脱出ゲーム スイミングプール 身分証明書

 プールにピーッと、甲高い笛の音が響き渡った。

 話をしていた男女や、物珍しそうに周囲を見回していた男、太さが気になる様子で二の腕を触っていた女も皆、その音で、笛を持たない方の手を上げている、黒いスイミングゴーグルをかけた男を見た。

 男は笛を離すと、足元のかごからマイクを取り出して、電源を入れた。


「皆様、本日は土屋大学ゲーム同好会主催、『スイミングプールからの脱出』にご参加いただきありがとうございます! 私、ゲーム同好会部長の三浦と申します。本日は司会を担当させていただきます。どうぞよろしくお願いいたします」

「緊張してる?」

「うるさい。えぇと……すみません! はい! それではルール説明をしていきたいと思います」


 参加者の輪の中から賑やかしの声を飛ばしているのは、三浦の知り合いだろうか。あまり知名度もなく、参加者には身内が多いイベントである、という前評判からどことなく想像はしていたが、よく言えばアットホーム、悪く言えば馴れ合いの雰囲気が強かった。

 偶然誘われただけの田中にとっては、やや居心地が悪い。


「まず、あなた方は、このスイミングプールで毎週土曜に行われている、水泳教室の生徒です」


 おや、と田中は首をかしげる。周囲にいる人々を、自分の通っている水泳教室で、見た覚えがなかったからだ。

 だが、説明を聞いていけば、それが自分の思い違いだということが分かった。

 どうやらこのイベントには、「設定」があるらしい。

 まるで演劇のように。

 参加者は「水泳教室の生徒」、スタッフは「水泳教室の教師」という役。三浦を始めとしたスタッフや参加者は、役者のように「設定」の中で振る舞う(どうやら参加者は演技まではしなくてよいようだが)。そして舞台は、いつも田中が通っているこのスイミングプール。

 参加者はその設定の中で、出されたクイズなどへ解答したり、隠されたヒントを見つけて、ゲームのクリアを目指す。

 三浦がスタートを宣言した。参加者たちは、心得た様子であちこち散らばっていった。自分以外の人間には、今の説明で、何かが分かったらしい。

 どことなくイベントの主旨は理解したものの、さすがに田中は、いきなり動き出すことはできない。

 開始地点で立ち尽くしていると、横合いから声がかかった。


「田中さん、来てくれたんですね!」

「あぁ、うん……」

「ありがとうございます。やっぱり、知り合いがいると心強いですね。もし良ければ、ご一緒してもいいですか?」


 妻や知人などに無愛想と評されることの多い田中だが、水道橋は気にした様子なく、人懐こい笑みを向けて来る。

 この「脱出ゲーム」に来ることになったきっかけは、水道橋だった。同じ水泳教室に通っていたのだが、身分証明書を拾ってもらった縁で少し話すようになり、先日ふと、このイベントのポスターをもらったのである。

 普段の田中なら、こんな若者向けらしいイベントに来ることはないのだが、この笑みに引き込まれるように、来てしまった。

 いや、笑みだけが理由ではない。

 彼と向き合っていると田中は、息子のことを思い出す。

 もっとも、実の息子は、こんな風ににこやかに話しかけてくることはない。

 息子は今も、家できっと背中を丸めて、ピカピカと光る画面に目をこらしていることだろう。

 そう、「ゲーム」をしている。

 息子と近い年の青年と、息子のしている「ゲーム」。

 そういった、共通点のような、そうでもないような、何となくの繋がりと偶然が、田中をここに連れて来た。


「こちらこそ、よろしく頼むよ。まるで勝手が分からないんだ」

「もちろん。と言っても、僕もそんなに脱出ゲームに参加した経験はないんですけど。一緒に協力していきましょう。最初は、監視台に行けばいいみたいですよ」


 何となく恥ずかしいような気分になりながらも、田中は水道橋と連れ立って、プールサイドを歩いていく。

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