第11話 恩人

 名前を呼び止められて振り返るユピの視界に入ってきたのはアカデミアの制服を着た黒髪の少女。その少女はユピと同じくアカデミアの制服を身に纏っているが、ユピとは異なりエンブレムがしっかりと入っている。


 そして少女は振り向いたユピに向かって深々と頭を下げた。


「この間はありがとうございました」


 街中でいきなり頭を下げられたユピはわずかに戸惑いを見せるが、少女は周囲の人など気にする様子はない。それほどまで少女はユピに感謝していた。


 ユピと同じく少女に見覚えがあったレギナは歩みを戻してユピの隣に立つと頭を下げている少女に尋ねる。


「君は確か入学試験の」

「はい、ミューズ・ムサです。あの時は危ないところを助けていただきありがとうございました」


 そういってもう一度頭を下げるミューズは試験の際に試験官であるエルモンドによって痛めつけられたヤポニアの生徒であり、ユピの介入によって命を救われた。つまりミューズにとってユピは命の恩人という訳だ。


 命の恩人を前にして頭を深々と下げることを厭わないミューズを周囲にいた者たちは気にするように視線を送る。幸い立ち止まって見つめるような者はいないが、ユピたちは明らかに目立っていた。


 そこでユピがミューズに頭を上げるように促す。


「わかったから頭を上げてくれ」

「い、いえ。これくらいじゃ感謝してもしきれないです」


 人に感謝されることがなかったユピはどうしていいのかと戸惑いを見せるが、そこで意外にもレギナが助け舟を出す。


「ここでは人の注目を待つめる。場所を変えようではないか」






 レギナの一言で一同は近くに会った喫茶店へ移動する。落ち着いた雰囲気に包まれた喫茶店は外観から高級感が溢れ出ており、普通の学生が入るには躊躇するような作りになっている。


 アカデミアの一般的な生徒であるミューズも周囲の様子を伺いながら落ち着かない様子なのに対して、彼女の正面に座るレギナは慣れた様子でティーカップに口をつけている。ちなみにユピは隣のテーブルでアイスコーヒーを飲んでいた。


 落ち着かない様子のミューズにレギナは優しい声音で話しかける。


「そんなに警戒しなくても大丈夫だとも。ここに来る人間はあの教官のような下劣な人間ではない」

「は、はい……」


 下劣の人間というのが試験官を務めていたエルモンドのことを指していることはミューズにもすぐにわかった。しかしミューズが落ち着かないのは差別を恐れてではなく、単に慣れない雰囲気の店の困惑していたからだ。


 ミューズに気を使うようにレギナは優しく問いかけた。


「身体の方は大丈夫そうね」

「おかげさまで……」

「ならよかった。それとあの教官については一応の抗議はしたけどアカデミア側は特に対策をとるつもりがないらしい。すまないね」

「い、いえ! 命があるだけで私は……」


 自分に向かって謝罪の意を表明するレギナを慌てて制止するミューズの顔は今まで一番焦っていた。アカデミアでこそ互いに新入生という立場である二人だが、ヤポニアに帰れば四大貴族令嬢のレギナと一般家庭のミューズ。


 上流階級であるレギナに頭を下げられてミューズが焦るのは仕方のないことであった。


「それに私が合格できたのもレギナ様たちのおかげですし……」

「それは違うね。君が合格できたのは君の実力だ」

「え?」

「確かに君の合格にはそこの男が関わっているかもしれないが、君の実力はアカデミアの門戸を叩くに値すると私は判断する」


 エルモンドとの戦いでミューズが見せた魔術はお世辞にも優れているとは言い難い。しかし一般的な新入生の基準に当てはめてみれば、その実力は十分合格に値するとレギナは考えていた。


 むしろ合格の基準で言えばユピの方が危うい。


「で、でも私が合格出来てユピ様が候補生なのはおかしいです! だってユピ様はあの教官に勝ったんですよね?」


 ミューズの瞳がユピに向かう。


「ユピだ」

「え?」

「俺はそいつの護衛であって貴族じゃない。お前に様を付けられるような人間じゃない」

「ですがユピ様は私の命の恩人です」

「ならば尚更やめてくれ。俺が手を出したのはお前のためではなく、俺のためだ。感謝される筋合いはない」


 ミューズの試験に勝手に手を出したのはユピは非難されることはあっても感謝されることはない。結果的にミューズは合格することができたが、一歩間違っていれば妨害行為によって二人とも不合格にされていたかもしれない。


 だからユピは恩着せがましいことは言わないし、レギナもそれ以上のことは口にしない。だがミューズにとってみればユピは恩人であり救世主であった。あのままユピが手を出さなかったら自分は死んでいたと確信しているから。


「でしたらユピさんと呼ばせていただきます」

「勝手にしろ」


 ミューズの強い眼差しを見たユピはこれ以上の説得は無駄だと理化しいて引き下がる。その後も鼎談は続き、入学式の日は無事に過ぎ去るのであった。





 月が闇夜を照らす午前零時。多くの学生たちが寝静まったノイトアールの街中を必死に走り抜ける人影があった。その男は右手で左肘を抑えながら何度も後方を振り向いて確認している。


 男の額には多量の汗が湧き出ており、男は焦った表情を浮かべている。狭い路地裏を走る男からはポタポタと液体が零れ落ちており、それが男の左腕から流れ出る血液だということは月の光が照らす夜中でもすぐに分かった。


 よくよく見れば男の左肘から先はすっぱりと斬り落とされた後であり、男は右手で握りしめることで止血していた。片腕を斬り落とされたというのに男は苦痛にあえぐことなく狭い路地を走る。それは今もなお男の後をつけてくる追ってから逃れるため。


「はぁはぁ」


 息を切らしながらも足を止めない男の正体はエルモンド・エドモンド。この中立都市ノイトアールにあるアカデミアで教官を務めるプロシア人だ。


 四元素論の基本属性のすべてを操ることができるエレメントマスターとして国際的にも評価の高いエルモンドであるが、今の彼は尻尾を巻いて逃げる小動物のようだった。


 何かに駆られるように足を止めないエルモンドの走り去った路地を音もたてずに通り過ぎる黒い外套を纏った人物。背後にその存在を確認したエルモンドは再び魔術を行使して追っ手を撒こうとするが、彼の魔法陣は展開されると同時に砕け散る。


 しかしエルモンドはその光景を見て驚いたりはしない。なぜなら展開した魔法陣が砕ける光景は先ほどから嫌というほど見てきたから。


 どういう訳か闇夜に紛れる黒い外套の男のまでは魔術が発動しない。そのためエレメントマスターとして知られるエルモンドであっても魔術が使えない状態では逃げることしかできなかったのだ。


 いくら逃げようとも着実に後を追ってくる追跡者を前にしてエルモンドの体力が尽きた。


「はぁはぁ……」


 地面に倒れこむと同時に乱れた呼吸を整えようとするエルモンド。そんな彼の前に立ちふさがる黒い外套の男。


 彼の左手には先ほどエルモンドの腕を斬り落とした黒い剣が握られており、その刀身にはエルモンドのものと思われる血液が付着していた。そして男の身を闇に紛らすように雲が月の隠す。


「鬼ごっこはもう終わりか」

「え、エレメントマスターである私を殺せばアカデミアが黙っていないぞ……」

「残念だが、てめぇを殺したところでアカデミアは動かない」

「た、戯言を……」



 毅然とした態度を振舞おうとするエルモンドであるが、その表情は焦りに満ちている。彼は自分の価値をわかっているからこそ、こうして自分に手を出す人間が普通の人間ではないと理解していた。


 けれども彼には、なぜ自分が狙われたのかという理由がわかっていない。それゆえに黒い外套の男に対する打開策を見いだせなかった。


「それに私を殺せば帝国が……皇帝陛下が黙っていないぞ」

「さて、それはどうかな」

「そ、その紋章は……」


 雲に隠れていた月が再び現れると、黒い外套の男の右手に三重で巻かれた細長いネックレスを照らす。そのネックレスに刻まれていた紋章を見てエルモンドの表情が一変した。


「貴様……リコスの人間か……」

「さすがは教官。これだけで気づいたか」

「誰の命令だ! 統括理事会か!?」

「残念、はずれだ。今回の命令はもっと上の人間だ」

「統括理事会より上だと……」


 信じられないという表情を浮かべるエルモンドの脳裏には彼の願望とは裏腹に一人の人物の顔が浮かんでいた。


「まさか……まさか……」


 疑念が確信へと変わっていき、その表情は絶望へと変わっていく。けれどもエルモンドのことを律義に待つほど黒い外套の男は慈悲深くなかった。彼の握る黒い剣が絶望するエルモンドの心臓を貫くと、エルモンドはその場に倒れこんでしまう。


「どうしてですか……皇帝陛下……」


 その言葉を最後にアカデミア教官エルモンド・エドモンドはこの世を去った。

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