からっ風 母親 トランプ
生まれた時からこの街に住んでいる。結婚して、実家は出てしまったけれど、住んでいる地区はほとんど変わらない。母親にねだって本を買ってもらっていた本屋さん、誕生日ケーキを買うお菓子屋さん、通った小学校に中学校、私と同じように今もこの街に住んでいる同級生、子どもの頃からと容貌が変わらないように思えるお婆さん、春になると毎年賑やかに色づく桜並木。全てが馴染み深い。
噂話も。
どこの街にだってあるだろう。例えば、お化け屋敷と呼ばれる廃屋だとか、奇抜な服装をした変わり者だとか? そういう、いわゆる、都市伝説と呼ばれるような話。侮りと、ほんの少しの恐怖を以て語られるお話。
地元とは関わりのない人も人間関係にまじるようになった高校生の頃から、自分自身が語ったり聞いたりすることはなくなってしまった。そのまま、忘れたという自覚すらなく、忘れてしまっていたが――子どもが、小学校に上がった。
学校からの帰り道、子どもの口から「トランプ男」の名が出てきて、自分がその話に酷く親しんでいたことを、思い出した。
「寒い時に出てきてねぇ、遊ぼって言うんだって。トランプの赤と黒、選んだ方を引けたら勝ち。勝ったらお菓子くれるけど、負けたら"さわられ"ちゃうんだって」
「……そう。おっかないねえ。そういう人が出たら、お話せずに、すぐに逃げるんだよ」
確か私が子どもの頃は、「さらわれ」だったはずだが、と内心で苦笑いしながら応えた。恐らく、聞き間違えたか、滑舌が悪いかだろう。
それに、選んだトランプの色によって、結末は違ったと思う。赤で負けたら血まみれ、黒で負けたらさらわれではなかったったか。
あえて訂正するようなことでもないと思って、言わなかった。
「それに、そもそも怖い人に会わないように、からっ風が吹く頃は、暗くなる前におうちに帰りましょうね」
「えー……。怖くない」
「お母さんは怖いなー。タクちゃんのお迎えに行った時に会ったりしたら嫌だもん」
「弱虫!」
「そうだねえ。お母さん弱虫だから、早く帰ってね」
子どもは「仕方ないなあ」といたく不服そうながら言ってくれた。
なるほど、この手の話は、ただ子どもたちの間で盛り上がるためだけにあるのではない。親が子どもを説得するための作り話だったのだな、と。十年以上を経て、私は馴染み深い話の効用を知った。
その夜、子どもが寝てから、私は何気なく夫に話した。夫もまた、この街ではないけれど、近隣の出身だ。
すると、夫は「会ったことあるよ」と言った。
「そう言えば。俺、それ、会ったことあったな。小学校の頃。明らかにヤバい奴だったからすぐに逃げたけど、結構問題になってさあ――でも、捕まったって話も、結局聞かなかったなあ」
私は言葉なく、子どもがいる寝室の方を見た。
穏やかで、よく馴染んだ、いつもの夜だ。
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