第21話 苦行の中の幸福
「もうヤダ! やってられるか! 無理無理無理無理ィ!?」
「あー、また現実逃避を始めちゃったんですかぁ? 篠浦さんはしかたない人ですねぇ♪」
あまりの苦行に課題から目を背けて地団駄を踏み始めた俺の精神を、どこか楽し気なミュトスが『強引に』癒していく。
現実からの逃避は、ある意味心の防衛行動だ。問題から目を逸らすことによって、それ以上の被害を受けずに済む。
しかしミュトスはそれを許さない。この雲とミュトスと辞典しかない空間で、もう何年こうして本を読み続けているだろう?
眠くならない、空腹にもならない、風呂に入る必要すらなく、排泄の必要もない。そんな空間で数えきれないほどの時間、ひたすらに本を読む。
それはいかなる苦行よりも苦しく、つらい特訓だ。
それでもミュトスは、むしろそんな俺の世話を楽し気にこなしていた。
「ハッ!? 俺はいったい――」
「また意識が飛んでいたんですよ。ちゃんと直しましたから、安心してください」
「なおすの発音、おかしくなかった?」
「気のせいです。ほら、続きを読んで」
「いや、この本はほぼ読み終わったから」
気が付けば辞典を最後のページまで読み終えていた。その内容も、ページ数も、脳内にきちんとストックされている。
「本当ですか? ではテストしましょう」
おそらくミュトスは、俺の言葉を疑ったわけではないだろう。
それでも試験をすると言ったのは、俺自身のためだ。
読み終えた、覚えたと言っても、それが本当に身についているかと問われれば、やはり自信が無い。
そこで試験をすることで、俺が得た知識をしっかりと必要な時に引き出せることを確認させて、自信を付けさせようとしているのだと思う。
その配慮は、正直に言うと非常にありがたい。
「深海王ガープの急所はどこでしょう?」
「確か股間から三十センチほど上の背中寄りの場所に魔石を生成する器官がある。それと身体の中央、喉の下辺りに心臓。最後に頭だね」
「むぅ、正解。こんなマイナーな敵まで把握してるなんて、合格を与えるしかないじゃないですか」
「ならこれで、魔物知識は完了ってことだな!」
「不本意ながら、認めざるを得ませんね」
「なんで不本意なんだよ?」
叫んでは見たが、彼女の気持ちも分からないでもない。
俺はここで何度も心が壊れるほどのつらい経験をした。しかし彼女は俺よりも遥かに長い年月、ここに居続けていたのだ。
彼女が俺との別れを惜しむ気持ちは、少なくとも理解できる。
だからと言って、ここでずっと彼女と一緒にいるわけにはいかない。
「グラントとセラスが待っているんだ、いくら時間が進まないと言っても、早く帰らないと」
「むー、分かりました。では次は、心肺蘇生法の特訓をしましょう」
「一応知識はあるんだけどな。それとなんで今回は呼ぶのが遅れたんだ? いつもなら沼トカゲの戦いが始まった段階で呼ばれていたと思うんだが」
「あー、それはその、こちらで少し問題が発生していまして。それで少し干渉するのが遅れたんです」
「問題って?」
「その、あまり一般の方には喋れない問題でして」
「ああ、神様の問題ってことか」
「そうなんです」
時間経過の存在しないこの空間で、なんとなく納得できない気もしないでもないが、ミュトスならその辺で不誠実な真似はしないと思う。
「そ、それにですね……次は心肺蘇生法の特訓なわけですよ」
「うん」
「篠浦さん、理論は知っていますよね?」
「まぁ、一応授業で習った範囲だけ」
「じゃあ、次は実践を訓練してもらうわけなのですけど……」
胸の前で指先をくりくり動かす仕草は、どこか子供っぽい。いや、実際子供のような姿ではあるが。
と、そこで俺はようやく言葉の意味を理解する。
「実践?」
「そうですよ?」
「心肺蘇生法の?」
「ええ」
「
「まぁ、その、はい」
消え入りそうな声で、ミュトスは認めた。
この場には訓練用の人形もなく、他に溺れた人もいない。
なのに実践を行うということは、被験者としてミュトスが行うということになるのでは……?
「ミュトスが?」
「お嫌でしたら別途人形を用意しますが」
「いや、いい! ミュトスでいい! いや、ミュトス『が』いい!」
「そう力説されると、私も困ってしまいますけど」
そう言うとミュトスはその場に身体を横たえた。
「まずは心臓マッサージから始めましょうか」
「それって……」
「私も覚悟を決めました。ドンとこいです」
「いや、そこで開き直られても」
「オー、イエス、アイムカミング!」
「その発言は危ないからヤメロ?」
友人からこっそり見せてもらったアヤシイ映像のようなことをのたまうミュトスだが、その顔はもう真っ赤になっている。
心臓マッサージということはやはり、胸に近い場所を強く推す必要がある。
それはやはり、際どい所に触れるというわけで。
「うわ……」
俺はミュトスの胸の中央付近に手を置いただけで、変な声が出た。
指先が胸の方に伸びていて、その感触がダイレクトに伝わってくる。
彼女の来ている服は非常に薄い素材でできているらしく、体温すら感じられるほど肌の感触を感じられた。
ぎゅっと目を閉じて歯を食いしばっているミュトスの顔を見ると、何か悪いことをしている気分になってきた。
「あの、今からでも人形に変えても……」
「ヤれ」
「はい」
なぜか恫喝気味に告げてくるミュトスに、俺は反射的に服従してしまった。
胸の感触は極力頭の隅に押しやって、腕を垂直に立てて彼女の胸を強く押す。
本来なら健常者にやってはいけない行為なのだが、ミュトスは神様だから問題ないのだろう。
一秒弱に一度のペースで彼女の胸を押すと、ミュトスも大きく息を吐きだし、反応する。
リズムよくそれを繰り返すと、紅潮している顔も相まって、危ないことをしている気分になってきた。
そんな精神的苦行、肉体的至福も十数秒で終え、次は問題の人工呼吸になった。
「気道を確保して……そう、首の後ろに腕を差し入れて支えてください」
「こう、か?」
「ええ。でそれから私の口から息を吹き込んで……」
「本当にいいんだな?」
「遠慮なくどうぞ」
「うぅ……」
ミュトスは顔を真っ赤にして目をぎゅっと閉じている。
幼げな表情もあって、非常に犯罪チックな状況である。
だが今回だけは役得と割り切って、彼女に唇を重ねてく。
ふわりとした感触、花のような香り。
一瞬それだけで俺の魂は昇天しそうになった。
彼女の身体は、思春期の少年にとって非常に危険な存在だ。
それでも、これも訓練と割り切り、二度大きく息を吹き込んで唇を離す。
「少し吹き込む量が少ないですね。もっと大きく吹き込むようにしてください」
「あ、ああ」
「ではもう一度最初から」
互いに顔を赤くしながら、俺たちは特訓を続けた。
正直言って、今までで一番つらい特訓だったかもしれない。
幸せ過ぎて逆につらいという感覚を、初めて味わってしまった。
それからどうにか合格点を貰い、ようやく俺は元の世界に戻れるようになった。
「それでは、今の感覚を忘れないように」
「ああ……その、今回は協力してくれてありがとう」
「お礼を言われるようなことでは。そういう契約でしたし」
「契約、だけなんだ?」
「いえ、私もうれし……いや、なんでも!」
ミュトスはごまかすように首を振り、有無を言わさず俺を送り出す。
もっとも俺も、照れまくる彼女にどういった言葉を掛ければいいか、思いつかなかったので都合がいい。
だが今回だけは、言葉がなくとももう少し一緒にいたいと思ってしまっていた。
さすがは女神の魅力というところか。
「……あ」
そこで俺は致命的なことを思い出した。
ここから戻ったら、グラント相手に心肺蘇生を行わねばならないということに。
「せめてこの感触、一晩は堪能したかったなぁ」
だが命の恩人である彼を見捨てるという選択肢は、俺には存在しない。
グラントを助ける、その覚悟を決めるため、俺はゆっくりと目を閉じた。
その前に沼トカゲの始末も行わなければならない。
しかしこれは、今の俺ならば余裕で対処できるだろう。
ここで学んだ生物知識。その知識は多岐に渡り、沼トカゲの弱点も脳裏に叩き込んである。
その結果、急所攻撃と言うスキルまで取得するに至っていた。これは生物の構造を把握していく過程で取得したスキルだ。
生物の構造を知るということは、急所を把握しているということでもある。
あとは俺が急所を突ければ、沼トカゲを倒すことができる。
手に持っているのはナイフ一本。それでも生物知識と急所攻撃のスキルが、これで充分と教えてくれる。
あとはその知識通りに、そのポイントを攻撃できるかどうかだ。
「一応、いきなりいろんなスキルを覚えるのは負担が大きいと思うので、今回は生物知識と急所攻撃、それと応急処置のスキルだけ訓練しました」
「ああ、助かるよ」
「もし沼トカゲにかなわないようでしたら、また召喚して今度は剣術とか訓練しますので、気楽に頑張ってくださいね」
「生物知識だけでもこれだけ大変だったのに、これ以上は勘弁してもらいたいなぁ」
「なら、絶対負けないでくださいよ。わたしは一人でも平気ですが、人の身でこの空間に何年もいるのはさすがにキツいでしょう?」
キツいなんてものじゃないのは、身をもって、何度も何度も経験している。
そのたびにミュトスに直してもらったのだから、そこは感謝せねばなるまい。
「それではお送りします。ご武運を」
「うん、行ってくる」
そう言って、転送に備えて目を閉じた俺の頬に、柔らかい感触が触れた。
手ではなく、もっと柔らかな感触に、それが彼女の唇だと思い出す。
「戦士には女神の加護が付き物でしょう? がんばってくださいね」
驚いて目を開こうとした俺の視界は、ぐにゃりと歪んで崩れていく。
転送時の光景を目の当たりにして、頭痛に苛まれ、頭を押さえた俺の目の前に、沼トカゲの巨体が存在していた。
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