第8話 悪食

瞼が重い。それに身体も起き上がれないと叫んでいるみたいだ。


(ここは……?。ううん、やっぱりここ、なんだね)


前のように目の前に死体はなかった。代わりにあるのは鳥らしきものが飛ぶ青空。仰向けになって倒れているのだから当然だ。

一つ前の時とは目が覚めた時の状況が違う。けどその理由は声が出ないことからもなんとなく分かってた。

右手を支えに上半身を起こす。起こした視界に映ったのは……喰われた右足。続いて無くなっている左腕。そして目の前に死体があった。

右手で口に触れる。やっぱり前の時の同じ、喰われて無くなったままだ。

倒れていたのは右足を無くしたからだろう。立つことすらままならない状態なら倒れていてもなんら不思議ではない。


(うん。でも、どうしよう……。立ち上がることもできないし、這って動くのも難しそう)


どうやって動くかを考えるも、ある事実を思い出す。


(動かない方がいい、のか。だったらこのまま倒れ伏していた方がマシ、なのかな?)


さっきの狼が現れたタイミングを思い出す。あの時はあたしが仰向けになって倒れたタイミングだ。そしてその前のあたしは走ったり動き回っていた。

前の前に比べて一つ前の時がひどく簡単すぎる動きだ。全力疾走したのとその場に倒れ込むのが同じ扱いというのがよく分からない。

……喰われたから?。それで捕捉されやすくなってる、とか?

だとしたら最早どうしようもない。ここで待って、喰われるしかない。


(どう転んでも死ぬしかない、か。嫌だな……何とかできないかなぁ……?)


回避策を考えようにも、立ち上がろうとすることができないという事実が全てを塗り潰していく。

そういえばこれって前の時も悩んでいたことだったっけ。どうやって死ぬのかを考えてたはずだ。前の時は確か……?


(喰われるか、ここにいるか……?。いや、他にも何かあった。あったはずなのに)


思い出せない。確かに3つはあったはずだ。でも思考回路のどこを探しても2つしか出てこない。幼いころの記憶みたいに霧がかかっているようなものじゃない。眠りから目覚めたときだけ夢を覚えているときみたいに、既に消えてなくなったような感覚だ。

記憶の一部がない、そのことに瑠美は身体を震えさせた。


(待って。まさか……?)


瑠美は必死になって自分自身の記憶を掘り返す。彼女が持つ記憶に欠損があると確認できたのは、欠損があると認識できる今だったからだっただろう。もし一つ前の彼女だったならば、欠損があるかないか分からない程度だった。認識できる、その意味では早いタイミングだったが、その衝撃は瑠美の精神を壊しかねない程のものだった。


(あたしは瑠美、中山瑠美。ここにはどうやって…歩いてきた?。どこから?)


削り取られた記憶。頭を抱え、一つ一つ確認していくも、ところどころに見当たらない記憶が存在する。

家族に圭介、覚えてる。優香、大丈夫。晴t……晴田?。違う、晴田なんて名前じゃないことは憶えてる。顔は……ダメ、全然思い出せない。あたしと圭介と、優香と、もう一人いたことは記憶にあるのに誰なのか思い出せない。


(大事な友達なのに思い出せない……。う、そ……)


ここにきて瑠美は予想していたよりもはるかに恐ろしいことが起きていた事実に放心してしまう。

彼女自身の身体に加え、記憶すら貪られて徐々に自我が喰われるという狼の悪食。それは彼女の知る限りの人類には太刀打ちできない存在であり、それほどの存在が近くに―否、彼女の眼前に現れる。

放心しているとはいえ現れたのは文字通り目の前、それも顔がぶつかる程の近く。


「haaa」


狼の吐息が瑠美の顔に直撃する。上半身だけ起こしていた瑠美はバタリと倒れ、瞳が虚ろになっていく。

ブチっという音が鳴り、視界の端に瑠美の右足が太ももから吹き飛んだ様子が見える。連続してグチャグチャという音が聞こえたあたり、そのまま狼の群れに喰われたのだろう。

さっきまでとは違って痛みはなかった。代わりに明確な意識と視覚、痛覚ではないほんの少しの感覚だけが残っていた。両足が無くなり、きっと出血が激しいのは分かる。でも痛みがないから何が何だか分からない。

ローヴルフの吐息は痛覚を麻痺させる作用があった。それは群れが傷ついた時に回復させるための避難用の手段だったが、その残忍な性格を示す際にも使用されていた。まさに今のような時に、だ。

両足がなくなり、続いてやってきたのは右半身が引っ張られるような感覚。だが引っ張る力はすぐに無くなった。引っ張られなくなったその理由は見せつけるように現れる。


(あたしの……右腕)


狼の一頭が口に咥えてあたしの顔を覗き込んでいる。まるで狩りの結果を見せつけるかのようなそれだ。

ポタポタト右腕から血が流れ、顔に滴っていく。血滴は頬に当たるようにしているのが忌々しい。いっそ視覚を閉ざした方が楽だったというのに。

失血が多過ぎるのか、明確だった意識も少しずつ薄れていく。狼はこれで最期と言わんばかりに大きな口を目の前から広げて噛みついてきた。

グシャリという音が、瑠美の頭から鳴った。

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