グラス 断腸の思い 魚

「ステキ、ね。そと、って」


 まだ、たどたどしくしか喋れなかった頃の彼女の声が、今も耳から離れない。


 今日も、窓辺のグラスの中には、一尾の魚が泳いでいる。

 骨まで透けた体。本来肛門があるはずの部分には、小さな機械。

 光をエネルギーとする、魚型のロボットだ。


「本当に……申し訳なく、思っているの」


 小さな声に、振り向かずに笑った。


「いいんだよ」

「先生のお嫁さんになるって言ったのに、嘘になってしまった」

「そういうのは、嘘とは言わないんだ。気にしなくていい。君だけでなく……女の子は、小さい時には、そう言うものなんだ。けれど、反抗期……親に反発する時期が来て、父親を嫌うようになり、本当に添い遂げたいと思う人を、外に探しに出る。全員ではないけれど、少なくない子が、そういう道を辿る。何の罪にもならない、普通のことだよ」

「でも、それは、人間の話でしょう?」

「君は人間だよ、今はもう」


 もうその姿を見ることすら辛くなっていたが、目を少女に向ける。

 水のように青い目。魚のヒレのようなものが生えた腕。頬に薄く浮かび上がるウロコ。

 かつては、あのロボットとともにグラスの中で泳げる程に、小さな体だった。

 生まれついて「人間」であった生物と、多少の差異はあれど、少なくとも自分は、今はもう「人間」としか捉えられない。


「学者や一部の人間の間では、君たちをどう捉えるかという論争がまだ続いているが。実際に共に君たちと生きている私たちは、君を、人間として見ている」

「……」

「所詮、動物や人間といった分類は、君たちをまだ知らなかった頃の人間が作った、古い分類だ。ずっとそのままで、使い続けられるはずがない。だから、分類なんて言うのは、その時生きている人間が、自分たちの都合で変えていいんだ。そして私は、今に生きる人間だ。だから、私が君たちは……君は人間だと言えば、君は人間になれる」

「分からないわ、先生。難しい」

「ごめんよ。簡単に言えば……」


 少女が人間になる過程で、幾度となく繰り返してきたやり取り。

 それも、今日で最後なのかもしれない。


「君は水槽の中から出て、幸せになるべきだと、私は思う。だから君は人間だ」

「水槽はもう嫌」

「そうだろう」

「幸せは……難しい」

「彼と一緒にいると、楽しい気持ちがわいてくるんだろう。彼のお嫁さんになりたい、と思うんだろう。それが、幸せということだ」

「べき、というのは、義務とも言うのだったわね?」

「そうだ。よく覚えていた」

「私には幸せになる義務があるのね。だから、私は幸せでいるために、あの人と、一緒にいるべきなのね」

「彼といることが、君の幸せである限りは」

「でも……」


 再び、窓辺に置いたグラスに、体を向ける。


「何だか、そう、断腸の思い、という感じで。あの人のお嫁さんになるのは嬉しいけれど、先生と離れると思うと、体が引き裂かれるように痛いの。これは、幸せではないのではないかしら」


 背後に、思いのこもった声を聞きながら、命を持たない魚のヒレが、ひらめくのを見る。

 これは感情を持たない。だが、もし感情を持つようなことがあったら、かつての友人の旅立ちを、惜しむのだろうか。


「先生、分からないわ」


 それに答えられるものは、誰もいない。

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