平成 シャッターチャンス 期待

 入り口の正面にある壁には、「平成」と筆字で大きく書かれたポスターが貼られていた。そのポスターの横には、順路を示すやじるしマーク。

 私はやじるしに従って、右に折れる。

 すると、いきなりモノクロの写真が出てきて、少し呆気に取られた。「平成」にはもう、写真はとっくに多色刷になっていたはずだ。立体映像の先駆けも作られていたはず。被写体は、宙災によって消滅した街のようだから、撮影されたのがずいぶんと前であることは確かだが。

 平成時代にあえてモノクロに加工して撮影したものが残っていた、ということなのか。ただ、「平成」と題を打った展覧会の最初に持ってくるのは適切なのか。写真の周囲には解説板などもない。

 首をひねるような心地ながらも、足を進める。

 次にあったのは、「平成」にはあったはずもない――仮に試作機等が存在したのだとしても、これ程に鮮明に撮影できるものではなかっただろう、微来時写真だった。

 一応、性能の悪い微来時写真機で撮影したような雰囲気はある。未来の予測がやや不安定だったように被写体になった少年の姿が多重になっていて、その上に、その姿を印時紙に固定し切れてもいない。最高のシャッターチャンスを選んで撮影するどころか、未来予測すらも危うい。知識のない者が見れば、なるほど、「平成」の微来時写真は出来が悪かったのだなあ、と納得するかも知れない。

 だが、これも恐らく加工だ。

 何なんだこの展覧会は、と二枚目にして、失望で気持ちが底につく。三枚目は瑕疵のない、「平成」という主題に添った写真だったが、秀でたものではなかった。

 ありふれた一街地の、恐らくは愛好家が細々と行っているような写真展に、何となくでも、期待をした方が間違いだったのかも知れないが。

 最後まで見ていくと悪くない写真もあったが、根本的には覆せないまま、会場を出た。

 「平成」は確かに、はるか昔だ。現代の視点から見れば技術的にも未熟だった。後に起こった多くの災害によって記録は散逸、「平成」という時代区分を設けていた共同体もほぼ消滅した。現在では私のような混血の子孫がわずかに残るのみ。愛好家たちであっても、実態から離れた認識をしているのは、仕方のないことかも知れない。

 納得しようとしても、胸のしこりは消えない。

 空を仰ぐ。何もない青空が広がっている。時代が変わっても空は変わらないとある人が言っていたが、あれだけ歪んだ歴史認識を持つ私たちが、空だけ、正しく覚えていることなどできるのだろうか。

 もうこの空も、気づかないうちに、「平成」の空とは、全く別物になっているのではないか。

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