ベランダ プロモーション 肺
内見の時点では、ずいぶんと景色が灰色だと思った。だが、引っ越して来てしばらくしてから、内見が曇りの日に行われたがために、そんな印象を持ってしまったのだと気がついた。よく見れば、ベランダからの景色は、結構カラフルだった。コンビニやドラッグストアの屋根、看板などが点在していて、道には小さく人の姿も見える。
手を動かしながら、見るともなしにその風景を眺めていると、突然、背後で音楽が流れ出した。
「うるさいよ、凛月。イヤホンで聞いて」
「お母さんお母さん、このプロモーションビデオ見た?」
隣に娘が現れる。その手にはスマートフォン。「今、お母さん、洗濯物干してるんだけど。手伝おうとか思わないの?」と軽く小言を言いつつ、画面を覗き込む。
よく言えば鮮やかな――悪く言えばドギツい色彩。ベランダから見える、平凡で平和な景色に似つかわしくない、アンダーグラウンドの色。
「なぁに、これ」
「知らないの? グラビティ」
「グラビティ……? 重力?」
「バンドだよ、バンド。一週間前くらいにこの動画がアップされて、今もう皆聞いてるの。音楽もヤバいけど、このプロモーションビデオもかっこよくてさー。最初から見て!」
「はいはい。見るから、音量下げて。お隣さんに迷惑でしょう」
洗濯物を干す手を止めて、一度部屋に入る。ソファに隣り合って座ると、娘は再生マークを押した。
先程チラ見した画面とは違い、始まりは灰色だった。顔も見えないくらい薄暗くて分かりにくいけれど、バンドメンバーは五人。バンドにはあまり詳しくないので、ボーカルとドラム、くらいしか分からない。全員、二十代くらいの男性だ。
ボーカルが息を吸う。
入りは、声だけだった。周囲にある楽器は息を潜めていた。
先程見た色彩から、無意識に品のない声を想像していたけれど、意外にも賛美歌でも歌っていそうな、美しい声だった。ただ、外国語なのか何なのか、歌詞を聞き取ることができない。聞き取ろうとしているうちに、ドラムが叩かれ出して、灰色の画面に緑色が増えた。
続いて低い音のギターが鳴らされ、赤色が増える。緑色と赤色が混じり合って、茶色めいた色が生まれる。さらにギターがもう一つ増えて同時に青色も現れ、最後にピアノ……キーボードというのだったか、それと共に黄色が増えた。
混じり合って、色彩はさらに増えていく。
シークバーが終わりに近くなったところで、先程画面に映っていた、極彩色になった。
「面白いね」
「でしょう!」
早くから動画自体の趣向は読めたが、音楽に力があって、最後まで飽きることはなかった。結局歌の歌詞は聞き取れなかったが、あれは恐らく、歌詞などではないのだろう。声を楽器の一つとして扱っているように聞こえた。
「今度、CDが出るらしいんだけどさぁ、通常版と特典付きがあって……特典付きが欲しいんだけど、でも、ちょっと高いんだよねー……」
それが聞かせたがった狙いか、と肩をすくめる。
「だーめ。お小遣いは毎月あげているでしょう。貯めて、自分で買いなさい」
「えー! 本当に人気だからさ、絶対売り切れちゃうんだって。貯金なんかしてたら間に合わない! 前借りでいいからさぁ!」
「前借りしたら、今月もう足りないってずーっとグチグチ言うでしょう。うるさいからいーや」
「言わないって! 今回は!」
「だめだめ。いっつも口先ばっかりなんだから……。信用がありません」
ため息をついて、ソファから立ち上がる。娘のお願いをはねのけたところで、洗濯物の山が待っているだけ。私だってご褒美の一つも欲しい。
極彩色の後に見るベランダからの風景は、いつもより灰色が多く見えた。
救急車の音や、車のクラクションが遠くから聞こえても、音に合わせて色は増えない。
手を動かしながらもぼんやりと眺めていると、お隣から、カラカラと窓の開く音がした。間には蹴破り戸があって、姿は見えないけれど、ふーっと長いため息が聞こえる。もしかしてうるさかっただろうか。部屋ではまだ、娘があの音楽を流している。
「凛月、いい加減、イヤホンつけて」
お隣さんにも聞こえるように、声をかけた。
「……いいスよ」
すると、隣からぼそりと声がした。
さすがに無視もどうかと思って、ベランダの柵に近寄り、隣を見る。その人はベランダの柵の上に腕を組んでいた。顔より先に、胸元に肺のイラストがプリントされた、個性的なシャツに目がいく。
何故だかそのシャツを、どこかで見たことがあるような気がした。もちろんお隣さんなのだから、何度か挨拶くらいはしたことがあって、その時に着ていたのだろうけれど――どこかもっと違う場所で。
ともかく、頭を下げる。
「すみません、うるさくて」
「いえいえ……。どうも」
のっそりと男性も頭を下げる。ぼそぼそとした喋り方をする人だ。
あまり会話を好むようにも見えなかったので、それきり会話を終えて、洗濯物を干し、ベランダへ続くドアを閉めた。洗濯物を干し終わる前に、娘はイヤホンをつけていた。
後ろから、スマートフォンの画面を覗き込む。飽きずにまだ、あのバンドのプロモーションビデオを見ている。
あらためて見ると、そのボーカルのシャツには、肺のイラストがプリントされていた。
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