オーケストラ アドバイス ハサミ

 控室に戻って来た時、目の前に広がった光景を見て、ヒロミは雪を思い出した。

 床や団員の荷物の上に積もった、細かな白。


「ヒロミ、どうした――な、何だよっこれ!」


 背後から肩に置かれた手に力がこもった。尋常ならざる声を聞いて、控室の鍵が開くまで廊下で待っていた他の団員たちも「どうしたの?」「何かトラブル?」と口々に言いながらやって来た。

 ヒロミは人の流れに背を押されて、控室に入る。

 だが、上手く足に力が入らず、そのまま床に座り込んでしまった。

 その拍子に、控室にばら撒かれた大量の紙は、ヒロミから逃げるように広がった。


「何よ、これ! いたずら?」

「これ、この紙、楽譜じゃない?」

「あ、本当だ楽譜!」


 ヒロミは呆然としながらも、その言葉で、近くにあった紙を見た。確かに紙には、楽譜が印刷されていた。しかも、どこか見覚えがある。切れ端であるため咄嗟にはピンと来ないが、見かけた音符の連なりを頭の中で鳴らしていくと、よく知っている音になる。


「この楽譜、私のだわ! 見てここ、これ私の字! 先輩にいただいたアドバイス!」


 今日、このオーケストラで演奏する予定の楽曲である。


「荷物が漁られたってことか?」


 異常な光景にほとんどの人間が呆気に取られて言葉をなくしていたが、現実的な危険性が指摘された途端、控室周辺はにわかに騒がしくなった。


「おい、全員荷物確認しろ! 他の控室の奴らもだ! それと会場の責任者に連絡!」

「え、今日のコンサートどうするの?」

「それも含めて相談する」

「どうして……。鍵、かかってたんじゃないの」


 そう、そのはずだ、とヒロミは内心で呟いた。

 会場の確認をしにいくという話になって、全員が控室を出た後に「私」は確かに、鍵をかけた。

 そして鍵は肌身はなさずに、持っていたはずだ。ついさっき、会場の確認から戻って、扉を開けるまで。


「ほ、他の控室は、どうなってるんですか!」


 ヒロミはどこかすがるような気持ちで、誰にともなく問いかけた。このオーケストラの団員は約八十名。今回借りた控室は3部屋。

 他の控室も同じような状態であれば……という願いは、あっさりと空振った。


「他はひとまず、特に異常はないらしい。こんなことになってるのは、この部屋だけみたいだ」

「な、何で、ここだけが」

「それは……分からん」


 答えてくれた団員の表情を見て、ヒロミは自分が余計な質問をしたことを悟った。

 何人かが「鍵はお前が持っていたんだろう?」という目を向けて来ている。


「し……知らない、私、鍵はずっと持ってました!」

「大丈夫、分かってるよ、ヒロミ。ヒロミがこんないたずらする意味もないし」


 友人はそう言ってくれるが、八十名もいる団員全員が、そう思ってくれるとは限らない。

 表面上では大きないさかいは起こっていないが、水面下では、様々な思いが渦巻いている。オーケストラの運営において役職も任されているヒロミには、揉め事の心当たりはいくつも思い浮かぶ。

 それにしたって、普段の練習ではなく、コンサートのある日にしなくてもいいのに。


「なぁ、机の上にあるこのハサミ、控室出る前からあったか?」


 何気なく目を向けたヒロミは、そのハサミを見てハッとした。


「覚えてないけど……ハサミなんか使わないし、この状況で見ると、何か不自然に思えるね」

「おい。それ、「凶器」だとしたら、あんまり触らない方がいいんじゃねえ? 指紋とか残ってるかも」

「凶器って……。こんな大量の紙、ハサミで切るのは効率悪すぎるだろ」

「関係あるとしてもないとしても、この状況だし、持ち主は探しておいた方がいいんじゃない? 誰か見覚えある人いる?」


 ヒロミは手を上げられなかった。見覚えはある。使われているところを見たことがある。だが、使っていた人間をこの場で言えば、間違いなく空気が「おかしくなる」。


「それ、たぶん俺のだわ」


 ヒロミの心配をよそに、ひょいと一人が手を上げた。

 途端、ハサミに注目していた団員たちの顔はこわばった。

 ヒロミの幼なじみであり、オーケストラの指揮者であるタクトは、大して重大なことを言ったとは思っていなさそうな顔でたたずんでいた。

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