第44話 幕間 もう一人のNameless Hero
かつてアポロンと呼ばれていた男が、静かな川辺で釣り糸を垂らしていた。
薄曇りの空が川面に映り、時間そのものが止まったような静けさが漂っている。
「やあアポロン、久しいね」
突然、背後から軽快な声が響いた。オリュンポス幹部、伝令神ヘルメスが、音もなくその場に立っている。
「その名はもう捨てた、そしてそれ以前の名前も持ち合わせていない、だから私を呼ぶ名など無い」
かつてアポロンと呼ばれていた男――名無しの男は、釣り糸をたぐりながら淡々と答えた。
その態度は、かつての神々しい威厳とは無縁の静けさを纏っている。
「それで、君は何の用事でここに来たんだ、ヘルメス?」
彼は振り返りもせず、ただ川面を見つめたまま続ける。
ヘルメスは肩をすくめ、微笑を浮かべたが、何も言わない。その沈黙に、男は少しだけ口元を緩め、皮肉を交えた言葉を返した。
「もし、組織を抜けた僕を殺しに来たのなら……」
男は釣り糸を指先で弾きながら、皮肉めいた微笑を浮かべた。
「悪いが、それは君には荷が重い――戦いの才がないって、君自身が言っていたよな?」
釣りを続けながら放たれるその挑発めいた言葉に、背後のヘルメスは軽く笑う。それでも男は振り向かない。
その姿は、まるで「釣りをしながらでも君など相手にできる」と言っているかのようだった。
「嫌だなぁ、私はただの伝令神、君の言う通り、戦いの才なんて持ち合わせていない男だよ」
ヘルメスは飄々とした調子で言いながら、笑みを絶やさない。その目の奥には、どこか底知れぬものが垣間見える。
「それより、最近の噂を聞いたことはないかい? 民間人のエリアに落ちそうだったミサイルが、矢で狙撃されて被害を抑えられたって話」
その言葉に、男はようやく僅かに眉を動かした。
それでも視線は川面から動かない。ぶっきらぼうな声で応じるだけだ。
「知らないな、誰だよそんな物好き」
一切の感情を感じさせない声。しかし、ヘルメスの笑みは広がるばかりだった。
彼の言葉の裏にある意味を、男が気づいていないはずもない。だが、男はそれに応えるつもりはないようだった。
その場には再び静寂が戻る。
ただ、二人の間に流れる空気だけが、先ほどとは微妙に異なっていた。
「じゃあ、この噂も聞いたことがないかな?」
ヘルメスの声が軽やかに響く。
「何故か弾の当たらないボクサーが、幼子を兵士にする非人道的な組織から子供たちを救い出しているって話」
釣りを続けていた男の顔が、まるで苦いものを噛みしめたように歪んだ。水面に映るその表情には、先ほどよりも明らかな変化が見て取れる。
「それも知らない」
男は静かに言葉を紡ぐ。しかし、その声には微かな苛立ちが混じっていた。
「そんなことをしても、救われるのはほんの一部の人間だけだ!取り零す命の方が圧倒的に多い、割に合わない仕事だって、普通ならすぐに分かりそうなものだ」
その饒舌さを聞き、ヘルメスの口元が鋭く歪む。
皮肉げな笑みが彼の顔に浮かんだ。
「じゃあ、もしそのボクサーや射手に会ったら、こう伝えてもらえないかな?」
ヘルメスは声を低め、わずかに間を取る。
「前のゼウス様はこう言っていたよ、『神の力が人間を支配するためにあるのではなく、共存のためにある』と」
その言葉を聞いた瞬間、男の動きが止まる。そして、ゆっくりとヘルメスの方に振り向いた。
その瞳にはこれまでの静けさが消え、激しい感情の揺らめきが宿っていた。
「なぜ、よく知らないボクサーや射手に、そんな話を僕が伝える必要があるのかはさておき……」
男の声が低くなる。しかし、その抑えた声には、激情が確かに滲んでいた。
「ゼウス様の真意が、人間との共存にあるって言ったか?」
ヘルメスはその視線に臆することなく、飄々とした態度を崩さない。
「ああ、そうだよ」
軽い調子で頷きながら、さらに言葉を続ける。
「前のゼウス様の生前に、私だけが直々に聞いた内々の話さ」
その瞬間、男の中で何かが切れた。釣り竿が手から滑り落ちた瞬間、鈍い音を立てて水面に沈んだ。ぽつりと波紋が広がり、川辺の静けさを切り裂くように消え去っていく。
次の瞬間、男はヘルメスの胸倉を掴み、荒々しく押し上げていた。
「そんなわけがない……!」
男の声が激昂する。その手には、強烈な力が込められている。
「そうだとしたら、辻褄が合わないだろう……!ゼウスのやってきたこと、言ってきたこと、それとどう整合性が取れるっていうんだ……!」
ヘルメスはその激情を正面から受け止めるように、胸倉を掴まれたまま微笑を崩さない。
その余裕に、男の怒りはさらに膨れ上がる。
川辺の静寂は完全に崩れ去り、張り詰めた緊張感が二人の間に満ちていた。
川辺の静寂を裂く緊張感の中、ヘルメスは余裕の笑みを崩さず口を開いた。
「ようやく話を聞いてくれる気になったね、自称名無しの男!君の疑問に、私が答えられる範囲で丁寧に応えよう!!ただし、落ち着いて対話するのが条件だ」
その挑発的な余裕に、男の視線が鋭く光る。
「『ヘラの三番目』を山中深明に預け、名前のない『権兵衛』などという符号を付けた意図は?乗っ取って深明の技を盗むつもりだったんじゃないのか?」
男の問いは怒気を帯びていたが、ヘルメスはそのまま受け流すように答える。
「いずれ訪れるオリュンポス崩壊計画の鍵にするためだ!山中深明の達人としての力が、雷人の肉体にも有効だと実証済みだからね」
ヘルメスの冷静な答えに、男はさらに畳みかける。
「怨寺博士の襲撃先を深明の里に誘導した理由は?高天原を巻き込み、我々オリュンポス幹部を動かしてまで、何度も排除を試みたのはなぜだ?」
ヘルメスの微笑みは薄く深まる。
「それは、被害を最小限に抑えるため、そして雷人と人間の対立を煽る勢力を事前に排除しておきたかったからだ!深明とその弟子たちなら、それが可能だと信じていた」
男の顔は怒りに染まり、声が震える。
「『ケラウノス』を解放し、自ら致命傷を負っても『神による人間の支配』を目指したと聞いた!世情に疎い僕でも、そのくらいの噂は知っている!!」
その問いには、ヘルメスもわずかに肩をすくめる。
「それについては、私にも正確な真意は分からないよ?ただ、『力による支配派筆頭』を倒した事実を作ることで、他勢力への牽制にしたかったのかもしれないし、ゼウス様が単に負けず嫌いだったのかもしれない」
男は未だに納得していないようで、激昂したまま次の問いを投げる。
「……そんなに気になるなら、直接『今のゼウス様』に会って話を聞いてみたらどうだ?もっとも、ヘラクレスの中に眠るゼウスの人格を引き出せるのは短い時間だけど。」
その言葉に、男の表情が少し変わる。怒りが疑問に変わり、彼は静かに呟いた。
「ヘラクレス……ギリシャの数多の英雄の中で、唯一ただの人間にして、最大の英雄と呼ばれた男か」
ヘルメスはようやく胸倉を掴む手を解かれ、息を整えながら答える。
「そうだ、私たち雷人と人間の間には、5%の遺伝的な違いがあり、混血は原則不可能だ」
ヘルメスは、淡々と事実を述べる。
「しかし、だからこそゼウス様は彼に敬意を評し、自身の子供に『ヘラクレス』という名を与え、共存の象徴にした」
男はさらに問いを重ねる。
「ゼウス様が計画を変えた転機は何だったんだ?」
ヘルメスの表情が少しだけ真剣になる。
「それは、『神の子』とその弟子たちに敗北したことだと仰っていた、それが『力で支配しても、いずれ別の力で覆されるかもしれない』という疑念を抱かせるきっかけになった」
男は一瞬黙り込み、再び疑問を口にする。
「……その『神の子』は人間だったのか?それとも雷人だったのか?」
ヘルメスは首を軽く傾けた。
「それは私にも教えてくれなかったよ」
ヘルメスは、首を横に振るが、その後思案する素振りを見せる。
「でも、今のゼウス様なら答えてくれるかもしれない、君のところに直接連れて来ようか?」
男は首を振り、毅然とした声で応じる。
「いいや、君の望み通り、直接出向いて話を聞こう!僕がアポロンに戻るかどうかは、その時決める」
ヘルメスは満足げに笑う。
「いいね、今のオリュンポスは人手不足だ、特に戦力が足りない」
堂々と現在の内情を明かすヘルメス。
「君が味方に加わってくれるなら百人力だよ。」
男は冷たく言い放つ。
「ただし、もしお前たちが嘘をついていると分かった時は、迷わずオリュンポスを滅ぼす!それだけは覚えておけ」
その言葉に、ヘルメスは苦笑を浮かべながら男の前を歩き出す。
もう一人の「名無しの男」の物語が、ここから始まった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます