるような幸せを共有していた。

 決して長い期間ではない。それでも、包介くんは何度も微笑みかけてくれた。辛くて、苦しくて、消えてしまいたかったわたしを救ってくれた。わたしに希望を与えてくれた。

 貴方がわたしの人生を変えてくれた。

 それを今更、なかったことにするなんて。

「嘘、嘘だよね!? だっ、だってそんなの──」

 ひどすぎるよ。

 貴方との思い出を失くしてしまったら、わたしはどうすればいいの。どう生きていけばいいの。

 見捨てるなんて無責任だよ。貴方が拾った命なんだから最後まで見ててよ。途中で放り出すなんて包介くんらしくないよ。

 ねえ。

 黙ってないでちゃんと答えてよ。そんな目で見ないでよ。約束破ったことなら許してあげるから。昔みたいに仲良くしようよ。

 ねえ。

 何か言ってよ。

 言え。

「逃げるよ!!」

 叫んだ少女が包介くんの腕を取った。

 咄嗟に手を伸ばすが、寸前で指先が空を切る。氷の上ではバランスが崩れた上体を支えることができず、前のめりのまま転んでしまう。

 手のひらを走る鋭い痛み。顔を上げると、包介くんたちはすでに走り出していた。

 また、失くしてしまう。

「あの、ごめんなさい」

 少女に連れられながら包介くんが申し訳なさそうに会釈する。それから、彼らの背中はあっという間に見えなくなった。わたしはただ、雪中を猛然と走り去る二人の背中を眺めていただけだ。

 このままじゃ何も分からないし、納得できない。

 翌日、包介くんの住居を突き止めたわたしは彼の隣に住むことを決めた。

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