第6話 イノシシの次はクマ(人類)

 岩に挟まって息絶えた大猪の死骸を見て、俺は呆然と立ち尽くしていた。

 予想ではここから、猪と更なる追いかけっこか死闘を覚悟していたので、とんでもなく拍子抜けだ。

 どれくらいの時間、そうしていたのかは分からないが、俺は肌寒さで正気を取り戻した。


「あ、それより早く水と火を何とかしないと」


 このままでは凍死……はしないかもしれないが、風邪を引く可能性はかなり大きい。

 といっても、火を熾す方法は全く分からないので、どうにか体温を逃がさないようにしないと。

 そう考えると、目の前の大猪の毛皮は凄く暖かそうに見えた。


「そういや、どっかの寒冷地では狩ったアザラシの中に潜り込んで暖を取ったとかいう話があったっけ」


 それが真実かどうかは分からないが、生物の体温が残る死骸というのは、寒い地域にとっては貴重な熱源になるらしい。

 少しでも熱エネルギーを活用しようという、たくましさが感じられる逸話である。

 野営時においては地面からの冷えというモノが天敵となる。

 地面からの冷えを遮断し、自分の体温を逃さず、狩った獲物の体温すら活用する。

 そういう面において、非常に効率的な逸話だった。


「といっても、さすがにこの猪の腹に潜り込むのは嫌だな……皮を切る刃物も無いし」


 しかしこれを活用しない手は無いだろう。

 俺はおそらく、この程度では死なない。それは凍死しかけた場合、あの女神ミュトスが喜んで俺を訓練の世界に転送するだろうから。

 そして凍死から逃れるための訓練を、俺に施すだろう。


 寒さを耐え抜き、生き延びる訓練。

 それを想像するだけで、俺は背筋が凍る思いがした。

 多分、骨まで凍るような吹雪の中に放り出されるとか、そんな感じの訓練になると想像できたからだ。


『チッ』


 そこで俺の脳裏に、愛らしい声の舌打ちが聞こえてきた……気がする。

 ひょっとするとミュトスは、いそいそと俺の転送準備をしていたのかもしれない。


「そうはさせるか。まずは寒さ対策と獣対策。この大猪の上にでも寝かせてもらおう」


 別の獣が襲い掛かってくる可能性も考えたが、この大猪ほどの威容なら、近隣の獣も寄ってこない可能性がある。

 そして大猪の上ならまだ暖かいし、岩に挟まった状況のため、地面からの冷えが遮断できる。

 そう考えて俺は大猪の上によじ登り、その毛皮の上に体を横たえた。

 意外と柔らかい毛並みが身体を覆い、まだ暖かい体温が寒さを遠ざけてくれる。


「ふぁ……」


 本来獣の毛というのは、用途によって手触りが違う。

 猪の場合、その体高の低さからゴワゴワとした剛毛の事が多い。

 この大猪も例に漏れず、背中側の毛はかなり硬く、手触りが悪かった。

 しかし腹側の毛は違う。たいていの動物の場合、こちら側の毛は柔らかく、保温性に優れている。

 大猪は崖から飛び降り、背中から割れた岩にぶつかったため、腹を上にしたような形で岩に挟まっていた。

 地面から離れた位置にあり、動物の毛皮特有の柔らかな感触。そして今だ暖かい体温。

 それらに包まれた影響か、俺は即座に眠りに誘われていた。


「そういや、寝不足のまま登校したから、駅で寝込んじゃったんだよな……」


 家庭用ゲーム機にラノベ、ソシャゲ、友達付き合いと、学生は意外と忙しい。

 俺も例外ではなく、前日は夕方まで友人と遊び、ソシャゲの日課をこなし、話題のゲームを進め、寝る前に本を読んでいたら睡眠時間が無くなっていた。

 受験という修羅の季節がまだまだ先の、高校入学したてという時期だからこそできる荒行である。

 その睡眠不足が、命の危険が迫っていても目を覚まさなかった理由でもあった。


 朝に死亡し、転生したこの世界ではもう夜。

 体内時間的にはそれほど経っていないはずなのに、大猪に追い掛け回されるという経験と、ミュトスの訓練のおかげでもう何年も眠っていない気がする。

 それを自覚した時、俺は抗いようのない睡魔に襲われ、そのまま眠りに落ちてしまっていたのだった。




 ゆらゆらと、身体が揺れる感覚がする。

 それはどうやら、俺の肩を押さえて揺さぶる誰かの手に拠るものらしかった。

 そこで俺は、自分が大猪に追いかけられ、その死骸をベッド代わりに使って眠りについたことを思い出す。


「おい、起きろ! 兄ちゃん、生きてっか?」


 俺を揺さぶる手の動きはだんだん乱暴になっていき、やがて痛いほどに肩を掴まれることになる。

 そこで俺はようやく目を覚まし、ゆっくりと目を開けた。


「うぁ、熊!? クマー!!」

「開口一番それかよ、失礼な奴だな。まぁ、生きているようでよかったよ」


 俺の目の前には蓬髪ヒゲ面で筋骨逞しい、むさくるしさ満点のおっさんの顔があった。

 着ている服も毛皮の上着と麻の上下という、野性味溢れるコーディネートだ。腰の後ろに挿している手斧の存在も、野性味を引き立てている。

 この顔が朝一番い目に飛び込んで来たら、熊と叫んでも仕方ないだろう。


「兄ちゃん、身体は無事か? よく生きてたな」

「え?」

「このサベージボアはこの森でも主と呼ばれてるバケモンだ、崖から落ちて自滅したんだろうが、運がよかったな」

「ああ……」


 どうやらこのおっさんは、大猪――サベージボアが先に崖から落ちて死に、その後で俺が落ちたと思ったらしい。

 まさか先に俺が落ちて岩をかち割った後に、サベージボアが落ちたとは思わないだろう。


「あの、あなたは? ああ、俺は篠浦高遠といいます」

「シノーラ・コーエン? 女みたいな……いや、悪い。俺はグラント・モーリスってんだ。この近くで猟師をやってる」

「いや篠浦……まぁいいですけど」


 どうも俺の名前を西洋風に聞き違えたらしい。だが、それがこちらの普通なら、それに合わせた方が無難だろう。


「そうですね、運がよかったです」

「その強運に感謝しな。ところでこのサベージボアだが、どうするんだ?」

「どうするって?」

「このままじゃ運べないだろう? 解体するにしてもこの大きさじゃ手間がかかる」

「え、収納魔法があるのでは?」

「さすがにこの大きさはちょっと厳しいなぁ」


 そう言えばミュトスが、収納量は人によって違うという風なことを言っていた気がする。


「ちょっと試してみます」

「ああ?」


 サベージボアの大きさは三メートル以上四メートル未満。体高は二メートルほど。

 一般市民の収納能力は一メートル四方程度とミュトスは言っていた。

 俺のインベントリーの収納量がそれより大きければ、この大猪を持ち歩くことも可能なはずだ。


「ええっと、こうすればいいのかな?」


 サベージボアに触れて収納するように念じると、俺の手のひらに吸い込まれるように消えていった。

 更に視界に半透明のウィンドウが現れ、そこにサベージボアの死骸が収納されていることが表示されていた。


「あ、どうやらできたみたいです」

「マジかよ。すげぇ容量だな」

「そうなんですか?」

「専門の魔術士なら、それくらいは行けるんだけどな。普通ならせいぜい一メートルから二メートル四方しか収納できねぇよ」

「へぇ……」


 どうやらこれを収納するのは、かなりの能力が必要になるらしい。

 そういう点では、ミュトスがかなり奮発してくれたのかもしれない。同時に取り出せるかどうかも不安になってくる。

 そこで、人目の少ない今のうちに試しておこうと考えた。

 目の前のグラントのことは、まぁ、口止めしておこう。


「えっと、こう、かな?」

「なにやってんだ?」

「上手く取り出せるかどうか、実験しておこうかと」

「収納魔法なんざ、子供の頃から使ってるだろ?」

「こ、ここまで大きな獲物を収納したのは、初めてなもので」

「そういや、そういうこともあるかな?」


 体高二メートル、全長四メートルと言えば、ちょっとした小部屋くらいの大きさでもある。

 そこまで大きな物体を収納するというのは、こちらの世界でもあまり経験することはないだろう。

 俺はサベージボアを取り出そうとして、ふと思い立った。

 この巨獣、わざわざ全部取り出さなくとも、小刻みに取り出すことはできないか? と。


「思い立ったら吉日、ってね」

「あ? なにする――」


 グラントの言葉を待たず、俺はサベージボアの毛皮だけを指定して取り出すよう念じてみる。

 すると、目の前にはサベージボアの毛皮だけが、まるで中身だけが抜け落ちたような状態で現れた。


「うおっ!?」

「うげぇ、これは少しグロいかも……」


 目の前に現れたのは、皮下脂肪すら綺麗に除去された、上質な毛皮。

 ちらりとインベントリーを確認すると、さっきまでサベージボアと記載されていた項目が、サベージボア(毛皮無し)となっている。

 それと汚物という項目も増えていた。これはおそらく、毛皮についていた汚れなどがまとめられた項目だろう。


「おい、シノーラ。こいつぁ……」

「ど、どうも僕の覚えている収納魔法は、少し一般的と違うみたいで……その、『選択的取り出し』が可能みたいで」

「はー、なら解体要らずってわけか! そいつぁ便利だ」


 ミュトスぅ、なんだこのインベントリーの機能は! 大雑把にもほどがあるぞ!?

 内心、俺はあまりにも便利過ぎる機能を付けてくれた女神に、感謝と同時に困惑の感情をぶつけていた。

 しかし目の前のグラントはそれに頓着しなかったのか、驚くだけであまり追求してこなかったのがありがたい。


「あの、あまりに特殊なんで、黙っていてくれるとありがたいんですけど」

「ああ、そうだな。これが知られたら専門の連中の商売が上がったりだからな」

「そうですね、お願いできます?」

「任せとけ、誰にも言わねぇよ。それと、その調子なら村までは行けそうだな。どうだ、歩けるか? 無理なら担いでやるが?」

「ええ、怪我はしてないみたいです」


 岩を割った時に額を少し切ったが、これも寝ているうちに治ったようだ。

 グラントが村まで案内してくれるというのなら、これほどありがたい話はない。

 なにはともあれ、人里に辿り着かないことには始まらないのだから。

 俺はそんなことを考えながら、インベントリーに毛皮を収納する。インベントリー内では毛皮はサベージボアに融合することはなく、ちゃんと個別に収納されていたようで、安心したのだった。

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