第4話 中学校
中学に上がっても私たち三人は仲良しで、常に行動を共にしていた。私が吹奏楽部に入るとお供するように梨花ちゃんも有希ちゃんも入部した。梨花ちゃんはどう見ても運動部できらきらしてる子だと思う、と伝えると、梨花ちゃんは、そう?と嬉しそうに微笑み、「でも、私は乃々ちゃんのこと、ずっと見てなきゃだし」と言った。
梨花ちゃんは吹奏楽も上手で、部内でエース格として扱われるようになった。先輩らの覚えもよく、下級生ができると慕われ、梨花ちゃんの世界はプラスチックの平面に水を流したように急速に広がっていった。
けれど、梨花ちゃんは私たち三人との交友を何より優先した。もっと相応しい居場所ができたように思えても私たちの元を離れなかった。私はそれを優越に思い、同時に、複雑に思った。
梨花ちゃんが試みる私への身体的接触は、過剰とは言えないものの明らかに意図を有しているとしか思えなくなっていた。何が?を上手く説明できないけれど、端的に述べればなんかヤラシかった。有希ちゃんに相談したかったけれど母のあの怖い顔を思い浮かべるとそれは出来なかった。
その宙吊りの気持ち悪さに名前が付いたのが、中学二年生の初夏だった。
休み時間に、私と有希ちゃんと別クラスになった梨花ちゃんのいつもの三人で話していた。他愛もない会話だった。教室後方で固まって話す少し変わった層の子たちが、異様に高揚して、ささめき合っていた。私はそれを視界に捉え、まあいいかと関心をポイ捨てのように捨てて視線を梨花ちゃんと有希ちゃんに戻した。
午後の授業開始とともに先生が突然に持ち物検査を宣言して、生徒の鞄を閲し始めた。鞄を覗き込む顔に興味は希薄で、何のための検査か分からなかったけれど、彼女たち、高揚していた子たちの机に来てから明らかに検査が厳しく執拗になり、狙い撃ちだと知れた。
幾冊か薄い本を奪い取って教卓へ戻った先生は、その内の一冊の表紙を掲げて見せた。瞬間、生徒がどよめいた。男性と男性がほぼ全裸で身体を寄せ合う絵。
「こういうなあ、有害図書はだめだぞ読んじゃ。だいたい、懇切丁寧に18禁って書いてあるだろここに。君たちはまだ15禁もだめなのに、こりゃだめだ」
どよめきの中からちらほら、「気持ち悪っ」「あんなのが好きなのぉ?」「やっべオレ勃起しそう」「バカかよ」といった声が聞こえる。
お咎めの理由が男性同士だからなのか、18禁という年齢の問題なのか、判然としなかった。摘発されて彼女たちは赤面していた。泣く子もいた。その羞恥の様が、そしてそれが通報される物で糾弾される物だという事実に私は恐怖した。
やっぱりだめなんだ。
同時に、自然と浮かぶ疑問があった。
女の子同士の『そういうの』って、あるの?
梨花ちゃんの顔が私の脳裏に浮かんでいた。その微笑みが、何か別の意味を持って見えた。
普段通り三人で下校し、自室に戻り、じっと時計を見つめ、有希ちゃんが確実に一人でいる時間帯に電話を掛けた。訊くなら今日の今しかないと思った。
有希ちゃんは躊躇いの明らかな声で、ぽそぽそ喋った。男性同士の関係をBLと呼ぶこと。両方だけれど18禁以上に男性同士が咎められたこと。
「乃々ちゃんの言う通り、女の子同士の愛情、恋って言うのかな、そういうのはあるよ」
それを便宜的に『百合』とか『GL』と呼ぶ。差別の意味合いでは『レズ』、とか。
もやもやに名前が与えられると、体調不良に病名を明示された時のように、ある種の安心があった。けれどそれが梨花ちゃんの接触を直接に解決するわけでもなかった。もし、梨花ちゃんの手が百合やGLを意味するなら?
どう接するべきか決めなければならない。
誰かに恋情を向けられるなんて初めてだからどう対応すべきかお手本がない。少女漫画は嗜むもののそれは男女という前提だから同じ土でもまるで違う像が捏ね上がってしまう。第一、今日摘発された彼女たちのように晒し者になる恐怖を思うと身が震えた。
私は考え、何度も考えを上書き修正し、やがて難しさの前に考えることをやめた。梨花ちゃんの手は百合やGLじゃなくやっぱりただのスキンシップだ、好きだから触れるんじゃなくて触れるのが好きなだけだ、と解釈することにした。
困ったら見えなかったことにすればいい。そうすればいつも通りだ。
途端に楽になって、私は今日の晩御飯が何かを伸び伸びとした気持ちで考えた。
私たちは中学三年生に進級し、同じクラスになった。クラス発表を見た梨花ちゃんは飛び跳ねて喜んだ。
これが最後の同じクラス、という含意があった。梨花ちゃんは頭が良い割りに学校の成績は振るわず、成績の良い私と有希ちゃんとは進む高校が異なるだろうと二年生末の時点で凡そ分かっていた。三年生に入り梨花ちゃんは猛勉強したけれど成績は期待したほど伸びず、夏休み前に行われた進路相談で進学先を見直すよう先生に指導された。夏までの空回りで如何なる努力を以ってしてもこの状況は覆せないと悟ったのだろう、梨花ちゃんは要請に応じ進学先を下げた。「ずっとは見ていられなくなっちゃうから、少し心配だなあ」と寂しそうに梨花ちゃんは頬を指で掻いた。
受験という言葉をまだ自分事として咀嚼しきれない二学期ながら、一部生徒の言動はどこか不安定さを露呈し始めていた。それは偶発的な事故だったと今でも思っている。けれど、起こるべくして起こる要素を事前に振り撒いていたと言えなくもなかった。ちびちび融けていた北極の氷に大きな亀裂が入った瞬間。
私が掃除を終えて教室に戻ると、梨花ちゃんと有希ちゃんが、元気な子グループと黒板前で何やらもめていた。有希ちゃんが仲裁しているように見えた。仲良し三人グループ構成員として私も場に立ち会うべきだと思った。
けれど、有希ちゃんは駆けつけた私に険しい目を向けた。
「そこは悪かったって梨花ちゃんも言ってるでしょ? だからもういいでしょう?」
まとめを急いでいる雰囲気だった。私は揉め事の理由を把握しようと懸命に耳を傾けた。
そんな私の様子を見て、元気な子代表がせせら笑いを見せた。久しく見ていない、けれど幼稚園の頃からたくさん見た、悪意だった。
「園部さんは掃除をサボらない、梨花ちゃんは強く注意するんじゃなくてやんわり掃除しよって促す。OK?」
有希ちゃんの解法に、園部さんはにやにや笑うばかりで何も言わない。梨花ちゃんの横顔が怒っていた。私の視線を嫌うようにそっぽを向いた。
「いいよそれで」
いきなり園部さんが言った。にやにや笑いは勝ち誇っているように見えた。
「じゃそれで、はい」
有希ちゃんが場を閉めた。他の子が弛緩したのを見ると一触即発だったらしい。私もつられてほっとした。もう先生来るから、と有希ちゃんは険しい顔つきのまま梨花ちゃんの肩に手を回し、自席に戻るよう促した。梨花ちゃんは意識して私と目を合わせないようにしていた。壁を作られたようで私は傷ついた。
各自席に戻る中、黒板でカッカッと高く軽いチョークの音がした。
振り向くと居残った園部さんが文字を書き上げたところだった。
レズ。
え?
と思った次の瞬間には、有希ちゃんの腕をすり抜けた梨花ちゃんが園部さんに向かってダッシュしていた。
体当たりで倒される寸前の園部さんは、梨花ちゃんがそこまでの反応をするとは露思わなかったのだろう、恐怖と意外に顔を歪めていた。
園部さんが床に倒れ、どしんと重い音がした。梨花ちゃんはその上に馬乗りになり、園部さんの頬を二度、張った。
「仲良いんだねって言っただけじゃん!」
園部さんの怒声がした。すぐに梨花ちゃんがもう一度彼女の頬を張り手した。
何? ガチの喧嘩? 女怖ぇ。男子止めなさいよ! 誰か先生呼んできて!
狂乱の中、有希ちゃんが梨花ちゃんに駆け寄り、彼女の腕を掴んで止めようとしたけれど逆に突き飛ばされてしまい床に尻もちをついた。また止めに行って、また跳ね飛ばされた。
私は幼稚園時代の、あの日の帰り道を思い出していた。梨花ちゃんが見せた攻撃性。暴力。赤い血の滲んだ膝小僧。
身が竦んだ。
腰が抜けてその場にへたり込みそうになった。
園部さんが叫んだ。
「レズ! このレズレズレズレズ!」
私は衝動に背中を押されたように駆けて、梨花ちゃんの後ろから怒鳴りつけた。
「梨花ちゃんはレズじゃない! 失礼なこと言うな!」
毬栗のようにキンキンとした声が出た。私自身、自分が何を言い出したのかよく分からなかった。瞬発的に出てきたのがその言葉だった。
梨花ちゃんの手が振り上がった。平手が拳へと握り込まれた。
拳が、振り下ろされようとしながらも見えない鎖に引き戻されるように中空で二度止まった。
誰もが拳の行く先を見守っていた。有希ちゃんでさえ、止めに行かなかった。
拳は、花が枯れて首を垂れるようにゆっくりと下ろされた。
梨花ちゃんは無言で立ち上がると後ろに立っていた私を避けて教室から出て行った。クラス全員、何も言えずにそれを見送った。
身を起こした園部さんの目は潤んでいた。けれど泣かなかった。いってぇなバカ、と呟いた。
「バカはあなたでしょ!」
私はもう一度怒鳴りつけた。園部さんは、興奮の峠を越してしまったのか、私の怒声に反応せず明後日の方向に目を向けて虚脱していた。
私の関心はこの死んだ人形から生き血を流す梨花ちゃんに向いた。
追いかけるべく踵を返した私の前に有希ちゃんが立ちはだかった。
「今は一人にしてあげよう、ね?」
両手を広げて、絶対に通さない構えだった。
「でも!」
私は興奮していた。急いていた。
「一人にさせてあげて、ね?」
有希ちゃんの口調はお願いでなく指示だった。眼鏡の奥の強い意志に、私は追いかけることを諦めた。代わりに、なんで、を問いたくなった。けれど、それは開けてはいけない箱のような気がして、咄嗟にその口を閉じた。
午後の授業をしに現れた先生が、なんだ? 何かあったのか? と首を傾げた。先生のとぼけた顔は術の解けた狸のように間が抜けていた。
放課後。有希ちゃんが闘争の経緯を先生に説明して、私は園部さん以外の元気な子グループとの和解を担った。園部さんは保健室に寄ってから早退していた。
なんか、意外だったかも。
グループの子に言われた。
「何が?」
「いや、なんていうか、御代田さんってもっと大人しい子だと思ってたから、怒鳴ったのは意外っていうか。正直、驚いた」
「大切なんだね、赤崎さんのこと」
別の子が微笑み、慌てて「別に変な意味じゃないからね!」と付け加えた。
私は事の概略しか知らされなかったけれど、それが、レズって意味は込めてないからね、という意味なのは凡その流れで分かっていたので、柔和な笑みで返した。
この一件は不問とすることを互いに確認し合い、私たちは散会した。
私と有希ちゃんは人気の失せた教室で梨花ちゃんの帰りを待った。だいぶ経ってから、家に帰ったと梨花ちゃんから有希ちゃんに短いメッセージが来た。あれから真っ直ぐ帰宅したのか、教室に戻る機会を窺いながら果たせなかったのかは分からなかった。
私は有希ちゃんと下校した。夕焼けの紅も褪せて色を失い始める世界を一緒に歩いた。静かだった。
今なら分かる。私は梨花ちゃんへの侮辱に怒った。それは真実だ。けれど、無意識では、梨花ちゃんの接触に恋情が込められていないことを期待していて、その期待が、咄嗟のあの台詞に表れたのだ。意外な怒声は、梨花ちゃんのためよりも自分のためだったのだ。
その事件以来、私と梨花ちゃんの関係は表面上何も変わらなくとも、磁力を失ったマグネットのように、完全に変質してしまった。親しさを演出しながらその言葉がどこか余所余所しく響いた。虚ろを埋めようと接近するほど、何かが離れた。
その理由を、ちょっとしたすれ違いと私は自らに説明した。レズとかレズじゃないとかそういう恋情の話では全くないのだと自分を洗脳した。そんなものは本の中だけだ。事実梨花ちゃんの接触行為も以前より気持ち控えめになった。気がした。
でも、その疚しさこそが答えなんじゃないの?
快晴の空に映り込む暗雲を意識から外し続けて迎えた卒業式だった。
私と梨花ちゃんは互いの学校生活から互いが喪失することを嘆き、目元を擦りもした。ごく一般の生徒と変わらない別れの情景だった。
これが永遠の別れってわけじゃないし、また普通に遊ぼうね、家近いんだし。有希ちゃんも呼んで。ね?
私はごく普通に梨花ちゃんに言った。誤魔化しは一切なかった。変質した関係を補おうとなるだけ声を楽しくする頑張りはあったかもしれないけれど。
梨花ちゃんは、うん、うん、と頷いていた。元気がなかった。
有希ちゃんはからから笑っていたかと思うと、急に真面目な顔になったり情緒不安定に見えた。高校に進学したらコンタクトにして高校デビューしちゃおうかな。などと、有希ちゃんが言わなさそうなことを口にした。
式が終わり教室での挨拶も終わり、あとは家に帰るだけだった。
卒業生たちは余韻に酔ってなかなか帰宅するそぶりを見せなかった。私たち三人も校舎の外で長々喋っていた。あれしようね、これしようね、といった未来を約束する話ばかりだった。
有希ちゃんが近くで騒いでいたグループに呼ばれた。写真撮影を依頼されたらしい。スマホを構えて、普段話さないクラスメイトと笑い合っている。映りが気に入らないとか、誰かが変顔とか、注文が多い様子だった。
「大変そうだね」
私が梨花ちゃんに笑いかけると梨花ちゃんは、突然私の手首を掴んだ。
「来て」
力強く引かれて、私は戸惑った。踏ん張ることもできたけれど、有無を言わせない強引さに逆らう意思は生じなかった。今日の口数の少なさは全てこのためだったのだと私は悟った。振り返った先の有希ちゃんは、まだスマホで写真を撮らされていた。
誰も通らない、誰の視線もない校舎の陰に来た。私は両肩を校舎に押し付けられて動きを止められた。
どうしたの梨花ちゃん、だの、少し痛い、だの、言いたいことはたくさんあったけれど、私は梨花ちゃんが口火を切るまで待った。
暴漢を押し付けるかのように力強かった梨花ちゃんの両手が、私の腕を撫でて手にたどり着き、掌を合わせて優しく握り込んだ。
少女漫画等で見た、俗称「恋人握り」の変形だった。
私は怯えて首を振った。
それはそういう意味だ。やっぱりそういう意味だったのだ。
「乃々ちゃん、私……」
私の身が死後硬直したように強張っている時点で梨花ちゃんも理解したはずだった。その先を口に出してはいけない。それ以上踏み込むと私たちが幼稚園から育んだ関係性が決定的に損なわれてしまう。訊かずとも答えは出ている。
涙目で首を振る私に、梨花ちゃんは哀切の目で迫った。
「もう、ずっとは見ていられなくなっちゃうから、だから」
「嫌……」
梨花ちゃんは身体全体を私に押し付けてきた。
口づけ。
少し離れ、俯いた私の顔を両手で上げて、再び無理やりな口づけをした。
その直後に。
唇にぬめっと湿った物が押し付けられた。
私の上唇と下唇を押し開いて侵入しようとする梨花ちゃんの舌。
「嫌!」
身の内でバネが弾けた感覚と共に私は梨花ちゃんを両手で突き飛ばした。仔細は分からないけれど気づけば梨花ちゃんが湿った苔の上に尻もちをついていた。
目が合った。訴えかける眉尻の下がった瞳。
好き。と言った気がした。
私は感情の爆発に押し出されるように駆け出した。梨花ちゃんから逃げた。正門を飛び出て、アスファルトを全力で蹴った。
走った。
頭の中で、嫌、と、無理、と、分かんない、が駆け巡った。
ひたすらに走った。
すぐに体力が尽きて荒い息になり、徒歩になった。
ひーはーひーはー言いながら、それが肺の要求と同期した涙の横溢なのだと、地面に落ちた雫で気づいた。
「分かんない……分かんない!」
同性から好意を押し付けられて、どうすればいいか分からなかった。正しい対処が分からなかった。ただひたすらに仲の良い幼なじみで良かったのに、という自分の思いが我儘なのか分からなかった。
泣きながら歩いた。
家に着く頃には昂りは排出され尽くして、時折鼻汁を啜る惨めさで玄関ドアを開けた。
自室に直行してベッドにうつ伏せに倒れた。頭の中は真空状態で、空っぽが今は心地良かった。
時間が経った。
チャイムが鳴り、玄関でごたごたした後に母が私の部屋の前まで来た。有希ちゃんと梨花ちゃんが来たと言う。あなたが忘れた鞄、持ってきてくれたわよ。それと、梨花ちゃんが、説明させて欲しいって言ってるんだけど、どういう意味かしら?
私が卒業の喜びと感慨を居間で母と分かち合わずに自室に引き籠ったことに、母は説明を求めていた。それは理解できた。
あの日、誰かそういう子がいるの?と早口で言った母の怖い顔を思い出した。
お母さんのせいにしちゃえ。
心に潜む悪魔が顔を出した。お母さんが怒るかもしれないから説明を受けることはできない。お母さんのせいにしてしまえばいい。
けれど。
その場合、母のいない場所で向き合わなければならない。梨花ちゃんの想いと。
ぬめっとした舌の感触を思い出した。身が硬くなった。無意識に指を添えた唇は、さらりとしていた。ここに乗った他人の湿度。動悸が始まった。
「体調悪いから、会えないって伝えて」
少し間があって、会えないって伝えればいいのね?と母が確認した。
体調悪いから、が脱落するとまるで違う意味として伝わる。母は何かを察知して、意図して私の発言を歪めようとしている。それが分かっていながら。
「うん。そう言って。お願い」
私は、逃げてしまった。
それ以来梨花ちゃんとは会っていない。有希ちゃんを中継して説明が行われることもなかった。メッセージのやり取りも一切なく、あの唇の交わりを以ってして私たちの交友は完全に絶えた。
北極の氷は、海中に消えた。そして回答を提出できなかった罪の重みが心のどこかに癌として巣食った。
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