脱脂綿 少林寺 定置網

 少林拳を始めませんか、と一番上に書かれたチラシが、ポストに入っていた。こういうチラシを作り慣れていなさそうな雰囲気をしばらく味わってから、何となく捨てずに、それを持ったまま室内に上がった。

 母さんはまだ帰っていないみたいだ。

 カバンとチラシを置いて、棚の上にある救急箱を手に取った。

 脱脂綿に消毒液をぶっかけて、頬や膝、すり傷のある場所を叩くように拭く。沁みて痛い。けれど、不思議と声を上げたり、騒いだりする気にはなれない。絆創膏を張って、血のついた脱脂綿をぐちゃっとまとめてゴミ箱に捨てて、終わり。

 引っ越し前には、帰ったらすぐにスマホでゲームを始めていたんだけど、この家は回線が弱くてイライラするので、最近はあんまりやっていない。テレビもチャンネル数が少なくて、見るものがない。

 チラシをもう一度見る。

 チラシには、少林拳についての説明が書かれている。少林寺、というところで始まったらしい。少林寺ってどこだろう、と画面が割れたスマホで調べると、中国と出て来た。画像検索をしても、空手とか柔道みたいな服を着た人か、中国を舞台にしたっぽい映画の画像しか出て来なかったので、「少林寺」「景色」で調べた。人なんて誰も住んでいなさそうな山や絶壁が出て来た。

 山。こことは真逆だ。

 立ち上がって、窓を開けた。潮の臭いのする風が入って来る。

 海も見える。遠くにぷかぷかとナスカの地上絵みたいな形で浮いているのは、定置網をしかけた目印らしい。

 今年の夏休みは山に行きたいな、と思う。今まではずっと海派だったけど、もう飽きてしまった。きらきら光る波は目に痛いし、潮風はベタつくし、波の音はひっきりなしでうるさい。それに「もし突き落とされでもしたら」と考えると、近づくのも怖い。

 風で、手に持っていたチラシが折れた。

 窓枠に寄りかかり、両手でチラシを広げながら、下まで見ていく。料金は裏に書かれていた。前なら料金なんて気にせずに、母さんにやりたいとねだっていただろうけど、今はちょっとためらう。でも、まだこの金額がうちの家計にとってどのくらいの負担になるかまでは、よく分からない。この金額を見た母さんは、どんな顔をするのだろう。大丈夫と言ってくれるのか、「あら……」と困ったような顔をするのか。

 夏休みの旅行も、言ったらもしかして、母さんを困らせるんだろうか。

 窓を閉めて、チラシを机に置いて、チラシにある写真の真似をして、片手を前に突き出してみる。自分でも、細い腕だなぁと思った。馬鹿にされなくても、自分で分かる。普段から父親の手伝いをしているらしい腕と比べたら、枝みたいだ。

 出した手を腰の横に引っ込めるのと同時に、もう片方の手を前に突き出した。

 空気を殴る、殴る、殴る、記憶を殴る。

 手応えはない。全く。

 そう言えば、わざわざ習い事なんてしなくても、動画サイトに解説が乗ってるんじゃないかと思いついて、動画サイトを開いた。ネットが遅い。何度も再読み込みをかけたら、ようやく再生された。今度は解説を聞きながら、交互に手を突き出してみる。腕だけを前に出すんじゃなくて、腰をひねる。

 ほんの少し、風を切る速度が早くなったような気がする。

 でも、これじゃあまだ足りない。枝がぴしぴしと当たる程度だろう。大木に勝つには、もっと力や工夫がいる。

 うりゃ、と空中に向けて蹴りをしたら、爪先を棚の端っこにぶつけた。めちゃくちゃ痛くて、座り込んで手のひらでさすった。誰も見てはいないけど、恥ずかしくて、惨めだった。転ばされた時よりも苦しいかも知れない。

 スマホからは、自動再生された別の動画の音声が聞こえる。ため息をつきながら、自信に溢れていそうな声を中断させた。

 床に寝っ転がって、天井を見る。天井は木でできていて、人の顔みたいに見える模様がある。夜中になると少し怖くなるから、紙とか布で隠せないかなと思うけど、さすがに母さんには言えていない。

 外から足音が聞こえた。母さんかなと思って体を起こすけれど、ドアの開く音は、隣から聞こえた。くぐもった足音の後、かすかに鼻歌が聞こえた。鼻歌でも聞こえちゃうんだな、と少し驚いた。これからは気をつけよう、と思う。

 部屋の窮屈さが増した気がした。

 海が広い、と感動した引っ越し初日に、ぼんやりと思いを馳せる。あの時は何もかも新鮮で、これから何が起こるんだろうと、楽しみにしていた。

 傷がずきずきと痛む。

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