第4話 異世界第一生命体と遭遇

 月に向かってひとしきり吼えてみたが、もちろんこの場にいない女神には届いていないだろう。

 いや、届いているかもしれないが、あの女神ならあっさりと聞き流しそうだ。

 こちらが苦しむ姿を見て発情するなど、例え外見が美少女とはいえ、ドン引きしてしまう。


「と、ともかく、なにかしないと……」


 森の中ではいつ獣に襲われるかもしれないし、隙間が多く生地の薄い学生服では虫や蛇に噛まれる可能性もあった。

 何よりこの薄寒い気温では、凍死の心配も出てくる。

 この地域は幸いそれほど寒い地域では無さそうだが、それでも湿気の多い森の中では体温を確実に奪われれていく。

 サバイバルの基本は、水、食料、衣服と火の確保だと聞いたことがある。


「と言っても、火のおこし方とか体温の守り方なんて、普通の学生が知るはずもないし」


 なんにせよ、その場に立ち尽くしていても、状況は好転しない。

 どうにか人里に辿り着くか、安全に暖を取れる環境を整える必要がある。


「って言っても、どっちに行ったらいいんだよぉ」


 森の中だとどっちに向かっていいかさっぱり分からない。それどころか、まず人里がどこにあるかも俺には不明だ。

 ともかく、枝を集めて火を熾すか、水場を見つけて水を確保しないと。

 そう判断し、がさがさと繁みをを掻き分け、道なき道を突き進む。


「ん?」


 すると、しばらく進んだところで、自分以外の草の音を聞きつけた。


「お、ひょっとして誰か……」


 自分以外に森の中にいるのかと、淡い期待を抱いてそちらに方向転換すると、正面から毛むくじゃらな顔がにゅっと突き出してきた。

 それはどう見ても人の範疇にない骨格を持ち、明らかに人間ではないシルエットを持っていた。

 つまり獣である。さらに言うなら猪である。ただし巨大な。


「ぴ? ぴゃあああああああああ!?」


 しかもサイズが普通ではない。普通の猪は全長が一メートルそこそこ。体高もせいぜい大人の膝の少し上辺りまで。

 大きなサイズでも腰まであるかどうかだろう。

 しかしこの猪は直立している俺と同じ目線の高さを持っていた。

 つまり普通の倍から三倍近い大きさである。体積で言うならその三乗になるか。


「ブモォォォォォォォ!」


 驚いた俺の叫びが逆に猪を興奮させたのか、明らかに威嚇のために頭を下げて後ろ足を蹴立てている。

 次に来るのは、考えるまでもなく突進だ。

 そして俺の貧弱な身体では、これまた考えるまでもなく大怪我をしてしまうだろう。下手をすれば即死だ。


「さ、三十六計……逃げるにしかず!」


 くるりとその場を振り返り、全力で来た道を駆け戻る。

 正直、獣に出会った時は後退りながら、ゆっくりと距離を取るのが正解だと聞いたことがある。

 しかし突撃体勢を取っている相手に、ゆっくり離れる余裕はない。


 全力で逃げる俺を、案の定追いかけてくる猪。

 森の中を四足歩行の獣から逃げ切るのは、至難の業だ。だが人間にも優れたところはある。

 それは左右への機動性。それを活かして木々を回り込むようにして逃走し、できるだけ距離を稼ぐ。


 どれくらい走り続けただろう。限界を超えた疾走に息が乱れ、喘ぐように先に進む。

 それもわずかの時間でしかなく、やがて酸欠によって視界がぐらぐらと揺れ始めた。

 それでも足を止めることはできない。大猪は未だに俺の背後から迫ってきている。


「ハァッ、ハァッ、まだ、追ってくるのか!?」


 定まらない視界で背後を窺い、その存在を確認する。

 それが悪かったのだろう。足元の確認がおろそかになり、俺は足を踏み外してしまった。

 どうやら、いつの間にか川べりの崖の近くまで来ていたらしい。


 高さはせいぜい五メートルかそこら。気を付けて降りれば普通に降りれる程度の高さ。

 しかし足を滑らせ、バランスを崩した状態だと、非常に危険な高さだ。

 そして俺も、危険な落ち方をしていた。

 バランスを崩し身体が反転し、頭から川べりの岩場に落下していく。

 宙に浮いた状況では身体をひねるくらいしかできない。しかしその程度では致命傷を避けることはできないだろう。

 運の悪いことに、頭の真下には二メートルはあろうかという大岩が存在していた。


『あ、死んだ』


 落下する刹那の間、俺はそう確信し、諦めた。

 異世界に転生してわずか一時間かそこらだっただろう。短い第二の生に嘆きつつ……


「あれ?」


 気が付けば、再びミュトスの元に舞い戻っていたのだった。


「おかえりなさい。お早い帰還でしたね」

「嫌味か」


 とはいえ、俺が間抜けだったことには間違いない。

 無造作に森を彷徨ったこと。不審な音の方角へ疑いもなく近付いたこと。大猪を前に、悲鳴を上げたこと。背後を振り返り全力疾走して逆に刺激したこと。足元の確認を怠ったこと。

 どれが悪かったのか分からない。いや、これだけ積み重なったからこそ、こういう結果になったのだろう。

 それを反省するには遅過ぎた。


「ま、今さらか」

「いえいえ、まだこれからですよ? 危機的な状況だったので、あなたの加護『神様トレーニング』を発動させて、ここへ転移させたんです」

「神様トレーニングぅ?」

「はい。略して神トレですね!」


 俺の訝し気な声に、ミュトスは朗らかに返してくる。

 しかしあの状況から、どうやって生き延びろと言うのか?


「いや無理だろ。だって死ぬ直前だったよ」

「そこを何とかするのが、私のコーチとしての腕の見せ所ですね」


 ムン、と腕を曲げて力コブを誇示しようとするミュトス。もちろんそんなものができるほど、彼女に筋肉はなかった。

 でもその仕草だけは、見てて癒されるほどに可愛らしい。


「でも、あそこからどうやって助かるんだ? 飛行魔法とかあるの?」

「違います。魔法にも準備とかありますから、あそこから起動するのは間に合いません」

「じゃあ、どうやって?」

「要は落下した際に、岩に顔面がぶち当たるのが問題なんですよ」

「分かった、受け身だ」

「ハズレです。岩で顔面を強打しても死なないくらい頑丈になってください」

「ハ?」

「頑丈になってください」

「いや聞こえてるから! なんだその、ごり押し理論は!?」


 確かに岩の直撃にも耐えれるくらい頑丈なら、死にはしないだろう。

 だがどうやって、そんな真似ができるようになるというのか?


「頑強のスキルがあれば耐えられるようになります。まずはそのスキルの取得を目指して頑張りましょー」

「いや気楽に言ってくれるけど……」

「頑強のスキルは一定以上の強打を受け続けることにより、習得できるスキルです。なので今からあなたを思いっきり岩で殴ります」

「ファッ!?」


 今何か不穏なことを口にしなかったか、この駄女神!


「そうですね、岩と衝突しても無事なことが絶対条件ですので、岩をぶつけて耐えられるようになれば、完了ということにしましょう」

「いや、何言ってるの! そんなの人間にできることじゃないだろ!」

「あ、大丈夫ですよ。すでに毒耐性の時に理解したと思いますけど、この空間にいる限り死にはしませんし、現実世界での時間も経過しません」

「生き地獄って言うんだよ、それ!」

「あ、逃げることはできませんよ? 契約書にも習得までは逃亡不可と書いてましたし」

「確認してねぇ!」


 頭を抱えて仰け反る俺。そんな俺を見て、ミュトスは晴れやかな笑顔を浮かべている。

 その笑顔がとても楽しそうに見えるのは、俺の気のせいじゃないよな?

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