浸す 微分積分 ゾンビ


 その部屋には、粘度のある液体に満たされた水槽が、四つ並んでいた。うち三つは空だが、入り口から最も離れた場所にある水槽にだけ、成人男性ほどの大きさをした白いものが浮かんでいる。


「あれが"繭"だ」


 彼はそれを指さして、どこか自慢げに言った。おぞましさにうっすらと吐き気を覚える。だが、エリオは彼に怪しまれないよう、あたかも感嘆しているかのように「あれが」と復唱した。


「まだ、あの液体に浸していないと形は崩れてしまうのだが、端末を通して意思疎通はできる」

「本当ですか。今はどの程度の知能なんですか?」

「十六歳程度の知能がある。生活などの広範な知識に加えて、一般的な学校教育のカリキュラムに沿った教育を施しているんだが、今は微分積分について教えているところだ。中々理解には手間取っているが、勉強熱心だから基本的に覚えは早い。今も数学の夢を見ているんじゃあないかな。くくく……」

「すごいですね」

「繭と話してみるかい?」

「いいんですか?」

「この環境だから機会がなかったが、本来であれば、様々な人間と話す方が発達が早いんだ」


 彼は足元に散らばった機材や書類の束を無造作に踏みながら、繭の浮かぶ水槽のそばに寄った。机にあった端末を手にして、何かを入力するような仕草を取る。

 水槽が明るくなり、繭に細く、細く、亀裂が走った。

 まるで花が開くように、繭は優雅に開いた。中にあった――「いた」のは、小学生くらいの少女のような「形」をした、もの。ただし、全ての部位に一切の色彩がなく、その上に手や足などの末端は飴のようにとろけて、外殻と融合している。

 これが繭。

 またの名を、屍の女王。


「おはよう、繭。ご機嫌はいかがかな」

「おはよう、カトリ。機嫌は悪いわ」


 端末から歌のように可憐な声が聞こえ出す。同時に繭が、顔のように作られた部分を、不平を伝えるかのように歪ませた。


「どうしてだい」

「とても嫌な夢を見た。たくさんの数字と数学記号が降り注いで、この水槽をいっぱいに満たしてしまう夢」

「くくく。素晴らしい夢じゃないか」

「あなたが見せたのでしょう。やめてよね、不公平だわ。私があなたの立場になれたなら、一晩中、雷が鳴る夢を見せてやったのに」

「悪かったよ。君のためだったんだが」


 少女の瞳がこちらを見た。


「で、そちらはどなた?」


 その無関心そうな色に、胸のうちで憎しみが燃え上がる。

 家族、友人、同胞、隣人、その他顔も知らない数多の人々を、死してなお動き、生者を喰らうもの――俗に言う「ゾンビ」にし、その上にそれらの動きを操って兵隊のように扱う、屍の女王のうちの一体。それが、これだ。まだ女王に成る前だとしても、憎しみは止まない。

 だが、生者の勝利のためには、これを味方につけなければならない。

 せいいっぱいの笑顔を作った。


「エリオと申します。研究者です。研究に行き詰まって悩んでいたところ、カトリさんに声をかけていただき、その縁でお邪魔させていただきました」

「そうなの」

「しばらく研究所に滞在する予定だ。あまり困らせないようにね」

「分かったわ。大丈夫。あなたに比べてこの人、つまらなさそうだから」


 笑顔はすぐにぺしゃんこになった。

 思わずにらみつけたが、女王は澄まし顔。まるで堪えた雰囲気はない。


「くくく。仲良くするんだよ」


 するものか、と忌々しく、エリオは唇を噛んだ。

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