マジックテープ 悪酔い 深淵を覗く

 めちゃくちゃ美人で有名な先輩が、マジックテープでくっついている財布を使っていた。


「マジックテープなんすね、先輩」

「あ、ダセーって思った? ダセーって思ったな?」

「思ってないす」


 思った。今日び、小学生でも使わないんじゃないですかね、マジックテープの財布って。いや逆に、財布のデザインに頓着のねえおっちゃんとかは、今でも使ってんのかな。

 マジックテープの財布の是非はともかくとしても、少なくとも先輩の見た目には、その財布は似合っていなかった。先輩の中身を知らない人間に「あの人の財布マジックテープだよ」って言っても信じてくれないんじゃないかってくらい、似合ってなかった。先輩の見た目からイメージされるのは、たぶん例えば、金色の留め具がついた黒い革財布とか、小銭が数枚しか入らないような白いちっさい財布とか。そういうおしゃれな奴だろう。

 ただ、俺にとっては、意外ではなかった。悲しいことに。大学のサークルで活動する間、俺は先輩をたくさん見て来たから。ああ懐かしき、俺が一年生、先輩が三年生だったあの頃。あれから一年。俺と同じく先輩の見た目に惹かれて入会した奴らが、先輩の中身に幻滅して退会していく間も、俺はずっと先輩を見ていた。見た目だけはいいんだよ、と思いながら。


「う、そ、だ、ね。クソダセーほんとありえな、もっと財布に金かけろよ、服のセンスも悪ぃしよ、って顔してた」

「思ってないす。いいから会計してくださいよ。店員さん待ってるじゃないですか」

「やっぱ奢るの止ーめた。こんくらい自分で払えよ」

「ここに来て!? 先輩の奢りだって聞いたんで、今日財布持って来てないす」

「あぁ!? そこは「やっぱり悪いんで払いますって」「いーのよいーのよ。年長者が払うもんなんだから。財布しまえって」「すみませんゴチです!」ってくだりがあるのを見越して、持って来ておくもんでしょうが。そんなんだから単位落とすんだよ」

「単位は出席足りなかったせいです」

「店員さ~ん、この財布から抜いておいてください……あなたの求める分だけ……」

「マジで困ってますから。払うんで、そのクソダセー財布、こっち渡してください」


 神様に贔屓されて創られていそうな見た目も、この酔態ではさすがに役に立たず、店員さんはへべれけな美人にドン引き気味の苦笑いを浮かべた。

 会計を済ませて店を出た途端、先輩は俺の肩に腕を回した。


「ぉ……っえ……は、やば。地面に魚泳いでる」

「たぶんそれ落ちてる空き缶っすね」

「吐き……吐き……」

「一回店戻ってトイレ借ります?」

「なめんなよぉ。せっかくいただいた命、トイレになんか流してたまるかって……」

「先輩に食われた時点で、最終トイレに流されるのは決まってるんすよ」


 一旦、どこかで休憩した方が良さそうだ。ただ、もうそろそろ店はどこも、店じまいの気配を漂わせている。先輩の家に行く途中に公園があった気がする。

 肩に回った腕を持ち直しながら歩き出す。


「悪酔いっすね」

「私が悪いんじゃない……全部社会が悪いんだ……。この酔いは正義……」

「先輩の体には間違いなく悪っすよ」


 就活に、失敗し続けているらしい。

 能力は高いはずだが、美人さが裏目に出ているのか何なのか。まさかこの態度で面接を受けている訳でもなし。

 面接官でもないし、ちょっと俺には分かりかねるけど。


「雇えよ……少子化じゃねえのかよ。人材不足じゃねえのかよ。何、嘘? 嘘か?」

「何でしょーねー。ほんっと世の中見る目ないすねー」


 最初の方こそ真面目に理由を考えていたけど、十回目くらいから、適当に流している。


「逆にあれすね、こんだけ顔いいのに落ち続けてるの、面白いすね」

「見た目で人を語るんじゃねえよ。ルッキズム野郎が」

「そっすねーマジすんません」

「ナスみてぇな間抜けな面しやがって」

「見た目で人を語るんじゃねえすよ。ルッキズム女が」

「ほんとごめん」


 シラフなら五分の道を、ぐだぐだ言いながら歩くこと数十分。公園に着いた。

 先輩を地面に置いて、水道の蛇口をひねる。


「先輩、水です」

「深淵が見える」

「そっすね。深淵っちゃあ深淵です」


 先輩が見ているのは、水道の下にある排水溝。昼間ならギリギリ網の隙間から水面が見えるかも知れないが、今は街灯くらいしか明かりがないから、闇しか見えない。文字通りの深い淵。深淵。

 だばだばと無為に流れる水を、指でぴゃっと先輩に飛ばす。


「深淵覗いてないで、水飲んでください。吐いてもいいけど」

「やだよ、こんなところの水。錆入ってない? この蛇口って小学生男子とかがベロベロなめた奴じゃない?」

「仮にそうだとして、だめなんすか。先輩、地面に落ちた物とか平気で食うじゃないすか」

「さすがに地面に落ちた物は食わんよ君ィ。海バーベキューの時の肉は、だから、ギリギリ空中で受け止めたんだって」

「食った後「うわ砂やば」って言ってたじゃないですか」

「げ、げ、げげげの幻聴~!」

「替え歌にもなってねぇすね」


 手のひらで受け止めた水を、頭からかけた。

 実は俺もまあまあ酔っている。


「や~め~ろ~!」

「うわ、びしょびしょじゃないですか。誰がやったんですか。ほんっと酔いどれてると危ないっすね~。世の中、何があるか分かんないわ。くわばらくわばら」

「てっめぇ……」

「早く家まで帰りましょう、先輩。そんな格好で歩いてたら危ないすからね。顔だけはいいんだから」

「……」

「マジックテープつけたり剥がしたりする音で威嚇すんの、ダサいを通り越した何かです。天才?」


 投げつけられた財布を保護して、水をぐびぐびと飲む先輩を待つ。

 俺が雇えたらいいんすけどね。

 そんな甲斐性まだなくて。すみません。

 二年後、頑張るんで。その時まだ空いてたら、よろしくお願いします。

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