第6話 唇を奪われる

あたしの視界には目の前に死体が転がっていた。あたしの知ってる死体だ。


「……え?」


周囲を見渡す。そこはカラフルな森の手前までもうすぐという場所。荒野のど真ん中ではない。


「夢?」


あり得ない。痛覚や嗅覚を誤認するような夢などあたしの知ってる限り存在しないはずだ。

仮にそんな夢や幻があったとしたら、それは現実と果たしてどう違うのかあたしには分からない。

それにあれほど恐ろしい存在が目の前にいた事実。信じたくないのは当たり前だった。


「だけど何でまたこんなところに?」


まるでさっきの出来事が起きる前のタイミングだ。もしこのまま目の前の死体に近づけば同じことが起きるのかもしれない。

絶対に嫌。さっきの出来事をもう一度なんて誰が好き好んで体験するものですか!。


「じゃあこの死体は放っておいて森……。……え?」


森の方へ身体を向けた瞬間、あり得てはいけない事実に気づいてしまう。なぜ気づかないのか理解を拒む事実だ。

左腕が、肩口から無くなっていた。さっきの夢とは違い傷ついた様子もなく、まるで生まれた時から隻腕でいたかのようなそれだった。

そしてその傷が何を意味しているのか、瑠美には分かってしまった。それは余りにも生々しい体験が今しがただったから、本能的に理解させられたから。


「さっき死んだときの最初のやつ……!」


右の手の平を無くなった左腕の肩口に触れる。痛みはなく、まるで削り取られたかのような断面が言葉に出したことを証明していた。

これが夢でないとしたら、現実だというのなら、さっきのことは起きたこと?。それとも起き得ること?。またここにいたら同じことが起きる?

また同じような目に合う?。嫌だ、嫌だ、あんなの目にまた合うくらいなら今すぐに死にたい。ちがう、死にたくない。怖い。今すぐに逃げ出さないと。


逃げようと走り出そうとして気づく。ここが何処なのか、ということに。


「どこに……逃げる?」


絶望的な事実に瑠美は気づいてしまう。

さっきの夢が現実なら、荒野は狼たちのテリトリー。ここから数歩でも踏み出せば襲われる。だとしたら……逃げ場所などありはしない。

周りを見渡しても狼がいる様子はない。だけど多分どこかにいるか、とんでもない速さで走れるんだろう。左腕が喰い千切られた時、あたしは千切られたことが分からなかった。

千切られた瞬間の衝撃もなかった。だからあたしが痛いって感じる前に食い千切れるほどの速さを持ってるのは間違いない。


喰われたあとは頭がおかしくなるくらいとんでもなく痛かった。あれは二度と体験したくない。

けどそれが分かったからって……どうする?。せいぜいできるのは逃げる方向を考えることくらいだ。

逃げようとして喰われることが分かっているとしても、だ。


「森の方へ……ダッシュで走る。しかない、かな」


がくがくと震える足を右手でひっぱたく。震えはマシになったけど、全力でダッシュするのは難しい。ここまで歩いてきている疲労も残っていることもある。だけどそれどころじゃない。

瑠美は持てる全力で森の方へと走った。息は恐怖で震え、足は踏ん張りがきかない。だがそれでも死にたくないという意志が勝ったのか、コケることはなく、荒野から森の入口まで走り抜けることに成功した。


「はぁ……はぁ……」


近くにあった木によりかかり座り込む。

息切れがひどい。いや、息切れだけじゃない。頭痛もするし、今にも吐き出しそうなほどに吐き気がひどい。疲労がたまっている上にとんでもない恐怖が襲ってた。それでも全力で走ったからだろう。

だけどそのおかげで森までこれた。あの狼たちが荒野で動いてるなら襲われる危険はなくなるはずだ。


「息切れとかぁっ……治まったらっ……進まないと」


深呼吸を何度か繰り返し、少しずつ息を整えていく。危険が減ったという事実が少しだけ精神的に余裕を持たせていた。

あと少しだけ。あと少しだけあれば動けるようになる。そうすれば逃げ―


「gruuu」

「嘘……。冗談でしょ……!?」


―ることは不可能なのだと唸り声が聞こえた。その声は真正面から……いいや、目の前から聞こえていた。


「にげ」

「gau」


瑠美が立ち上がるよりも速く、狼が瑠美へと口へ噛みついた。口どころか顎まで噛みつき、一瞬で喰らい千切った。

瑠美にとって幸いなのは狼の動作は知覚できるような速度ではなかったことだろう。

仮に知覚することができ、痛覚が正しく発生していたらは間違いなくショック死していたことは確実だった。


喰い千切られた箇所から大量の血が噴き出す。数秒もせずに失血死することが約束されるほどの量だ。

瑠美は白目を剥き倒れ込む。意識はほとんどなかったが、何をされたのか理解することを半分だけできてしまっていた。


即ち、口と唇を奪われたということである。そのショックは余りにも大きく、精神を停止させるには十分だった。


倒れ込んだ瑠美に、いつの間にか現れていた数頭の狼が襲い掛かる。グチャグチャという音と共に瑠美は身体は食い漁られ、瑠美は命を落とした。

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