第10話 修行
「その程度の覚悟か? 共存を掲げる者ならば、こんな腰の曲がった老人一人、制せぬようでは話にならん!」
スピードでも、パワーでも、権や正一が負けているとは思えなかった。
鉄貴がわずかに肩を動かした瞬間、権の拳が空を切る。
その動きは滑らかで、まるで水が岩を避けて流れるようだった。
権が足を踏み込んだ刹那、鉄貴の手が彼の肘を軽く押し、次の瞬間、権の身体は宙を舞い、地面に叩きつけられる。
知らない人が見たら、二人の少年が老人に遠慮しているようにさえ見える、まるで出鱈目な光景だった。
「どうなってるんだ?力で負けてるはずがないのに、まるで抵抗もできず投げられている。」
権は、鉄貴の不思議な技に困惑し、思わず口に出す。
「それはな、お前達の攻撃が、儂には全部読めるからだ。相手の動きが読めれば、力も速さも必要ない。」
鉄貴の指が権の背骨に触れると、全身が一瞬麻痺したように動かなくなった。
そこに込められた力は微細だが、的確な一点を突いている。それは「動けるはずなのに動けない」という不気味な感覚を伴っていた。
「どうしたら、相手の動きが分かるんですか?」
苦しそうにしながら、権の下で正一が鉄貴に問い掛ける。
「敵を愛することだ。ただ憎むのではなく、その強さも弱さも理解し、受け入れろ。それができて初めて、相手の動きが見えてくる。」
正一には、その言葉が理解できなかった。
敵を愛する? 憎むべき敵を?
そんな感情が生まれる前に、彼はいつも恐怖に支配されていたからだ。
「僕達の里は、理不尽にただ八つ当たりで焼かれました。そんな敵にも、愛を向けろと貴方は仰るのですか?深明先生にも、貴方は愛を向けているのですか?」
正一の胸中では、怒りと疑問が渦巻いていた。
鉄貴の言葉は理想論にしか聞こえないが、それでも目の前にいる老人の言葉には、どこか抗いがたい説得力があった。
何より、彼自身も恐怖に飲み込まれるだけでは何も解決しないと、どこかで悟っている自分がいることに気づいていた。
「深明に愛を向けられるのか?儂も同じことを自分に問うたさ。だが、未だに答えは出ていない。儂のトラウマに関わる事を、奴はしでかしたからだ。」
鉄貴はただ、自分の体験の話をする。
「かつて儂も、お前たちのように力だけを信じた時期があった。しかし、その先に待っていたのは――ただの破滅だった。」
鉄貴の表情には、暗い影が伴っている。
「儂は力に溺れるあまり、故郷を危険に晒し失った。深明のやつがやっている事も、一歩間違えば同じ結果をもたらす。最善だと分かってても、それがどうしても許せねぇ」
最善の道だと分かっている――そう考えるたびに、鉄貴の胸には激しい苛立ちが込み上げる。
深明の行いが村を危険に晒したわけではないと、理屈では分かっている。
それでも、過去の記憶が彼を縛り付けていた。
「儂は深明を許せねぇ。でも……許さなければ、未来もねぇ。」
鉄貴の頭に、あの夜の光景が蘇る。
赤く燃え上がる村、逃げ惑う家族、そして手にしていた刀の感触。
自分が守れると信じた者たちが、力に頼るあまり目の前で倒れていく様を、ただ見ているしかなかった。
「……力があるだけじゃ、何も守れねぇんだ。」
鉄貴は遠い目をして呟いた。
「故郷を焼かれようが、理不尽な怒りを向けられようが。眼の前の敵を愛する事も出来なくて、雷人と人類全体の共存なんてお題目が叶えられるかよ。矛盾を抱えたまま、それでも敵を愛しろってのが俺の今のところの答えだ。」
「叶えられるかよ。」その言葉には苛立ちと諦念が混ざり合っていた。
信じたい心と、不信感が彼の中にも同居している。
そのように、権や正一には感じ取れた。
「休憩時間は終わりだ。そろそろお前達の覚悟を見せてみろ。それが出来なけば、俺はお前達も深明も今度こそ見捨てる。」
鉄貴は、ツボを抑えていた指を外す。
身体に力が戻り、二人は立ち上がる。
鉄貴が、初めて自ら正一に向けて拳を繰り出す。
一見すれば、まるでスローモーションのような動き。
だが、不思議なことに、その拳をかわすことができない。
(遅い……なのに、避けられない?)
困惑しつつ、正一はとっさに掌で受け止めた。
軽い――そのはずなのに、全身に鈍い衝撃が伝わり、思わず足がぐらつく。
「どうした?力を込めた覚えはないが、立っていられるか?」
鉄貴の静かな声が、正一の耳に冷たく響いた。
堪えきれずに膝をついた正一に、鉄貴の二撃目が襲いかかる。
その一撃は、視覚的には軽やかに見えたが、実際のダメージは思いのほか重かった。
正一は痛みに顔を歪めながらも、身体を支えきれずに地面に崩れ落ちる。
鉄貴はその様子を冷徹に見つめ、一言を吐いた。
「まあ、初めてにしちゃ及第点だ。儂の拳を止めた、それは紛れもない成果だ。正一、お前の覚悟を一応は認めてやる。」
次は、権に向けて拳が向けられる。
権の視界に映るのは、鉄貴の正拳突き――その動きは一見、緩慢で鈍重に見えた。
(遅い!)
そう確信した瞬間、権の全身に電流が駆け巡る。
筋肉が電撃に応じ、爆発的な速度で身体を弾き飛ばす――超高速のステップで拳を躱すつもりだった。
だが、次の瞬間、信じがたい感覚が権を襲う。
鉄貴の拳が、迷いなく権の顔面を捉えていた。
(嘘だろ……!?)
躱したはずの拳――いや、躱そうとした動きそのものが読まれていた。
権の動きは、まるで鉄貴にとって初めから手の内にあるもののようだった。
「権、てめえは駄目だな。雷人の身体能力任せの動きだ、敵を愛するって事が何一つ分かっちゃいねぇ。だから、お前自身の速さで自滅するんだ。」
鼻から血をボタボタと垂らしながら、権はうずくまる。
鉄貴の言葉が突き刺さる。
権は歯を食いしばりながら拳を握り締めた。
負けた悔しさだけではない。
「敵を愛する」という言葉の意味をまるで掴めない自分が恥ずかしくてたまらなかった。
力に頼るばかりで、それ以外の方法を考えようとすらしなかった自分が無力に思えたのだ。
「だが、正一が覚悟を見せた分でチャラにしてやる。お前の面倒もちゃんと見てやるから、安心しろや」
鉄貴はそう言って、権に手を差し伸べる。
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