雑巾 スポットライト 行進曲
蛇口をひねり、雑巾を水に浸す。古い学校であるため、温水を出すことが出来ない。この学校に入ってから三度目の十二月にはなるが、三年経っても、早く作り変えろ、としか思わない。卒業しても、この冷たさを懐かしむことなどないだろう。舌打ちしながら、雑巾を絞る。
音楽室に戻ると、部活の後輩たちは、掃除もせずに、机を囲んで何かきゃいきゃいと騒いでいた。
「おい、こら、掃除」
声をかけるが、何も本気で怒っている訳ではない。先輩としての、一応の体面だ。そしてそういう性格であることを、後輩たちも知っている。
「あ、水橋先輩、見てくださいよこれ。昔の卒業生のアルバムみたいなんですけど、結構古い写真もあって」
「私の姉とかいるから、少なくとも八年以上前とかじゃないかなー」
「お姉さんと結構年離れてるんだ」
「そうなの」
どれ、と素っ気ない態度を保ちながらも、アルバムをのぞき込んだ。どうやら先生たちが作るような正式なアルバムではなく、吹奏楽部のOBたちが歴代、勝手に作って残したもののようだ。大体、一ページに一枚集合写真、その周囲に名前とコメントの書かれた紙がぺたぺたと貼られている。コメントは「また遊ぼうね」「楽しかった!」「最高の部活!」など、他愛のないものばかり。
この吹奏楽部は、強豪とは言えない。一応、野球部の応援など頼まれたらやるが、大会で賞を取るなど目標を目指して、頑張ろうという空気はない。賞を取るよりも、和気あいあいとやれたらいい、という部活だ。アルバムに貼られたコメントを見る限り、それはどうやら昔から変わらないようだった。
ページをめくるに連れて、少しずつ心が冷めていく。
知らない人、知らない名前。ただ、楽しそうなだけの写真。
賞状やトロフィーはないから、自分たちで残すしかない。
いや、そんな思いもなかっただろう。今が楽しければそれでいい、という顔をしている。
そろそろ掃除を再開しなければと思いながら、また一枚アルバムをめくった時。
異質な写真が現れた。
「お、何かかっこいいー」
体育館のステージの上で、ソロでトランペットを吹く姿。体育館は暗く、その人にスポットライトが当たっている。
ふと記憶がよみがえる。
繋いだ母親の手。高らかな行進曲。体育館中に満ちる拍手。
写真にうつった姿を指でなぞる。意味はないと思いながら、ぼんやりと口にした。
「この人、有名な人だよ。プロになった人」
「え、お宝じゃないですか!」
「お宝ではないと思うけど」
この人の演奏を聞いて、楽器を始めた。この人を見た記憶があったから、この学校を選んだ。この人がいたと聞いたから、この吹奏楽部に入部した。
そんなことをしたって、手応えのない日々しか待っていないのに。
「誰が撮ったんだろう、こんな写真」
集合写真ばかりの中に、たった一人で立つ写真を入れるという行為。決まって入っていたコメントの紙も入れずに。前後の写真も見てみるが、その人の姿は、この一枚にしか収められていなかった。行為だけ取ると、いじめらしくも感じるが、写真の中の姿は凛々しく、少しも憐れみや嘲笑を伝えて来ない。
誰か、自分の他にも、あの人の姿に憧れた人間がいたのかも知れない。
延々と続く、ぬるま湯のような部活の思い出を、ぶった切るように、写真を貼って。
湧き上がる思いに蓋をするように、アルバムを閉じた。
「さあ、そろそろ掃除」
散っていく後輩たちを見ながら、冷たい指先を手の中に握り込む。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます