第二十八話 これ以上、罪を

『7月4日午前、キベルジア・ケミカル社の工場で爆発が起きました。原因は不明ですが、犯罪組織によるテロとの情報も出ています。火災は鎮火している模様ですが、有毒ガスが流出している可能性があり、周辺住民は一時避難しています。有毒物質の対応にあたって専門家チームが派遣され……』


 農薬工場での事件は、大きく報道された。ノアはその後すぐに病院で治療を受けたが、ゆっくり療養する間もなく事件の揉み消しに動かなくてはならなかった。ルーベンノファミリーへの疑いから、世間の目を逸らす必要があった。

 一方、キベルジア・ケミカルCEOターチンの死亡が報じられることはなかった。

 政府内にいるもう一人の黒幕ヴォロディミル・クズメンコが、AX開発の一件を揉み消すために動いてくることを警戒していたが、その様子はなかった。どうやら揉み消すことは諦め、ターチンに全ての罪を被せる方向に決めたようだ。

 政府は専門家として、アセスラボ社のセミノヴィチを現場に派遣することを許可した。セミノヴィチは除染対応のため、事件当日に緊急帰国した。

 この時点ではまだ、工場でノビチョクの開発が行われていたことを知っているのは、首謀者を除けばセミノヴィチだけだった。セミノヴィチがそれを知っている理由はもちろん、ルーベンノファミリーが情報提供したからだ。



 翌日の夜、ノアは密かにセミノヴィチの自宅へ赴いた。州都から車で二時間の場所にある自宅へ、彼は数ヶ月ぶりに帰っていた。

 決して広くない一人暮らしの簡素なアパートへ招き入れられ、始めにノアの部下が盗聴器の有無を確認した。

 会話が漏れていないことを確認した密室で、改めてセミノヴィチに向き合う。


「キベルジア・ケミカル第三プラントの地下がAXのパイロットプラントだ。実験記録、合成記録、全てのデータがある。そしてこれが前駆体だ」


 容器に入った検体を手渡す。ピョートル達が命がけで採取した物だ。

 ノアが差し出したデータを、セミノヴィチは受け取っていいものかと戸惑った。


「どうして、これを僕に……?」

「お前なら悪用はしないからだ。その証拠品をどうするかは任せる。首謀者のCEOターチンを告発するもしないも勝手だ。だが、今後パイロットプラントの確実な廃棄処分が必要になるのは間違いない。対処できるのはお前だけだ」

「それは、そうだが……」


 プラントや、そこに保管されていたAX本体の廃棄は決して簡単ではない。作業員の安全を確保しつつ、汚染物質が流出しないよう、適切な手順で無毒化する必要がある。時間もコストもかかる。

 セミノヴィチは複雑な表情で頷いた。


「ボシュツカ盆地、農薬工場、その周辺地域の除染は、僕が責任を持って行う。今回の件で工場から有毒物質が流出したはずだ。ガリーナが動いてくれているから、政府として対応する」


 AX開発の首謀者とプラントの特定は、セミノヴィチにとっても念願叶ったはずだが、彼は相変わらず悲痛な面持ちでいた。

 彼は俯き気味に、膝の上の拳を握った。


「やはり、君達……なんだな。工場を襲ったのは。……ターチン氏にコンタクトを取ろうとしたら、彼は同じ日に亡くなったと。彼を……殺したのも君達か?」

「知らないな。答えるつもりもない」


 ノアは淡白に答えた。犯罪を示唆することは口にしないよう教え込まれている。仮にそれが録音でもされ、流出すれば犯罪の証拠として扱われるからだ。酔った勢いで口を滑らせることもないよう、身に染み付いている。

 眼光鋭くセミノヴィチを睨みつけ、圧力をかける。


「お前への要求はただ一つ。ルーベンノファミリーの関与を外部に漏らすな。俺とお前の接触も、この情報の出所が俺達だということも。要求が守られる限り、俺達が今後二度とお前に関わることはない。……守られなければ、相応の代償を支払ってもらうことになる。今までは必要だからお前を生かしておいた。だからソコロフスカヤの暗殺からも守った。忘れるな」


 セミノヴィチは怯んで唾を呑み込んだ。


「分かった……」


 これでセミノヴィチとは決着が付いた。次にまだ片付けなくてはならない件が控えている。ノアは部下へ撤収を促し、出口へ足を向けた。するとセミノヴィチが意を決したように声を絞り出した。


「君達がノビチョク開発の証拠を見つけてくれたことには感謝する。だけど、だけど……どうしてあそこまでしなきゃならなかったんだ!」


 セミノヴィチは懇願するようにノアを見つめた。目にはうっすら涙を浮かべていた。


「今日工場へ行ったら、沢山の死体があった……。銃撃で死んだ形跡もあった。証拠を採取するのに、どうして人の命を犠牲にする必要があった?! ターチンだって、彼が開発を企てたのなら裁かれて当然だが……それは法の下であるべきだ! なんで命を奪わなきゃならない……!」


 ノアは足を止めた。無表情から、僅かに眉を潜める。しばらくの間沈黙が流れた。言いたいことは沢山ある。腐敗したアジャルクシャンに法などない、だから自分の法で動くのだ、と。それらを全て飲みこんだ。わざわざ自らの関与を認めるつもりはない。


「俺達を正義の味方か何かだと思っていたなら、それは勘違いだ」


 そう静かに呟いた。


「頼む……これ以上、罪を重ねないでくれ。お願いだ……」


 セミノヴィチは去りゆく無法者達の背中に向かって、両手を合わせ懇願した。まるで、まだ何かを企てていることを察しているかのように。ノアはその言葉を背中越しに聞きつつも、振り返らなかった。



———



 証拠のデータを渡した後のセミノヴィチの動きは早かった。ノアが彼と会ってから二日後、環境省が公式に、キベルジア・ケミカル社でノビチョク開発が行われていたことを発表した。その発表の中心となったのは、環境省傘下の環境監視局長、ガリーナ・メルニチュクで、調査に協力したのはもちろんアセスラボ社だった。

 余談だがメルニチュクは、銃撃事件で倒れたことをきっかけに世間の注目が集まり、市民からの人気が高まっていたため、政府内での発言力も大幅に高まり、当局にとって無視できない存在となっていた。


 政府はキベルジア・ケミカルへ厳しく責任を追及し、会社の上層部は、禁止されている兵器を開発した罪で容疑をかけられることになった。その中にはCEOボリス・ターチンも含まれ、容疑者死亡のまま送検された。


 工場と周辺地域の除染が課題となったが、アセスラボ社が技術監修をすることが自然な流れで決まり、親会社のBECも豊富な資金を援助すると名乗りをあげた。これでまたBECが世間からの株を上げた、とヤコフは憤慨していた。


 ルーベンノファミリーは、ターチンとクズメンコがグルだった情報をあえて隠し、セミノヴィチには伝えていなかった。政府との交渉材料にできると踏んだからだ。

 ゼフィルは、クズメンコが真の首謀者だという事実を表沙汰にしない代わりに、ルーベンノファミリーの関与を一切追及しないよう政府に交渉した。

 要求は通ったらしい。政府内部に企てた者がいるという事実が公表されれば、国際社会からアジャルクシャンへの批判が集まり、政府にとって不都合だからだ。一民間企業に全ての責任を負わせ、それを取締る姿勢を見せれば、一応国際社会への体裁は保てる。


 工場の爆発の原因は、概ね真実に近い形で発表された。現場にマスコミや作業員が多く出入りする中、誤魔化しても現場写真などからあっという間に真実が広まってしまう。下手な隠蔽は逆効果だと判断したのだろう。


 キベルジア・ケミカル社を経営する旧共産党幹部ターチン家には、かつてノビチョクの開発プロジェクトに携わった者がおり、開発の知識があった。ターチンはノビチョクを兵器として開発し、密輸することを企てた。

 ターチンはロシアンマフィアのソコロフスカヤ・ブラトヴァと組んでいたが、たまたま開発拠点で敵対組織との銃撃戦が発生した。その結果、熱交換器などの設備に異常が起きて爆発が起きた。事故の調査に赴いたセミノヴィチが、偶然ノビチョクのプラントを発見した。

 これが表向きのストーリーとなった。クズメンコやルーベンノファミリーの名前が表に出ることは無かったし、世間の注目はキベルジア・ケミカルとソコロフスカヤの方へ向かった。

 弁護士コバレンコの暗殺と、それに伴う一般市民への被害が事件として認識されることもなかった。ファミリーとしても、ターチンの暗殺に成功して制裁を下したことで、その件は片が付いたと考えた。


 こうして世間を納得させるため、一部分の事実だけが公表され、真相は上手く闇に葬られた。AXの一件は、取り敢えずルーベンノファミリーにとっても都合の良い形に収まったかに見えた。


 抗争、AXとの戦い、その後始末が続いたこの数ヶ月で、ノアはすっかり心身を酷使していた。その上大切な部下を失ったことで、かつて無いほど精神的に疲労していた。

 農薬工場への突入から一週間が経ち、ようやく忙しい日々に終わりが見えてきた頃。ノアは一筋の光を求め、愛しの恋人の元へ向かった。会う予定を先延ばしにして、結局二ヶ月ぶりに会うことになるが、どうやら見捨てられはしなかったようだ。

 ディスプレイに見えるのは、『貴方が恋しい。待ってるわ』—というメッセージ。『今から行く』—とテキストを返し、彼女の家へと車を走らせる。

 雨が降っていた。フロントガラスを雨が打ちつけ、ワイパーが規則正しく左右へ水滴を拭う。

 大きなブラウンの瞳にふっくらとした唇、エキゾチックな小麦色の肌をした美しい恋人に想いを馳せる。あの艶めく色香に触れれば、荒んだ心を癒してくれるような気がしていた。

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