葛藤と。
再度、理解が追いつかない状況が確かに俺の目の前にはあった。
もしかしたら、得意の妄想癖が悪い夢でも見させているのでは無いか、と錯覚を起こすほどに。
仮にこれが妄想であるならばどこからが妄想だろう。店長に説教を喰らってから、夢乃綴と出会ってから、もしかしたら本当の俺は今頃、高校の授業中なのでは無いか。
そこでこの長くておぞましい夢物語が積乱雲のように発達しているのでは無いか。
だとしたら、夢乃綴なんで人物は鼻から居なくて俺もミュージシャンなんか目指して無いのかも知れない。
そんな考えがふと頭をよぎる。
「随分とトイレ長かったのね。便秘?」
けれど、そんなことは決して無かったようだ。
その今日だけで一生分聞いたであろう透き通った甘い声。誰でも無い夢乃 綴の声が俺の耳を刺した。
「……うるさい。違うわ。」
人が悩んでるのも知らないで、と俺は声のする方向へと体を向ける。
すると、綴の体は廃れた落下防止用フェンスの向こうにあった。
そのフェンスは腰までほどしか無く、いわば柵の様な形をしていた。その向こうに綴は立ち尽くしていた。
手を鉄柵から離して、風でも吹こうものならばコンクリートへ真っ逆さまだ。
「お、おい!危ないだろ!そんなとこに居たら!」
俺はそこに近づいて彼女の手を取ろうとする。
しかし、彼女は不思議そうな表情を浮かべて首を傾げた。
「どうして?私、今から死ぬのに。」
キョトンとした顔の綴。
「は?死ぬ?何馬鹿げたことを言って……。」
けれど、その言葉は冗談で無いことを薄々と感じてはいた。
彼女の目はギターを弾く時と同様に真剣な顔つきだった。それでいて、薄ら茶色がかったその瞳に涙を浮かばせていたからだ。
「お、おい!どうしてだ?お前は歌手を辞めるんだろう?何も死ななくても……。」
俺は必死な声を荒げて、彼女を思い止めようとする。
この際、彼女の事を嫌いだからとは思ってはいられなかった。
「私さぁ、結局自分が一番可愛いだけだった。」
綴は鉄製の錆びた柵を握ったまま、薄暗い空を見上げた。そして囁く様な声で喋る。
「歌詞の中では綺麗事を言っておきながらいざ、自分が局面に立たされれば、あっさり自分を優先する。自分が可愛くて、可愛くて仕方がなかった。」
俺は黙ってその言葉の重みを受け止めていた。
「……ねぇ、颯。あなた、私のこと嫌いでしょ?」
そして、綴は何かを見透かしたかの様に俺に問いを投げかけた。
「……どうして、そう思うんだ?」
俺は図星を突かれたがポーカーフェイスを保ったまま質問の意図を探る。
「うーん。なんて言うか、カン。かな。」
と言って、クスクスと笑い声を静かに漏らす。
「なんて言うかさ。分かっちゃうんだよね。親がいないと、大人の顔色伺いながら生活していく術が自然と身につくって言うかさ。」
綴は続ける。
「音楽業界だって、基本的に上の機嫌を伺ってなきゃなんないし。もうめんどくさいんだよ。全部。家族を壊した罪悪感に苛まれることも、顔色伺いながら歌を歌うのも。」
彼女は薄らと遠くの景色を見上げながら言った。
けれど、頭一つ分低いそのビルでは夜景なんかは一望できずに、せいぜい月やその冷たい夜空しか見上げることは出来ない。
「で、当たってる?私の事嫌いでしょ?」
綴はこちらに顔を向けた。
「……あぁ、確かに嫌いだよ。大っ嫌いだ!」
そして、俺は冷たい夜の空気を大量に肺へと取り入れると心の底の底に溜まっていた腐敗しきった不満、嫉妬を彼女にぶつけることにした。
「甘ったるくて!何処か綺麗事を綴って!テレビに出ればカメラ映りばかり気にして営業スマイルを浮かべて!俺の機嫌を悪くして!焦らせて!困らせて!」
それでいて、それでいて、それから……。
と、言葉に詰まる。そして最後に取っておいた言葉が口から出そうになる。
あぁ、この言葉は自分から出したく無かったが出すしか無い。悔しいが気づいてしまった。
「それでいて、……俺は、有名なお前に憧れを抱いていただけなんだ……。」
多分。いや、きっとそうだ。自分でも薄々気が付いていた。気付きたく無かった。
あれほど知名度何か気にしないと言っていたが、それこそが綺麗事だったんだと思った。
同学年で、しかも異性の歌手が人気を帯びていて悔しくてしょうがないだけだったんだ。
「だから、綴、死ぬなんて簡単に言うな。俺にずっと焦燥感を与えて続けてくれ。」
俺は肩で息をしながら、息を整える。
その場は俺の息遣いしか聞こえない。それほどまでに沈黙に満ちていた。
「そっか。」
と、少し間を開けてから綴は言った。
か細い声だ。
「だけど、ごめん。」
彼女は細い指をフェンスから離し、足場を外して、身を投げようとする。
「させるか!」
と、俺は空かさずに手を伸ばして彼女の腕を掴み、引き上げようとする。
流石に細身の彼女の体でも右腕一本で支えるのにはかなり体力がいる。右腕の前腕筋が悲鳴を挙げている。
「なんで……?なんでそんなことするの!?離してよ!颯、あなたは私が嫌いだったんでしょう!?」
彼女は俺の右腕をポカポカと叩きながら声を荒げた。少しばかりの鈍痛が走る。
「自分でも分かんねぇよ!!今、お前が死んでも俺は特段悲しまないさ!だけど」
「だけど、お前が死んで悲しむ人間がこの世にどれだけいると思ってる!?お前の歌声を待ち望んでる人間がどれほど溢れていると思ってる!?」
俺は路上ライブでのあの人混みを思い出した。
そして諭すような言い方で俺は話を続けた。
「お前が大事な『家族』を裏切った話は確かに分かる。俺だったら罪悪感に押し潰されてとんでも無いことになるはずだ。」
「だったら……。」
「でも、お前にはその歌声があるだろ!?じゃあ、その『家族』に届くように歌を歌い続けるのがお前の使命なんじゃ無いのか?それが償いなんじゃ無いのかよ!?」
俺は力を目一杯入れて彼女を引き上げた。
火事場の馬鹿力というやつか。いつの日か、国語の教師が言ってた事を思い出す。
ドサっと屋上のタイルの上へと二人で仲良く転がった。
俺と綴は隣り合わせで仰向けになり、星空が砂粒の様に散りばめられた夜空へ目を向ける。
雲はすっかりと晴れていて濃紺の宇宙が存分に感じられた。
顔の前に手を伸ばして星空を掴もうとしてみる。けれど届くはずもなく、手についた鉄柵の錆の匂いだけが俺の鼻の奥をくすぐった。
それから数分間の間は息を整えるのに専念した。
二人の間の空気は静まり返っていた。
けれど、何処か吹っ切れた俺は綴に話しかけた。
「「ねぇ」」
と、声が重なる。またもや甘い声だ。
あ、となって顔を右に向けると数十センチ先に彼女の小さな顔があり、その茶色の目と俺の一重が合う。
そして「お先にどうぞ?」と言う視線を送る。
「……私さぁ、勘違いしてた。」
静かな声で何処か吹っ切れた様な口調で綴は溢した。
「自分が死ぬことで全てが丸く収まるって思ってた、みんな納得するって、悩みがなくなるんだって。」
でも、と綴は話を続ける。
「悩みなんて無くならないんだよね。きっと。」
「そりゃそうだろ。夢があるから悩むんだろ。」
すると、綴は口からぷっと空気を吐き出して笑い始めた。
「何だよ。」
不貞腐れた俺はそう聞き返す。
「いやぁ、結構クサいこと言うんだなって思ってさ。」
綴は笑い涙を指で拭き取りながら続けた。
「でも、今日は颯の言葉で救われたよ。ううん。今日だけの話じゃなくて、一年前も。」
そう言うと綴はスカートの左ポケットから何やら小さなものを取り出した。
半透明の紫色のピックだ。それはいつの日か俺の『投げ銭箱』に入っていて俺が愛用しているものに酷似していた。
「なぁ……。それって。」
俺はマジマジと手に持たれているピックを見つめた。
「気が付いた?これ、私のハンドメイドなんだ。世界に一つ、ううん二つだけのオリジナルピック。ね、気が付いてくれた?私、君の歌がきっかけでミュージシャン目指したんだよ。」
俺の体の中で和太鼓が演奏されているかの様に心臓が跳ね上がる。
どう言うことだ?ずっと嫌っていた歌手は俺の路上ライブの影響でミュージシャンになったってことか?
「ごめん……。理解できない。」
何分中卒なもんでさ。
「あはは、でも、本当なんだよ。私、やりたい事が見当たらなくてさ。高校に入学しても親がいない事で上部だけの友達しか出来なくて本当に辛かった。そんな時にアーケード街での君を見たんだ。」
彼女の目は嘘はついていない。それはこの何時間かの会話で分かり切っていたことだった。
「颯は客が一人も居ないのに、熱唱していたよね。対してうまくも無い歌とギターで。」
と、からかう表情を見せる。
「うっせ。」
「ふふふ、ごめんね?でも、すごいかっこいいって思った。私もこうなりたいって思った。私に夢を与えてくれた。恥ずかしかったからあんまり近くには行かなかったけど、証拠にピックを投げ入れたんだ。」
「……そっか。」
俺はそれしか言えなかった。
あれほど毛嫌いしていた歌手は俺のかけがえの無いファンだったのだから。
すると何故か目から涙が線を描いて流れ出した。
「……あれ?おかしいな……。」
止めようと必死に袖で拭う。けれど涙は止めどなく流れ出る。
涙の理由はおおよそ見当は付いていた。
「……ありがとう。俺の歌を見つけてくれて。」
震える声で俺は綴に言った。
先ほど声が重なった時に伝えたかった感情。
『感謝』だった。
その一言に尽きる。やってきた事が無駄じゃなかったんだ。親と喧嘩して家出してきた事も、路上ライブで声を枯らしたことも、たった今大嫌いな歌手を助けたことも。全部、全部。無駄じゃ無い。
それが全て肯定された様な彼女の言葉に俺は涙が止まらなかったのだ。
「……感謝を伝えるのは私の方だよ。颯、私に夢を与えてくれてありがとう。」
彼女も震える声で言った。顔は良く見えなかったが夜空に浮かべられた星々が彼女の目元を伝って輝いている様に見えた。
彼女もきっと涙を流しているのだろう。
それから、数分間俺らはお互いの事を話し続けた。
綴はこの施設のこと。家族のこと。寮長のことを楽しそうに話してくれた。まるで無邪気な子供みたいに。
一方の俺は店長に説教されたこと、クレームが鳴り止まないこと等を話した。考えてみれば話の種になる様な出来事はそれしか思い当たらなかった。
それでも彼女はとても真剣に聴いてくれた。
「だって、颯のファンだもの。」
綴はそう言ってオチも無い俺の話に耳を傾けた。
そうしてしばらく話していると何処からかパトカーのサイレンの缶ギリ高い音が空気を震わせた。
恐らく、彼女の飛び降り姿を見て、通行人やら残業していた他のビルのサラリーマンやらが通報したのだろう。
けれど、彼女と俺は一向に起き上がろうともしなかった。
「ねぇ?どうする?」
彼女は何処か悪戯っぽい笑顔を浮かべる。
「どうするって、何が?」
俺はすかさず聞き返す。
「私達。駆け落ちとかしたら面白そうじゃ無い?」
ぶっ、と俺は唾液が気管に入り、咳き込む。
「あはは、そんなに驚かなくもいいじゃない。どう?未踏の地で路上ライブ生活をする夫婦。ロマンチックじゃ無い?」
冗談めいた様に聞いてくる綴。
「多分。お前のことを知らない県なんて日本に無いぞ。」
素早く、ツッコミを入れる。
「じゃあ、世界にでも行こうか。音楽の本場。ゆないてっど、すていつ、あめりかにでもさ。」
「俺らの英語力で足りるか?上陸から2秒で帰宅を促されそうだ。」
そんな会話を交えているとサイレンの音はどんどんと大きくなり、やがて赤色のランプも見え隠れしてきた。
そして丁度このビルの目の前で車が止まったかと思うと金属板を叩く様な複数の足音が耳を刺した。
「警察です。自殺未遂の通報が近隣からありました。署までご同行願います。」
姿を現したのは紺色の制服を着た人三人の警官で、警察手帳を片手に近づいてくる。
そうして、自殺未遂者として綴が婦警さんに、俺は重要参考人として署に連行された。
****
俺が警察署から出たのは太陽が照りつける昼間だった。パトカーに乗った時刻がおよそ深夜12時だったことからおよそ半日間警察署の中にいたことになる。
俺は特に変な疑いをかけられる訳でも無く、その日は事情聴取という形で半日間、質問責めに遭っていた。
ただ、未成年ということもあり実親に迎えを呼ばれるのだけは避けたかったので、前持って保護者と偽るコンビニの店長を呼んでおいた。
「そろそろ着く頃かな……。」
俺がスマホで時間を確認しながら、警察署の駐車場で待っていると、一台の黒の軽自動車が俺の前で止まった。
そして運転席の窓が下へと下がる。
「……店長。何すか、その格好。」
運転席でハンドルを握っていたのは間違いなくアイドルプロデューサー似の店長で間違いない、と思うのだが、何やら髪の毛は整髪料でベタベタしているし、服装も今風のファッションを取り入れてる様だがベルトにビール腹が乗っていた。
「いや、だって、お前の義理の兄って事で呼ばれてるだから、いつものあのボサボサな格好じゃダメだろう?」
「いや、俺がいつ義兄の設定だって言ったんだよ!普通は父親設定でしょうが!」
「鏡って知ってる?」と思わずツッコミたくなる気持ちを抑える。
「……まぁ、良いです。来てくれるだけありがたい。さ、早く行きましょう。」
俺は後方座席に腰をかけて店長に発信する様に促した。
その言葉を聞いて店長は勢い良くアクセルを踏み込んだ。国道を抜け、アーケード街を抜け、バイト先のコンビニへと向かった。
コンビニへ無事に着き、俺はドアを開けて車の外へと出た。
「あれ?店長は降りないんですか?」
店長は未だにエンジンをかけたまま一向に車から降りようとしない。
それどころか、アニメキャラのケースを纏わせているスマートフォンの液晶画面をずっと眺めていた。
「うん。ちょっともう一人迎えに行かないと行けない子がいるんだ。」
店長は嬉しそうに答えた。
「へぇ、誰っすか?」
俺は笑みを浮かべている店長に聞いた。
「そうだな……。強いて言えば家族かなぁ。それも半年間も連絡が取れなかった反抗期の娘。」
店長はやれやれ、と言った表情で言った。けれど何処か嬉しそうな顔をしている。
「まぁ、そういう訳だ。後の店のことは頼んだよ。朝凪。」
そう言って、店長はエンジンを蒸してその場を後にした。
ガソリンの鼻に残る匂いだけを残して。
俺はその匂いを感じながら裏口へと足を運んだ。
「さて、今日も頑張るか。」
俺は昨日、乱雑にロッカーに入れたエプロンを巻いて、レジへと向かう。
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