第20話 揺れる誠心

「早く君を倒し、寝ている彼が起きる前に決着を付けたいのは山々だが……」


 正一を見据えるアポロンの瞳には、鋭い警戒心が宿っていた。


「君は、僕の悪癖を見抜いていたね。より隙の無いスタイルに変えさせてもらうよ。」


 アポロンはゆっくりと重心を後ろ足に移しながら、拳を胸のあたりまで下ろす。

 その動きには一切の無駄がなく、戦場に不穏な緊張感が漂った。


「古代ギリシャのボクシングスタイルだ。ルールが緩かった時代の技術でね……。」


 言葉が終わるや否や、重心を利用した前蹴りが正一の腹部に炸裂した。

 鈍い音と共に、正一は地面に転がる。


「蹴りも使用された。このようにね。」


 腹部に痛みを抱えながらも、正一は素早く体勢を整え、ガードを固める。

 距離を取りながら様子を伺うと、アポロンのステップは摺り足に変わり、先程まで見え隠れしていたジャブの悪癖が完全に消えていた。


「これが僕の本来の戦い方さ。」


 アポロンの目付きが一段と鋭くなる。

 だが、正一も冷静に分析していた。


 攻撃力は減っている――重心を後ろに寄せた分、威力が落ちたのだ。

 権が立ち直るまで時間を稼ぐ正一にとっては、好都合な展開だった。


 慎重に間合いを取りながら、互いに摺り足で動き、アポロンは拳を、正一は組技を狙う攻防が始まった。

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「儂は何度も言ったろう。

 力に呑まれるな、力を使え、と。

 先程のお前は、力に呑まれておったぞ。」


 鉄貴は、権の頭に手を載せて叱る。


「ごめんなさい、正一ちゃんを助けたくて……」


 権は肩を小さく震わせながら俯いて謝罪した。

 その表情には焦燥と後悔が滲んでいる。


「お前が焦った理由は分かる。ステップの際の悪癖を突こうとして、速さが足りないと感じたのじゃろう?」


 権は何のリアクションも見せない。

 恥ずかしいのもあるが、ダメージのせいでろくなリアクションが取れないのだ。


「それは錯覚だ。本当に必要なのは、敵を愛する心だ。」


 鉄貴は、権の頭に軽く手を置きながら目を細めて語り始める。


「相手の動きを読むとは、ただ速さを追い求めるだけではない。相手の意図や感情を汲み取り、まるでその身体の中に入り込むように動きを読むことだ。敵を理解するためには、まずその全てを受け入れ、敬意を払う必要がある。」


 鉄貴の言葉に、権の目に少し光が戻る。


「あの遠距離の狙撃技術を見ただろう?あれだけの威力を秘めた矢だったが、壊れたのは建造物だけだ。アポロンは、その優しさで無用な犠牲者を出さなかった。」


 権は静かに頷いた。それしかできない。


「あのボクシング技術の冴えを体感しただろう?複数のスタイルを極めるために、アポロンはどれほどの努力を自分に強いたと思う?彼は努力家で勤勉な男だ。そして、優しい男だ。」


 鉄貴は権の頭を撫でながら続けた。


「そんな男が、何故ゼウスの手駒になっている?背景を考えろ、相手の人生を想像しろ。」


 権はぼんやりとアポロンの人生に想いを馳せる。

 きっと挫折があったのだ。優しさを捨てざるを得なかったのだ。


 そして、それを作ったのは――


「ゼウスだ。ゼウスがアポロンの優しさを奪い、非情の暗殺者を強いている。」


「そうだ、それさえ分かれば良い。アポロンを愛し、お前自身がアポロンになれ。自分に負ける道理はなかろう?」


 鉄貴は柔らかい笑みを浮かべながら、権の頭に軽く手を置き続ける。

 その手の感触は温かく、どこか深明を思い出させた。

 二人にはどこか共通する雰囲気があるように感じられる。


「デュオニュソス戦を思い出せ。命を捨てろとは言ったが、ただ無謀に仕掛けた訳じゃないだろう?アレス戦を思い出せ。あの時、お前は力を使いこなして、初めて勝利を手にしたはずだ。」


 権は目を閉じ、深く息を吸う。

 そして、過去の戦いを思い出す。

 デュオニュソス戦――命を賭けた戦いだったが、そこには計算と勝算があった。

 無謀ではなく、冷静な判断と執念があった。


 アレス戦――圧倒的な力を持つ相手を前に、ひたすら技術と工夫を積み重ね、ようやく打ち倒した戦いだった。

 どちらも幸運があったことは否めない。

 しかし、それ以上に、自分の中にあった確固たる意志と、相手を理解しようとする努力があった。


「先程の敗北は、破れかぶれの突進でした。ありがとうございます……回復するまで、俺はアポロンの人生を想像します。」


 権は鉄貴に頭を下げ、再び顔を上げる。

 その瞳には迷いが少しずつ消え、静かな決意が宿りつつあった。


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 アポロンと正一の戦いは、依然としてアポロン優勢のままだった。

 正一は腕を伸ばして掴みにかかるが、アポロンは打撃の腕をすぐに引き戻し、隙を作らせない。

 間合いを詰めようと試みても、アポロンの足捌きと絶妙なジャブがことごとく妨害する。


「くっ……」


 正一の防御はしっかりしているが、アポロンの手数が彼をじわじわと追い詰めていく。

 攻撃力自体は高くないものの、何発も喰らえば確実に体力が削られる。

 今はまだ耐えられているが、持久戦になればこちらが不利になるのは目に見えている。


 正一は守りを固めつつ、アポロンの動きを観察していた。

 彼の攻撃は洗練され、無駄がない。

 だが、見方を変えれば、スタイルを極限まで研ぎ澄ましたがゆえに、そこに法則性が生まれている。


 正一は冷静に、アポロンの戦法のわずかな隙を探り続けた。

 だが、同時に理解していた――今の自分では、その隙を突くための手数が足りない。

 攻防の中で既に受けたダメージが、自分の動きを徐々に鈍らせている。


「このスタイルの弱点まで見抜かれたか……君は、本当に驚かせてくれるね、正一」


 アポロンの言葉は、まるで感嘆のようだった。

 弱点に気づいたこと、そしてそれを突く余力がないことまで、彼には見抜かれている――正一にはそう思えた。


「……来る!」


 今速攻を仕掛けられたら、もう終わりだ。

 正一の全身がそう告げていた。

 だが、予感していた連打の雨は訪れない。


 代わりに来たのは、アポロンからの予期せぬ提案だった。


「正一、君のことを心から評価している」


 その声には、戦場の殺気とは程遠い、穏やかささえ漂っていた。


「がむしゃらに力を振り回すだけの『ゼウスの器』と違い、君は敵を冷静に観察し、弱点を分析し、仲間を支えた。君のような者が、人間の中にいるとは正直驚いている」


 戦いの最中だというのに――正一の瞳には、熱いものが溢れていた。

 アポロンの言葉が、どうしようもなく嬉しかった。

 だが、その喜びの中にも、何かが引っかかる。


「……あなたの真意は?」


 アポロンはわずかに目を細めた。


「時間稼ぎだよ。ここまで戦えば、オリュンポスの非戦闘員たちは全員安全に退避できたはずだ」


 言葉とは裏腹に、アポロンの牽制は一切緩まない。

 その拳も足も、相変わらず鋭く、正一の試みを悉く封じていた。


「だから、話がある。私の部下にならないか?」


 唐突な提案に、正一の胸がざわめく。


「私の教育を受け、私の名と技術を継ぐ者になってほしい。そうすれば、君の大切な人たち――黒鉄鉄貴と山中深明――この二人は、オリュンポスの標的から外すと約束しよう」


 魅力的すぎる提案だった。

 正一の心の中で、揺れ動くものがあった。


「……その場合、権ちゃんはどうなるんですか?」


 その一言には、揺れる心と、彼の本当の優しさが詰まっていた。


 アポロンは、わずかに瞳を伏せる。


「『ゼウスの器』である権は――諦めてくれ」


 その声には、覚悟と悲しみが入り混じっていた。


「ディオニュソスとアレスという幹部を二人も失い、ゼウス様は激怒している。ゼウス様の命令は明確だ――いかなる犠牲を払ってでも、一人は戦力を削れ、と。だから、僕は――」


「権を破壊しなければならない」


 アポロンは一瞬のためらいもなく断言した。

 その目には決意が宿り、嘘偽りの影すら見えない。

 その言葉を聞き、正一はふっと微笑むと、静かに頭を下げた。


「嘘をついて、その場凌ぎで僕を弟子にする約束を取り付ける手もあったのに。それを選ばず、本当のことを言ってくれて、ありがとうございます。」


 アポロンは一瞬驚いた表情を見せるが、すぐにその瞳は冷徹な光を取り戻す。


「だけど、その提案は受け入れられません」


 正一はまっすぐアポロンを見据えた。声に迷いはない。 


「僕にとって、権ちゃんは大切な友人なんです。」


「そうか……残念だ」


 アポロンは嘆息しながら、構えを崩さない。


「これで僕は、正一君や黒鉄鉄貴さんのような、素晴らしい人物をも手にかけることになってしまった」


 拳は程よく脱力しているが、その姿勢からは一切の隙が見えない。

 彼の冷静さが、正一の心にじわりと圧力をかける。


「それにしても……」


 アポロンは摺り足でじわじわと正一との距離を詰めながら続けた。


「君ほどの人物が、あの男を高く評価しているのが解せないな。私には、『ゼウスの器』としての能力を除けば、考えなしに動く危うい人物にしか見えない。」


 アポロンの声は冷たいが、その視線は正一を鋭く射抜いていた。

 しかし、正一は揺るがない。


「その評価はすぐに覆りますよ」


 正一は背後から聞こえた足音に笑みを浮かべながら応じた。 


「だって……」


 アポロンが驚愕に目を見開く。

 その瞬間、正一の言葉が静かに響いた。


「権ちゃんは、僕の命を預けられる、たった一人の『親友』ですから」


(続く)

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