第3話 小学校

 リーダー格を締めあげた件で梨花ちゃんは先生に叱られた。保護者が怒って大変だったらしいけれど、大事にすれば娘の常態化した悪事がバレるので強気に出られなかった、というような話を先生から聞かされた。先生の顔は怒っていなかった。

 表向き梨花ちゃんは叱られ、しかし本当の意味では褒められた。もしかすると梨花ちゃんが私を守るのは先生に褒められたいからではないかと私は疑ったけれど、媚びやポイント稼ぎに興味はない様子だった。褒められても顔色を変えなかったからには別の理由があると思われた。

 一度、どうして守ってくれるの?と直截的に訊いてみた。梨花ちゃんは考え込むことなしに簡潔に、ムカつくから、と答えた。その意味を踏み込んで尋ねるほど私は勇敢ではなかった。

 ムカつくから梨花ちゃんは幼稚園で私を守り通した。律儀だった。

 卒園して小学校に進学しても、梨花ちゃんは私から離れなかった。絶えず私と行動を共にした。クラスまで同じだったのは、狙われやすい私への一つの対処法として、幼稚園と小学校で情報共有されていたのかもしれない。

 梨花ちゃんが女子を一人押し倒して暴行したことで、幼稚園でのいじめはぱたりと止んだ。けれど、小学校に上がると、予備知識のない小学校から一緒になった子たちの内の一部が、やはり私のひ弱さを嗅ぎつけてちょっかいを出してきた。梨花ちゃんは彼ら彼女らを徹底的に叩いた。精神的に。時に肉体的に。そうして、乃々ちゃんに手を出すと梨花ちゃんが出てくる、という護衛の構図が誰の目にも明らかとなり、いじめっ子たちは私をどうこうする気を失くした。

 進学に伴い私と梨花ちゃん以外の関係はそれなりに変化した。

 元々梨花ちゃんの友達だった二人は梨花ちゃんから離れた。違うクラスになり、そこでのグループに属したとの態だったけれど、この未来は梨花ちゃんがリーダー格をけちょんけちょんにした瞬間から決まっていたのだと思う。私が恐れたように、二人も梨花ちゃんの暴力を恐れたのだろう。

 代わりに水島有希が友達として加わった。有希ちゃんはおっとりした印象の子だったけれど芯はとても強く、周囲に流されないある種の頑固さが眼鏡の奥で光っていた。情けない私と番犬のような梨花ちゃん、という輪の中にどうして入ろうと思ったの?と成人してから訊いてみたことがある。有希ちゃんは孤立防止等道義的観点を述べるかと思ったけれど違った。梨花ちゃんが面白そうな人だったから、と述べた。私が、私はつまんないよね、とひがむと有希ちゃんは、慌てず騒がず裏のない様子で、別にそういう意味で言ったわけじゃなくて、変に敬遠するより仲良くなりたかったから声掛けたんだよ、と言った。

 有希ちゃんが加入してから、敵から私を守る梨花ちゃん、という構図が、三人で仲良くする小学生、というごく普通の在り方に変わった。梨花ちゃんが暴走しそうな時に有希ちゃんが的確に手綱を引いた結果だった。

 ゴールデントライアングルが完成して以降、私たちはありきたりな小学生の人生を歩んだ。凡庸で、安逸だった。梨花ちゃんの攻撃性も目立たなくなり、それが私を守るためやむなくの行いだったのだと私は了解して、ようやく梨花ちゃんと真の意味で打ち解けられた。二人でよく笑い、三人でよく笑った。

 しかし、北極の氷が音もなく融けやがて崩れるように、私たちの普通の生活も、微かに生じた亀裂が拡大しやがて崩れるのだった。

 小学三年の時、それが始まった。

 運動会で応援合戦があった。『天国と地獄』をBGMにパフォーマンスをするのだけれど、やたら張り切った体育教師が独自の振り付けと衣装を考案した。男子は鬼の角が生えた帽子を被って獄卒を演じ、女子はポンチョを着て天使を演じる、和洋混交の世界だった。

 華奢と可憐を演出するためか、天使はスズランテープを腰に巻き、背中にリボンのような蝶々結びを拵えることになっていた。スズランテープが重力に負ける面もあり、上手に蝶々結びを作るには友達に背中で結んでもらう必要があった。

 本番と同じ衣装を着て通しの練習をすることになった。

 私は有希ちゃんのリボンを結び、有希ちゃんは梨花ちゃんのリボンを結び、そして梨花ちゃんが私のリボンを結ぶ段になった。

 リボンを巻く位置を高くすれば足が長く見え、低くすると幼く可愛らしくなると服飾に敏感な女子が言い始め、上げる派と下げる派に分かれていた。冴えない私は中間派、つまり無個性を選択した。

「ここら辺でいいの?」

 梨花ちゃんが私の胴にスズランテープを巻いてぎゅっと絞った。

「だいたいそこかな」

 私は頷いた。断定しない、煮え切らない返事だったけれど、それが全肯定だと私たちの長い付き合いで梨花ちゃんは了承しているはずだった。

「もうちょっと下げたほうがかわいくない?」

 梨花ちゃんの両手が、私の腰骨を遠慮なく握り込んだ。彼女の指先が、下腹部と称すべきお腹の柔らかな部分に触れた。

 出し抜けにクラクションを鳴らされた時のように私の身は固く動かなくなった。動けなかった。

 自分でも何が起きているのか分からなかった。ただ何かが無性に怖かった。その「何か」の正体が「性の対象にされること」で正解なのか私は未だに分からない。勇雄くんに触れられた時も起きなかった反応。

 体操着とポンチョを通して伝わる手の重みが、氷の上を滑るように滑らかにくびれ始めたばかりの私の胴へと滑り、生々しい圧力でくびれを握り込んでようやく、私は「嫌……」と小さく口にした。

 変な間があった。

「ちょっと、貸して」

 背中越しで見えないけれど、有希ちゃんが梨花ちゃんからスズランテープを奪い取った。

「ちょ、なんで?」

 不服な梨花ちゃんに、「なんか手つきがヤラシイって」と有希ちゃんは笑い、「ここでいい?」と私の胴にスズランテープを縛り付けた。良し悪しなんて分からないまま私は勢いよく三度四度と頷いた。有希ちゃんは手際よく縛り、静電気力も使い大きく膨らんだ蝶々結びを拵えてくれた。

「別にヤラシくないじゃん」

 梨花ちゃんは不満を口にした。普段と変わらない調子で。

 私はどぎまぎしていた。事の輪郭がぼんやりしているがゆえに余計に気になる違和感。有希ちゃんの言葉を借りれば、私の腰を無遠慮に掴んだ梨花ちゃんの手は、ヤラシイ手つきだったのかもしれない。けれど、ヤラシイとヤラシくないの差さえよく分からなかった。

 意識するほうが変なのだ。

 小学三年生の私は、それを無かったことにした。

 応援合戦の練習が始まっても、身体はまるで言うことを聞かなかった。体の動かし方そのものを忘れてしまったように不随だった。梨花ちゃんは、普段と変わらず切れ良く踊っていた。

 それが梨花ちゃんのお触りを意識した初めての出来事だった。意図を疑るなど失礼だと思い、私はそれが持つ意味を無視した。見ないようにした。これはただの普通の触れ合いなのだと自らに言い聞かせた。けれど、変わらない微笑みを私に向ける梨花ちゃんに抱く戸惑いを、不信感を、どうにも否定しきれなかった。

 運動会当日、応援合戦前の衣装の着せ合いでは特別なことは起きなかった。特別取り立てて追及すべき事件もなかった。その何でもなさが話を難しくした。ごく普通のスキンシップを断罪しようにも、気にし過ぎと言われれば返す言葉がない。指摘するほうがおかしい気さえして、結局私は何も言わなかった。

 小学四年生の頃、性教育を受けた。おしべやめしべの意味を教わった。けれど、説かれたのはあくまで男女の話だった。女の子と女の子の話はなかった。その関係はそもそも想定にないのだろうか。家に帰って、私は母に訊いた。

 そういう関係の有る無しを訊いたつもりだった。けれど母は。

「誰かそういう子がいるの?」

 早口だった。

「ううん、違うの。ただ、ただなんとなく訊いてみただけ」

 母は怖い顔で私を見つめたけれど、それ以上は追及しなかった。

 女の子同士の関係は良くないことで、暴かれてはいけない秘部なのだと私は確信した。誰にも相談できないと思った。


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