第6話
ロータル王国のケルオン城には血の匂いが充満していた。ナーセルトを殺そうと襲う人間を、ハルが尽くなんの手加減もせずに切り続けてきた死傷者が城の所々に点在していた。
ハルがナーセルトに味方している──そんな噂はあっという間に広がっていった。ありとあらゆる人間が王家に仇をなし、ハルが目の前の人間すべてをなぎ倒したところで反乱が終わるものではない。
ナーセルトは現在、ルレクト家のみが知っている地下室にいる。ハルはそこまでナーセルトを護衛し、今はその地下室の扉の前で主人が帰ってくるのを待っている。命がかかっているのにも関わらず、なぜすぐ逃亡しないのか、やるべき役割とは何なのか──そんな野暮な質問は一切しない。
ナーセルトは未だにラインが裏切ったことを信じられないし受け止めきれない。こんなにあっさりと裏切られて命を狙われるなんて思ってもいなかったが、そんなことをずっと引きずってもいられない。ナーセルトにはルレクト家の人間として生まれ落ちた時からレティルトと同様に課せられた役割があった。
「遅かったな、レティルト王子」
階段から降りてきたその存在を感じとり、姿を現した人物にハルは声をかける。
「お前・・・。セルトと合流できたのか」
驚いたようにハルを見たレティルトだが瞬時に状況を理解する。どのような場面であれ、レティルトは常に得られた情報から状況を理解することに長け、ハルはその頭の回転の速さにいつも驚かされる。驚きや憤りなどといった感情もあるはずなのに、それに翻弄されることもなければ、こうであって欲しいという希望や願望の類にも引き寄せられず判断を下す。
ハルが口を開きかけたとき、地下室の扉が静かに開かれる。
「あ、兄さん!」
部屋を出るなりレティルトを見つけたナーセルトの表情が緩む。それとともに、なんとも言えない空気が流れる。
「お前の言いたいことは今は置いとけ。それより・・・」
レティルトが何かを言おうとするが、珍しく言葉を躊躇う。ナーセルトは兄の聞きたいことを悟り、静かに瞳を閉じて首を横に振る。
──両親のその命はないと。
「ごめん、目の前にいたのに・・・」
偶然とはいえその瞬間にナーセルトは立ちあった。驚くほどその時の世界は時計の針が遅く、今でもその瞬間は忘れられない。震える両手を握る弟の髪をレティルトは無造作に撫でる。
「それ以上は言わなくてもいい」
その頭を撫でる手も心做しか震えている。なんとも言えない空気だが、レティルトは強く瞳を閉じ一息吸うと決意を固める。
「とにかく、ここを出るぞ」
強い口調のレティルトに、ナーセルトもハルも頷く。この場にいることは全員の命を危険に晒す。
「兄さん、僕らがみんなの目を引きつけるよ。その隙に城を出て」
「なっ!」
突拍子のないナーセルトの発言にレティルトは驚きのあまり、感情的な声を上げる。
「大丈夫だよ。ね、ハル?」
ナーセルトは後ろで静かに控えていたハルを振り返る。ハルはナーセルトの妙な前向き思考に少し驚きながらも、口元をゆるめる。
「任せな」
先程までの憔悴しきった第二王子はどこへ行ったのかと思うが、理由が何であれ主人がこうして前を向いてくれることは嬉しい。ナーセルトが何もかもに絶望して死を望むなら止めることは無い、それでもそれを両手を上げて喜んでいるわけではない。ナーセルトの意思を尊重しているだけで、死んで欲しいなどと思ったことはない。
ナーセルトとハルはそれから、あえて人目に付くところに姿をあわらし、その度に負傷者は出したがあえて死者は出さぬよう配慮した。負傷者伝いに彼らの居場所や逃亡した方角をあえて、他のものに伝えさせて陽動を繰り返した。その隙にレティルトがうまく城を脱出できるようにと。
「っ!」
そんな陽動を繰り返したナーセルトたちの前に、その人本人が姿を現す。
大きな両手剣を携え、その刀身から血が滴っているのに恐ろしく美しく感じてしまう。
(おかしいと思ったけど、そーいうことか)
リーシェルの剣から滴る赤い血液を見て、ハルは納得する。いくらリーシェルが圧倒的に強い上、恐怖心を見せつけたからと言ってこうも綺麗に全てが寝返るなどありえない。深い忠誠心をもつ臣下や騎士はそれなりにいると踏んでいたハルは、ここまで敵だらけの城内が不思議でしか無かった。
(自分につかない人間は殺したってことか)
リーシェルは先手を打った──王族に味方する人間を反乱開始早期に抹殺するということで。おそらく、反乱の噂を意図的に流すことで自分に探りを入れてくる人間を洗い出し、味方にならないと判断したのだろう。そして、そういう人間を徹底的に抹殺することで、味方に着くかどうか揺らいでいた人間にとどめの恐怖心を植え付けた。
ナーセルトとハルはリーシェルを目前にして逃げる。そのまま真っ直ぐと、走った先には聖堂があった。リーシェルは走る二人を追うが、その二人が聖堂のある神域に差し掛かったと認識するや否や、両手剣を納めその足を止めて静かにそのワインレッドの瞳で見据えるだけだった。
「王子、逃げろ。捕まるんじゃねぇぞ」
聖堂に転がり込んだハルは息も絶え絶えにそう口を開く。その言葉にナーセルトは今まで掴んできてくれたハルの腕を自分が掴む。その言葉は、ナーセルトを逃がすためにリーシェルに対峙すると言っている。
「やだ。ハルも一緒に行こう」
今にも聖堂を飛び出していきそうなハルの腕を力強く掴み、ナーセルトはその瞳をじっと見つめる。このまま彼をここに置いていきたくはない。この手を離してしまえばハルが扉を出て、リーシェルと対峙することは目に見えている。そうなればどうなるかなど容易に想像がつく。伸ばしてくれた手を、希望をナーセルトは潰してしまいそうなほど、強く握る。
その力強さにハルはナーセルトの思いを感じ取り、伝わる温もりからどこかで王子の存在を感じ取る。
「我儘言ってる場合じゃねぇだろ。俺がリーシェルを足止めしてる間に少しでも遠くへ逃げろ」
「・・・足止め」
ハルの率直なその言葉にナーセルトは現実を叩きつけられる。
「ああ。勝算は自分を過大評価して、五分五分といったとこだろうな」
難しい顔をして、ハルはリーシェルのいる方向を見据える。その瞳があまりにも真剣で、そこに揺るぎない覚悟が見受けられる。
「でも・・・」
まだ、何か言いたげなナーセルトの頭をハルは無造作に撫でる。
一緒に行こう、側にいて欲しい。それ以外など、望みもしない。ただ、生きていて欲しくて、隣にいて欲しいとこれほど望んだことなどあっただろうか。
「僕は王子だけど、何も見れてなかったし、何も守れてなかった。主人としてハルを守ることもできなくて・・・」
「良いんだよ、あんたを護るのが俺の仕事だし。・・・それに、俺はあんたと友人でいられたら楽しそうだなって」
俯いていたナーセルトはハッと頭をあげる。ぶっきらぼうで、愛想がなくて、いつも一人でいる孤高のハルは何を考えているのか分からない。そのハルから「友人」という言葉が出てきただけで、ナーセルトのなかに溢れ出てくるものがあった。
「王子、これが俺の宿命であんたの運命なんだよ」
ハルは覚悟を決めたような光を帯びた瞳を真っ直ぐとナーセルトに向ける。あまりにも眩しいその瞳をみていられない。
「宿命?運命?」
ハルの言葉にナーセルトは首を傾げ、目の前に騎士を見つめる。
「宿命は避けられねぇもので、そいつ自身の魂に宿ったその人生を為すために必要なもの。運命は生きていく中で自分で選んで運んでいく道で、時と場合によっては避けることも選び直すこともできる」
真剣なハルの口調にナーセルトは魅せられる。
「っつても、俺の自論で・・・恩人の受け売りだがな」
にやっと笑い、ハルは大きく伸びをする。体に数多ある傷も返り血も気にする様子はなく、ハルの見据える先がひとつに定まる。
「ほんと言えば、あんたが王になるとこ・・・ちょっと見てみたかったんだよな」
「え・・・?」
吐き出す息とともにこぼれ落ちる言葉など気にもとめず、ハルは聖堂の入口へと歩き出す。
そして、その扉に手をかけるとこちらを振り向く。
「王子、生きてくれ。生きて、生きて、生き延びてくれ」
ナーセルトの意思を尊重する──それは騎士としてのハルの考えだった。だが、友人という立場をもし許されるのなら、ナーセルトに生きていてほしい。地獄のような現実で、この先だって気楽には生きていけないだろう。それでも、ナーセルトの生を願わずにはいられない。
「気が向いたら墓参りにでも来てくれよな」
そう言うとハルは笑って扉の外に出る。その笑顔が驚くほど鮮明で、彼がナーセルトのもとへ来て初めて見せた屈託のない表情に思わず走り出す。その笑顔を奪いたくなくて、その存在を失いたくなくて。
「お待ちなさい、セルト王子」
修道女が力強くナーセルトの腕をつかむ。
「お逃げください」
「でも!」
「ハルは何のために彼の方に立ち向かわれに行ったのかお忘れなきよう」
「・・・」
その瞳は強く、その言葉は冷静で、ナーセルトをつかむ腕は女の力とは思えないほど力強い。その手を振りほどいてハル──友人のもとへと駆けつけて、無理にでも一緒に逃げ延びさせたい。
だが、そうしたくても出来ない。ハルの瞳は真剣そのもので覚悟を決めた人間が宿す光を帯びており、その覚悟と思いを無下にもできない。その思いを踏みにじることなど出来そうにもなく、ナーセルトは項垂れる。
(何が王子だ・・・。大事な人ひとりも引き止められないし、守れない)
力のない自分に、不害のない自分に悔しくてたまらない。
「ごめん、ありがとう。ハル」
置いて先へ行くことに、その命をかけさせたことに、ハルを助けるだけの力も人脈もないことに。そして、叱咤してまで諦めずに自分をここまで守ってくれ、やるべき役目を行うことができ、こうして生き延びなければならないと思えるようにしてくれて・・・。
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