乱心 米俵 ゴルゴンゾーラ
「夫が乱心したと聞いたのは、イタリアに旅行に行っている時のことでした。東京にいる夫の友人から連絡が来たのです。一刻も早く帰って、様子を見てほしい、と」
馬込由美子はアルバムの表紙をめくるように、ゆっくりとまばたきをした。
「ですが、その旅行で私は、夫以外の男性を愛するようになっておりました。あちらのレストランで修行をしている日本人です」
あけすけな告白に、探偵は内心でたじろぐ。だが、顔には出さないようにして、淡々とうなずいて見せた。大人しそうな女子高生が援助交際をしていたり、誰からも真面目と評される男性がアブノーマルな欲望をその手の店で満たしていたり、といった事情を知るのは、この仕事では珍しくはない。おっとりとした雰囲気の主婦が浮気をしているなど、むしろよくあることだ。こちらから詳しく聞く前に言う、というのは、少し珍しいようにも思うが。
「夫のところへ帰りたいという気持ちはあまりありませんでしたし、乱心している、となればなおさらです。最近はインターネットでテレビ通話のようなものもできますから、それで何とかできないか、と聞いたのですが、夫の友人は、とにかく早く帰って来てほしい、の一点張りでした。まあ、彼にも仕事がありますから、夫にばかりかかずらっている訳にもいかなかったのでしょうね」
夫の友人である大鳥ハジメには、明後日、話を聞きに行く予定になっている。妻の目から見た彼の人物像にも興味があったが、まずは馬込由美子の話を聞くのが先だ。彼女が東京にある自宅に帰り、一週間後、買い物から帰った後で馬込ウシオの遺体を見つけるまでに、何があったのか。
「それで私は仕方なく、予定よりも早く日本に帰ることになりました。彼はまたイタリアに来てくれるように、と、私にチーズやオリーブオイルをお土産で持たせてくれました。……ふふ……あぁ、すみません。そのチーズというのが……探偵さんは、ゴルゴンゾーラチーズというチーズをご存知ですか? 世界三大ブルーチーズと呼ばれているチーズです。そう、えぇ、ブルーチーズ。有名ですけれど、お土産としては、中々、何と言うか……」
「愛した人に贈るにしては奇抜ですね」
また一枚、馬込由美子は心の中にあるアルバムをめくったようだ。そのページにはきっと、イタリアの太陽が照らす、鮮やかな場面を切り取った写真が貼られているのだろう。声も表情も、明るく輝く。
「そう言えば彼、今度もしイタリアに来るなら、お米が食べたいから持ってきてほしい、と言っていましたね。米俵になるくらいの量を、納豆や梅干し、色々なおかずで食べたい気分だ、と。えぇ、量に関しては冗談でしょうが。お米が食べたいという気持ちに関しては、本当に、心から言っているように見えました。彼は同じ日本人ですが、夫や私とは全く違って、冗談をよく言う方なんです。お国柄かと思ったら、元々、そういう気質だったようで。ご自身でも、あちらの国の方が水が合う、と仰って」
話が新しくできたばかりの恋人にそれる気配を感じて、探偵は強引に話を元に戻した。
「実際、旦那さんの様子はどうだったんですか? 乱心、とは穏やかではないですが」
「あぁ……。それが、乱心なんて言われるような様子、見当たらなかったんです。いつも通り、朝になったら会社に行って、夜に帰ってきて。時計の秒針みたいに、きっちり同じ時間で動いて。ただ、今は大丈夫だけれど、私が見ていないところでは大変だったのかしら……などと考えて。私も確証が持てなくて、とりあえず、様子を見てみることにしたんです。そうしたら……ああいうことに」
彼女は視線を、別の部屋へ続く扉へと向けた。
今は閉じられていて内部は見えない。だが、恐らくはあの扉の向こう側が、馬込ウシオの部屋――馬込ウシオの遺体があった場所なのだろう。
「元々、繊細なところのある人でしたから」
話をまとめるように、声の調子が落ちた。目を戻すと、馬込由美子は涼しい顔をしている。夫の死について話しているのに、まるで悲しそうな素振りを見せない。
依頼人に聞いていた通り、とことん、夫婦仲は冷め切っていたようだ。
「あの光景を目にしても、意外には思いませんでした。ついに、と思ったんだったかしら。人生に楽しみがあるのかも分からない人でしたから。夫の友人が言っていた、乱心とやらが関係あるかは知りませんが……仕事か何かで、失敗でもなさったのでしょう」
警察は馬込ウシオは「自殺」だと判断した。動機は不明だったが、状況的にそうとしか考えられなかったためだ。馬込由美子も同じように考えているらしい。
だが、依頼人である上月千代女――馬込ウシオの浮気相手は、他殺だと考えている。それも行きずりの人間による犯行ではなく、身近な人間による、計画的な殺人だと。
「犯人」の最有力候補である馬込由美子は、品の良い愛想笑いを浮かべた。
「私が夫の遺体を見つけた経緯は、こんなところです。それで、探偵さん。他にご質問はありますか?」
探偵は足の上で組んでいた手を、軽く開いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます