第2話 幼稚園

 引っ込み思案で押し出しの弱い私は幼稚園で意地悪の標的にされた。私の弱々しさを嗅ぎ取ったいじめっ子たちが自分の威力を確認する道具として、私を理不尽に叩いたり、私物を取り上げたりした。私は無力だった。性格は今でもさほど変わらないつもりだけれど、叩いたり物を奪う人はいない。あれは幼さの為せる業だったのかもしれない。

 幼稚園の先生はその都度きちんと私を助けてくれた。彼女の引っ詰め髪が規範意識を語っていた。弱い者いじめは看過できなかっただろう。

 やめなさい!

 第一声はいつも、やめなさい、だった。それを引き出すのが嬉しくてたまらないいじめっ子も中にはいた。彼ら彼女らの薄ら笑いを見る度、私は先生のやめなさいを恥ずかしい思いで聞いていた。

 どうしてこんなことするの! 御代田さんが嫌がっているでしょう!

 先生、乃々ちゃん別に嫌って言ってないよ。

 いじめっ子たちはたいていそう言い返した。ねー?と私に確認を取ることもあった。首を縦に振るしかない、同調を求める問い。

 私が首を縦に振っても先生は騙されず、叱責を止めなかった。彼ら彼女らにすみませんでしたを言わせるまで解放しなかった。どんな反逆児も時間制限なく続く先生の矯正指導に最後は根を上げて謝った。行動を改める子は少なかったけれど。それでも私は、先生の保護と真っ直ぐさはとても頼もしく思っていた。

 その日も私は叩かれ、先生がいじめっ子たちを叱った。午前の話だった。

 昼休みになった。

 私は校舎裏で砂に枝で絵を描いていた。父か母が正義と公正を教えるために居間で流していた女児向けアニメのヒロインを、私は自分でも動機が分からないまま描いていた。たぶん、好きだったのだと思う。

 午前に謝罪させられた子たちがいつの間にか私のすぐそばに立っていた。

 お前は暗いだのナメクジだの、いろいろ言われた。彼女らは謝罪させられたことに納得できず、余計に怒ってしまったのだと分かった。私はしゃがんだまま、口を少し開いて彼女らを見ていた。ただ悪意に戸惑うばかりで逃げようという発想がなかった。

 反応の薄い私に退屈を覚えたのだろう、リーダー格の子が私を突き飛ばした。私は尻もちをついた。声もなく。何が起こるのか分からず瞬きしていた。

 リーダー格が侮蔑語を言って笑い、合わせるようにお供の二人が笑い、興に乗ったリーダー格が私の絵を足で踏み消した。そこで初めて私は反応した。ショックを受けてしくしく泣き出した。

 彼女らは満足げに笑い声を高め、一頻り笑うと突然寝起きのような無感動に切り替わり、行こっか、と踵を返して去ろうとした、そこに。

 彼女が立っていた。

「何してるの」

 赤崎梨花は硬い声で言った。

 三人組は顔を見合わせ、リーダー格が「ただ話してただけだけど」と居直った。

 しばらく二人で睨み合っていた。その睨みが、リーダー格を越えて私に照準を定めた。

「乃々ちゃんはそれでいいの?」

 私は目元を擦りながらぽかんとした間抜け面を返した。意味を計りかねた。

「いっつもやられてばっかだけど、それでいいのって訊いてるの」

 強い口調だった。私は躊躇いの後、視線を横に逃がしてしまった。いじめっ子たちがせせら笑った。

 梨花ちゃんの大きなため息が聞こえた。

「いいよもう。なら私がずっと乃々ちゃんのこと、見てるから」

 怒っていた。いじめっ子たちを横切って私の前に立ち、「行こ」と手を差し伸べた。

 梨花ちゃんの纏う雰囲気が怖くて私は尻もちをついたまま動けなかった。

「ん」と迫る梨花ちゃんの手。それでも私は涙を擦った手を中途半端に上げているだけだった。

 業を煮やした梨花ちゃんが私の右手首を掴み引き上げて私を立たせた。握り込む手は力強く、私は怯えた。やはり怒っている。

「今度こういうことやったら、私がやり返すからね」

 そう三人組に言い捨てると、梨花ちゃんは私を引っ張り校舎裏を後にした。日当たりの良い、皆の目が届く場所に出ても手を放さず、剣呑な雰囲気だった。

「あ……ありがとう」

 精一杯の勇気で言ってみたけれど振り向いた梨花ちゃんは怖い顔だった。

「私、ずっと乃々ちゃんのこと、見てるからね」

 梨花ちゃんは私のそばを離れなかった。


 彼女の言ったことは本当で、付きっきりと称しても良いほどに梨花ちゃんは私から離れなかった。常に私を視界に入れていた。トイレにもついてくるのには戸惑ったがやめるつもりはない様子だった。

 登下校まで一緒になった。梨花ちゃんは親しい子との登校をきっぱりと止めてしまい、私の家の前で私が出てくるのを待ち、共に登校するようになった。なぜそこまでしてくれるのかと訊くと、あまりに乃々ちゃんが弱気だから、と答えた。口吻に少しの怒りが時々覗いた。けれど、大変だけどやると言ったからにはやると揺るぎなく宣言していた。頑固なのだな、と私は我が事ながらどこか他人めいた視点で見ていた。

 先生は大いに喜んだ。梨花ちゃんのことを激賞していた。実際、彼女が護衛についてからいじめっ子たちは手を出すのを躊躇った。梨花ちゃんは運動ができる。下手に武力に訴えた結果、反撃に組み伏せられるのを恐れていた。

 けれど、どうしてもガス抜きが必要な子は現れる。廊下を走るなと言われているのに我慢の利かない子はいる。

 下校中に事件は起きた。

「痛っ!」

 私は突然の後頭部の痛みに驚き、患部に手で触れながら意味を直感して後ろを振り向いた。

 少しの距離を置いて例の女子三人組が横一列に並び、にやにや笑っていた。

 証拠はないけれど、小石を投げつけられたに違いなかった。

 立ち止まった私を、やはり足を止めて梨花ちゃんと彼女の友達二人が不思議そうに見た。

「どうしたの?」

「あ……うん」

 私は曖昧な笑みで誤魔化しながら、撫でつける患部が徐々に腫れてきているのに恐怖を覚え、それでも弱々しい笑みを保った。

 例の女子三人組が脇を通り過ぎた際、リーダー格が右手に包んだ小石をアスファルトに捨てた。見えるか見えないかさえ際どいほんの小さな石。石ですらなかったかもしれない。けれど、何かを投げつけられたのはそれで確定した。

 私の頬を涙が滑り落ちた。痛いのと、怖いのと、想像以上の悪意に晒されたショックで泣いたのだと今なら説明できる。ただ、その時の私は声のない涙に驚くばかりだった。

 けれどすぐ、更なる驚きが起きた。

 通り過ぎたリーダー格の、束ねられた髪の房を、梨花ちゃんが思い切り引っ張ったのだ。

 悲鳴と共に振り返ったリーダー格を両手で突き倒すと、尻もちをついた彼女に馬乗りになって梨花ちゃんは、房を引っ張り、頬を張ったり、攻撃を加えた。

 獣のように叫んでもがいていたリーダー格も、一方的に攻撃されるばかりと悟ると泣き出した。もしかすると泣いてその場を逃れようとしたのかもしれない。

「二度と同じことするなよ!」

 怒鳴り付けながら梨花ちゃんはまた房を引っ張った。リーダー格は悲鳴を上げた。

「絶対だからな!」

「分かった、分かったから!」

 耳を針で刺すような悲鳴で応答したリーダー格から梨花ちゃんはゆっくりと立ち上がった。起き上がったリーダー格は、私が受けたのと同質の痛さと怖さとショックとで、泣き出した。聞こえよがしに。責めるように。

 呆然と見ていることしかできなかったお供二人が、リーダー格を慰めながら、敵意を梨花ちゃんに向けた。自分たちが襲われた場合は即座に逃げる弱腰が明らかな睨みだった。

「約束させたから」

 こちらに振り返った梨花ちゃんを、私たちは無言で見ていた。梨花ちゃんの友達二人がどんな顔だったかは憶えていないけれど、二人は何も言わなかった。

 私は梨花ちゃんの膝小僧を凝視していた。馬乗りになった段で擦り剥いたのだろう、僅かながら血が滲んでいた。血が出る闘争に、暴力の痕に、殴り蹴るアニメとの決定的違いに、身が竦んだ。お礼を言わなければならない。けれど声が出なかった。涙もいつの間にか止まっていた。

 私の、あるいは私たちの戸惑いを見て、梨花ちゃんは少し苛立った声で、「行くよ、ほら」と、帰路へ促した。

 いつもの帰り道を歩きながら、いつもより言葉少なに、私たちは帰った。梨花ちゃんと二人きりになったタイミングで私は勇気を振り絞って「ありがとう」と切り出した。梨花ちゃんは「うん」と言った。話を切るように。続きを続けるのは憚られた。別の話題を振る梨花ちゃんに相槌を打ちながら、私は血が赤黒く固まった膝小僧を時々盗み見た。

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